https://fragie.exblog.jp/26649278/ 【対岸俳句会30周年記念会】より
10月30日(日) 旧暦9月30日
都心に出て、夕方仙川にもどったところなんとも賑やかで、奇っ怪な恰好をした子どもたちがいる。そうか、今日はハロウィンだ。
むかしはこの辺は畑が残っていて長閑な日々であったのに、この混みようときたら、まあ、目をまわしちゃいそう。子育て中のお母さんたちも仮装して、楽しそうだ。ふらんす堂のすぐ近くの公園である。それにしても仙川は人の増え方がハンパじゃない。
人混みのなかをわたしも肩をいからせてグイグイ歩いて行く。ほらほらじゃまだよ、どきなっていう感じ。昨日の「対岸俳句会30周年記念会」について少し紹介したい。
椿山荘の華やかなシャンデリア。まず今瀬剛一主宰のご挨拶からはじまった。
ご挨拶をされる今瀬剛一主宰。
お忙しいところ足をお運び下さって有難うございます。対岸が30周年を迎えたというのですけれども私はまったく実感が湧かないんです。創刊したのはついこの間という掛け値なしの思いです。でも考えてみると確かに30年経ったんですね。あのとき、本当に何もない出発でした。お金はない、暇はない、ないないづくしの出発で、ただわたしには俳句にかかわるたくさんの人がいたんです。この人たちを作家に育てなくちゃならない、という一つの使命感のようなものがあったのです。それからもう一つは私自身多作なので、多作を発表する機会を得たいということ、それから若かったその当時主張をたくさん持ってました。そういう主張をする機会を得たい、そういう思いをもって「対岸」を創刊したわけでございます。
その創刊号をいだいた時の気持は、本当にわたしの分身をいだいたような気持でした。創刊号を能村(登四郎)先生のところにさっそく持って行ったんです。車で能村先生の市川を訪ねました。先生はちょうどおられて、「対岸」を見ながら「良かったねえ、何人来たの」「176名です。」「おお凄いじゃない、沖は88人からの出発だよ。その倍だよ」しかし、そのあとがいけない。「もっといい印刷屋さんないの?」こうおっしゃったのが印象的でした。本当にそうなんです。知り合いの印刷屋さんが手を真っ黒にして一所懸命印刷してくれた、そういう雑誌でございました。しかし、今日こうやってたくさんのお客さんをお招きして会ができるようになったのは皆さんのおかげです。
わたしは出合いに恵まれていたという思うんです。まず第一に、高等学校に入って、茨城県の水戸一高という高校なんですが、そこへ入りまして滝豊先生にお会いしました。この方はホトトギスの俳人で立派な作家でした。この先生に俳句というものを教わりました。嬉しかったです。そのご縁によって山口青邨先生に出合いました。青邨先生には、俳句は楽しいなあということを教えていただきました。この二人の先生によって続けてきたわけです。そして能村先生に出会う、能村先生に出会って私が感じたことは、俳句は男一生をかけてするに足る仕事である、ということ。先生が目をぎらぎらと輝かせて俳句の話しをする、それに引きつけられて私も俳句の魅力に取付かれていったのです。そんな気がします。しかし、考えてみますとこの方たちはもう亡くなってしまったんです。亡くなった方にわたしはここで心から感謝の意を表したいと、そんな風に思うわけです。30周年迎えましたよ、と真っ先に言いたい、お世話になった方々です。
それからそ俳壇の仲間ですね。今日はこうやってたくさんの方々にいらしていただきました。いろんな会で俳句のお話をして刺戟を受けました。それで今の私があると思っております。今日いらしている星野椿さんは、昨日ですよ、電話があって「あのね時間できたから出席していい?」有難いですよねえ、時間ができたから行っていい?って駆けつけてくれる、こういう仲間。そして皆さん、そういう方々に支えられて今日がある、そんな風に思ってます。
それから「対岸」の仲間です。これもあまり身内を褒めるのはなんですけれども、皆さんの前で一言だけ自慢できるのは、対岸という雑誌は遅刊は一回もありません。欠刊ももちろんありません。毎月月末に発行されて月の始めには届くという、これは私の自慢できるところです。それから今日のこの会については、わたし何もやらないんです。わたしがやったのはここに来て挨拶するだけです。みんな対岸の仲間が献身的にやってくれている。こういうですね、亡くなられた先生方、俳壇の仲間たち、そして対岸の皆さん、こういう方に支えられて、あやうく歩いております今瀬剛一でございます。どうぞ今後ともよろしくお願いしたいと思います。
夕べ寝ながら私考えました。これからやることいっぱいあるなあ、なかなか眠れなかったです。10、20、どんどん頭の中にこんなことやりたい、あんなことやりたいと考えが上がってくるんですね。たとえば、ひとつ言うと私は創刊号で能村先生が言ってくれた「俳よりも詩へ」という言葉、これをずうっと実行してきているつもりです。それがまだ入口です。これ完成しなくちゃならない、もっともっと深めたい、と思っております。それから東京の仲間といま芭蕉を読んでいます。三冊子を読み、去来抄を読み、そしてこれから書簡を読もうとしておりますが、この芭蕉の言っていることを現代俳句に活かしたい、こんな風に思っているんです。今後やっていきたいことです。更に言えば、私は俳句が大好き大好きでしようがないんです。この俳句を私たちの世代で終らしてはいけない、若い人に継承したい、そういう熱い思いを持ってます。そうすることが、これからの俳句の行く末を思うことでありお世話になった方々へのお礼の意味になると思っております。
今日はありがとうございました。
お孫さんより花束を贈呈された今瀬主宰。
お孫さんは、ご子息で俳人の今瀬一博さんのご息女である。
今瀬剛一主宰、そして「対岸」の皆さま、「対岸」30周年、おめでとうございます。
心よりお祝いをもうしあげます。
この30周年を記念してふらんす堂より今瀬剛一エッセイ集『水戸だより』が刊行された。
「対岸」に連載されたエッセイ51篇を収録したものである。
読みやすく、今瀬主宰がただ真面目だけでなく結構ずっこけていて面白いお方であると判明。
なにゆえ51篇かというと、「51(ゴーイチ)、すなわち、剛一」ということ。
「剛一」という名前についての複雑な心境なども吐露されていて興味ふかい。
本書については、また改めて造本などを含めて紹介したいと思う。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12806456268.html 【「対岸」今瀬剛一連載「能村登四郎ノート」】より(「対岸」2023年6月号)
持っていたノートに何一つ書いてなくても、あなたの肉眼に焼き付けられた風景は、必ずあなたの心の奥に棲みついて、後日ふとした機会に生まれ出てくることがあります。
その時の風景は生の風景ではなく、あなたの心奥で濾過され充分に燃焼を経た作品であると思います。
俳句は嘱目的な一発でいい句が出来ることもありますが、本当に人を感動させる作品は、やはり作者の心の奥から引き出された作品だと思います。
-能村登四郎「虚構とリアリズム」S48年10月「沖」三周年講演-
最近、吟行が楽しい。
20代半ばから俳句を始め30年が経つが、こういう気持は今までに無かった。
花の名を知ったり、鳥の名を知る…、自然や風景の一つ一つとの出会いが自分の俳句や人生を豊かにしてくれる。
「花」は見たことがあるが「実」は初めて見た…、そんな経験や感動は吟行ならではである。
ただ、これまで、吟行で生まれた句で自分自身納得したものはほとんど作れていないし、他人の作品でも感心したことはほぼない。
これは昔も今も変わっていない。
風景を写しただけの句、見たものをそのまま表現しただけの句…、俳句というのはそういうものではない、と考えている。
「吟行句会」というのは、少なくとも私にとっては「本番の句会」ではなく、あくまで「練習の句会」なのである。
いつも贈っていただいている「対岸」(今瀬剛一主宰)に、今瀬主宰による「能村登四郎ノート」が連載されている。
今回で257回目だから、もう何年続けておられるのだろう。今瀬主宰は、能村登四郎に師事し「沖」で研鑽を積まれた。「沖」からは今瀬主宰を始め、多くの俊英が誕生している。
登四郎は昭和・平成を代表する俳人であり、名伯楽でもあった。
この「能村登四郎ノート」には、登四郎の俳句観や人物像、器の大きさが垣間見え、いつも読んで勉強させていただいている。
6月号の「登四郎ノート」の、冒頭に記した登四郎の言葉に出会い、私は大いに感心した。
今瀬主宰は、この講演が行われる前、登四郎を地元の茨城に迎え、吟行をしたそうで、その時、登四郎に、今瀬さんね、俳句はこうして歩いて造るものじゃないんだよ。密室で造るものなんだよ。密室で、情景を思い起こして造るんだよ。と言われたそうだ。
今瀬主宰はこの時、「何か大きなものを得た」と記している。
こういう強いメッセージを弟子に贈る登四郎は流石だし、それを瞬時に理解する今瀬主宰にも感心する。「沖」の充実期の秘密を見たような思いがする。師弟の関係というのは、このような鋭敏なものでありたい。
「能村登四郎ノート」では他に、「俳句の散文化」「境涯俳句の落とし穴」にも触れている。
今回はこの一点に絞り、他の点については別の機会に紹介したい。今瀬主宰は、この章の最後にこう言及している。見た情景をただ見たままではない芸の域にまで高めて表現する、それがときの作用ということになるのであろうか。「とき」とは「時」ということであろうか。
見た風景を時をかけて、心の奥で濾過し、詩的精神を高め、表現する。
これは能村登四郎の師である水原秋櫻子の信条と共通するものである。
この文章を読むと、秋櫻子、登四郎、剛一という新興俳句の系譜が見えてくる。
現在、「結社制度」はほぼ限界に来ていると言って差し支えない。
今後、結社は衰退…、そう遠くない未来に役目を終えると私は見ている。が、このような「師弟の系譜」というか「俳句の厚み」というものをまざまざと見せられると、師弟によって受け継がれてきた「俳句の厚み」を今後どうやって継承してゆくべきか?
捨ててしまうにはあまりに惜しいと思うし、ネットやマスコミだけの、個人や同人的なグループの活躍などは、この「俳句の厚み」の前には「薄っぺら」なものにしか見えないのである。
しかし、まあ、それは別の機会に考えるとして…。「吟行」は必ずしも悪い事ではない。
多くの「風景」と出会うことは俳句に於いてとても有意義なことなのである。
しかし、その場でまとめて、はい!完成…という考えではやはり物足りないのである。
その風景を心に持ち帰り、心の奥で濾過する。たとえば、無駄な部分を削ぎ落としてみる。
「言葉」「表現」がそうであるし、「些末な風景」を削ぎ落としてみる。
主題を絞って鮮明にし、そこに作者の「創造」を加える。こういう作業が俳句には必要なのである。芭蕉の「おくのほそ道」の数々の名句も、ほとんどが「その場」で造られたものではない。「おくのほそ道」が完成したのは元禄7年(1694)。「おくのほそ道」の旅は元禄2年(1689)。芭蕉は「5年」の歳月をかけて「句」を練り上げている。
同行者・河合曾良が旅日記を残しており、芭蕉がその場で作った句が記載されているが、それを見れば、名句の多くが「旅の後」に作られたのがわかる。
〈荒海や〉は旅の最中に作られているが、〈夏草や〉などは記されておらず、後日作ったものと考えられる。
〈閑さや〉〈五月雨を〉〈象潟や〉などは旅で作った句をもとに壮絶な推敲を加えていることがわかる。
〈荒海や〉も写実句ではなく、芭蕉の「創作」が入っていることはほぼ明らかにされている。
「吟行」で作った作品は「スタートの句」であり、そこから更に句を構築し、練り上げる…そういう姿勢がやはり俳句には必要なのである。
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