蘇我入鹿が暗殺されたほんとうの理由

https://shisekinavi.com/yamadaderaato/ 【山田寺跡|飛鳥時代の巨大寺院。創建した蘇我石川麻呂の壮絶な人生とは?】より

中門・塔・金堂が一直線に並ぶ伽藍

山田寺は、古代の阿倍山田道(奈良県道15号線)の沿線、ちょうど明日香村の入口に当たるところに建立されました。現在、堂宇の基壇が復元されるのみですが、かつてここには飛鳥時代の巨大な寺院があったのです。

山田寺|橿原市藤原京資料室(復元模型)

南側から撮影した図。北東から南西する道が阿倍山田道。

遺跡へは北側から入るように通路が設計されていますが、ここは南側に回り込み、南門跡から境内に足を踏み入れてみてください。というのも、山田寺の特徴はその伽藍配置にあるからです。

写真下側から参道跡、南門跡、中門跡、塔跡、金堂跡、講堂跡。

この寺院の特徴は、中門、塔、金堂が南北に一直線に並んでいる点です。南門と中門をくぐると、目の前には塔(五重塔と推定される)がそびえたち、その背後に金堂が腰を据えていました。塔は3間×3間の通常の柱配置で、五重塔と推定されています。金堂は3間×2間ですが、庇の柱配置が一般的な金堂と異なり、飛鳥時代の中でも古い様式とのこと。

中門・塔・金堂が南北に一直線に並び、中門から東西に延びる回廊が金堂の背後で閉じている。

中門、塔、金堂が一直線に並ぶ伽藍配置は大阪の四天王寺とよく似たものですが、回廊の取り囲み方が異なります。四天王寺の回廊は中門と講堂を結んでいますが、山田寺では中門から延びた回廊は講堂には取りつかずに金堂の背後で閉じられていて、内部空間の独立性を高める狙いがあると見られています。この伽藍配置は「四天王寺式」と区別して「山田寺式伽藍配置」とも呼ばれます。

右手に見える土盛りは塔跡。

左手に見える土盛りは金堂跡。金堂の背後で回廊が閉じている。

回廊は単廊で、東側の回廊が運良く綺麗な状態で出土したため保存処理されたものを近くの飛鳥資料館で見ることができます。これは現存最古の木造建築である法隆寺よりも古い建築様式を伝える貴重なものです。柱上の大斗などが法隆寺とは異なるようで、この時代の建築様式が多様であったことを示しているそうです。

東回廊部材|飛鳥資料館(重要文化財・飛鳥時代)

講堂跡には明治時代になって観音堂が立てられていますが、飛鳥時代当時の礎石や地覆石が残っています。

蘇我倉山田石川麻呂の壮絶な人生

山田寺の発願者は蘇我倉山田石川麻呂です。あまり知られた人物ではありませんが、飛鳥時代の重大事件にも関与し、右大臣にまで出世したほか、孫娘の2人が後の女性天皇となるなど、実は飛鳥時代のキーパーソンなのです。ちなみに名前については、「蘇我倉山田石川」までが姓で、「麻呂」が名に相当します(通称「石川麻呂」)。姓に「蘇我」を含むことからも分かるように、蘇我馬子の孫で蘇我氏傍流の一族にあたります。

蘇我倉山田石川麻呂家系図

父である倉麻呂は石川麻呂と同一人物ではないかとも言われている。

石川麻呂が政治の表舞台に登場するのは、中大兄皇子(のちの天智天皇)によって蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺された乙巳の変(645年)のときでした。石川麻呂は蘇我氏本宗家である蘇我入鹿と対立していたようで、中大兄皇子から誘いを受けて暗殺に加担し、決行の日も入鹿の注意を逸らす重要な立ち回りを演じました。この変によって蘇我氏本宗家が滅亡した後、大化の改新政権では右大臣にのぼり、石川麻呂は政治の中枢に踊り出ます。さらには娘2人を中大兄皇子の后へ送り込み、天皇家とも深い関係を築いていきました。

金堂跡|南側から撮影

しかし、649年に事態は急変し、石川麻呂は中大兄皇子から謀反の嫌疑をかけられ、邸宅に兵を向けられてしまいます。なんとか山田寺に逃げ込んだ石川麻呂ですが、もはやこれまでと悟ったか、兵を出して戦うよう説得する息子を抑え、金堂の前で首を吊って自害しました。石川麻呂を追って妻子8人も殉死したと言います。後に冤罪であることが明らかになり中大兄皇子はひどく悔やんだそうですが、そもそもこの事件は蘇我倉氏を滅ぼすために中大兄皇子が画策した陰謀だとするのが通説です。乙巳の変では共に仲間であり、娘を介しても繋がっていた石川麻呂と中大兄皇子ですが、いつしか2人の間には埋められないほどの溝が広がっていたようです。

山田寺建立の経過とその後

山田寺は建立の過程が判明している数少ない古代寺院の1つでもあります。641年から大規模な造成工事により寺域の整地が始まりました。643年には金堂の建立が始まり、648年には僧が住み始めています。この頃までには金堂や僧坊などが完成していたようです。しかし翌年の649年に石川麻呂が自害したため、造営は中断されました。663年に造営が再開し、塔の建立が始められたようですが、白村江の敗戦、近江遷都、壬申の乱など政治的な環境変化が相次ぎ、進捗は芳しくなかったでしょう。

塔周辺出土塼仏|飛鳥資料館(重要文化財)

塼仏とは仏が彫刻されたタイルで、塔の壁面を装飾した。

蓮華文鬼瓦|飛鳥資料館(重要文化財)

天武天皇の時代になっての673年からようやく塔の心柱が建てられ、676年に塔が完成。678年には講堂の本尊となる丈六仏の鋳造が開始され、685年に開眼供養を迎えました。この年には天武天皇が行幸した記録があり、寺は完成したと見られます。発願から40年以上がたっていました。天武天皇になってから造営がスピードアップした背景には、皇后である鵜野皇女(うののひめみこ。のちの持統天皇)の意向が強く働いていたと見られます。鵜野皇女は天智天皇と遠智娘(おちのいらつめ)の間に生まれた皇女で、石川麻呂の孫に当たります。彼女は祖父の名誉回復と追善を強く希望したのでした。

塔心礎|飛鳥資料館(複製)

こういった背景もあり、山田寺は蘇我倉氏の氏寺でありながら官営寺院と同等の寺格を誇っていたようです。しかし、平城遷都に合わせて多くの寺が平城京内に移転する中、なぜか当地を離れませんでした。やがて記録も少なくなり、平安時代になって藤原道長が訪れて堂内の荘厳さに感動したという記録以降、衰退していったと想定されています。平安時代末期には興福寺の僧侶によって乱入を受け、飛鳥時代に鋳造された丈六仏が強奪されてしまいます。この仏像は室町時代になって興福寺東金堂が被災した際に頭部だけになってしまいますが、いまも興福寺に残っており、国宝館に展示されて飛鳥時代の山田寺を伝えています。


https://www.ritsumei-fubo.com/fudoki/k03/ 【阿倍倉梯麻呂】より

 7世紀前半の皇極朝から孝徳朝にかけて活躍した朝廷の高官に、阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ、内麻呂)という人物がいた。推古16年(608)に来朝した隋の使者・裴世清(はいせいせい)から皇帝・煬帝(ようだい)の国書を受け取った阿倍鳥臣(とりのおみ)の子と推定される。阿倍氏は朝廷の名門貴族で、孝元天皇の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の子孫と伝える。大彦命は崇神天皇の命を受け、四道将軍の一人として北陸に遣わされた。稲荷山古墳出土鉄剣銘の「意富比垝(おおひこ)」という人名も、大彦命に関係するという。

 阿倍氏の本拠は大和国十市郡阿倍(現・奈良県桜井市阿部)で、ここに倉梯麻呂の創建にかかる安倍寺(崇敬寺)跡があり、安倍史跡公園として整備されている。発掘調査の結果、この寺院は法隆寺式伽藍配置をとり、創建年代も倉梯麻呂の活躍した時期に相当する事が明らかになった。近隣には、その流れを汲む安倍文殊院があり、鎌倉時代の仏師・快慶の作にかかり、建仁3年(1203)の銘をもつ国宝・木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像で知られる。倉梯麻呂という名も、同郡倉橋(現・桜井市倉橋)の地名に因むと考えられる。

 『大安寺伽藍縁起』によれば、舒明11年(639)に創建された最初の勅願寺である百済大寺が、子部神の怨みにより焼失した後、夫・舒明天皇の遺命を受けた皇極天皇が改めて造営を命じた際に、阿倍倉梯麻呂と穂積百足(ほづみのももたり)を造寺司に任命したという。平成9年(1997)から同12年にかけて行われた発掘調査で、大規模な塔や金堂の存在が確認された吉備池廃寺が百済大寺である可能性が高くなったが、その吉備池廃寺は、安倍寺跡の西北約600mの地点に位置しており、倉梯麻呂による造営への関与が強く意識される。

 大化元年(645)6月に飛鳥板蓋(いたぶき)宮で起こった中大兄皇子や中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)の後、皇極天皇の譲位により即位した孝徳天皇の朝廷で、倉梯麻呂は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂と並び、左大臣の地位につく。これは左右の大臣が任命された最初の例で、皇太子とされる中大兄皇子や内臣・中臣鎌足らとともに、大化改新と呼ばれる政治改革に携わった。任命に際して、孝徳天皇から金策という金泥で書かれた冊書を賜ったという。

 大化3年、新たに七色十三階の冠が制定され、翌年4月には、推古11年(603)の冠位十二階による冠が廃止されたが、倉梯麻呂と石川麻呂の左右大臣だけは、引き続き古い冠を着した。十二階の冠に加えて大臣の冠とされていたのは紫色の冠で、新制では第3の色とされた。或いは、両大臣のみは古い形の冠を着用し続けていたのかも知れない。

 この年、倉梯麻呂は、四天王寺に比丘・比丘尼等を招き、四天王の像4体を塔内に安置し、釈迦の浄土である霊鷲山(りょうじゅせん)の像を造ったという。現在、四天王寺(現・大阪市天王寺区)の南方に阿倍野という地名が残るが、これは阿倍氏の領地に由来するという説もあり、もしそうであるとすると、四天王寺は古くから阿倍氏と縁の深い寺院であったことになり、厩戸皇子(聖徳太子)や、難波遷都との関係についても、興味がもたれる。

 倉梯麻呂は、大化5年3月に難波京で薨去した。孝徳天皇や中大兄皇子をはじめ、諸卿も嘆き悲しんだという。その直後に、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反の件で粛清される事件が勃発する。倉梯麻呂は娘の小足媛(おたらしひめ)を孝徳天皇の妃としていたが、二人の間に生まれた皇子が有間皇子で、この皇子も、孝徳天皇崩御後の斉明4年(658)、謀反の罪により紀伊の藤白坂で処刑された。悲劇が相次いだのであるが、いずれも、中大兄皇子による謀略と言われている。


https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7622 【蘇我入鹿が暗殺されたほんとうの理由~「日本書紀」に隠された中大兄皇子の謀略】より

山本博文(東京大史料編纂所教授)

伝飛鳥板蓋宮跡

《伝飛鳥板蓋宮跡:皇極天皇の宮殿で中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台》

今年3月29日、63歳で亡くなられた山本博文氏(東京大史料編纂所教授・日本近世史)。92年「江戸お留守居役の日記」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞し、テレビ番組等でも活躍した。

山本氏が上梓した『[東大流]流れをつかむ すごい! 日本史講義』は、古代から現代まで、最新研究を取り入れつつ、歴史の重要ポイントを学び直す一冊となっている。

ここでは同書の一部を抜粋編集し、乙巳の変から大化の改新までの流れを追う。なぜ、蘇我入鹿は殺されたのか。「日本書紀」に隠された中大兄皇子の真の「動機」に迫る。

山背大兄王は抹殺された

推古天皇の後は、押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子が即位して舒明天皇になりました。この時、田村皇子と厩戸王の子である山背大兄王との間で、皇位が争われました。山背大兄王の母は蘇我馬子の娘、刀自古郎女でしたが、舒明も馬子の娘、法提郎媛を娶り、古人大兄皇子が生まれていました。

すでに馬子は没しており、蘇我家の当主は蝦夷でした。蝦夷は、山背大兄王とは仲が悪かったようで、古人大兄皇子の即位を見越して、田村皇子に乗り換えたのだと推測できます。

そのままいけば、舒明の後は古人大兄皇子ということになったでしょう。ところが641年、舒明が没します。山背大兄王という有力な皇位継承者がいたため、古人大兄皇子の即位では合意を得ることが難しく、舒明の后、宝皇女(押坂彦人大兄皇子の孫)が即位して皇極天皇になります。

蘇我氏では、蝦夷の子の入鹿が実権を握るようになります。入鹿は、古人大兄皇子が確実に即位できるようにするため、643年、山背大兄王を攻め、自害させます。『日本書紀』によると、それまでも入鹿は横暴な行動をとっており、この行動には、蝦夷さえ「こんな暴虐なことをやっていたのでは、お前の命も危ないぞ」と叱責したと言います。

ただ、このあたりの『日本書紀』の記述は、疑ってかかる必要があります。蘇我氏は、この後、滅びるので、すべての罪が蘇我氏にかぶせられている可能性があるからです。ここで確かなのは、有力な皇位継承者だった山背大兄王が抹殺された、ということだけです。

乙巳の変の原因は蘇我氏の横暴か

ここで、後の皇統の創始者となる中大兄皇子と摂関家藤原氏の祖、中臣鎌足が登場します。蘇我氏の専横に不満を持っていた二人は、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂も味方に引き入れます。そして645年6月、朝鮮三国が倭王に貢ぎ物を献上する儀式の最中、蘇我入鹿を斬殺します。これが乙巳の変です。

なぜ、このようなことをしたのでしょうか。現在では、国際情勢の変化が重視されています。当時、唐は高句麗遠征を行っており、朝鮮三国でも政変が相次いでいました。こうした危機的な情勢の中、蘇我氏が権力を握っていては半島情勢に迅速に対応することができない、天皇を中心とした新しい政権を作らなければならない、という焦燥感があった、という説です。

確かに背景としては、国際情勢もあったでしょう。しかし、この事件は、もっと直接的な権力争いだったように思います。

中大兄は、父が舒明、母が皇極です。天皇になる十分な資格を持っています。しかし、蘇我氏が異母兄の古人大兄皇子を支持している以上、天皇になれる可能性はほとんどありませんでした。そこで、入鹿を殺し、蘇我氏を滅亡させることによって、その可能性をつかもうとしたのではないでしょうか。

中大兄は、入鹿の罪状として、「天皇に取って代わろうとしたのだ」と皇極天皇に言っています。しかし、入鹿は、斬りつけられた時、皇極天皇に「私が何をしたというのでしょうか」と命乞いをしたということです。天皇や皇族を殺害することはあっても、それは蘇我氏に都合のよい皇族を即位させるためのもので、入鹿に皇位を簒奪しようという気持ちがあったとは考えにくいところです。これも、中大兄が自分の行為を正当化するために言ったことに違いありません。

入鹿が殺された後、蝦夷も自邸で自害し、稲目以降、権力を握ってきた大臣(おおおみ)家の蘇我氏は滅びます。

この後の歴史の推移を見れば、この事件の本質が見えてくるように思います。

皇極天皇は、中大兄に譲位することを伝えますが、中大兄は、鎌足と相談して叔父の軽皇子を推薦します。

もし、中大兄が天皇権力の強化だけを目的にしたのであれば、兄の古人大兄を天皇に立てるのがもっとも理にかなっていますが、そうはしませんでした。とりあえず叔父を天皇に立て、古人大兄に皇位を継がせるつもりはないことを示したわけです。

自分が危険な立場にあることを自覚していた古人大兄は、飛鳥寺で剃髪し、吉野に去ります。こうして軽皇子が即位して孝徳天皇になります。

しかし、中大兄は、古人大兄をそのままにはしませんでした。謀叛の企みがあるとして、吉野に兵を出して古人大兄を討ちます。中大兄に協力していた倉山田石川麻呂もまた、中大兄によって討たれます。

654年、孝徳天皇が没すると、皇極天皇が重祚そし、斉明天皇になります。まだ中大兄は即位しません。孝徳天皇の皇子である有間皇子も、皇位継承の有力者だったというだけの理由で、謀叛の疑いがかけられ処刑されます。

このように、中大兄のライバルはすべて抹殺されています。乙巳の変に始まる一連の事件は、中大兄の謀略だったと考えていいと思います。

「大化の改新」の実態とは?

乙巳の変の後、皇太子だった中大兄のもとで行われた国制改革が「大化の改新」です。豪族の私有地・私有民である田荘(たどころ)・部曲(かきべ)を廃止して、公地公民制への移行をめざしたものです。

公地公民制とは、それまで豪族や皇族の支配下にあった土地と人民を国家のもとに置くというものです。人民と土地を把握する戸籍・計帳の作成も、人民に土地を貸し与える班田収授の法も、この改革で定められました。

ただし、『日本書紀』に載せられている「大化改新の詔」は、のちの「大宝令」などによる潤色が多く見られることから、どこまで本当かがよくわかりません。そのため、「大化の改新はなかった」という説もあります。

乙巳の変は中大兄の権勢欲から起こったものだと言いましたが、なぜ権力を欲したかと言えば、こうした天皇中心の中央集権国家を作ろうという強い意志があったからだと説明することができます。有力氏族であった蘇我氏が滅びたのですから、ほかの豪族の権力も削減されていったことは確かで、こうした改革ができる下地はできていました。

中大兄時代の国政改革の実体はよくわからないのですが、天皇中心の国家に向けた動きがあったことは否定できません。


https://www.youtube.com/watch?v=M7lchVsoN2s&t=114s

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