https://blog.goo.ne.jp/hakuhoda/e/2e3e7f66791bb8659f68d81069e244db 【経文『四弘誓願』には村上春樹の現代語訳もあったのだ】より
「四弘誓願」 伊藤比呂美訳
ひとびとはかぎりなくいます。きっとすくいます。(衆生無辺誓願度)
ぼんのうはつきません。きっとなくします。(煩惱無尽誓願断)
おしえはまだまだあります。きっとまなびます。(法門無量願学)
さとりはかならずあそこにあります。きっとなしとげます。(仏道無上誓願成)
2月はお釈迦さまの涅槃会(ねはんえ=15日)の月です。涅槃とは、宗教学者の山折哲雄氏によれば、「サンスクリット語でロウソクの火が燃え尽きてすーっと闇の中に消えていくこと」。つまり釈尊が消えるように80歳で入滅された日です(紀元前383年=異説あり)。だから、2月のことばは仏教の基本に立ちかえりました。『四弘誓願』です。「衆生無辺誓願度 煩惱無尽誓願断 法門無量願学 仏道無上誓願成」。朝のお勤めなどの最後に読む経文で、仏教徒の誓いです。宗派によって多少異なるようですが、これは臨済宗でよまれている四句です。
そう難しい漢字はないから、原文のまま示してもわからないでもないけれど、それでは工夫がない。よい訳がないかと探しました。現代語訳が添えられている経本もあります。でも、何だか面白くない。と思っていたら、なんと作家の村上春樹が訳していました。村上氏が翻訳した、J.D.サリンジャーの小説『フラニーとズーイ』に「四つの偉大な誓願」としてつぎの一節があります。
「いかに無数の人がいようと、彼らを救うことを誓います。いかに無尽蔵に情念が存在しようと、それらを消滅させることを誓います。いかにダルマ(仏法)が広汎なものであれ、それを修得することを誓います。いかに仏陀の真理が比類なきものであれ、それを会得することを誓います」小説のなかのフレーズで、英語から日本語への翻訳だから街角の伝道掲示板に書くには長すぎる。
ならば、あの人が訳していないだうろか、と探したのが詩人の伊藤比呂美氏です。 比呂美氏は平成に入ってから、『良いおっぱ悪いおつぱい』(集英社文庫・1992年)なんて衝撃的な詩集を出した後、ご両親の介護と死をとおして、仏教に接近します。山折哲雄氏との共著『先生!どうやって死んだらいいですか』(文藝春秋社)で次のように言います。
「お経って言葉でしょう。いろんな人が命をかけて伝えてきた素晴らしい詩だということが、こうやってお経のことを勉強してみると、ほんとによく分かるんです。まあ、読経する人たちは意味を勉強したからお坊さんになれたわけですけど、おもしろいんですよ!という熱意が伝わってこないことが多すぎる。聴いてる側のことなんかはおかまいなしに、ただくり返しているように見える。それが、なんともやりきれなくなってくるんです」。
胸にズシンと刺さる言葉です。そんな詩人が訳した四弘誓願を釈尊涅槃の月のことばとしました。伊藤比呂美著『読み解き「般若心経」』(朝日文庫)の「あとがきにかえて」に「以下、勝手にアンコール」と題して、掲載されていた「四弘誓願」比呂美訳です。
「誓願」を「きっと」と訳したリフレインが心地良い。そして、句末の「さとりはかならずあそこにあります」は禅そのものだと思うのです。
http://www.tobifudo.jp/newmon/okyo/siguseigan.html 【四弘誓願 しぐせいがん】より
■四弘誓願は仏教を信ずる者として、まず誓うべき四つの基本的な誓いです。
■独自のものがあれば、これに足してゆくことになります。
1.衆生無辺誓願度しゅじょうむへんせいがんど たくさんの人が幸せになれるように勤める。
2.煩悩無尽誓願断ぼんのうむじんせいがんだん 尽きる事のない煩悩を無くす。
3.法門無量誓願学ほうもんむりょうせいがんがく 壮大なお釈迦様の教えをすべて学ぶ。
4.仏道無上誓願成ぶつどうむじょうせいがんじょう 最上の悟りを得て仏様と同レベルに達する。 ※四弘誓願の語句は多少の相違があります。
他人のために
誓願はサンスクリット語でプラニダ-ナといいます。元の意味は「前に置く」で、修行を始める前に誓いを立てることです。どのような誓いでも構いませんが、基本的に他人の為(利他)でなければなりません。
誓いが出来たならば、いよいよ修行です。修行は他人の為になる行いをすることです。もし自分の為ならば、それは修業と書きます。
人の為に努力するうちに、知識がついたり、技術を得たり、迷いが無くなったりします。これが御利益で、利他に専念すると、いつしかそれは自利につながるところが、四弘誓願を始めとして仏教的誓願の特徴です。
時代と共に煩悩は変わります。
自分の事だけを考えても、子供の時、学生の時、社会人になった時、親になった時、それぞれ望の内容が変わったはずです。そして自分と親、あるいは子供と比較した時、同じ年頃でも望の内容が異なっているはずです。
常に自分以外の人の煩悩を理解しようとすれば、自然に自分自身の煩悩の解決方法が見えて来るはずです。利他は自利につながるのです。
仏教への入り口 "法門"
十人十色、人それぞれお釈迦様の教えを理解する方法が異なります。そこで色々な仏様や宗派があるのです。自分の理解の仕方を絶対として、他を非難することは良くありません。他宗の教えを知ることで、自分の理解もより深まるのです。
仏様と同レベルになろうとすることは大変なことです。脇目もふらず、ひたすら歩めば到達できるかも知れません。しかし、それでは皆と離れてしまいます。
技術の世界と同じです。一つだけ進歩しても実用になりません。全体の技術レベルが向上して、はじめて役にたつのです。
自分だけでなく、皆と一緒に少しづつでも良いから、仏の道を歩むことが大切です。
https://www.engakuji.or.jp/blog/28286/ 【四弘誓願文の実践】より
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。仏道というのは、毎日我々が読んでいるあの「四弘誓願文」の実践に他なりません。これが修行の根本です。修行道場にいる間
だけなのでは決してありません。
「衆生無辺誓願度」生きとし生けるもの、命あるものの悩み・苦しみは限りがない。その限りない悩み・苦しみを自分は、誓って救っていきたいと願う。これが仏道であれば、これでいいということはありまえせん。
人々の悩み・苦しみが尽きることのない限り、私達の修行も尽き果てることもありません。ですから、大勢の人の悩み・苦しみに真摯に耳を傾け、謙虚な気持ちをまず持たねばなりません。「煩悩無尽誓願断」あらゆる悩み・苦しみの根本は煩悩であります。その煩悩のおおもとは{自分さえよければいい}という思いです。
お互いが自分さえよければいい、楽な暮らしができればいいと安易なことに手を出したとしたら、そこで反省をすべきであります。
「法門無量誓願学」問題があるときに、どういう原因でそうなるのか?
やはり学ばなければならない。いろんな立場があって結構なんです。 「仏道無上誓願成」生きとし生けるものがみんな楽しく安らかに それぞれがそれぞれ、生き甲斐をもって命を活かせていけるような 世の中の実現を目指します。
この4つの願いが仏道のすべてであります。この仏道の為に自分の身を捧げて修行をするのであります。
単蒲団(坐禅用の蒲団)の上で、眠たいから眠ってしまう、嫌だから余計な雑念・妄想の中に逃げ込んでいてどうして仏道の実践ができますか?
単布団の上、身を捨てて無字三昧にならずして、己を捨てて人の為に尽くしていく四弘誓願文の実践がどうしてできますか?
根本は一つであります。蒸し暑かろうが、足が痛かろうが、辛かろうが己を捨てて成り切ってくださいますように。
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