Facebook松田 ひろむさん投稿記事
2024年3月18日 ·
3月16日の現代俳句協会の総会は歴史的な総会になった。
それは、これまで分裂に分裂を重ねてきた俳人の協会が統合の動きを見せたことであった。
新任の会長は高野ムツオ(前副会長)さんだったが、なんと、高浜虚子の曾孫で「玉藻」(日本伝統俳句協会)の星野髙士さんが副会長になったことには驚き。
この他の副会長は対馬康子・秋尾敏・小林貴子・久保純夫・筑紫磐井・永井江美子さん(留任)、佐怒賀正美・福本弘明さんも新任の副会長になった。
この他の、役員、選考委員なども一新。多くの日本伝統俳句協会・俳人協会からの参加があった。俳人協会の鳥居真里子(門)さんも評議員になった。星野髙士さんの娘の星野愛さんも評議員になった。
詳細は今後に委ねるが、まさに驚天動地の一日であった。
総会・懇親会には、小生の他、鴎座からは日野百草・川崎果連・高橋透水・渡辺すみれ・岡崎久子などが参加。
懇親会の勢いでさらに三次会は、池之端の割烹松浦に雪崩れて、上田桜(新・出版部長)、白石正人を加えて痛飲することとなった。
ちなみに小生はひきつづき参与を仰せつかった。
https://s-furyu.jp/news/20210314/ 【「語り継ぐいのちの俳句」展 ギャラリートークがおこなわれました】より
「語り継ぐいのちの俳句」展2021 3月14日
ギャラリートーク 高野ムツオ氏×永瀬十悟氏
俳人 高野 ムツオ氏
1947年 宮城県生まれ。
金子兜太、佐藤鬼房に師事し、2002年『小熊座』主宰を鬼房より継承。句集『萬の翅』により第48回蛇笏賞受賞。現在、日本現代詩歌文学館館長、河北俳壇選者。
俳人 永瀬 十悟氏
1953年 須賀川市生まれ。
20代で「桔槹」に入会。2003年第56回福島県文学賞。2011年第57回角川俳句賞受賞。2019年句集「三日月湖」により第74回現代俳句協会賞を受賞。
ギャラリートークは、高野氏が平成16年に牡丹焚火俳句大会講師として須賀川市を訪れた思い出話から始まりました。
未曽有の天変地異は、俳句をはじめとした文学にも大きな影響を与えました。被災者でもあるお二人は体験を丹念に掬い上げ言葉に刻んできました。
写真と俳句のコラボレーションは、仙台文学館から「震災の様々な行事の中で、毎年伝えていこう」という一環で始まったそうです。
〇なぜ震災の時、俳句をつくったのか
どこでどのように生きているか。その瞬間を留めるために「伝えるのは自分、読者は自分」他者へ伝える意識よりも「私もいた。いたことがある」思いの共感となればとお話しされました。
〇写真について
写真家の佐々木隆二さんが句に合わせて雪の写真をとるために、ふさわしい雪を待ち、喜び勇んで山で撮ったこと。俳句と写真の間にズレがあるぐらいがよく、読み取る面白さがあると説明されました。
〇俳号について
高野氏 「当時、父親のゆうじ(俳号・夕二)って名前はかっこいいですね。こんな自分だけかっこいい名前つけて、息子に睦夫なんてダサい名前つけて。睦まじい夫と書くんだからね。中学生、高校生の頃はヤですよ。もっと勇ましい名前をつけてくれよと」
(会場から笑い)
永瀬氏 「先生。カタカナに俳号されましたけど、珍しいですよね」
高野氏 「俳号をつけようと考えて。どうも上手くいかない。親父に相談したら、だったらカタカナという手もあるぞと」
高野氏 「結構みんなが目立つと言ってくれて。良かったかな。そういう流れの中でカタカナのムツオが生まれました」
https://gendaihaiku.gr.jp/column/1780/ 【三月十日も十一日も鳥帰る 金子兜太 評者: 高野ムツオ】より
この句の発表は十月だから、震災の悲劇に直面しての即吟ではない。むしろ、この時間認識は災禍から一年以上を経た今の思いとして読むべきもののように感じられる。私は、角川「俳句」三月号の小澤實との対談で、この句の三月十日は震災の前日、つまり、何事もなかった平常時、そして、十一日は予想だにしなかった悲劇に見舞われた日、その変転の二日を並べたものとして鑑賞した。渡り鳥にとっては、人間が平穏無事の日も大被災の日も、なんら関わり合いがない。いずれも人間以上に生きることに必死の日々なのである。そして、その必死の日々を当然の日常として生きてゆく鳥への畏敬の思いの句であると鑑賞したのである。
雑誌が発売になってまもなく、読者から一葉のはがきが舞い込んだ。その人の鑑賞では、この三月十日は東京大空襲の日ということであった。殊に当時の体験者には、それ以外には読めないとも記されてあった。なるほどと頷いた。そうであれば、十日、十一日は人間が引き起こした災禍の日。そうした人間世界とは関わりがなく、渡り鳥は渡り鳥として日々生きているということになる。
どちらの読みをとっても、句にこめられている批判精神の高さは損なわれることはないだろう。私が前者に読み、はがきで教示してくれた人が後者の読みとするのは、たぶん、それぞれが生きてきた時間や時代の相違ということになる。それが鑑賞にも反映したのだ。ちなみに作者の金子兜太はどちらだったか。仄聞したところでは、どうやら後者の方であるようだ。
出典:「海程」(平成23年10月号)評者: 高野ムツオ 平成24年5月21日
第三百七十一日 金子兜太の「鰯雲」の句
今日、埼玉県寄居にある父母の墓参りをしてきた。秩父が好きな父が墓所を求めたのは、当時練馬区に住んでいて関越自動車道を走れば、元気な頃は簡単に秩父へも遊びに行けるし、遺された者にとって墓参りにも行きやすいと考えたからだ。だが、娘夫婦は茨城県に転居し、ハイウェイ3つ通っての墓参りとなった。
久しぶりのドライブの小春の空の美しいこと、11月なのに春霞のごとく地平線がおぼろで、秩父の山々のうっすりとした連なりは墓参りに相応しい柔らかさで迎えてくれた。
秩父と言えば、金子兜太先生を思い出す。版を重ねた『子ども俳句歳時記』の出版においても助言を頂き、監修をお引き受けくださった。夫と一緒に秩父札所巡りをした折に、金子兜太氏の故郷の皆野町を通ったこともある。
鰯雲故郷の竈火いま燃ゆらん 『少年』
(いわしぐも こきょうのかまどび いまもゆらん)
小さな鱗が1団となってだんだんだんと大空を動いてゆく「鰯雲」の姿は、昔のことを思い出すとき、細々した心の揺れを託したいとき、じつに相応しい季語である。
句意は、鰯雲を見ているとき、故郷の秩父では今頃は、竈の火が勢いよく燃えているだろうとなる。鰯雲の季節は、寒さに向かう頃だから、作者はふっと竈の火の温さと赤い色を思い出しているのであろう。【鰯雲・秋】
朝日煙る手中の蚕妻に示す 『少年』
(あさひけぶる しゅちゅうのかいこ つまにしめす)
昔は、農業の合間に秩父地方にかぎらず蚕を飼っている家は多かった。埼玉の寄居も秩父地方も桑畑をよく見かける。
まだ太陽が煙るような朝、二人の朝一番の仕事が、桑の葉を採ってくることと蚕の棚に桑の葉を敷き詰めて蚕たちに食べさせることだ。一つ手に乗せて、夫は妻に白いふにゃっとしたイモムシのような虫を見せた。妻が「きゃっ」と叫んだかどうか。
「示す」は、ただ「見せる」というよりも、「ほら、これが、かいこだよ」と、教えていることになる。新婚の頃の兜太氏と奥様の皆子さんであることが伝わってくる。【蚕・春】
沼は夕焼溺死の話佇ちたるまま 『秀句三五〇選 死』
(ぬまはゆうやけ できしのはなし たちたるママ)
句意は、沼は今夕焼けている。その沼で溺死事件があったのだろう、人が集まってきて、佇ったままあれこれと噂している。これは、実際にあったことをそのままに詠んでいる。金子兜太の俳句として、造型もせず、飛躍もせず、見たままを詠むのは珍しいとも言える。
だが、『秀句350選 死』の編著者の倉田紘文はこう書いている。
「ここでは、その何もかもがありのままに詠われているのであり、そのありのままであること自体が哀しいのである。
人の世のことに一切かかわりもなく、自然が自然として美しいのが哀しいのである。」と。
この俳句が好きという場合、「ありのままを詠んでいるから好き」という感想もある。それを説明してしまうと、描写の上手さということになるかもしれない。【夕焼・夏】
どれも口美し晩夏のジャズ一団 『蜿蜿』
(どれもくちはし ばんかのじゃずいちだん)
「どれも口美し」を、なかなか理解できなかった。私は、「美し」を「うまし」と読みたいが、川名大氏は「はし」と読むのがよいという。
ジャズを演奏する楽器は、ピアノなど鍵楽器、ドラムなど打楽器、フルートやトランペットなどの管楽器、ハープや竪琴などの弦楽器など様々である。
ジャズを演奏する人たちは身体全体を使って表現しているが、私の世代は、日野皓正のトランペットの吹き方に魅了されたものだ。フルートもドラムも好きだが、ジャズ演奏の、口元でリズムをとる「口美し」の表現がすごい。それを「うまし」としたかった。
「どれもくちうまし ばんかの じゃずいちだん」と、口ずさみたかった。
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