https://www.kogumaza.jp/2021oikawamariko.shuukunoizumi.html 【秀句の泉 ≪河北新報掲載≫】 より 及川真梨子
≪九月≫
№339 立ち食ひの重心変へて秋の雨 北大路 翼(1978年~)
ふらりと入った駅の立ち食いの店です。多いのはそば屋でしょうか。当然椅子は
ありませんから、料理を待つ間、食べる間は立ちっ放しになります。片足に重心を
置き、体を傾けながら食事をしますが、疲れてきたので別の足に体重を移しました。
自覚はありませんがとても共感できる動きです。立ち食い屋のけだるさに、しとしと
と降る秋の雨がぴったり合います。食べ終わればのれんをひょいとくぐり、颯爽と雨
の街へと出ていくのでしょう。 句集『見えない傷』より。
№338 穂薄や丸く眠れば山の夢 大木あまり(1941年~)
秋の野原や土手、路傍のあちこちに、背丈ほどにも伸びたススキが寄り集まって
生えています。ススキの穂は緩いカーブを描いてしなだれ、光を受けて銀色に輝い
ています。少し経つと白い綿毛になって、また味わいが変わりますね。山の夢を見
ているのは作者でしょうか。手足を縮めて丸く眠る姿は、胎児の眠りを彷彿とさせ
ます。山は心の中にある原風景の一つなのでしょう。一斉に風になびくススキの穂
がその景色を呼び寄せています。 句集『山の夢』より。
№337 秋の風鈴まるで初めて鳴るやうに 遠藤由樹子(1957年~)
暑い夏のさなかには音によって涼しさを届けてくれた風鈴ですが、家主が外し忘
れているのでしょうか、秋になってもつるされているのを見ると寂しい感じがします。
残暑の厳しい時季だとしても、夏の清涼な音とは違い、秋の風鈴は物悲しい音で
す。夏の間、涼風が吹き過ぎる時に何度も聞いた音色ですが、秋のわびしい空気
感の中では初めて聞く音に感じられます。聞き慣れた音のはずなのに新鮮なのは
季節を味わう人の感性があってこそです。 句集『寝息と梟』より。
№336 好きな絵の売れずにあれば草紅葉 田中 裕明(1959~2004)
樹木の紅葉に対して、足元から生える草の葉が色づくことを草紅葉といいます。
街の画廊で絵画を鑑賞しているのでしょう。以前から気に入っていた絵は売れてお
らず、同じ場所に展示されています。好きな絵を再び見ることのできたうれしさとと
もに、買い手がついていないことに少しの寂しさがあります。窓の外の草の葉の色
の変化が、飾られている時間の経過を教えてくれます。この絵の魅力も、草紅葉の
ように素朴で静かな趣なのでしょう。 句集『花間一壺』より。
№335 触れて皆造花や秋のともしびに 岸本 尚毅(1961年~)
春の灯、冬の灯など、人々の暮らしの明かりには四季の味わいが詠まれてきまし
た。秋の灯はひんやりとした夜を照らす落ち着いた光です。小さな雑貨屋か喫茶店
のディスプレーでしょうか。揺らめく明かりに照らされた花を触ると、全て造花だと分
かりました。薄暗がりの中、最初は生花だと思ったのかもしれません。小さな驚きが
感じられます。「ともしび」とゆったり書かれることで、火の揺らぎや過ごす時間の穏
やかさが伝わってきます。 句集『雲は友』より。
№334 まなぶ子どもはたらく子ども鱗雲 南十二国(1980年~)
並列で二つの子どもが提示されています。学校に通い、勉強を頑張る子どもはご
く普通の存在です。しかし「はたらく子ども」はどうでしょう。家の手伝いと捉えてもい
いですが、大人と変わらない労働を強いられているとも受け取れます。遠い国の出
来事のように感じますが、この国でも人ごとではありません。秋の空に雲が流れ、
魚の鱗のように小さな塊に分かれています。区別がつかず紛れてしまう雲の一片も
一つ一つ違いがあるのです。 句集『日々未来』より。
№333 束ねるに短き髪よ涼新た 越智 友亮(1991年~)
涼新た、とは新涼とも言います。夏に味わう一瞬の涼しさとは違い、秋の涼しさは
しみじみとした心地よいものです。いつのまにか髪が肩にかからないくらいまで伸び
ていました。髪を束ねるには短く、下ろすには気になる長さです。試しに結べるかな、
と髪をかき上げた様子が思い浮かびます。髪を手で押さえ、すっきりとしたうなじに
新涼の風が吹き抜けていきます。伸びた髪に時間経過があり、新涼に爽やかな季
節の切り替わりがあります。 句集『ふつうの未来』より。
№332 火のなかのものよく見えてちちろ虫 大木あまり(1941年~)
ちちろ虫はコオロギの別名です。鳴き声からその名が付いたといいますが皆さん
にはどう聞こえるでしょうか。あちこちの草むらから虫の声が聞こえ、近くでは何か
を燃やしているようです。家の不用品か農作業の枯れ草か分かりませんが、火にく
べたものは赤々と燃え上がり、炎の中でくっきりと形を浮かび上がらせます。しかし
それも一瞬で、どんどん形は崩れるでしょう。火が消え、灰と燃えさしになった後も、
か細いコオロギの声が響いています。 句集『火球』より。
№331 よく歩く野分の雲と思ひつつ 森賀 まり(1960年~)
野分とは、野の木々をなびかせ、草を分けるような秋の強風のことです。多くは
台風の風のことを言います。日課の散歩中でしょうか。雲が激しく流れ、迫り来る
台風の気配を感じています。断続的な強い風が吹き始めると、ついに来たかと身構
えてしまいますが、歩き続ける四肢は力強く伸びやかです。低気圧が近づく前のあ
の感じ、明るさと暗さが同居する嵐の前の静けさの中で、自分の体の確かさを味わ
っているようです。 句集『しみづあたたかをふくむ』より。
≪八月≫
№330 乗機降下みるみるひとは色鳥に 栗林 浩(1938年~)
乗機は飛行機のことでしょう。自分の乗っている便が目的地に着き、空港を目指し
てぐんぐん降りていきます。その時、人々が色鳥に変わったというのです。色鳥は秋
に渡り来る小鳥たちのことです。色彩のきれいな鳥が多く、群れでやって来るものも
あります。空を飛んできた自分たちの、鳥のような視界や体感を表しているのか、滑
走路に待つ人が先に降り立った仲間の鳥に見えたのかもしれません。着陸という非
日常の瞬間を味わっています。 句集『あまねし』より。
№329 鍋底のことさら昏しあまのがわ 増田まさみ(生年不詳)
天の川と鍋底の暗さをとりあわせた一句です。夏の終わりから秋にかけては、天
の川銀河が最も美しく見える時季です。光の粉をまいたように星々が密集し、大きな
星の流れが夜空に現れます。一方で、深さのある鍋をのぞき込むと、思いもよらぬ暗
がりが広がっています。使い込まれた傷もあり、洗う前なら食材のかけらもあるかも
しれません。美しいとは言えない場所ですが、よく目を凝らせばそこは、天の川とつな
がっているのかもしれません。 句集『かざぐるま』より。
№328 天高く梯子は空をせがむなり 仁藤さくら(1948年~)
秋の空が澄み渡り、高く、遠く広がっています。秋晴れの空の下に立てかけられた
梯子を擬人化し、空を欲しがっていると表現しています。認識を広げれば、階段やエ
レベーター、上り坂など、高いところへ上がる方法はいくつもあります。しかし、梯子
だけが途中で断ち切られたような形状をしており、たどり着く場所を持っていません。
人は梯子を上って望む高さへと着きますが、梯子はいつまでも秋の果てない空を見
上げています。 句集『Amusiaの鳥』より。
№327 ゆつくりと鋏落ちたる日の盛 橋本小たか(1974年~)
夏の最も日差しの強い時間帯を日盛りや日の盛りと言います。暑さの極まる晩夏
の季語です。日陰のない照り返しの中で、鋏がゆっくりと落ちていきます。緩やかな傾
斜で滑り落ちたのか、それとも、たまたま目に留まったせいで動きがスローモーション
のように感じられたのでしょうか。普段は安全な道具とはいえ、反動で刃が開くかも
しれない、少し怖さのある映像です。日の盛りの明るさと、説明のない一連の映像が
緊張感をもって描かれています。 句集『鋏』より。
№326 盆の家虻の翅音の親しさも 木附沢麦青(1936~2022)
盆用意をしてご先祖様をお祭りしたり、お墓参りをしたりするお盆ですが、生きてい
る私たちが故郷へ帰省する期間でもあります。本当にご先祖様の霊も帰ってきてい
るのなら、町の人口は増えているのかもしれません。久しぶりの実家の柱の感じや、
吹き通る風の感触、紛れ込んだアブの低く大きな羽音まで懐かしく感じられます。懐
かしいものとは、少しずつ古び、失われゆくものでもあります。今ある温かい場所を大
切にしたいものです。 『木附沢麦青句集』より。
№325 雲の峰赤子の顔のふと険し 如月 真菜(1975年~)
まだしゃべることができない赤ちゃんは、全力で泣き笑いして自分の快・不快を教
えてくれます。といっても何を言いたいのか、親でも分からないことばかりです。激し
い表情や穏やかな表情だけではなく、眉をひそめて怪訝な顔をしている時もありま
す。何かを感じ取ったのでしょうが、いったいどんな思いなのか、本人に聞いてもき
っと分かりません。みるみる湧き立つ入道雲は、しかめた子の顔にも、ぐんぐん伸び
る子の成長にも似ています。 句集『琵琶行』より。
№324 脱ぎ捨てし水着のごとく帰宅せり 渡辺誠一郎(1950年〜)
ひと泳ぎ終わった後の更衣室で、べしょりと置かれた水着を思い浮かべました。
伸縮性のある生地が縮み、小さな塊になっています。もちろん洗う前でしょうから、
あまりきれいな印象ではありません。そんな水着のような姿で家に帰ってきたという
句です。その人はきっと汗だくで疲れ切っているでしょう。水着は比喩ですので、厳密
には季語ではないかもしれません。しかし、重ねられた夏のイメージが、暑さに疲れ
果てた姿を想像させます。 句集『赫赫』より。
№323 どれも口美し晩夏のジャズ一団 金子 兜太(1919~2018)
音を奏でる人々の口元から、晩夏の光に照らされる全体へと映像がズームアウトし
ていきます。口だけを取り上げて美しいとはなかなか言えません。しかし、サクソフォ
ンを吹く口元、シンガーの歌に合わせて開く唇、弦楽器やピアノの弾き手の固く結ば
れた口の、それら全てが美しいのだと、音を生み出す口元への最大の賛美が表れて
います。暑さが衰え、翳りを持ち始める晩夏の光と、ジャズの楽器や空気感が醸し出
す色合いがぴったりと合います。 句集『蜿蜿』より。
№322 熊を見し一度を何度でも話す 正木ゆう子(1952年〜)
歳時記で熊は冬の分類になりますが、熊にも春夏秋冬の暮らしや姿があります。
と言っても最近の出没の多さは社会問題になっており、この句は季節に関係なく共
感してしまうのではないでしょうか。熊を目撃することは、かなりの距離があったとして
もショックな出来事です。心を和らげるため、熊を見た話を事あるごとに繰り返すの
もよくわかります。私の母も一度見たのですが、数年たつ今も情感を込めて、「あの
時は…」と話し始めるのです。 句集『夏至』より。
≪七月≫
№321 睡蓮を揺らす波その返し波 広渡 敬雄(1951年~)
鏡のような池の水面に、スイレンの花が咲いています。周りには丸く切れ込みの入
った葉が広がり、押し合うように花を取り囲んでいます。水に咲く植物には蓮もありま
すが、空中に伸びた茎に咲く蓮とは違い、スイレンは水面のすぐ上に花を広げます。
川や海と違って流れはないので、風に押されてできた波でしょう。さざ波が花へと寄
せてぶつかり、戻る力がまた逆方向へと波を作ります。スイレンがわずかに揺れるの
みの、美しく静謐な空間です。 句集『風紋』より。
№320 顔の汗大きてのひらに一掃す 加藤 楸邨(1905〜1993)
真夏の屋外なのか、冷房のない室内なのか、汗がダラダラと顔を流れています。想
像すると、蒸し暑さに額の汗が今にも目に入りそうな様子が浮かびます。持っていた
タオルで拭くのももどかしく、グイっと片手で汗を払いのけました。「大きてのひらに」と
いうゆったりとした8音のリズムから「一掃」というスピードのある言葉に繋がるのも
臨場感がありますね。大きな手や武骨な振る舞いから、周りの目を気にしない大胆
な人柄が見えてきます。 句集『怒濤』より。
№319 鵜とともに心は水をくぐり行く 上島 鬼貫(1661~1738)
鵜というと、かがり火に集まるアユを採る、長良川の鵜飼を思い出しますが、そん
なに大仰な存在ではなく、海や川にごく普通にいる鳥です。海を眺めていると、視線
の先の鵜がぽちゃんと沈むのを見ることがあります。潜った先を観察しますが、なか
なか姿を現しません。波が代わる代わる打ち寄せ、潮目が動いていくのが見えるば
かりです。心も同じように、流れがぶつかり合う中に沈み、浮上を待ちます。原句は
〈鵜とともに心ハ水をくゝり行〉。 『鬼貫百句』より。
№318 夜の冷蔵庫開けるな海があふれ出す 高野ムツオ(1947年~)
家の隅で一年中動いている冷蔵庫ですが、物が傷みやすい夏は最も活躍する時
季です。開けた時のひんやりとした冷気がうれしいのも夏ですね。人々が寝静まっ
た夜も、冷蔵庫は中身を冷やし続けて静かにうなっていますが、この句では「開けて
はいけない、冷蔵庫の中から海があふれ出してしまうよ」と詠んでいます。それがう
そか本当か、ぴったりと閉じている戸の中は誰も見ることができません。人知れず
遠い海とつながっているかも知れないのです。 句集『鳥柱』より。
№317 お互ひの見ゆるところに昼寝せり 谷口 智行(1958年~)
スペインなどのシエスタが有名ですが、日本でも夏時季の昼寝は生活の知恵とし
て季語になっています。暑さで体力を消耗し疲れやすく、日中休んでも日暮れまで
が長いですから、午後のひと眠りは効率的です。蒸し暑いので、家族で寝る時でも
くっついてはいられません。部屋の戸を開けつつ、相手が見える位置でごろんと横
になっています。日本家屋の畳の部屋や、ふすまが開け放たれている情景も思い
浮かびました。涼しく優しい距離感です。 句集『海山』より。
№316 大地いましずかに揺れよ油蝉 冨澤赤黄男(1902~1962)
ジー…ジー…と油蝉の声が響き渡っています。出歩く者の少ない夏の昼下がり、
日差しはじりじりと辺りを照り付けてきます。「大地よ、静かに揺れよ」と命じている
のは作者でしょうか、それとも油蝉でしょうか。地震の揺れというよりも、心で感じる
ことのできるようなわずかな揺れ、油蝉の声に大地が反応し、身を揺さぶっているよ
うな感覚である気がします。油蝉の声を全身で感じ、生まれた言葉が読む私たちの
世界へと広がっていきます。 句集『蛇の笛』より。
№315 七夕の夜の到着ロビーかな 黛 まどか(1962年~)
なんのことはない場面の説明です。7月7日の夜に、到着した待合室を示していま
す。到着ロビーという表現は空港でしょうか。夜の便ですから日中と比べて人影も少
なく、静かな印象です。しかし季語である七夕を読み解くと、がぜん意味が深まって
きます。織姫と彦星が1年ぶりの逢瀬を重ねるこの夜に、空を移動し、到着したロ
ビーで待ってくれている人は誰なのでしょうか。「~かな」という詠嘆がシンプルで、
読者の想像を広げていきます。 句集『花ごろも』より。
№314 我消ゆるわづかばかりの片陰に 岸本 尚毅(1961年~)
夏の昼間の太陽は真上に昇り、全てのものに短く、くっきりとした影を落とします。
道沿いの木々や建物によって、道の片側に作られる日陰が片陰です。照り付ける
日差しの強さは言うまでもありません。少しでも涼もうと道行く人々は影のある方へ
と吸い寄せられて行きます。自分自身も同じように片陰へと消えたと詠んでいます
が、端から見られているような描写が面白いですね。光に照らされた真夏の世界の、
小さな暗がりの魅力が際立ちます。 句集『感謝』より。
≪六月≫
№313 大烏賊の腸つかみだす暑さかな 眞鍋 呉夫(1920~2012)
釣ってきた、あるいは買った丸々のイカを捌く様子です。苦手な方はごめんなさ
い。鱗を取って包丁で解体していく魚よりも、イカは手づかみで進める作業が多い気
がします。手順の最初は胴体から中の組織を引き出すことです。手を内部に差し入
れ、くっついているポイントを剥がし、上手に引っ張ると中の構造がきれいに取れてき
ます。といっても、感触や生臭さは心地の良いものとは言えません。心理的な抵抗も
含め、暑さが際立ってきます。 句集『月魄』より。
№312 地図に在る泉はみどり誰もゆかず 原 雅子(1947年〜)
広げられた地図の中に、緑に色分けされた泉が描かれています。泉が載るのは珍
しいですが、お手製の図面なのかもしれません。そこは山の奥深くか、険しい場所なの
でしょうか。誰も人は訪れないようです。泉は一年を通してありますが、ありさまが最も
みずみずしい夏の季語となっています。実在の泉も周りの木々を映し、濃い緑の水面
をたたえているのではないでしょうか。人の目に触れぬその場所に、作者だけが地図
を通し、思いをはせています。 句集『束の間』より。
№311 人殺ろす我かも知らず飛ぶ蛍 前田 普羅(1884〜1954)
夏の夜を行く作者の姿です。人を殺す私かもしれないと不穏な心情が吐露されてい
ますが、自分自身に距離を置き、客観的に書いているため不思議な感じがします。
強い思いがあるのか、ぼんやりとした暗い気持ちを見つけただけか分かりませんが、
私の傍らにいる蛍も蛍以外の全ての物も、この私が後ろ暗い気持ちを持っていること
を知らないでしょう。それはもしかしたら私自身にも分からないのです。傍を行く蛍の
淡い光が私を照らし出しています。 『普羅句集』より。
№310 友達でふさがっている祭かな 田島 健一(1973年~)
祭りと聞くだけで沸き立つ心が誰にもあります。いつもは閑散とした商店街や見慣
れた風景が鮮やかな飾りに彩られ、通りを練り歩く山車や踊り手が見事です。夜店
の味の濃いメニューを選ぶのも楽しいですね。ごった返す人々の中を歩いていると、
その先に顔なじみの友人たちが集まっていました。約束していたわけではなく、偶然
見かけたのでしょう。人ごみに辟易しながらも、なんて声をかけようかと思ううれしさが
見えてくるようです。 句集『ただならぬぽ』より。
№309 蛇去つて戸口をおそふ野の夕日 吉田 鴻司(1918~2005)
家の戸の前に蛇がやって来たのでしょう。追い払って目線を上げると、斜陽の光
が強く照り付けてきました。日が沈む野原は金色に輝き、草の穂先は赤く、遠くの
木々は暗く染まっています。あまりに美しい景色ですが、自然がもたらすのは豊かさ
だけではありません。追い返した蛇が自然へと帰る代わりに、夕焼けが野を越えて
暮らしへと迫ってきます。実りとともに厳しさを突き付ける自然と、土地に根付いて生
きる人々の一場面を切り取った句です。 『吉田鴻司集』より。
№308 赤い花買ふ猛烈な雲の下 冨澤赤黄男(1902〜1962)
季語に当たる言葉はなく、無季の句です。猛烈な雲として私は入道雲を思い浮か
べました。白い腕を隆々と伸ばし、みるみる形を変えていく雲です。花は色以外の描
写がなく、買った理由も書かれていません。しかし猛烈な雲の下で買うのですから、
目を引くような激しい赤色のような気がします。雲の勢いを感じるのは、曇天ではなく
青空を背景にしたときです。空の青、雲の白、花の赤という強い色合いが絵画的に
描かれている鮮烈な句です。 句集『天の狼』より。
№307 朝焼や酢の金色を飯に打つ 土屋 遊蛍(1944年〜)
日が昇る東の空が、赤く、美しく焼けているのが朝焼です。季節にかかわらず見る
ことができますが、歳時記では夏の季語です。夏至に近づくたびに日の出が早くなる
ので、早朝の清々しさも言葉の空気感の中に含まれるのでしょう。空の見える台所
で作者は酢飯を作っています。ご飯にかける酢が金色に輝きますが、それは朝焼の
色に似ているかもしれません。何げない日常の一こまですが、美しい季節の中で味わ
えば、格別の時間となります。 句集『星の壺』より。
№306 電波もて都会を包む五月闇 和田 悟朗(1923〜2015)
句集のあとがきに「ほぼ平成十二年より十六年にかけて」とあります。当時と比べ
ても、電波の種類は格段に多くなりました。都会だけではなく全世界があらゆる周波
数で囲まれています。五月闇は、梅雨時期の暗闇のことです。明かりのない昔であ
れば、月も星もない夜の闇はどれだけの深さだったでしょうか。煌々とつく電気は全
て、闇にあらがうために存在するのです。電波の包む場所となってもなお、太古から
の闇が街を覆っています。 句集『人間律』より。
№305 押し黙ることを礼とす梅雨の星 榎本 好宏(1937~2022)
雨が降り続く日々が続くと、少しの晴れ間もうれしいものです。夜も曇りが多く、な
かなか星は見えません。珍しい晴れ間に、あるいは雲の切れ間に見えるのが梅雨
の星です。からりとした明るさというよりは、控えめな光の印象があります。押し黙る
とは、ただ黙っているよりも強い表現です。言いたいことが胸の中に渦巻いています
が、それを押しとどめているのでしょうか。相手への敬意として示した沈黙が、自らの
心も照らし出しています。 句集『花合歓』より
。
≪五月≫
№304 まつしろに花のごとくに蛆湧ける 髙柳 克弘(1980年~)
今回の句は苦手な方はごめんなさい。蝿の幼虫である蛆を読んだ句です。種全体
では土や水の中などさまざまな場所に生まれるそうで、不快に思うのは人間の一方
的な感想ですが、やはり腐肉や生ごみなどに集まるのを見ると不潔で気持ちの悪い
ものと思ってしまいます。ところが、この句では真っ白できれいな花のようだと比喩し
ています。イメージがぶつかり合い、ギャップが新しい魅力を作り出します。どんな生
命も美しさを持ち合わせているのです。 句集『未踏』より。
№303 老鶯やはなればなれにゐる夫婦 石 寒太(1943年〜)
春の印象の強いウグイスですが、夏の間も美しい声を聞くことができます。歳時記
では夏のウグイスのことを「老鶯」といいますが、老いるどころか実際は力強い鳴き声
です。夫婦の距離感を詠んでいますが、その距離は読者の想像に任されています。
別居中…などと考えるのもいいですが、ウグイスの声の聞こえる範囲はどうでしょう。
お互いの姿は見えない距離、声が聞こえるほどの距離にいる夫婦が、ともに同じ老
鶯の声に聞き入っています。 句集『風韻』より。
№302 気落ちとも自己嫌悪とも蛇苺 江中 真弓(1941年~)
「気落ち」はがっかりして落ち込むことで、「自己嫌悪」は自分自身が嫌になってしま
うことです。しゅんとして元気がない様子は似ていますが、二つは別の気持ちです。
作者は今の感情がどちらか、断定できていません。憂鬱な出来事が自分のせいなの
か、そうではないのか、そこには心を守り成長していく上で重要な葛藤がある気がし
ます。蛇苺は食べられませんが、赤くてかわいらしい実は自己愛の在り方をささやい
ているのかもしれません。 句集『武蔵野』より。
№301 薊までおむつのとれた尻軽く 神野 紗希(1983年〜)
赤ちゃんの成長は早いもので、這っていたかと思えば歩き、今では駆け回っていま
す。散歩でわが子を見守っているのでしょう。ふっくらしていたお尻は、最近おむつが
取れてきゅっと小さくなりました。そんなことにも親の感慨が見て取れます。子どもの
手が届く距離も見える世界も、どんどん広がっていく頃です。親の喜びだけでなく、心
配も増えていることでしょう。触れられる距離にある薊は美しく、注意すべきトゲも持っ
ています。 句集『すみれそよぐ』より。
№300 沖を見るやうに開きて白日傘 中井 洋子(1941年〜)
日差しが夏めいて、焼けるようになってきました。出かけるときに差す日傘は、近頃
はカジュアルな存在です。かわいらしいものからシンプルなものまでさまざまあります
が、白日傘という言葉にはやはり上品な印象があります。この句で、本人は海辺には
いません。しかし、白日傘を開くときの動作、差す瞬間のまなざしが、まるで海の彼方
を見るようだというのです。町中でも山の中にいても、白日傘には海を思い出させる
爽やかな魅力があります。 句集『囀の器』より。
№299 傘が地に触れて東京ひこばゆる 黒岩 徳将(1990年~)
木の根元や切株から出てきた新しい芽を「ひこばえ」といいます。小雨がやみ、傘
を閉じようと下に向けた時に、近くの切り株の新芽に気付いたのかもしれません。東
京であれば伐採された街路樹でしょうか。句の表現から、人が傘を地につけたその
時に、東京の木々の芽が一斉に伸びたのだとも受け取りました。その飛躍が詩の力
でしょう。大都会の真ん中でも目を向け、気付こうとするならば、私達のそばで大気は
潤み、木々は健やかに伸びていきます。 句集『渦』より。
№298 薔薇園に入るほかなき薔薇の径 津髙里永子(1956年〜)
つる薔薇のアーチに見とれながら中に入ると、赤やピンク、白やほのかな黄色など、
色とりどりの花が咲き誇っています。薔薇園はさまざまな品種を観賞することのでき
る庭園のことです。この句では入り口までの道も薔薇に彩られ、人々を中へと誘って
いました。「径」は小道という意味を含みます。両側に薔薇の木が立ち、濃い葉の茂
りに囲われた小さな道が目に浮かぶようです。夢のような美しさの場所に、私達は知
らずに入り込んでいきます。 句集『寸法直し』より。
№297 初節句抱けどあらがふこと覚え 仙田 洋子(1962年~)
五月五日は端午の節句です。菖蒲飾りなどで家の邪気を払い、鯉幟や五月人形
を飾って男の子の成長を祝います。生まれて初めて迎える端午の節句を特に、初
節句といいます。写真館で衣装を着て、記念写真を残すこともあるでしょうか。つい
この間までは外界を認識できず静かに抱かれていた子も、周囲に興味が出てじっと
していられなくなる頃です。主役は子どもですが一番うれしいのは周りの大人です。じ
たばたする子をほほえましく見ています。 句集『子の翼』より。
№296 水の惑星なるよ田蛙鳴きたてば 鈴木 貞雄(1942年~)
地球は水の豊富な惑星ですが、作者がそれを実感したのは田蛙の声を聞いたと
きのようです。田に水が張られ始めると、繁殖の季節を迎えた蛙が一斉に鳴きだし
ます。この声を聞くと田植えの時季が近づいてきたとしみじみ思います。姿を見ずと
も、声だけで水の存在が身近に感じられる言葉です。雨や流れる川の水と違い、田
の水は人工的に整えられたものです。人の営みとして平野を埋め尽くし、水の惑星
の一部を構成しています。 句集『うたの禱り』より。
≪四月≫
№295 育たなくなれば大人ぞ春のくれ 池田 澄子(1936年〜)
様々な立場での実感がこもる句です。身長の伸びきった子を見て、つくづく大人にな
ったなあと思ったのかもしれませんし、自分の内面や能力の伸びが停滞して、諦め
の気持ちがあるのかもしれません。反対に、まだまだ成長しているうちは大人ではな
く、純粋な子どものままなのだという快活さも感じました。昼の日差しが少しずつ暮れ
ていき、淡い夜の感覚に包まれていきます。育たなくなったここから始まる日々も楽
しみです。 句集『いつしか人に生まれて』より。
№294 春禽といふよろこびのかすめゆく 仙田 洋子(1962年〜)
青空の下を歩いていると、鳥が頭上をかすめていきました。賑やかなさえずりは、
餌を求めて飛んで行ったのか、縄張り争いでしょうか。鳥は一年中見かけますが、
活動が活発になる春は繁殖の季節でもあります。春禽は、季語「春の鳥」の傍題で
す。この表現の方が語感が引き締まり、より生き物の強さが感じられますね。春の
楽しげな雰囲気の中で、さえずり、精いっぱい生きる鳥の喜びと、それを見ることの
できる人の喜びを詠った一句です。 句集『はばたき』より。
№293 げんげ田にころがっていた泣いていた 坪内 稔典(1944年~)
耕作前の田に広がるピンクの花がげんげで、れんげ草とも言います。げんげ田で
転がり泣いていたのは誰なのか、を考えると面白い句です。俳句は基本的に一人称
で読むことが多いので、作者だとも、共感した読者の私自身が泣いていたとも読めま
す。しかし「ころがっていた泣いていた」という過去形が描写に客観性と距離を持た
せるため、泣いている子を通りすがりに見つけたような、神さまの視点から覗くような
映像も頭に浮かんできます。 句集『ヤツとオレ』より。
№292 海とどまりわれら流れてゆきしかな 金子 兜太(1919~2018)
無季の句です。眼前に海が広がり、波がゆっくりと打ち寄せてきます。形の定まら
ない海に「海とどまり」の表現は多少違和感があります。しかし、水が流れ続けて大
海を巡るとしても、海そのものはいつでもそこにあり、全体が移動することはまれで
す。一方で、私という個は確かにここにありますが、様々な場所へと移ろい、人生の
中で旅を続けていきます。海から見れば、私達という人類全体は流れ続ける波のよ
うなものなのでしょう。 句集『早春展墓』より。
№291 初蝶の既に命の重さかな 大関 靖博(1948年~)
春になり、初めて見かける蝶を初蝶と呼びます。一斉に孵化した蝶が飛び回るの
はもう少しあと。春の先駆けです。幼虫の時も蛹の時も蝶は生きていますから、常に
命の重さがあることには違いません。しかし「胡蝶の夢」の故事があるように、ひら
ひらと飛ぶ蝶は人の魂の化身とも言われます。この句での重さとは、生物の生命力
の比喩ではなく、第六感で捉えるような魂の存在があり、それが既に初蝶に備わっ
ている、そんな感覚ではないでしょうか。 句集『五十年』より。
№290 よく伸びる小犬のリード水温む 本杉 純生(1943年~)
堰の水流や蛇口の水が段々と温かくなってくる春です。触れてみてさほど冷たくな
かったという実感が「水温む」ですが、語感にはそこここに流れる水が春めくという
空気感も含まれています。それがよく分かる句です。走り回る小犬と散歩していると、
手元のリードがぐんぐんと伸びていきました。飼い主もそれを微笑ましく見ているので
しょう。犬の元気な様子とともに、散歩の楽しさや春の明るさが「水温む」という季語
によって伝わってきます。 句集『有心』より。
№289 咲からに見るからに花の散からに 上島 鬼貫(1661~1738)
「~からに」という表現を繰り返し、桜の様態が詠まれています。意味が複数あり
ますが「ただ~だけで」と取れば、「咲くだけで、見るだけで、散るだけで」となり、「咲
いて散る、それだけで桜のなんて美しいことだ」と詠嘆した句と受け取れます。ある
いは「~やいなや」と取れば、「咲くやいなや、見るやいなや、散るやいなや」となり、
花開いてはすぐ散る桜の様子を切々と詠っています。どちらも儚く人々の心に残る
桜の普遍的な姿です。 『鬼貫百句』より。
№288 パレットの絵の具つぶらや春の森 髙柳 克弘(1980年~)
「つぶら」は「円ら」と書き、小さく、丸く、可愛らしい様子を指します。「つぶらな
瞳」とよく言いますね。絵を描くためのパレットに絵の具が置かれ、一つ一つがふっく
らと盛り上がっています。森というと常緑樹の暗い緑色や木漏れ日の明暗が思い浮
かびましたが、春の森を描こうとする画家の目には、たくさんの色が映っているはず
です。春になり、質感を変えた森の様子が、しぼり出した絵の具のつややかな描写
から伝わってきます。 句集『寒林』より。
≪三月≫
№287 春愁や草の柔毛のいちしるく 芝 不器男(1903~1930)
季節の変わり目のアンニュイな気持ちを指す「春愁」という季語が使われていま
す。取り合わされるのは草の表面に生える柔らかな毛が著しいという描写です。鬱々
とした気持ちの中、じっと路傍の草を見つめていたのでしょうか。普段では気付かな
い細やかなところまで観察が深まっていきます。柔らかな毛は生命力と明るさも感じ
られますが、一方でミクロな世界に迫る不気味さもあります。それもまた春という季節
が持つ一面なのでしょう。 『不器男百句』より。
№286 木になりて春の鳥どち宿したし 中嶋 鬼谷(1939年~)
ままならない現実が嫌になって、木や鳥や猫になりたいなんて思うことがあります。
人の持つ複雑さや気持ちの浮き沈みをどこかに置いて、気楽な自然界の存在に心
を託すのです。この句では木になり、さらに鳥たちをその身に宿したいと詠んでいま
す。「鳥どち」とは「鳥たち」を差す言葉です。物言わぬ木になりたいという静かな心情
だけではなく、春に喜び鳴き交わす鳥の側で共に暖かな季節を楽しみたい、そんな思
いを感じました。 句集『第四楽章』より。
№285 蕗のたう洗ふや水の手になりて 常原 拓(1979年~)
土手の草原や道端の緑の中から、小さな蕗のとうが出る季節になりました。柔らか
な葉の蕾の先が開き、薄黄色の花が覗くくらいが食べ頃です。採ってきた蕗のとうを
洗っていると、両の手が指先から段々と冷やされます。手についた土汚れもきれいに
なり、両手が澄みきっていきます。「水の手」という表現からは、冷たい水の温度と一
体化し、自分から離れていくような感覚を思いました。やがて出来上がる料理は、ほろ
苦い春の味です。 句集『王国の名』より。
№284 春の水花瓶の中に曲がりけり 小野あらた(1993年~)
冬の間は刺すようだった水の冷たさが、春になると少しずつ温んできます。水かさを
増した小川も、家でふと触れる水もそうです。この句では花瓶の水が器の形に沿って
曲がっているといいます。考えれば当たり前のことですが、私達には見ることができま
せん。同じように、器の中の水の冷たさが和らいでいるだろうと思っても、手を入れて
確認したわけではないでしょう。見ることはできないけれど、確実に訪れている春をユ
ーモラスに読んだ句です。 句集『毫』より。
№283 やがてわが真中を通る雪解川 正木ゆう子(1952年~)
春になりました。野の雪が解け、町の雪が解け、奥山の深い雪が解けていくと、川
が水量を増し、ごうごうと流れて行きます。これが雪解川です。雪解川を見つめなが
ら、この水はやがて自分自身の真ん中を通るだろうという感慨を得ました。流れの勢
いや春の訪れに気分が湧き立ったのか、もしくは自分の心の中に凝り固まっていた
ものが解けて行くように感じたのかもしれません。人間の体や心が、自然界に起きる
現象に同調していきます。 句集『静かな水』より。
№282 朝寝して不思議な夢を出入りする 山田 佳乃(1965年~)
時計もアラームもない昔の人々は日の光で目覚め、一日を始めていました。「春眠
暁を覚えず」とは、過ごしやすい春の朝が心地よく、夜明けに気付かずに寝過ごしてし
まうことです。朝寝もそれに近い言葉で、春の日が差す早朝の気持ちのよい眠りのこ
とを指します。淡い覚醒の中で、作者はさっき見た不思議な夢を思い出しながら、ま
た夢の続きへと戻っていきました。起きているのか寝ているのか、夢現の境があいま
いになる柔らかな時間です。 句集『波音』より。
№281 余寒なほ不覚に踏外せし一段 山本つぼみ(1932年~)
暦が秋になっても長引く暑さを残暑というように、春になっても残る寒さを余寒といい
ます。雪が少なくなり、緑の草が生え始め、春の気配はそこかしこにあるものの、上
着や部屋の暖房はまだまだ活躍する頃です。なおも募る寒さに思いを馳せていると、
ふと階段を踏み外してしまいました。私もたまに階段で転びますが、ぶつけた痛みと
同時に不意をつかれた驚きでいっぱいになります。初春の寒さに、日常のヒヤリとし
た瞬間が響き合う一句です。 句集『伊豫』より。
№280 風花や足湯に妻をおきざりに 小菅 白藤(1930年~)
雪雲のない青空の下、風に吹かれて飛ぶ雪が風花です。天から降るのではなく、
遠い雪嶺などから運ばれてくる雪ですので、空が晴れ渡っているのにどこから来た雪
なのだろうと不思議な気持ちになります。ご夫婦二人で足湯につかっていたようです
が、妻を置いて自分は他のところへ移動してしまいました。足湯に飽きたのかもしれ
ませんし、風花に呼ばれたのかもしれません。少しの罪悪感と美しい雪への新鮮な気
持ちが、胸の中で交錯します。 句集『岩手嶺』より。
№279 雛の灯を消せば近づく雪嶺かな 本宮 哲郎(1930~2013)
雛祭りの歌は「あかりをつけましょぼんぼりに…」ですね。雛壇に飾られる明かり
は、今は電気が多いでしょうが、雪洞の光は柔らかく、暖かな色合いです。家を留守
にするときや夜眠りにつくとき、雛の灯を消すと窓の外の雪嶺が大きく、近づいて来る
ように感じました。新暦の3月3日は早春の頃でまだ寒さがありますし、春半ばになっ
ても遠い峰々には深い雪が残ります。春のお祭りと隣り合う山の厳しい冬が味わい
深い対比になっています。 句集『雪嶺』より。
≪二月≫
№278 春宵のきんいろの鳥瞳に棲める 富澤赤黄男(1902〜1962)
宵とは日が暮れて間もない頃を指します。昔から「春宵一刻値千金」といわれるよう
に、日が沈んだ後に残る光が、刻々と変わっていく素敵な時間帯です。春ならば暖か
さもありますから、散歩にちょうどいいですね。側にいる人の目を覗き込むと、残照が
反射してきらりと輝きました。作者にはそれが金色の鳥の羽ばたきのように見えたの
でしょう。鳥は闇の中で眠りにつき、光をあびて蘇ります。目の中に鳥が棲む人はきっ
と心美しい人でしょう。 句集『天の狼』より。
№277 何処にでも行ける切手を買うて春 大島 雄作(1952年~)
仕事柄、郵便もメールも両方送る機会がありますが、封書に宛名を書いていると、
その住所の遠さにしみじみすることがあります。この手紙は和歌山へ、これは兵庫へ
と、自分が行く予定のない遠方に受け取る人は住んでおり、手の中の紙は数日後に
そこにたどり着きます。メールにその感慨はありません。作者はまだ手紙を出す前、
切手を買った瞬間です。宛先すら決まっていない切手ですが、どこにでも行ける力が
一つ一つに宿っています。 句集『明日』より。
№276 十六歳は時限爆弾花ぐもり 大高 翔(1977年~)
作者の十代の句です。私の学生の頃を振り返ると、気持ちがうまく言えなかった
り、自分の寂しさに気付けなかったり、心に溜め込むものがあったと思います。鬱屈
がいつか爆発しそうと、時限爆弾というのもよくわかります。花ぐもりとは桜が咲く頃の
曇りのこと。美しい花を愛でるのに、曇り空では気分が落ち込みます。桜自身もがっか
りしているかもしれません。しかし陽の翳る日の桜にある、繊細な美しさが十六歳の
中にもあるのです。 句集『ひとりの聖域』より。
№275 ストローを銜へるひとりづつ霞 鴇田 智哉(1969年~)
空気中の水分が粒子となり、周囲ををけぶらせています。靄や霧と似た現象です
が、春は特に霞と呼びます。句の想像をしたとき、カフェのテラス席をイメージしまし
た。飲み物のストローを銜えると、ひとりひとりに霞が訪れるのです。霞はぼんやり見
えることの比喩でもあります。本当の霞ではないでしょうが、ストローの先を注視する
一瞬と、飲み物を味わう間は他が気になりません。霞に包まれるような孤独でゆった
りした時間です。 句集『エレメンツ』より。
№274 春愁やくらりと海月くつがへる 加藤 楸邨(1905~1993)
春になり暖かさが増してくると、心がウキウキしてきます。それに反するように、ふっ
と憂鬱な気持ちが湧いてくるのが春愁です。もしかしたら寒暖差で自律神経の調子を
崩しているのかもしれませんが、季語になっているのは面白いですね。気持ちの沈む
作者の前で、海月が向きを変えました。気分の浮き沈みと海月の回転がシンクロして
いるようです。連続した「く」の音がきれいです。春愁の漂うような気持ちが投影されて
います。 句集『雪後の天』より。
№273 メールする蔦の芽のやわらかいこと 神野 紗希(1983年~)
こんなことをメールで伝えたことはありますか?空が抜けるように青かったこと、見た
ことのない小鳥が鳴いていたこと、つぼみが開き始めていたこと。作者は蔦の芽に触
れ、想像よりも柔らかかったことを誰かに送信したのです。空や風景は撮影して見せ
ることができますが、蔦の芽の感触は写真では分かりません。同じ場所にいない誰か
に小さな発見を共有するために、言葉が、そして俳句があります。口語の破調が可愛
らしい句です。 句集『すみれそよぐ』より。
№272 胆沢満月雪の精二三片 佐藤 鬼房(1919~2002)
作者の母の故郷は岩手県にあった胆沢町(現奥州市)です。私も同じ胆沢平野に
生まれ育ちました。平野の中は水田が広がり、山脈は遥か遠く、風景の中に溶け込
んでいます。遮る建物もありませんから、どこまでも広い大地と夜空が、対のように
向かい合います。その中に煌々とした満月と自分とがあるのです。空から小雪が降っ
てきました。雪には精霊が宿っています。雪は光を受け、ひらめきながら、ぴんと張り
詰めた月下に舞い踊っています。 句集『枯峠』より。
№271 日輪の一日見えて氷柱かな 茨木 和生(1939年~)
雪が降り続く日は厚い雲に太陽が隠れ、なかなか日が差してきません。雪は野に積
もり、道に積もり、屋根にしんしんと積もっていきます。一転して翌日、冬晴れとなると
さんさんと日光が降り注いできます。屋根の雪が解け、凍り、また解け…を繰り返して
伸びていくのが氷柱です。瞬間を詠むことの多い俳句ですが、この句では一日中出
ていた太陽のありがたさが詠み込まれています。すっきりした気持ちのいい日差しを
受けて氷柱が輝きます。 句集『山椒魚』より。
№270 木の中の釘はしずかに青みたり 岩尾 美義(1926~1985)
無季の句で、感覚の句です。打ち込まれた釘が木材の中にあります。素材の圧力
や組み合わされた全体の力がかかると思うのですが、釘が動いたり、ぐらついたりす
ることはありません。静止したまま木と木を繫ぎ、支えています。作者は釘の存在を
感覚的に捉え、静かに青みがかっていくと表現しました。実際に色を見たわけではな
いでしょう。見えないところで役目を果たし、悠久の時を過ごす、釘の時間そのものを
感じ取ったのです。 句集『むらさきらむぷ』より。
≪一月≫
№269 冬帽を脱げば南に癖毛立つ 今井 聖(1950年~)
はねた自分の毛はなかなか見えませんから、友人、知人の姿なのだと思います。
冬帽だけでは毛糸の帽子か、紳士的な中折れ帽子か種類は分かりませんが、暖か
くぴっちりとしたかぶり心地は想像できます。その帽子で押さえられ癖の付いた髪が
ぴょんと立ち、南を指しているのです。方角を意識するような開けた場所にいるのか、
その方が来た方角なのでしょうか。きっちりした帽子を外し、ユーモラスな癖毛が地
球を指さす、大胆な句です。 句集『九月の明るい坂』より。
№268 枯木ことごとく阿修羅となりて立つ 遠藤若狭男(1947~2018)
破調の句です。「枯木ことごとく」までを一気に読み下し、勢いがあります。裸木が
そこここに立っていますが、作者には全てが仏教の守護神である阿修羅に見えて
きたのです。阿修羅は戦いの神であり、憤怒の形相でも描かれますが、最も有名
な興福寺の阿修羅像はわずかに眉をひそめ、物事を見抜こうとするような凜々しい
お顔立ちです。冬の厳しさを肌身で感じたのか、自らの穏やかならぬ心中を投影し
たのか、冬木の激しさを描いた一句です。 句集『船長』より。
№267 流氷の軋み鏡は闇に立つ 小檜山繁子(1931年〜)
取り合わせの一句です。作者が今、流氷と鏡を見ているという説明はなく、流氷が
見えるところに鏡があるとも書いてありません。作者の感性で結び付けられた現象
の響き合いを楽しめます。流氷はぶつかり合いながら軋み、一方で鏡は部屋の闇
に直立しています。共に表面は冷たく硬質ですが、流氷は漂いながら音を立て、鏡
は不動で無音です。二つの物が俳句の中に並べられるとき、イメージの共通点と差
異が読者の感覚の中に浮かび上がります。 句集『流水』より。
№266 手のかたちせる手袋の中の闇 高岡 修(1948年~)
手から外した手袋が無造作においてあります。中を覗けば真っ暗で、闇は布の形
に沿うように五本指になっているのです。言われれば当たり前のことかもしれません。
しかし、さっきまで自分の手が入っていた空間に同じ形の闇があり、またその中に
手を入れるのだと思うと、不気味な感じがしてきます。辺りを見渡せば、空間を持つ
ものはたくさんあります。水筒の中には水筒の形に、ペンの中にはペンの形に、あら
ゆるところに闇はあるのです。 句集『剥製師』より。
№265 滝音を心音として山眠る 土見敬志郎(1935年~)
冬山の静かな様子を指す「山眠る」という季語です。木々は葉を落とし、冬眠中の
動物は息を潜め、北国の山なら真っ白な雪に覆われています。紅葉や実りの時期
が過ぎれば、人々が盛んに訪れることもなく、山は厳かに佇んでいるのです。聞こえ
てくるのは山の深い静けさの中に止めどなく落ちる滝の音です。厳寒の地でなけれ
ば、流れる水は凍りにくいものでしょう。人々のあずかり知らぬ山の体内で、滝は心
臓のように水を送り続けています。 句集『岬の木』より。
№264 雪掻けば雪降る前の地の乾き 中村 苑子(1913~2001)
雪掻きと一口に言っても、降る雪の量によって作業も労力も大きく変わってきま
す。この句ではそれほど大雪ではなく、雪をのけた道が、その後の陽気で乾燥する
くらいなのでしょう。しかし、冬のただ中に、雪に濡れても隠れてもいない地面があ
ると少し違和感があります。まるでその場所だけ季節を忘れ、秋の陽気であるかの
ようです。この乾きは天より地へ降りる雪を待ち望んでいるような、静かな乾きなの
ではないでしょうか。 『現代女流俳句全集 第四巻』より。
№263 父はまた雪より早く出で立ちぬ 三橋 敏雄(1920~2001)
働きに出る父の風景です。次句に〈馬強き野山のむかし散る父ら〉がありますか
ら、空が白む頃から農作業に出たり、山で狩猟をしたりして一家を背負う父の姿でし
ょうか。現代の仕事に出る親の姿とも重なります。理屈では雪が降るより早く出発し
たことになりますが、むしろ、自分が目覚めたときには雪が降るばかりで父の姿は
既になく、父の足跡も雪に消え去ってしまった、という情景を思い描きました。父へ
の尊敬の念と寂しさのある句です。 句集『眞神』より。
№262 新年や日向の平ら踏みしめて 河内 静魚(1950年~)
新しい年です。自然界は昨日の続きかもしれませんが、暦の中や人の文化の中
に、改まる思いが溢れています。降った雪も溶けてしまうような日向の、平らな地面
を踏むという何げない動作ですが、それすらも寿ぎの気持ちを伴っています。冬の
清涼な空気の中に立てば、日に温められた地の和らぎが伝わるでしょう。変わらぬ
日常があること、起伏がないこと、日光の恵みがあること、この優しい場所から、ど
こまでも歩いて行けるはずなのです。 句集『水の色』より。
≪十二月≫
№261 年惜しむとは糖分を摂りすぎる 池田 澄子(1936年~)
十二月が暮れてゆき、残り少ない今年をしみじみと名残惜しく思っています。長
期休みに気が緩んだり、団欒の時間が増えたりして、ついつい食べ過ぎることも年
末にはあるでしょう。しかし実際のことだけではなく、甘いものを摂り過ぎた後悔や、
美味しさへの満足感、もう少し食べたかったという寂寥感が、妙に惜年の心持ちに
合う気がするのです。甘さに満たされるように、過去を懐かしむように、わずかな心
残りと共に年が過ぎていきます。 句集『月と書く』より。
№260 熱燗にうなづき人にうなづきて 岸本 尚毅(1961年~)
熱燗にうなづく人、私の周りには何人かいます。日本酒を温めて燗酒にすると、
温度で風味が変わり、口いっぱいにおいしさが広がります。説明がなかなか難しい
ですね。冷えきった体は温まり、体に沁みていく心地がします。数人の食事の場で
も、まずは手元の杯の滋味に深くうなずくという格別の時間があり、集まったメンバ
ーとの楽しい会話はそれからです。お酒と自分が相対するひととき、そして温かな
食事のひとときを切り取った一句です。 句集『小』より。
№259 ポインセチアひっそりとして鳥の息 川口 真理(1961年~)
ポインセチアの咲く部屋で、飼われている小鳥のひっそりとした息遣いが聞こえて
くる、この句にはそんなシチュエーションが似合うなぁと思いました。今まで鳥類の
呼吸に思いを馳せたことはありませんでしたが、調べてみると気嚢などの仕組み
が哺乳類とは異なっても、空気を取り込んでは吐き出し、という部分は変わりませ
ん。ポインセチアの葉の赤は賑やかですが、鳥の息が分かるほど室内は無音で
す。華やかな季節との対比が効いています。 句集『双眸』より。
№258 歳晩の青空の窓さつと拭く 浅川 芳直(1992年~)
歳晩は一年の終わりの時期です。新年を改まった気持ちで迎えるため、大掃除を
したり、注連飾りや門松といったお正月の準備をしたり、思っていたよりもやることが
たくさんあります。空が見えているので、雪は降っていません。冬晴れの見える窓を、
さっと軽やかに拭き上げています。手を抜いて適当に拭いたのでは句の清々しさに
合いませんから、普段からまめに掃除をしている窓なのでしょう。慌ただしい年末の
気持ちの良い一瞬です。 句集『夜景の奧』より。
№257 弔電の束の向うに冬の波 友岡 子郷(1934~2022)
故人の家に、遠方から届いた弔電の束があります。葬儀が一段落ついた後、整
理のために置かれているのか、葬儀の最中にまとめてあるのか、作者の目はその
束の向こうに、寒々とした冬の波を捉えました。窓から見えたなどと実景にすること
もできるでしょうが、それよりも作者の心象風景と捉えるべきでしょう。遠くから届い
た電報が、ここではない波寄せる場所へ心を繫げているのです。悲しみと偲ぶ心と
が、静かに打ち寄せてきます。 句集『海の音』より。
№256 発車ベル鳴れば海辺の雪太る 佐怒賀直美(1958年~)
まるで推理小説の始まりの場面のようです。列車が待つのは海辺の駅。冬空はど
んよりと曇り、細かな雪が降っています。発車ベルが鳴ると車両はゆっくり動き出し
ますが、それにつれて雪は段々と激しさを増し、粒も大きくなってきました。窓に広
がる海は鉛色で、波が激しく打ち寄せているでしょうか。出発に心は躍りますが、
雪の強まる景色は暗く、アンニュイな印象です。物語を含んだ情感に溢れ、どんな
旅になるのか想像が膨らみます。 句集『心』より。
(以下略)
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