蘇我馬子

https://hugkum.sho.jp/226943 【蘇我馬子はどんな人物だった? 聖徳太子との関係性も学ぼう【親子で歴史を学ぶ】】より

蘇我氏の全盛期を築いた蘇我馬子

「蘇我馬子(そがのうまこ)」は、聖徳太子(しょうとくたいし)と共に、日本史に必ず登場する重要人物です。権力を手に入れるためには手段を選ばない、冷酷非道なイメージを持つ人も少なくありません。馬子は、本当はどのような人物だったのか、聖徳太子との関係も合わせて解説します。

蘇我馬子とは?

蘇我馬子は、いつ頃、歴史に登場し、何をした人なのでしょうか。人生を簡単に振り返ってみましょう。

飛鳥時代に活躍した豪族・政治家

蘇我馬子は、飛鳥(あすか)時代の初期に活躍した政治家です。蘇我家は、代々天皇を補佐する役職「大臣(おおおみ)」を務めており、有力な豪族でした。

馬子も父・蘇我稲目(いなめ)の後を継いで、敏達天皇(びだつてんのう)の代に大臣に就任します。その後、自分と血縁関係のある皇族を天皇にたてつつ、推古(すいこ)天皇の代まで、4代50年以上にわたって政界を牛耳りました。

また馬子は朝鮮や中国の文化を熱心に取り入れ、日本に「仏教」を広めたことでも知られています。馬子が建立した飛鳥寺(あすかでら)は,日本最初の本格的寺院です。

強引な手段を取ることも

馬子は、状況が不利になると、強引な手段を取ることもありました。敏達天皇の後に即位させた用明(ようめい)天皇がすぐに亡くなり、皇位継承問題が起こったときには、ライバル「物部氏(もののべし)」が推薦した皇子を殺害し、自分が推す皇子を即位させます。

その天皇すら、自分の言うことをきかなくなれば、部下に命じて暗殺してしまうのです。推古天皇の代には、天皇の領地を横取りしようとするなど、まるで天皇を下に見るようなふるまいもあったとされています。

墓といわれる石舞台古墳が奈良に

強大な権力を手にした馬子も、626年にその生涯を終えます。馬子の墓は、奈良県の明日香村にある「石舞台(いしぶたい)古墳」という説が有力です。古墳の近くには、馬子の邸宅と庭園があったと考えられる遺構も見つかっています。

石舞台古墳。巨石30個を積み上げて造られ、横穴式石室は露出している。また墳丘は失われているが、大規模な方形墳だったと推測されている(奈良県高市郡明日香村)

石舞台古墳は、石室の封土がなく、入り口が大きく露出しているのが特徴です。封土を取り除かれてしまうのは、埋葬者が人々の反感をかっていたからという考え方もあり、石舞台古墳が蘇我馬子の墓である可能性は非常に高いといえます。

蘇我馬子が行ったこと

馬子の政策により、蘇我一族は全盛期を迎え、日本の文化も大きく発展しました。歴史に残る、馬子の主な活動を紹介します。

丁未の乱で物部守屋を破る

「丁未の乱(ていびのらん)」は、馬子が「物部守屋(もののべのもりや)」を破った戦いです。物部氏も蘇我氏同様、代々天皇を補佐する立場にあった豪族でした。

当時、日本には大陸から仏教をはじめとする、さまざまな文化が伝わっていました。多くの国が信仰している仏教を、日本も取り入れるべきと考えた馬子に、日本古来の神々を大切にしていた守屋は強硬に反対します。

守屋は、国内に疫病が流行したのを仏教のせいだと主張して、馬子が敏達天皇の許可を得て建てた寺を焼き、仏像を捨ててしまいました。しかし、敏達天皇の次に即位した用明天皇は、仏教の公認を望み、多くの臣下もそれに賛成していることを知ります。

危機感を覚えた守屋は、用明天皇の即位に不満を持っていた皇子を味方につけ、彼を次の天皇にしようと画策します。守屋の動きに気付いた馬子は、先手を打って皇子を殺害、大軍を率いて別荘にいた守屋を襲い、物部氏を滅ぼしたのです。

飛鳥寺を建立する

物部氏を退けた馬子は、仏教を手厚く保護します。推古天皇の時代には日本初の本格寺院、「飛鳥寺」を建立しました。瓦の製造や堂塔の建設には、朝鮮から呼ばれた技術者が多く携わり、日本の建築技術の発展に大きく貢献します。

飛鳥寺。本尊・銅造釈迦如来像は重要文化財で、日本最古の仏像。飛鳥大仏と称されている(奈良県高市郡明日香村)

付近には天皇の住居が造られ、飛鳥寺は政治の中心地となりました。仏教を通じて、中国や朝鮮との交流も活発になり、学問や芸術も栄えていきます。

新しい文化を受け入れ、保護した馬子の政策により、日本は文明国家の仲間入りを果たしたのです。

聖徳太子との関係は?

聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)は、推古天皇のもとで、蘇我馬子と共同で天皇を補佐したとされる人物です。それまでひとりで政治を動かしてきた馬子にとって、聖徳太子は、どのような存在だったのでしょうか。馬子と聖徳太子の関係を見ていきましょう。

2人の間には血縁関係がある

当時の有力な豪族は、権力をにぎるため、娘を天皇に嫁がせて血縁関係を築いていました。馬子の父・稲目も、2人の娘を欽明(きんめい)天皇の后(きさき)とします。

娘のひとりは用明天皇や推古天皇、もうひとりは用明天皇の后となる皇女を産みました。その皇女と用明天皇との間に産まれたのが、聖徳太子です。

馬子は聖徳太子にとって、父方・母方双方の大おじ(祖母の兄弟)であったのです。聖徳太子は、馬子の娘を妃に迎えており、2人は婿(むこ)と舅(しゅうと)の関係でもありました。

推古天皇のもとで二頭政治を行う

用明天皇の崩御後、馬子は甥(おい)の崇峻(すしゅん)天皇を即位させますが、思い通りにならなかったため暗殺してしまいます。その後を継いだのが、日本最初の女性天皇・推古天皇です。

推古天皇は馬子の姪(めい)にあたりますが、彼の専横を抑えるために聖徳太子を摂政(せっしょう)に取り立て、馬子との「二頭政治」を行わせます。馬子の力を利用しつつも、好き勝手にはさせず、天皇中心の中央集権国家を目指したのです。

摂政になった聖徳太子は「遣隋使(けんずいし)の派遣」「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」「十七条憲法」といった、後世に残る政策を打ち出して実績を上げます。

しかし聖徳太子が亡くなると、馬子は再び権力を独占して、蘇我氏の勢いを強めていきました。孫の「入鹿(いるか)」の代には、天皇をしのぐといわれ、これが後の「大化の改新」につながるのです。

蘇我入鹿の首塚。乙巳の変(645年)で、中大兄皇子らに皇極天皇の御前で暗殺された、時の権力者・入鹿の首がここに飛んできたとされる。その後、蘇我氏の凋落が始まる(奈良県高市郡明日香村)

蘇我氏の全盛期を築いた蘇我馬子

蘇我馬子は一族が築いた血縁関係を巧みに利用し、強大な権力を手にします。ライバルとの政争や暗殺による悪いイメージもありますが、当時のトレンドだった仏教を、いち早く取り入れるなど、先見性も持ち合わせていました。

聖徳太子が摂政だった頃には、補佐役に徹し、勢力をしっかりキープしています。長い間、政界トップの座を守り続けた馬子の生き方を、現代を生きる子どもにも正しく伝えてあげましょう。


http://myokenji.o.oo7.jp/about/ 【妙見寺について】より

曹洞宗 妙見寺 妙見寺について

当山の沿革

推古天皇六年(五九八)蘇我馬子の創建と伝えられ、七堂伽藍を備えた大寺であり、河内の国最初の霊場である。

南北朝の乱の兵火で被害を受け焼失するが、寛文年間(一六六一~一六七三)祖浄悦によって再興され、真言宗から曹洞宗に改宗。明治に入り廃仏毀釈運動の煽りを受け、明治六年(一八七三)廃寺となった。

しかし、鎌田誓由らが明治十三年(一八八一)に現在の地に妙見寺を再興し、現在に至っている。

また、南北朝の乱の際、本坊を始め七十二坊伽藍被害を受けたが、不思議なことに観音および妙見の二堂は境内の真ん中にありながら、一点の火も移らず焼失を免れたと伝えられている。

以来、「火伏せの妙見寺」として今日も残っている。

概要

宗派 曹洞宗(禅宗) 山号 天白山 寺院名 妙見寺 本尊 十一面観世音菩薩

開山 蘇我馬子(推古天皇六年)五九八年  本山 永平寺(福井県)、總持寺(神奈川県)

住職 畑 辰昇

開山・本尊・寺宝紹介

開山 蘇我馬子(そがのうまこ)

蘇我馬子は飛鳥時代の豪族。摂生・皇太子となった聖徳太子と共に政治の中枢となり、初の女帝である推古天皇を擁立した。崇仏派(仏教受け入れ派)であった馬子は廃仏派(仏教反対派)の物部氏を滅ぼし、仏教が日本に広まるきっかけを作った。

本尊 十一面観世音菩薩立像

(じゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)

本尊の十一面観音立像は十一の顔を持ち、それらを四方に向け、救いを求める人々を常に見ている。深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す観音菩薩。密教の尊格であり、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすといわれます。当山の十一面観音は、奈良にある真言宗豊山派の総本山「長谷寺」の十一面観音様と同木といわれている。 春日佛師作。

難陀龍王立像(なんだりゅうおうりゅうぞう)

海や水をつかさどることから航海の守護神や雨乞いの本尊とされる八大竜王の一つです。ナンダは「歓喜」という意味で人々の願いに応じて風雨を調えるといわれます。

雨宝童子立像(うほうどうじりゅうぞう)

福を得て災いを除くという。頭上に5輪塔を載き、右手で金剛宝棒を突き立て、左手に宝珠を捧げ持って立つ童子形の姿で表わされ、神仏習合によって日本で創作された尊像である。

真言系の両部神道では大日如来の化身とし、また日向に下生した天照大神の姿とされています。

北辰妙見大菩薩(ほくしんみょうけんだいぼさつ)

中国で北極星を神格化して生まれた妙見寺信仰の象徴であった妙見菩薩。

童顔の武将仏で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物)に乗り、唐服を着、剣を持つ。

柏巖獨丕大和尚像(はくがんどくひだいおしょうぞう)

妙見寺が曹洞宗に改宗した時の開山様。

輪王寺(仙台にある伊達家九代目政宗夫人の菩提寺)の二十三代目住職。

紀吉継墓誌(国重要文化財)(きのよしつぐのぼし)

日本に19しかない数少ない古代墓誌の一つ。墓誌とは石・専(せん)・金属に故人の姓名・経歴・没年などを記して墓に納めたもの。

陸奥守鎮守副将軍紀広純の娘、吉継の墓誌(七八四年)。

現在は大阪市立美術館に安置。

采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)

持統三年(689)天武朝の大弁官であった采女竹良(うねめちくら)が朝廷からもらった古代の墓域を示す石碑。

上の資料は拓本(石や金属に彫られた文字や模様を、原形のまま紙に写し取ったもの)であり、現物は古くから妙見寺が保有していたが、明治時代から不明となっている。


https://www.rekishijin.com/15144 【聖徳太子と蘇我馬子は仲が悪かったのか⁉ ─太子の斑鳩移住の真相─】より

聖徳太子は一説によれば、同時代に活躍した豪族のひとりとして知られる蘇我馬子(そがのうまこ)と対立関係にあったといわれている。推古9年の斑鳩宮の造営は、その対立が原因で、関係悪化の結果として斑鳩の地に移ったともいわれるが、実際にはどんな関係にあったのだろうか?

斑鳩(いかるが)は内陸の飛鳥より外交に適した場所だった

法隆寺夢殿

奈良時代に建立された八角円堂。堂内には、聖徳太子の等身像とされる救世観音像が安置されている。国宝。

 推古9年(601)2月、聖徳太子は斑鳩(いかるが)宮の造営を開始した。4年後には飛鳥からそこに移り住んだとされる。

 聖徳太子の移住の理由は、蘇我馬子との対立にあったといわれる。推古の即位と同時に皇太子として政治に参画するようになった彼が、大臣の蘇我馬子と対立を深め、ついにその闘争に敗れた結果、飛鳥から離れた斑鳩の地に隠遁(いんとん)したのではないかといわれてきたのである。

 しかし、このような見方は疑問である。なぜならば、先にみたように、太子が推古の即位にともなって直ちに皇太子に立てられ、政治の枢要(すうよう)に関与するようになったとは考えがたいからである。当時20歳前後とみられる彼が政治に参画するようになったのはこれ以後のこととみなければならない。

 聖徳太子が政権に加わるようになったのは、むしろ斑鳩宮の造営前後と考えるべきであろう。

 聖徳太子のような有力な皇子は、一定の年齢になると独立した宮殿を営むことがみとめられ、その王宮の経営・維持の費用を供する経済基盤があたえられた。太子が斑鳩宮の造営を始めた時にはすでに30歳近くになっていたから、これ以前に独立した王宮を営んでいたに違いない(所在地は不詳)。

 太子が新たに斑鳩の地に宮殿の造営を始めたということは、彼の地位・身分が上昇し、新たな使命をあたえられ、それに即応した王宮の造営が必要になったことを物語る。

 斑鳩は飛鳥の北方約20キロに所在する。そこは内陸の飛鳥よりも陸路・水路を通じて中国や朝鮮半島に直結する難波津(なにわづ)へのアクセスに便利であった。太子が飛鳥ではなく斑鳩の地に新たな拠点をもうけたということは、彼にあたえられた役割がいわゆる外交であったことを示すといえよう。

 斑鳩は権力闘争に敗れた太子の隠棲(いんせい)の地などではありえず、太子の活躍はこれ以後に始まるのである。

 以上のように考えるならば、太子と馬子が対立関係にあったという痕跡はみあたらない。

 また、太子は蘇我氏の血を色濃く受け継いだ皇子でもあった。

 聖徳太子の両親はともに欽明天皇の皇子女であったが、母親が違った。聖徳太子の父・用明天皇の母は堅塩媛(きたしひめ)。太子の母・穴穂部間人皇女の母は小姉君(おあねのきみ)であった。堅塩媛も小姉君も蘇我稲目のむすめであったから、聖徳太子のからだには父方からも母方からも蘇我氏の血が濃厚に受け継がれていたのである。

 このことからも、聖徳太子は、むしろ蘇我氏と利害を共有するところが多かったとみなすべきであろう


https://www.rekishijin.com/13697 【上宮王家滅亡の理由を探る③ ~ 蘇我氏期待の星 聖徳太子一族はなぜ滅びたのか?】より

[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #034柏木 宏之

聖徳太子の跡継ぎ山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)は従弟の蘇我入鹿(そがのいるか)らに滅ぼされた。山背大兄皇子の母親は入鹿の父親である蘇我蝦夷(そがのえみし)の妹、刀自古郎女(とじこのいらつめ)で血縁は深い。いったい何があったのか? 一切記録に残されていない、その動機を探ってみる。

田村皇子を次期天皇につけた蘇我蝦夷

上宮王家のみを滅ぼし焼かれなかった斑鳩・法起寺/柏木撮影

 西暦622年に聖徳太子が亡くなりました。628年には推古天皇が崩御します。その2年前に大臣蘇我馬子も亡くなっていました。蘇我蝦夷と入鹿親子の時代になります。

 崩御間際の病室に、次代を担うであろう田村皇子(たむらのみこ)と山背大兄皇子が呼び出されますが、推古天皇は「次はあなたが即位しなさい」とは言いませんでした。それもそのはずで、大権力を持つ蘇我氏の意向が重要ですから、推古天皇は二人の皇子に天皇となった時の注意事項を申し渡しただけでした。

 大臣蘇我蝦夷は田村皇子を次期天皇に就けようと考えていた節があります。

 そこで、何事にも正直で曲がったことを嫌う山背大兄皇子は、「私が天皇から聴いたことばとずいぶん違うことを大臣はおっしゃっているようだ。その時、病床にはこれこれという人がいて、皆が聞いている言葉だ。」と何度も使いを伯父の蝦夷に送って問い詰めます。

 あまりのしつこさに蝦夷は「体調が思わしくないので」と使いに会うこともしませんでした。

 そして田村皇子が34代舒明(じょめい)天皇として即位したのです。

 有力な即位候補者が複数いた時は、必ずそれぞれを推す有力豪族が対立します。この時もそうでしたが、大臣の絶対権力で舒明天皇が即位したといってよいでしょう。西暦629年のことでした。

上宮王家の山背大兄皇子が皇太子候補に挙がるが‥

 この時の大和国を取り巻く政治環境や国際環境、豪族関係を簡単にいうと、大臣の位を親子で独占世襲する蘇我本宗家は同族の間でも憎まれ始めていますし、朝鮮半島では蘇我氏が支援してきた百済がいよいよ劣勢になって来ます。

 そして舒明天皇の皇太子は誰なのか? という問題もすぐに持ち上がります。

 大臣蝦夷は自分の甥にあたる古人皇子(ふるひとのみこ)を皇太子にしようとしますが、やはりこの時も聖徳太子の跡継ぎである山背大兄皇子が候補に挙がります。

 ここからが私の妄想を土台にした想像と推理を展開することになりますのでお許しください。

 上宮王家と呼ばれる聖徳太子の一族は、相変わらず重要拠点の斑鳩に宮を置いています。

 上宮王家を尊崇し支持する豪族も数多くいます。

「皇太子だった聖徳太子さまの跡継ぎである山背大兄皇子さまこそ即位あそばされねばならないではないか! それなのに大臣蘇我氏の横暴は目に余る。かつて田村皇子(舒明天皇)と皇位を争った時、蘇我蝦夷殿は自分の意のままに田村皇子を皇位につけた。そして今、その皇太子に古人皇子を指名しようとしている。まさに皇統を汚す行為ではないのか!」

 と、上宮王家の山背大兄皇子を推戴(すいたい)する豪族集団が思ったかもしれません。

「こうなれば、飛鳥川の流れを実力封鎖して斑鳩の地の怖ろしさを味合わせてやろうか…。」

 などと誰かがつぶやいたりすると…。しかもそれが本当かどうかは別にして、入鹿が疑念を持ったとすると…。これは謀反の大罪ということになります。

『日本書記』などには一切記述がありませんが、私はそのようなことがあったのではないかと強く疑っています。

 蘇我入鹿に指令された上宮王家襲撃隊は、宮は焼きましたが斑鳩の寺には手を付けていません。つまり上宮王家殲滅(せんめつ)のみにターゲットを絞っているのが明確です。

 この時代は、担ぎ上げられる候補者その人を抹殺する方法が常套手段のように頻繁に起こります。

 …などと妄想を逞しくすると、謎がするすると解けるような気がするのですが…。

 これが上宮王家殲滅の動機と背景だったと私は考えています。


https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/201212010000/ 【聖徳太子と田村皇子】 より

 第30代の敏達天皇の後、わずか在位2年で病没した第31代・用明天皇、次いで在位5年で暗殺された第32代・崇峻天皇、そして最初の女帝となった第33代・推古天皇まで、皇位は4人の兄妹間で引き継がれましたが、次代の天皇は『十七条憲法』を作り、法隆寺を建立するなど、人望のあつかった用明天皇の第2皇子の聖徳太子が有力視されていました

 ところが推古天皇が75歳とご長命であったため次の天皇となるはずの聖徳太子が49歳で先に薨じてしまい、そのため皇位の継承が問題になりました。聖徳太子の子の山背大兄(やましろのおおえの)皇(おう)子(じ)と敏達天皇の孫の田村皇子が次の天皇の候補となったのですが、推古天皇は崩御の前に田村皇子を枕元に呼んで「謹んで物事を明察するように」と諭し、山背大兄皇子(じ)にも「他人の意見を納(い)れるように」と誡めただけで継嗣を定めなかったのです。

 「次の天皇を誰にすべきか」大臣たちの意見が伯仲するなか、蘇我蝦夷は田村皇子に意見をまとめ上げました。これには蘇我蝦夷が自分の権勢を振るうための傀儡にしたという説と、他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説があります。いずれにしても田村皇子が即位し、第34代・舒明天皇となりました。田村皇子はもし聖徳太子の急逝がなかったら、天皇になれなかったのかも知れません。

 ところが不思議なことに、田村皇子は日本書紀にその出自や経歴の一切がないそうです。しかし万葉集には、舒明天皇になられてからの御製が2首収められています。

 ところで田村と言われれば、やはりこの地に住む以上気になる話です。この田村皇子の名がどのような経緯で付けられたのかを調べてみましたら、母の糠手姫(ぬかてひめ)の幼名が田村皇女(たむらのおうじょ)であったからとされていました。それでは、この糠手姫の田村の名がどのような事情で付けられたのかを調べてみましたが、それは分かりませんでした。

 この田村の名ですが、後の時代になりますと征夷大将軍・坂上田村麻呂にその名が出てきます。田村という文字には、何か特別の重みでもあったのでしょうか?

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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