https://takeandbonny.tumblr.com/poetics37 【「甦る詩人たち」 立原道造論⑦詩への跳躍について】より
夏がいつの間にかやってきて、今朝も小さな庭に住み着いた野良猫が蝉を生け捕りにし、羽だけを残してその胴体をむしゃむしゃと食べ尽くすのを見ると、詩人とは、詩とは、この喰われる蝉と残された羽のごときものではないか……などと、妙な考えにとらわれはじめた。
実は3月11日以降この連載を以前のように定期的に書き続けることができなくなったが、それはこれからこの連載がどこへ向かうべきかをもう一度見直す必要に迫られたためであって、やみくもに「書く」ことより、「読む」ことへ重心を移してみたいという欲求が高まったからである。しかしまた書き始めようと思う。そして一気にこの立原論も最終段階に入る。
街には蒼ざめた人間が白けた花のように生き、娑婆(しゃば)苦にあえいで死んでいく。
だが、誰ひとり、ゆがんだ死人の悲しみをみようとはせぬ。
人々のやさしい微笑が、名前のない不安の夜に強いて奇態な表情にゆがめられるのをすこし
も知らぬのだ。 彼らは苦役に身をさらしながら、 無意味な事物にずるずる引きずられて
右往左往するのみだ。 彼らの衣服はすでに案山子(かかし)のように枯れ朽ちている。
そして、彼らの繊(ほそ)い手が早くから老い萎びてしまう。
ひしめく雑沓がみじんの容赦もなく ひ弱な、おとなしい人間を踏みつぶす。
すみかのない臆病だが、そっと見え隠れに しばらく彼らのあとについていく。
彼らは百の苛責者の無慙な手にわたされ、 絶えず時の鐘にどなり散らされ、
さびしげに病院の周囲をうろつく。
そして、不安におののきながら ただ入院許可をまっている。
施病院には「死」があるだろう。しかし、その死は 少年のころ、ふと荘厳なこえをきい
た、偉大な「死」ではない。病院にあるのは ちっぽけな「死」……区別のない「死。」
「わたしの死」は未熟な果実のように 汁気のない青い実のまま、どこかの枝に わすれ
られている。
* *
主よ、それぞれの人間に「わたしの死」をあたえたまえ。
愛と意味の切迫した危機に生きる、一個の「生」から、偉大な「死」が実らねばならぬので
す。(尾崎喜八訳)
これはリルケ30歳のときの長編詩集『時禱集』(1905年)からの引用である。この詩集については後に詳細に述べるが、ここに描かれた「偉大な『死』」を詩人は追い求めるが、最終的には20世紀以降の人類はついにそれを果たせなくなったことを悟るのである。延々と続く自問自答のくり返しとも言えるこの詩集は、リルケの作品の中では評価は低いが、現在の私には成熟期の名作『ドゥイノ悲歌』や『オルフォイスのソネット』より、この詩集がしっくりと馴染む。それは私が3月11日以降、似たような場所で逡巡していたからである。
私がこれから書くことの中心はこの「死」である。立原論の最終段階は、結局ここに尽きる。いかに立原がリルケ、堀辰雄の影響下に、自ら幼少より抱えつづけた「死」の想念を、あの整然とした「詩のかたち」、ソネットへと昇華させたかを、詩それ自体をしっかり見つめなおして終えたい。まず立原のソネットの発生の謎を垣間見ることができる興味深い詩を挙げてみる。
或る夜に
初雁のとわたる風のたよりにも
あらぬおもひを誰につたへむ――定歌歌集
私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
矢のやうにかすめ 私らをつつむであらう
夢のやうに……
私らは別れるであらう 知ることもなく
知られることもなく あの出會つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈のやうに
その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ…… ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたのであらう
私らはまた逢はぬであらう 昔おもふ
ねざめの月はあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう
これは第1詩集『萓草に寄す』の詩「またある夜に」の初稿である。昭和10年の夏、掘辰雄、三好達治、津村信夫らと会うために訪ねた軽井沢の油屋旅館滞在中にスケッチブック(角川版全集第4巻所収)に書かれたもので、立原のソネット作成の最初期にあたるものである。詩集に収められた完成稿と比較しても、殆どこの段階で完成していたようみ思える。以下に完成稿を引く。
またある夜に
私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷のやうに
私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出會つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈のやうに
その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ…… (ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)
私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう
この初稿と完成稿との比較は、立原研究者がどこかで試みているであろうが、私はただ一点、この前者と後者を隔てる決定的な違いがあることだけを述べたい。それは前者が「散文の集約」であり、後者が完全なる「詩への跳躍」を示しているということである。例えば前者が形式の上ではソネットとして完成されているにもかかわらず、以下に挙げるようなスケッチブックに走り書きされた様々な散文的思考に引きずられるようにして書かれていることを見ることができる。
「僕と一人の少女が、何のかかはりもなく、おなじ屋根の下にくらしてゐる。秋は澄んで、僕らもし語るとすれば、それは空や雲の氣候の物語や秋草の花のことだけたつた。とほい山のたたずまひを眺めてくらす心は、それだけでよかつた。いつかこのひととも、空に出會う雲のやうに、別れるだらう。知ることもなく 知られることもなく。」
「私は憎まれることが大きらひだといつて、私には誰から愛せられるだけの値があるだらうか。――私の母、あの近くでだけしか見たことのない私をみつめてゐる眼。鮮やかな群靑の空、若々しい夏の白雲。天使のやうな、愚かな弟、それだけが私を愛しそれだけを私は愛する。」
「小さな橋がここから村に街道は入るのだと告げてゐる
その傍の榧の木かげに古びて黑い家……そこの庭に
緊がれてある老いた山羊 可哀そうな少年のかなしげな歡びのやうに
誰彼にとなくふるへる聲で答へてゐる山羊――
いつも旅人はおまへの方をちらりと見てすぎた」
これらの断片のあとにぽつんと置かれている初稿の詩「或る夜に」を読むと、まるでそのソネット形式が散文を吸いこんでいるように思えてくる(実際このスケッチブックは8月から9月という短い間に書かれたものであるから、その詩と散文には心理の重層性があるはずである)。そのように「散文の集約」として読めば、この詩は「叶わぬ恋」を淡く謳った恋の歌であると言える。
たとえば一つ目の散文の断片にある「一人の少女」に思いをはせて述べられた、「別れるだらう。知ることもなく 知られることもなく」という言葉が、そのままソネット第2連に転記されているのが分かる。そしてその「はじめからの別離」の理由は二つ目の断片で述べられている。「私には誰から愛せられるだけの値があるだらうか……私の母……愚かな弟、それだけが私を愛しそれだけを私は愛する。」と。詩人にとって「家族」、特に「母」の巨大な存在は、他者への愛(または欲望)を去勢してしまう。他者は「一人の少女」という名を奪われた人称代名詞へと化し、いつでも「エリーザベト」「アンリエット」……という風に架空のメルヘンの人物に変換可能になる。この詩人特有の「血」に縛られた不能性は、自らの内に芽生えた他者への愛を、まるで親への裏切りであるかのように、すぐさま忘却へと葬る。だから二連目の「私らは忘れるであらう」という詩句はそうした自身の精神構造を、すでに諦めに近い、習慣化されたものであることを物語っている。
ここからソネット三連目の「その道は銀の道」という転調に入るが、これも三つ目の散文にある「緊がれてある老いた山羊」に自己投影した視点への変化と言える。それも「可哀そうな少年のかなしげな歡びのやうに」という表現にあるように、少年は突然老いるのである。しかしこれも必然である。他者への愛を奪われ、常に目の前の現実を過去へと投げ入れ忘却し続ける少年は、すでに老いることを強いられるのである。この老境の精神は、そのままソネット第4連の「……昔おもふ/ねざめの月はあのよるをうつしてゐると」という唐突に時間が飛躍する詩句にそのままつながる(この若年から老境への飛躍的移行は、立原の「死」の想念と深く結びあう重要な詩精神であるのでもう少し詳しく述べたいが、いまは詩篇の分析を先にしてあとで述べたいと思う)。
このように初稿の詩の場合は、散文における心理の流入が、はっきり示されることになる。では、完成稿「またある夜に」は、このように読んでしまったあとに、どれほどの違いがあるのであろうか。見比べれば幾つかの詩句の異同、括弧の導入がみられるだけであるが、まず目につくのは、完成稿で削除されているエピグラフの藤原定歌の歌「初雁のとわたる風のたよりにもあらぬおもひを誰につたへむ」という恋歌である。ここにある「あらぬおもひ」とは「誰にも伝えられない恋心」と解し、「一人の少女」への密かな恋心をこの歌に託しているとみるのが妥当であろう。しかし、前にも述べたように、立原が定家から学んだものが、その言語至上主義的な「人工」の美であることを踏まえれば、この歌を掲げた理由を単にそうした自らの恋心を代弁しているからだけとは言えない。むしろ私は、「一人の少女」以外の「母」「弟」「山羊」などに言及しながら詩人が抱え込んでいる、ある言い表し難い孤絶感、これまで私が立原詩の背後に見てきた「狂気」や「虚無」といった抽象的な負の概念をすっぽりと包む言表が「あらぬ思ひ」であると言える。そして定家のみごとな手さばきでこの「あらぬ思ひ」を風景の中に「風」として具象化させる人工の歌の姿は、詩人の中で堂々巡りに連なる散文的断片を、一気に詩へと昇華させる引き金となっている。言うなれば立原にとって詩と散文の結び目としてこの定家の歌の位置づけはあるのである。しかし完成稿ではこれは切り落とされる。ここに一つ「詩への跳躍」への契機がある。
ここで初稿と完成稿の違いを見てみると、
第1連は2点、「矢のやうに」→「投箭のやうに」、「夢のやうに」→「灰の帷のやうに」、
第2連は1点、「知ることもなく」→「知ることもなしに」、
第3連は2点、「ひとりはひとりを/夕ぐれになぜ待つことをおぼえたのであらう」→「(ひとりはひとりを/夕ぐれになぜ待つことをおぼえたのか)」、
第4連は2点、「また」→「二たび」、「ねざめの月は」→「月のかがみは」、
となる。つまり合計7点の、それぞれの連に均等な形で修正が行われている。ここに詩人は何を意図したのであろうか。
詩を書いた経験のある者ならば誰もが経験するが、ある一語を変えると、予期せぬところの語が変化していく。細部をいじり、作品全体を俯瞰し、部分部分を何度も修正していく内に殆ど原型を留めないところまで変化してしまう。しかしこの過程は単に見栄えとか語呂の良さを整えると云った問題ではない。詩人がはじめ何らかの詩的インスピレーションを受けてノートに書いた初稿段階から、より別の段階への跳躍を志向する。これを先の説明に則れば当初意識にある「散文の集約」の段階から完全なる「詩への跳躍」と言っていい。しかし立原のこの詩の完成までの異同を見ると、初稿から完成稿への跳躍が、極めて均質な形で極力抑えられて成立していることがわかる。これはソネット形式そのものの構造が、はじめから「詩への跳躍」を可能ならしめることを立原は理解していた上で、初稿の段階からソネットを使用していることの証といえる。煩を厭わずもう少し詳しくこの異同について考えてみる。
先ずこの第1連の「矢」がなぜ「投箭」にならなければならなかったのか。これを考えるとこの「投箭」がかすめる「月」に着目しなければならない。そしてすぐに気がつくのは、このソネット全体がこの「月」を軸にして展開されているということである。つまり第1連「月のおも」と第4連「月のかがみ」の対称性である。もういちどここで完成稿全体を引く。
またある夜に
私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷のやうに
私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出會つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈のやうに
その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ…… (ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)
私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう
おそらく立原が最初に手を加えたのは、第1連の「投箭」ではなく、第4連の「月のかがみ」だったと私は考える。初稿では「ねざめの月」であったのが、この変更によってソネット後半は「光」の世界、前半を「闇」の世界、とシンメトリックな明暗構造がはっきりと与えられる。
ここから第1連の「月のおも」を覆うものが「投箭」であれば、単なる「矢」であるより月は複数が飛び交う「投箭」によって暗く覆われることになる。そして3行目の「夢」を「灰の帷」に変えることで第1連全体が暗い灰色の世界となる。
次に第2連の異同を見ると、「知ることもなく」が「知ることもなしに」にだけ変えられているが、これは明らかに第1連の「霧のなかに」と同じ韻を踏むための変化であり、同じモノトーン色を継続させたままこの第2連が灰色の世界と地続きにある効果を与えている。
そして第3連冒頭の「その道は銀の道」での転調は、第4連の「月のかがみ」から照らされた、輝きの世界へ通じる道である。それは立原が憧れたあの中世の、人間存在が「鏡」の作用によって影一つなく照らし出される光のみの世界、人間がいまだ神々や自然と不可分の世界といえばよい。だから次の「(ひとりはひとりを夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)」という括弧の挿入と、その中の「おぼえたのであらう」を「おぼえたか」へと変えた理由は、単にこの詩に一貫している「……であらう」のモノローグの脚韻に変化を与えるためだけでなく、「光」の世界にある「鏡」によって反射され返されてくる詩人自身の声の谺として解することができる。さらに最後の第4連の「また」が「二たび」に変えられることも、「鏡」に反射される生の一回性を強調し、最終行「私らはただそれをくりかへすであらう」という鏡面の中での生の反復性へつなげていく。この「鏡」の中の生の永遠の反復は、題「或る夜に」が、「またある夜に」へと変えられたことにもよく言いあらわされている。
要するに立原は「月」の対称性を軸に、わずか7点の修正を加えることで、現実の「一人の少女」への「叶わぬ恋」をモチーフにした詩から、世界を「光」と「闇」、とに分断したシンメトリー構造を持つ形而上詩へと「跳躍」させたのである。だからもはやこの詩の主語「私ら」は「詩人と少女」という二人を意味するだけでなく、無限定なより不特定多数の「私ら」である(ソネット文法上の主語の複数形については、『ロマーン・ヤーコブソン選集.3、詩学』(大修館書店、1985年)所収のボードレールのソネット分析「猫たち」(レヴィ・ストロースと共同執筆)ですでに指摘されている。ソネットのシンメトリー構造含め、文法上の様々な「決まり事」が持つ意味は、「現実」と「超現実」、「外」と「内」、「経験」と「神話」の「二重化」をもたらすものであるとして、この詩形式の不死性の根拠を示す。また同書のダンテのソネット分析(パオロ・ヴァレシオと共同執筆)、シェイクスピアのソネット分析も精緻を極めているので参照されたい)。
果たしてこのように立原のソネット一篇を取り上げて、「散文の集約」から完全な「詩への跳躍」を成していることを証明したとして、では立原にとって詩はなぜ「形而上詩」でなければならなかったのか、なぜそのためにソネットを選んだのか、とも問われるであろう。この答を考えていくと、立原が他の日本のソネット作者よりも優れたソネットの使い手となれた理由が浮かび上がってくる。
これまでの日本の詩史の常識に照らせば、私たちはソネットに限らず日本語による「音韻定型詩」の試みを失敗とみなしてきた。立原の影響を受けた福永武彦、加藤周一、中村真一郎らの「マチネ・ポエティック」の試みは単なる西洋詩形の「ものまね」であって詩の「形骸化」に過ぎず、無思想の詩であるとするのがいまや通念である。90年代初頭に飯島耕一が再度「定型詩」を復権させようと試み論争となったが、結果的にはモダニズムから戦後詩、現代詩へと連なる「非―定型」の前衛性、いわば「詩の自由」ともいうべきイデオロギーにインパクトを与えることはできなかった。いや立原の時代であってもそうである。大正期の「自由」思想を幼少期に堪能し、萩原朔太郎、室生犀星に相当に入れ込んでいたのであるから、口語自由詩であってもよかったのではないか思われる。例えば明治30年代の薄田泣菫、蒲原有明ら象徴詩人によって試みられたソネットは、難解な「言語実験」の領域を出ないとして、口語自由詩を進める詩人たちから過去のものとして扱われていた。また昭和初期の立原と同時代では中原中也が群を抜いたソネットを書いているが、中也においてのそれはあの自由自在な7・5調のレトリック同様に、ソネットでも「何でもござれ」的な、むしろ「型破り」の詩精神がソネットでは収まりきらない観がある(ちなみに蒲原有明の『有明集』冒頭のソネット群については、むしろ近代の日本語の根本にある「歪み」を露出させた記念碑的ソネットといえる。これについては別途考察せねばならないところであるが、参考になるのはこの定型詩論争の際に提出された瀬尾育生の詩論「ポラリザシオン―定型を生みだし移行させる力」(「現代詩手帖」1990年3月、4月号)、のち詩論集『われわれ自身である寓意―詩は死んだ、詩作せよ』思潮社、1991所収)である。詩とは元来、母語と非母語との間の「振幅」によって成立するため、象徴詩の難解奇異な相貌が、近世までに日本語が抱えていた和語と漢語の間の振幅に加え、近代以降の西欧詩形がもたらした行分けによる振幅が重なることで必然的に生まれたものであるとし、単なる西洋詩形の模倣による形骸化ではないとする指摘は、現在も詩が「日本語」で書かれている以上常に詩の書き手は頭に入れておく必要のあるものである)。
しかしながら立原の場合のソネットは他の詩人たちとは様相が違う。そこには象徴詩が持つ難解性や「歪み」は一見なく、また詩心が収まりきらないような窮屈な印象も与えず、ソネットそれ自体で完結している。むしろ立原はソネット以外では詩人として成立し得なかったとさえいえる。実際、立原のソネットは意味が通らない語と語の「ずれ」や「歪み」、多声性と失語性に満ちていることについては前に述べたが、それさえソネットの幾何学文様の一部へと織り交ぜられてしまっている。これはなぜだろうか。
その理由の一つはよく言われるその「音楽性」にみることができる。ただこれはそのソネットに「音韻」があることとは別のことのように思われる。確かに上の詩「またある夜に」でも、「あらう」「やうに」という韻を繰り返すことによって、音楽的効果を上げていることは確かである(立原詩の「音楽性」については近藤基博の論文「十四行詩の音楽性」(「国文学解釈と鑑賞」別冊「立原道造、至文社、2001所収」が、詩「またある夜に」を含め音律構造に的を絞って明晰に分析している)。しかし私が思うに、立原の「音楽性」とは、その楽譜に似せた詩集の装丁からも分かるように、あくまで「擬音楽」であって、決して実際に朗誦されたり伴奏をつけられて朗読されるためにつくられたものではない。私は実際に音源化されたレコードを昔買って聴いたことがある。誰による演奏と歌であったかは今手元になく忘れてしまったが、私には立原の「詩」はどうしても「詞」にはなれないと思われた。確かに立原はベートーベン、シューマンなど主にドイツ・ロマン派の文学性の強い音楽を愛し、ヴェルレーヌの詩に曲をつけたフォーレの歌曲「優しき歌」はそのまま自らの詩集のタイトルにして晩年に推敲をしていた。このドイツ・ロマン派から生まれたソナタ形式や、リート(歌曲)の形式は、立原のソネット作成には大きく影響したことは間違いないが、それがロマン派の音楽家たちが詩を題材にして「音楽を文学化」させたのとは逆に、詩人が音楽を題材にしてあたかも歌っているように「文学を音楽化」するという精神とは、近いようでいてかなり隔たっている。あのウォルター・ペイターが述べるところの「音楽への憧れ」であったといえばそれまでだが、むしろ前に述べたように、立原には音楽への憧れと同時に、定家同様に世界を言語で埋め尽くしたい衝動、いわば言語至上主義の側面があり、音楽という不可視の捉えどころのない時間芸術を、言語でもって可視化し、「今」の一点に刻印し空間化しようとしたと思われる。(この「音楽の文学化」と「文学の音楽化」については、九鬼周三『文藝論』(昭和16年、岩波書店)所収「文学の形而上学」が参考となる。「音楽が音響芸術であり、文学が言語芸術である限り、時間性格の単層性は音楽の特色であり、重層性は文学の特色である。更にまた声楽が音楽と文学との混合形式であることは言ふまでもないことである。なお、ここに注意を要することは、音楽が音そのものによつて時間の重層性を示さうとする場合には、本来の単層性を否定することによって、自己を文学化することであるのに反し、文学、特に詩が音楽性を強調する場合には、自己本来の重層的性格により、上層の観念的時間を否定することなしに、下層の知覚的時間の音楽性を開示することである。描写音楽の形に於ける音楽の文学化は自己以外の他者となることであるが、文学の音楽化は自己の本質的内奥の発揮にほかならない。何等かの形で音楽を含まない文学は存在し得ない。特に詩にあっては……」云々。この書で九鬼は日本詩における音韻定型詩の可能性について、今読むとかなり強引なこじつけのように万葉から現代にかけてのあらゆる詩にメスを入れて切り開こうとしており、立原のソネットについても触れて、未だ西洋の模倣段階に過ぎないが優れた試みであると述べている。しかしこの書の重要性は音韻定型詩の形式とリズムのさらに向こう側に、詩によって開示される「永遠の今」を見据えている点である。先の立原の詩「またある夜に」における「鏡」の中の「生」の反復性に通じるが、詩の「形而上学」を近代詩史上では吉田一穂と並び最初に明文化した詩論ではないだろうかと考える。そしてこの詩の「形而上学化」が当時の軍国主義国家日本の「神話化」といかに呼応しているかは、あの『新万葉集』への多くの言及でも明らかであるが、その検討は別の機会に譲ることにする)。
つまり立原のソネットは「文学の音楽化」ではなく、むしろ言語至上主義的な「文学の言語化」、さらに言えば「物体化」であり、あの楽譜を模した詩集の装丁、文字の組み方などにそれは反映している。そして詩人自身も、そうした自らの詩の「非音楽性」を明確に把握していた。決して自らの詩は「歌えない」詩であると。
「生涯のひとつの奇妙な時期に、僕の詩集≪暁と夕の詩≫が完成した。風信子叢書第二篇である。僕の憶ひのなかにこの本がイメージとなつて凝りかけた夏の日から今、かうしてひとつの物體になり終へて机の上におかれる冬の夜までに、その短い間に、僕の生は、全く不思議なジグザグを描いた。…(略)…これら意志と寂寥とのほかの場所でうたはれた幾つかのソネツトの喘ぎながらうたひかねてゐるひとつの状態はもう僕のあちらにゐる。…(略)…ソネツト十篇「或る風に寄せて」にはじまり、「朝やけ」にをはる、すべて暁と夕のあひだに光なく眠る夜の歌だつた、光の線が闇をてらす、しかし闇ばかりそれを知らなかつたといふなつかしい夜、だが眠りは潤澤な忘却に縁取られて夜一面にひたしてゐた。眠りのなかで見た夢ではなしに、夢のなかで、生も死も忘れうたつてゐた、オルフオイスの琴。うたひかねて、手の指からは、砂粒はみんなこぼれ落ちてしまつた!」
これは詩集『暁の夕の詩』ができあがった直後、雑誌「四季」(昭和12年7月号)に書かれた「風信子(一)」というエッセイからの引用であるが、自らの詩が「喘ぎながらうたひかねてゐる」ところで書かれる詩であることを吐露している。そしてここで語られるのは「生と死」の問題である。詩人にとって音楽とは「生と死を忘れ」させる「夢」への「跳躍」であるが、「言葉」は「生と死」を紙上に刻印するしかなく、それゆえどんなに歌を真似ようとも、ソネットは一つの塊りのごとく「物體」化したものとして現れざるをえない。むしろ音楽に憧れれば憧れるほど、詩人の「喘ぎ声」は大きくなる。立原のソネットは、まさにその逆説を端的に示しているといえるのである。
このとき、先に分析したソネット構造を思い出せば、この詩人の不気味といえるほどの特異性が浮かび上がる。それはこの詩人が詩作の中で「死との遊戯性」を示しているところである。ソネットの幾何学構造の構築に執心し、まるでパズルで遊ぶように自らの「生と死」の模様を言語化していくということは、ある生の痛みの感覚が欠落したところで詩作が行われていると考えざるを得ない。そこには極めて冷たい不感症質があるのではないかと。このことを突き詰めると、これまで述べたように立原が必然的に抱え込んでしまった「生」と「死」の「中間者」という観念、また「ロマン主義」が到達した「冷徹さ」とも密接に結びつくことであるが、さらに言えば、「立原道造」という存在そのものの不確定さにまで行き着く。そしてこの点こそが、立原と他の日本の他のソネット作者との決定的な違いである。
ソネットという詩形式に盛られることが可能な詩語とは、詩「またある夜に」の分析で示したように、「散文」の流入を拒絶、いわば「生者」の思考を拒絶したものであり、「銀の道」の先の光に満ちた「死後」とも呼べる世界を開示するものである。いわばこの詩形を成功させうる者は唯一「死者」のみでしかないということである。ソネットの長い歴史の中で、これを最初に行ったのは、宮廷恋愛詩を書いたペトラルカでもダンテでもシェイクスピアでもなく、ジョン・ダンである。その詩集「Holy Sonnets(聖ソネット)」中「Divine Meditations(神聖なる瞑想)」詩篇で、ダンはもはや「死者」となってソネットを書き、「神」との交感を果たす。ここにいたってソネット形式は「形而上詩」へと変貌し、近代詩へと命脈を保ち、ボードレール、ネルヴァル、マラルメ、リルケ、さらにはボルヘスの「形而上詩」へと受け継がれていくことになった。つまり蒲原有明、薄田泣菫、中原中也といった詩人のソネットの試みは、端的に言ってしまえばその詩作の寄って立つ場があくまで「生者」の側から書かれていたということであり、立原に至って初めて「死者」の側から書かれ成功したと言っていい。この観点を推し進めれば、戦後から現在まで縛られていた「抒情詩人・立原道造」のイメージを、「形而上詩人・立原道造」として捉えなおすことも可能ではないかと考える。
では「死者」の側から書く、とはどういうことなのか。以前「死にながら生きる」という表現で立原の「中間者」の特性を述べたが、果たしてこれは「生」が先にあって「死」があとから「生」に浸潤してきたことによるものであるのか。通常の時間のベクトルを考えればそうであろう。また多くの「形而上詩」としてのソネット作者も、およそ老齢にいたってこの領域を切り開く。しかし立原の場合、その詩人としてのスタートからすでにソネット作者として完成してしまった。つまり立原は「生と死」の時間軸が逆である。はじめから「死」が立原の精神を完全に支配していた状態で詩作が行われ、「生」が後からやってきたのではないかと考えざるを得ない。詩「またある夜に」の第3連以降の「月のかがみ」に照らされた世界、あれは初稿段階ではすでに「老いた山羊」の視点であった。そこから詩人はこの世にはない「死後」の世界へと読者を「銀の道」によって導いている。詩人はすでにその案内人として「銀の道」の向こう側からやってきているのである。よって立原ははじめから生きていなかったのではないか、という奇想にまで至るのである。そして第1詩集『萓草に寄す』、『第2詩集『暁と夕の詩』、未刊詩集『優しき歌』と、少しずつそのソネットは乱れてゆき、その崩壊の裂け目から立原の「生」の痛みが噴出しはじめる。
リルケは30歳で『時禱集』において「死」の完全なる支配を悟り、その後「死後」の詩として『ドゥイノ悲歌』『オルフォイスへのソネット』へと至る。立原の不幸は、若年においてすでに『オルフォイスへのソネット』をわが精神として感受してしまっていたことにある。そして「老境」におけるかのごとく「形而上学」の中で、死との遊戯的反復をソネットにおいて示してしまった。20歳の若さでのこの「死との遊戯性」において、完全なる「詩への跳躍」を成すこと、それ自体は奇跡のようであるが、実はこれは何も珍しいことではないように思える。おそらく現代の若者たちの中にも共感を催してしまう者がいる。私もその一人であった。そしてそれはある「快感」をもたらすものである(やや話がずれるが、ガス・ヴァン・サントの傑作映画『エレファント』(2003)を最近見直して改めて感心した。現実に90年代のアメリカでおきた銃乱射事件が題材ではあるが、ベートーベンのピアノソナタ「月光」「エリーゼのために」を弾く少年が「快感」をおぼえなら人を撃ち殺していく心性を、綿密な時間の反復作用を駆使してシンメトリックな映像美へと昇華させたこの映像作家は、単なるヴァーチャルリアリティに浸った少年犯罪という社会学的括りを超えて、「死との遊戯性」が「形而上学」へと至るソネットを映像で作ったとさえ思えた)。
ここまで来て、やはり今回だけではまだ終わることはできそうもない。この「死との遊戯性」を巡っては、最も重要な人物についてまだ触れていないからである。次回はさらにリルケについても掘り下げつつ、そのリルケを立原に手ほどきしたあの「死の作家」堀辰雄を取り上げて、「立原道造」という詩人がなぜ誕生したのかを見極めて、立原論を終えられたらと考えている。(11.8.7)
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