第1回 日本俳句協会新人賞 「拭ふ」 押見げばげば

https://note.com/gebageba/n/n5fabd7034646 【拭ふ】より

大楠は道のはじまり月おぼろ           夕野火やこきふしてゐる盆の窪

哲学に髭のありけり猫の恋            二番よりハミングとなる雨水かな

蘗や枕代はりのたなごころ            まんまるの鋏の支点雪のひま

花屑や雑音のなき風の来て            洗車機のブラシにじいろ鳥交る

夏蝶や傾ぎて曲がるピザバイク          飴湯売るこゑ飴色となりゆけり

街騒は消ゆ卯の花に触れてより          海の日やバス合図してすれ違ふ

呼び鈴は貝のかたちよ日向水           三伏の床へぶちまくシリカゲル

睡魔来る鉄鈷雲の真下より            田水沸く肉親の字に人ふたつ

石鹸に雨垂りの穴つくつくし          スポイトをのぼる水影鏡花の忌

留守電にのこる言霊稲の花           うおんうおんと震ふ厄日の発電機

秋虹やすぐ右に反る縄梯子           愛の羽根あるいは罪の赫さかな

耳鳴りは花野のこゑと思ひけり         からすうり対岸の背を見失ふ

綿虫や海凪ぐごとき母の息           除夜の鐘切り株はみな空を向き

ポケットの数珠にふれたる暮雪かな       三葉虫みたい寒九の形見分け

あかがりの小指に拭ふ三温糖          石段の終はたひらか冬すみれ


https://note.com/gebageba/n/n2222266123e9  【げばげば俳句鑑賞日記その1】より

パレットに指入れの穴小鳥来る  村上瑠璃甫 『句集 羽根』(朔出版)

俳句を読む時間がどんどん自分のために大切な時間になってきた。自分の記憶を洗いだす時間。最近鑑賞日記を書くようになった。鑑賞文というより記憶の日記。散文の方も得意ではないがどうせ書くなら不定期にnoteに上げていこうと思う。

父が病気で家に籠りがちになる一年前くらいだろうか。絵を描きたいから道具を揃えたいと言い出した。

父は器用な人間ではなかった。小さいときに母(父の母)を亡くし、定時制高校に通いながら、経理畑で実直さ一本で部長まで出世したことには本当に今思うと頭が下がるが、若いころのわたしは、真面目に真面目を重ねた父みたいにはならないと思って反発していたように思う。

たまの休みに地域の野球チームに行ってみても9番打者でギリギリ仲間に混ぜてもらえているような感じ。運動神経バツグンでラジコンヘリなんかを作って操ったりして小粋なプールバーで葉巻を吸っているような憧れる父親像みたいなものを描いては反発していたのかもしれない。次第にそんな憧れる像を持った叔父にべったりになっていった。

サラリーマンや会社員にはならない、真面目にやるのは格好悪いなどと、今となれば恥ずかしいことをばかり思っている自分がそこにあったように思う。映画・映像作家になりたいと絵空事ばかり言って走り回っていたわたしも、今この年になって、趣味ひとつ持たずに真面目一徹で家族を養ってきた父の偉大さを眩しく感じるようになった。

父は絵の具や筆洗器などを揃えて、手始めに観葉植物を描き始めた。お世辞にも上手いとは言えない。生真面目な遊び心のない絵を描く。パレットの小さい穴から父の実直な指がにょっと飛び出していて、わたしは父を大切にしてこなかった自分を恥じた。


https://note.com/gebageba/n/n9c32f897c12d 【げばげば俳句鑑賞日記その2】より

風吹けばみな風を見る墓参かな  常原拓  『句集 王国の名』(青磁社)

お盆と秋彼岸と母の日。わたしは年に3回母を連れてお墓参りに行く。母とゆく墓参りの時間はとても大切な時間だ。

母の母は大阪は生野区で市場を営んでいた。とにかく早朝から夜まで忙しい生活で家にいる時間もほとんどない。末っ子の母と年の近い母の姉が唯一お出かけできるのはお墓参りぐらいだったらしい。

「忙しいお母さんと一緒にお粧ししてお出かけできるのは墓参りだけやったからな、いつもウキウキしてたわ。お母さんといっしょや、うれしいうれしいってなあ」母は墓参りに行く道中いつもその話をしてくれる。「帰りに天王寺行ってな、甘いもん食べさせてくれるねん、お姉ちゃんとお揃いのワンピース着てな」

「お母さん、年の近いお姉ちゃんしかほんまに遊び相手もおらんかったしなあ、よう遊んだしよう喧嘩したわ。お姉ちゃんと喧嘩したらな、もうお姉ちゃんの教科書全部破いたるわって教科書となりの部屋に持っていってな、そんで、教科書破るフリして新聞紙の破る音を聞かせるんよ。お姉ちゃんが驚いて部屋に飛び込んでくるねん」

ここまでがお話のワンセット。いつもわたしはこの話が聞きたくて、自分から母に話を誘導していたような気がする。

母の母が亡くなった連絡が来たのは、むし暑い夜だった。中川家のコントに出てくるような、絵に描いたようなちゃきちゃきの大阪のおばちゃんの母であったが、その日ばかりはトイレに籠ってわたしたちに悟られないように、声を殺して泣いていたのを今でも思い出す。そのころのわたしはまだ小学生で人が死ぬということの意味をよくわかっていなかったが、母のそのむせび泣く声=死の喪失と認識していたように思う。

暑さの残る盆の墓参り。今年もいつもの話をたのしみに大阪市内へ車で向かう。母は陽気にいつもの話を始めるが、風が吹くと、あの日の母の泣き声を思い出してふと立ち止まる。


https://note.com/gebageba/n/na7e9f731f64b 【げばげば俳句鑑賞日記その3】より

新大阪つぎ新神戸暮れかぬる  小川軽舟  『句集 無辺』(ふらんす堂)

高校のころ電車にドハマりした。これは乗り鉄、撮り鉄という鉄道マニアを意味しない。しいて言うなら読み鉄。小説を読むのにハマったこの頃は、本を読みたい一心にわざわざ電車に乗った。オレンジ色の大阪環状線に乗ってぐるぐる回りながら一冊の小説を読むというのも乙なものである。移動なんて短ければ良い、新大阪・新神戸間くらいの移動が一番最高なのだという人も多いだろうが、わたしは短い時間しか乗車できないことを残念だとすら思っていた。

神戸の大学に入って、実家から逃げるかのように、合格発表のその日に六甲にある部屋を決めた。摩耶ケーブル駅に近い坂の上の部屋だったが、大学生のたまり場にするには不便な場所だったので、自分の領域を侵されず済むちょうどよい場所だったように思う。春はさくら、秋は紅葉が美しい。

そして、そこで急遽パニックディスオーダーへ突入したのだった。最初のころは広場恐怖が激しく、歯医者や美容院はおろか、スーパーの列に並ぶことすらできなかった。電車なんて持ってのほかだ。短い短いひと駅ですら乗れない。乗ったとしてもひと駅ひと駅降りては休憩。移動はすべて坂も自転車。

閉鎖的な時期から少し前へ動き始めたころ、映画と出会った。自分で作った物語を映像にしたいという想いで、バイク免許を取り、愛車のアメリカンバイクで街を走り回った。今思えば、常に緊張状態であったわたしにとって、自分を表現するという、心を弛緩させてくれる時間にすがっていたように思う。

大学を休学して新神戸の洋服屋でバイトしながら映画の脚本を書く、書いた本を目当ての劇団の方にぶつけて出演を依頼する、アクティブな時期が戻って、少しずつ小説を読む余裕もまた出来てきた。それでも、まだ新大阪・新神戸間ですら電車に乗れないことを歯がゆく思う自分もいる。

それから二十年も経って俳句に出会った。俳句は短い、そこに可能性を感じる。わたしの狭い狭い行動範囲を、大きい大きい物語へ広げてくれる。新幹線はもう新神戸に着く。まだまだ日は永い。


https://note.com/gebageba/n/n7545dc87e4b3 【げばげば俳句鑑賞日記その4】より

あらたまの尿意をはこぶ昇降機  岡田一実 『句集 醒睡』(青磁社)

エレベータの夢をよく見る。三階で開いて知らない女性が乗ってくる。扉が閉まったあと、ずっとずっとエレベータは昇りつづける。そしてそして昇りつづける。エレベータが落ちる夢というのは聞いたことがあるが、昇りつづける夢というのは珍しいのだろうか。夢診断では開運アップというからまあ喜んでおけばよいのか。いずれにしろ眠りが浅くて何が開運アップだと言いたくなるが。

わたしの職場は大きなビルの中にある小中高生の受験指導学習塾だ。エレベータはあるが、ビルの他の利用者さんがエレベータを利用するので、生徒はもちろん講師であるわれわれもエレベータは使用しないことに決めている。

それはそれでいいのだが、教室で忘れ物に気づいて、4階も5階も階段を昇り降りして取りに行くようなことが続くと、さすがにそれだけで疲労困憊だ。子どもたちも忘れ物をしたら、下の受付まで降りて借りに行かないといけないのがイヤで忘れ物が減っていくので、悪いことではないかもしれない。

わが塾はお盆と正月だけが大きな休み。あとは年がら年中授業が行われている。正月、実家に帰って新年のあいさつをと思うと母が、「あんたの職場に行きたい」と言う。

父は「正月なんやからゆっくりしたらええ、何を言うてんねん」と言ったが、「あんたが教室長になったっていうから、どんなビルか見といたろ思うて」と言うのだ。かくして、元日早々から父と母を連れて職場のビルに行くことになった。

だれもいない職場というのは、いつも過ごしている職場だというのに、なんだか違う世界のよう。軸が少しだけずれた世界線、いつもと違う音や匂いまでするものだ。

元日の音、元日の匂い、元日の尿意。普段は絶対使わないエレベータは父と母とわたしを乗せて職員室へと向かう。元日の職場で元日の父母と過ごし元日のトイレで用を足した。あれから15年ほど経つが、なんとも心の奥の方がむず痒く、とても印象的な元日だったのをよく覚えている。


https://note.com/gebageba/n/n3e81470fe03a 【げばげば俳句鑑賞日記その5】より

人の死を記して春の明朝体  五十嵐秀彦 『句集 暗渠の雪』(書肆アルス)

叔父は葉巻が好きなひとだった。音楽もお酒も葉巻もバイクもたいていのことは叔父に教わった気がする。わたしが病気で外に出たがらないときは、「かまへん、じゃあ、ゆらゆら帝国でもかけよか、音楽は家の中にいても世界や」とわけのわからないことを言った。どんどん音楽に魅了されたわたしは、結局ライブやクラブで音楽へダイブしているときは人ごみにも耐えられるようになっていった気がする。

初めて葉巻を吸うとき煙が肺に入って咽せているわたしに叔父は「あほやなあ、煙は吸い込まないんや、結果じゃなくて過程をたのしめ」と言った。

「あんな。このおいしいおいしいワインだって腹の中に入ったら他のどんなお酒とも変わらん、ただのアルコールになるやろ。飲み込むまでが楽しいんやろうが」

なるほどこれはあらゆることにおける真理で、結果ばかり求めそうになる今でも思い出す叔父のことばのひとつだ。

叔父はやはり早死だった。「破天荒なやつほど長生きするんや」と叔父は言っていたが、それだけは正解ではなかった。晩年は糖尿で床に伏せていて、あの寝室の背中が忘れられない。

叔父の葬式が終わり、憔悴の叔母に代わって、わたしが叔父の知り合いへ叔父の逝去を知らせる葉書を書いた。プリンタから印刷されていく幾枚もの叔父の死。

叔父はもう結果になってしまったが、わたしの目にうつる叔父はその過程を最大限に満喫していたように思う。さて、わたしはどうだろうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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