https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-heian/ 【日本史/平安時代 - ホームメイト】より
約390年続いた平安時代は、日本史上有数の転換期となった時代です。これまで国の体制は中国の隋(ずい)や唐(とう)に倣い、天皇に権力を集中させた律令政治(刑罰や政治の決まりごとを定めた法令によって国を治める政治)が基盤でした。しかし、荘園(国の支配を受けない私有地)の広まりなどによって地方への権力分散が進み、国の政治体系が大きく変わります。権力や貧富に大きな格差が生まれ、天皇に代わって政治や文化を牽引する社会の中心人物となる存在が次々と現れるようになったのです。その動きはやがて武士の台頭をもたらしました。平安時代の流れを軸に、政治・経済・外交・文化・主な合戦について紹介し、古代から中世への転換がどのように起こったのかを紐解いていきます。
平安時代とは、平安京への遷都が行われた794年(延暦13年)から、鎌倉幕府が成立した1185年(文治元年)までを指します。
1192年(建久3年)までとする説もありますが、これは鎌倉幕府成立の時期が複数説あるため。いずれにしても時代区分としては極めて長く、約390年にも及びました。
平安時代の政治史は大きく3つに分けられます。「桓武天皇」(かんむてんのう)をはじめとする諸天皇が、半ば崩れつつあった律令政治を再建しようとした前期、摂関政治(せっかんせいじ:藤原氏が天皇の外戚となって摂政や関白などの要職を独占した政治形態)が行われた中期、そして院政(いんせい:上皇や法皇が天皇の代わりに政務を行う政治形態)がはじまり武士が台頭した後期です。
つまり平安時代とは、権力が天皇から上流貴族、そして武士へと移り変わった時代とも言えます。その背景には、荘園の登場が大きく影響していました。土地を開墾するための財力があれば誰でも荘園を、すなわち「土地と人民」を傘下に収めることが可能だったため、天皇やその親族以外でも財力や権力を手にすることができるようになったのです。荘園経営のなかで抜きん出たのが貴族「藤原北家」(ふじわらほっけ)でした。
「藤原良房」(ふじわらのよしふさ)が人臣(君主に仕える家臣)ではじめて摂政(せっしょう:幼帝や女帝に代わり政務を執る役職)になるとライバルを次々と蹴落とし、国政をほとんど掌握。「藤原道長」(ふじわらのみちなが)の代に最盛期を迎えます。
その後、藤原氏の影響力が徐々に失われていくと、「後三条天皇」(ごさんじょうてんのう)が院政(いんせい:天皇に代わって上皇が政務を行う政治)という新たな政治形態を開始。
しかし、平安時代後期に入るにつれ国の経済状況は逼迫し、治安が悪化していきました。これにより、天皇や要職に就いた貴族達は身を守るためにこぞって武士達と手を結ぶようになり、徐々に武士が権力の中枢へと食い込むようになります。そのなかで台頭した武家が、源氏と平氏です。
やがて「保元の乱」(ほうげんのらん)と「平治の乱」(へいじのらん)を経て、平氏の嫡流「平清盛」(たいらのきよもり)が日本初の軍事政権を樹立。ここから、明治時代がはじまるまで続く「武家政権の時代」が到来するのです。
平安時代のキーパーソン
平安時代は政治体系や文化の変化が大きく、非常に複雑です。まずは平安時代を語る上で欠かせない5人の重要人物を紹介します。いずれも政治面から文化面まで広く日本に影響を与えました。
「菅原道真」(すがわらのみちざね)
845年(承和12年)に生まれた学者出身の政治家です。幼少期から神童と呼ばれ、若くして文章博士(もんじょうはかせ:官吏養成機関の教官)に就任。宮廷の文人社会の中心人物として名を馳せました。
40歳を過ぎてから讃岐国(現在の香川県)の国司(こくし:国が派遣した地方官)を務めますが、「宇多天皇」(うだてんのう)の目に留まり、近臣に抜擢。「遣唐使」(けんとうし)の廃止など大胆な改革に着手し、藤原北家の嫡流「藤原時平」(ふじわらのときひら)と並ぶ地位にまで昇進します。
しかし、901年(昌泰4年)、藤原時平の策謀により太宰府(福岡県太宰府市)に左遷されると、衣食もままならない環境で謹慎させられ、903年(延喜3年)に窮死。藤原北家に対抗していた菅原道真が亡くなると、藤原氏は全盛期を迎えました。
藤原道長
966年(康保3年)、のちに摂政となる公卿「藤原兼家」(ふじわらのかねいえ)の五男として誕生。幼少期は目立たない存在でしたが、兄が次々と早世したことで頭角を現し、甥の「藤原伊周」(ふじわらのこれちか)との政争を制して藤原北家のトップに君臨します。以後、摂政や太政大臣を歴任し、平安時代を通じても並ぶ者がいないほど強大な権力を有しました。
政治の駆け引きが極めてうまく、3人の娘と孫を中宮(皇后やそれに並ぶ資格を持つ后)に送り込み、孫を天皇に据えるなど、天皇家と外戚関係を結び、藤原北家の権力をますます揺るがぬものに変えたのです。
そのときの心境を詠んだ「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌は特に知られています。晩年は浄土信仰にのめり込み、「法成寺」(京都府京都市)を創建。浄土美術の発展にも大きく影響を与えました。
「紫式部」(むらさきしきぶ)
970年(天禄元年)〜978年(天元元年)に生まれたとされる人物です。藤原道長の娘で「一条天皇」(いちじょうてんのう)の中宮である「藤原彰子」(ふじわらのしょうし)に仕え、長編小説「源氏物語」を執筆。
人物の心理描写などを細かく描写する手法は、その後の文学史に多大な影響を与えました。なお、源氏物語の主人公「光源氏」(ひかるげんじ)のモデルとなった人物については諸説ありますが、藤原道長も候補のひとりです。
「源義家」(みなもとのよしいえ)
1039年(長暦3年)に、「河内源氏」(かわちげんじ:源氏の代表的な家系)の棟梁「源頼義」(みなもとのよりよし)の嫡男として生まれました。
陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)と出羽国(現在の山形県・秋田県)で起こった「前九年の役」(ぜんくねんのえき)や「後三年の役」(ごさんねんのえき)で活躍し、武士の存在を庶民の間にも広く知らしめた人物です。
行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)の際、従来の慣例を無視して史上初の武装護衛を行ったことは、平安時代末期からはじまる武士の時代の萌芽となりました。
平清盛
1118年(永久6年)、伊勢平氏の棟梁「平忠盛」(たいらのただもり)の嫡男として誕生。父とともに瀬戸内海の海賊を討伐して制海権を握ると、平氏に莫大な利益をもたらし、京都に進出しました。
後白河天皇のもと、財力を背景に平氏一門の地位を格段に高めると、皇位継承問題と摂関家の対立が引き金となった保元の乱で「源義朝」(みなもとのよしとも)とともに後白河天皇を勝利に導きます。
その後、後白河上皇の近臣達の対立に巻き込まれ、平治の乱で源義朝を撃破。これにより後白河上皇をしのぐ権力を手にし、平氏の全盛期を築きました。日宋貿易を本格的に開始したことでも知られ、経済や文化の発展にも大きく寄与した人物です。
平安時代の政治
平城京から平安京へ
平安時代がはじまったのは、桓武天皇が都を長岡京(京都府長岡京市など)から平安京(京都府京都市)に移した794年(延暦13年)のこと。奈良時代の首都・平城京(奈良県奈良市)を手本とし、碁盤の目状の街並みが作られました。
桓武天皇が平城京からの遷都を決めた理由のひとつに、「天智天皇」(てんじてんのう)の流れを汲む天智系の政治を取り戻すという大義があったためとされます。奈良時代は、「天武天皇」(てんむてんのう)の血筋が代々天皇を継いでおり、平城京周辺には天武系の寺社が多く建てられていました。
一方、桓武天皇は天智天皇に連なる血統であったことから、天武系の政治から脱却するために都ごと一から作り直すことを決断したのです。なお、天武系と天智系に別れたのは、672年(天武天皇元年)に「壬申の乱」(じんしんのらん)で天武天皇と天智天皇の第一皇子「弘文天皇」(こうぶんてんのう)が戦い、天武天皇が勝利したことに由来します。
奈良時代に行われた天武系の政治は、神託(神や仏のお告げ)を重視するものでした。ちょうど仏教が日本に伝来したことで、仏教を政治利用して国をまとめ上げようと志向したのです。その代表格が「聖武天皇」(しょうむてんのう)による東大寺(奈良県奈良市)の大仏建立などでした。
しかし、仏教と政治が癒着することを危惧した桓武天皇は、神託政治から律令政治へと転換。宗教ではなく、法律によって国を治めることを志したのです。即位の宣命(せんみょう:天皇の命令を伝える文書)においても、天智天皇が制定した近江令(おうみりょう)に基づいて政治を行うことを述べました。
律令政治を行うにあたり、財政が妨げとなったことで、桓武天皇は国の支配領域を広げることで解決を試みます。桓武天皇は「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)を初代征夷大将軍に任命し、陸奥国の蝦夷(えみし:現在の関東地方や東北地方に住む人々)の族長「阿弖流為」(あてるい)を討伐。3度にわたる遠征の末、国土を広げることに成功したのです。
財政難による治安の悪化と武士の源流
当時、朝廷を支える軍事力は、663年(天智天皇2年)に朝鮮半島で起こった「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)で大敗したことがきっかけで作られた軍事組織「軍団」が支えていました。しかし、その兵力は約200,000人にも及び、当時の日本の人口6,000,000〜7,000,000人に対しては多すぎたのです。
軍団を常時養うことは財政の負荷となり、また働き盛りの男が農耕できないことで税の徴収にも悪影響が出ていたため、桓武天皇は軍団を解体。代わりに「健児の制」(こんでいのせい)という地方の有力者から兵を募る制度を導入したのです。
ところが健児の制はあまり機能せず、地方はほぼ無法状態に陥ります。一気に治安が悪くなり、健児の中からは職業軍人も出はじめました。武士の源流となる人々です。治安の悪化は地方だけでなく、財が集まる都にも及ぶようになり、816年(弘仁7年)に「検非違使」(けびいし:現在の警察にあたる官人)を創設。
この役職は徐々に拡大し、各地の国司(中央から派遣された地方官)の取り締まりなども担うようになります。検非違使は無位無官からなれる役職だったため、下級貴族の次男以下がこぞって志望し、武士が誕生する要因のひとつになりました。
藤原北家の台頭と摂関政治
平安時代に隆盛を極めた藤原北家とは、「藤原不比等」(ふじわらのふひと)の4人の息子が興した「藤原四家」(ふじわらしけ)のひとつです。館が北に位置していたことから命名された藤原北家は、藤原四家のうち権力の中枢に上り詰めるのが一番遅かったものの、もっとも栄華を極めた家となりました。
そのきっかけとなった人物が、藤原良房です。藤原良房は、「嵯峨上皇」(さがじょうこう)の信任を得ると、842年(承和9年)に政敵「伴健岑」(とものこわみね)と「橘逸勢」(たちばなのはやなり)が皇太子を担いで謀反を企てていることが発覚します。
すぐに「仁明天皇」(にんみょうてんのう)に密告した藤原良房は、両者を流罪に追い込み、甥の「道康親王」(みちやすしんのう:のちの文徳天皇)を皇太子に立てることに成功。いわゆる「承和の変」(じょうわのへん)を起こし、藤原北家ははじめて他氏排斥を行いました。これにより藤原良房は天皇の外戚となり、強大な権力を手中に収めます。
さらに娘の「藤原明子」(ふじわらのあきこ)を道康親王の後宮に送り込み、「惟仁親王」(これひとしんのう:のちの清和天皇)が生まれると、857年(天安元年)に皇族以外では初となる太政大臣に就任。866年(貞観8年)には同じく人臣初の摂政に上り詰めたのです。
藤原良房が築いた権力地盤は、甥の「藤原基経」(ふじわらのもとつね)に受け継がれました。藤原基経は藤原良房に顔負けの策謀家として知られる人物で、太政大臣や摂政を歴任。しかし、外戚関係のない宇多天皇が21歳で即位した際、宇多天皇は藤原基経を摂政・関白の地位から外し「阿衡」(あこう)に任命しました。
阿衡という言葉は「関白」の漢語でしたが、名誉職という意味も含まれていたことから藤原基経は政務をボイコット。半年にわたり勅を書き直すよう圧力をかけ続け、最終的に宇多天皇に詔勅を出し直させる「阿衡の紛議」(あこうのふんぎ)が起こりました。この事件は事実上、藤原北家が天皇の上に立った瞬間となったのです。
藤原北家と菅原道真の対立
藤原良房と藤原基経の政治手腕によって盤石の地位を築いた藤原北家ですが、藤原基経の嫡男「藤原時平」(ふじわらのときひら)の代に、強大なライバルが現れます。それが、学者出身でありながら宇多天皇の近臣に抜擢された菅原道真です。
菅原道真はもともと出身が下級貴族だったこともあり、上流貴族特有の慣習にとらわれない自由な発想で次々と政治を改革していきました。特に有名な政策は、遣唐使の廃止です。894年(寛平6年)に遣唐大使に任命されたものの、唐の実情を調べ上げて派遣の再検討を提言。事実上、遣唐使を廃止へ導きました。
また、地方での脱税などを検査する検税史(けんぜいし)の派遣にも異を唱え、国司の自主性によって地方を治める必要を説きました。中央集権から地方分権へと国家体制を変貌させることが、財政の強化につながると考えたのです。こうした抜本的な提言は、宇多天皇の信頼をより強める結果となり、899年(昌泰2年)には右大臣に昇進。左大臣の藤原時平と並ぶ地位に上り詰めました。
しかし、藤原時平は、宇多天皇が自らの譲位と「醍醐天皇」(だいごてんのう)の即位という国の大事を菅原道真のみに相談していたことに、激怒。藤原北家は得意の策謀を駆使し、醍醐天皇の廃位を画策したという濡れ衣を着せ、901年(昌泰4年)に菅原道真を失脚させる「昌泰の変」を起こしたのです。
これを知った宇多上皇は醍醐天皇に面会を求めますが、藤原北家の息がかかった衛士や醍醐天皇の近臣が妨害。結局、菅原道真は太宰府への左遷が決まり、同地での謹慎中に非業の最期を遂げました。藤原北家隆盛期に、皇族以外で唯一並び立つ地位を得たのは、菅原道真のみです。
地方で大規模な反乱が続出!武士の躍進がはじまる
菅原道真が失脚したあと、藤原時平が国政の主導権を握ったものの急死を遂げたことで、藤原北家の権力基盤は弟の「藤原忠平」(ふじわらのただひら)へ受け継がれました。主に力を入れた政策は、国司の権限を強めることです。
この頃から朝廷が財政難に陥るようになり、地方に検田使(けんでんし:田地を調査する使官)や収納使(しゅうのうし:税物の徴収や収納を行う国使)、検非違使などの役人を配備。税の徴収によって財政を立て直そうとしたのです。
しかし、地方に赴任した貴族達は、土地の豪族と結託して私財を蓄えるようになります。この動きに反発したのが、関東の「平将門」(たいらのまさかど)や瀬戸内海の「藤原純友」(ふじわらのすみとも)でした。939年(天慶2年)に「平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)が起こると、またたく間に関東地方の8ヵ国を占領。
一時期「新皇」(しんのう)を名乗り、独立国家を形成するほどに勢力を広げました。一方、西日本でも同時期に「藤原純友の乱」(ふじわらのすみとものらん)が起こり、西日本の最重要拠点・太宰府が占領されてしまいます。この2つの反乱を総称して「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)と言いますが、鎮圧には2年以上掛かりました。
このとき朝廷に力を貸したのが源氏と平氏です。これまではただの下級貴族に過ぎない存在でしたが、以降、朝廷における立場が重視されるようになっていったのです。
国政の完全支配を実現した藤原北家の絶頂期
藤原北家が最盛期を迎えたのは、藤原忠平の孫「藤原伊尹」(ふじわらのこれただ)による969年(安和2年)の「安和の変」(あんなのへん)に起因します。醍醐天皇の子で、ときの右大臣「源高明」(みなもとのたかあきら)に謀反の嫌疑を着せて、失脚させたのです。これ以降、摂政と関白が常設され、藤原北家が独占することになりました。
しかし、摂政や太政大臣に上り詰めた藤原伊尹が病気により早逝すると、弟の「藤原兼通」(ふじわらのかねみち)と「藤原兼家」(ふじわらのかねいえ)の間で摂関職を巡って後継者争いが勃発したのです。
いったんは藤原兼通が関白を継いで決着を見せますが、約10年後の986年(寛和2年)、藤原兼家は「寛和の変」(かんなのへん)を起こし、「花山天皇」(かざんてんのう:のちの花山法皇)の出家と、娘の「藤原詮子」(ふじわらのせんし)が産んだ「一条天皇」(いちじょうてんのう)の即位を実現しました。このとき裏で奸計を巡らし暗躍したのが、藤原兼家の五男「藤原道長」だったと言われています。
藤原道長は政争にめっぽう強く、父亡きあとに関白を継いだ伯父「藤原道隆」(ふじわらのみちたか)とその嫡男「藤原伊周」(ふじわらのこれちか)に対抗するため藤原詮子に接近。そして藤原道隆が早逝すると、藤原伊周の従者が誤って花山法皇に向けて矢を放ったことを事件化し、「邸宅に私兵を忍ばせている」という噂を流布。藤原伊周と近親者を追放することに成功するのです。
当時、藤原伊周は氏長者(氏族の最高権力者)であったため、藤原北家全体が罪に問われる恐れもありましたが、巧みな政治バランスによって邪魔者だけを排除しました。その後藤原道長は、天皇の外戚となるため、娘の「藤原彰子」(ふじわらのしょうし)を一条天皇の側室にし、皇后の「藤原定子」(ふじわらのていし:藤原道隆の娘)と並ぶ中宮に押し上げます。皇后が同じ地位で複数人並ぶようになったのは、このときが最初です。
さらに次代「三条天皇」(さんじょうてんのう)の中宮には次女「藤原妍子」(ふじわらのけんし)を入内させました。さらに藤原彰子が「後一条天皇」を産むと、すぐに三女「藤原威子」(ふじわらのいし)を中宮にし、天皇3代の皇后をすべて自分の娘にしたのです。
これを「一家立三后」(いっかりつさんごう)と言い、ここまで完全に天皇家の血筋を親戚に取り込んだ政治家は、日本史上で藤原道長ただひとりとなりました。なお、藤原定子の女房(にょうぼう:宮中に部屋を賜った身分の高い女官)には、「枕草子」(まくらのそうし)を執筆した「清少納言」(せいしょうなごん)、藤原彰子の女房には源氏物語の作者「紫式部」がいます。藤原道長の時代は、平安時代に花開いた「仮名文学」(かなぶんがく)の最盛期でもあったのです。
地方の反乱がきっかけで藤原北家が衰退
藤原道長が没すると、藤原北家の権力には陰りが見えはじめます。藤原道長の嫡男「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)が関白を継いでわずか半年後、1028年(長元元年)に「平忠常の乱」(たいらのただつねのらん)が勃発。反乱の理由は、国司の取り立てに対する不満からでした。
房総半島の上総国(現在の千葉県中部)、下総国(現在の千葉県北部・茨城県南西部)、安房国(現在の千葉県南部)が占領され、朝廷が派遣した討伐軍も敗北すると反乱は長期化していきます。
窮地に追い込まれた藤原頼通は、「河内源氏」の祖となる人物「源頼信」(みなもとのよりのぶ)を追討使に任命。源頼信を追討使に任命することは武士勢力の伸長につながるため避けたいと考えていましたが、もはや武士の力を頼る以外に状況を打開できる策はありませんでした。
ところが、房総の治安はすでに崩壊しており、かつ飢饉も合わさって荒廃の極みに達していたことを把握していた源頼信は1030年(長元3年)、京を出立すると、房総へは向かわず任地の甲斐国(現在の山梨県)に留まり続けます。房総の情勢を調べ、住民はもちろん兵士にも食料がなく、戦える状態ではないことを把握していたのです。
1031年(長元4年)、房総を占領していた「平忠常」は戦わずして源頼信に降伏。京へ連行される途上で病死します。しかし、鎮圧に3年もの歳月がかかったことや、房総半島の3ヵ国がほぼ廃国になったことで、朝廷の権威は失墜。もはや地方勢力に対抗できないことが明るみに出てしまいました。
一方、源頼信率いる源氏は中央に権力地盤を作ることに成功。やがて治安は地方のみならず京の都まで悪化の一途をたどり、さらに武士の力が必要とされはじめます。権力に必要なものが、高貴な血筋から武力へと変わりはじめたのです。
源義家の登場と院政の誕生
地方勢力の躍進とともに、有力寺社も独自の勢力を築くようになりました。これまで地方では、朝廷が任命した国司の裁量が大きく、年貢の税率なども国司が決めていました。しかし、寺社や地方豪族などの抵抗に屈して国司が追放されるケースなども現れ、朝廷の権威だけでは国が治まらない状況に陥りはじめます。
その最たる例が、1051年(永承6年)に奥羽地方(陸奥国と出羽国)で起こった前九年の役です。年貢を怠った地方豪族を討つための戦いでしたが、国司の軍勢が敗れたことにより10年以上に及ぶ戦乱へ突入。さらに1083年(永保3年)には、前九年の役によって生じた内紛が原因で後三年の役も勃発し、こちらも終戦まで5年以上の歳月を要しました。このとき一躍その名をとどろかせたのが、源義家です。
父「源頼義」(みなもとのよりよし)とともに奥羽地方に派遣されると、巧みな軍略により平定。これにより東国に源氏の地盤が形成され、のちの源平争乱期に大きな影響を及ぼしました。なお、後三年の役で源義家の支援を受けて勝利した「藤原清衡」(ふじわらのきよひら)は奥州藤原氏の初代となり、平泉(岩手県平泉町)を拠点に黄金の都市を構築。以降100年にわたって栄華を極めます。
中央においても大きな変革がありました。藤原北家の影響から脱却すべく、約170年ぶりに藤原北家を外戚としない「後三条天皇」が誕生すると、「白河天皇」(しらかわてんのう:のちの白河上皇・白河法皇)への譲位後も実権を掌握。上皇が政治を握る「院政」が開始されたのです。後三条天皇亡きあとは白河上皇へと引き継がれ、新しい政治形態が確立されていきました。
源義家も、院政を支えるかたちで出世を果たし、白河上皇の護衛に抜擢されます。この護衛軍は、「北面の武士」(ほくめんのぶし:上皇の身辺を警護するための直属軍)の下地となり、寺社勢力の強訴(ごうそ:寺社の僧兵が武力を背景に朝廷に要求を突き付けること)に対抗できる数少ない軍事組織として活躍。
武士の朝廷内での発言力を格段に高めました。源義家は後三年の役後、あまりの人気ぶりから白河上皇に警戒され、一時遠ざけられます。しかし、晩年はごく一部の上流貴族しか許されなかった昇殿が可能になり、いわば特権階級に名を連ねることになるのです。
一方この頃、平氏も躍進を果たします。「平正盛」(たいらのまさもり)が、白河上皇に所領を寄進することで信頼を獲得。さらに白河上皇の寵妃「祇園女御」(ぎおんのにょうご)に近づき、徐々に発言力を増していったのです。このとき白河上皇は、源氏と平氏どちらか一方に力が偏らないよう、バランスを取りながら両者の力を利用していました。
ところが源義家亡きあと、出雲国(現在の島根県)で目代(もくだい:国司の私的な代官)を殺して物品を強奪した「源義親」(みなもとのよしちか:源義家の子)に追討令が下り、1108年(天仁元年)に平正盛が鎮圧。これを機に源氏内で次々と内紛が起こり、源氏と平氏の立場は一気に逆転していくのです。
白河法皇の手によって院政が確立
当時、白河法皇の権威はすでに藤原北家を凌駕していましたが、1114年(永久2年)、関白「藤原忠実」(ふじわらのただざね)の嫡子「藤原忠通」(ふじわらのただみち)が、白河法皇の養女「藤原璋子」(ふじわらのしょうし)との婚約を破棄。その後、藤原璋子は「鳥羽天皇」(とばてんのう:のちの鳥羽上皇)の中宮となりますが、白河上皇と藤原北家の間には大きな亀裂が入ってしまいました。
一説では、藤原璋子が性に奔放であったためとも言われています。さらに1120年(保安元年)、藤原忠実が娘「藤原泰子」(ふじわらのたいし)の入内を「鳥羽天皇」(のちの鳥羽上皇)に打診しますが、白河上皇を介さず縁談を進めようとしたことや、鳥羽天皇の中宮にはすでに鳥羽上皇の養女・藤原璋子がいたことなどから、白河上皇は激怒。
白河上皇は藤原忠実を職権停止に追い込み、関白を無理矢理嫡男の「藤原忠通」に譲らせました。いわゆる「保安元年の政変」(ほあんがんねんのせいへん)が起き、院政の権力は盤石なものとなりました。白河上皇亡きあと、院政は鳥羽上皇に引き継がれます。鳥羽上皇は白河上皇の影響力を排除するため、藤原忠実を復権させるなど独自色を打ち出すと、特に財政難に対処する大胆な政策を次々と実行していきました。
財政難の問題は、荘園の年貢が朝廷に入らないことに起因すると考え、荘園を制限するためにたびたび出されていた「荘園整理令」をいったん凍結。鳥羽上皇が最大の荘園領主になるために、自らの近臣が荘園を拡大できるようにしたのです。
なお、この頃平正盛のあとを継いだ「平忠盛」(たいらのただもり)は、荘園拡大政策に便乗し、着実に地盤を固めていきました。海賊追討使に抜擢されると、瀬戸内海に頻出する海賊を次々と討伐し、西国を支配下に収めたのです。
さらに平忠盛は鳥羽上皇の北面の武士に任命されると昇進を重ね、1132年(天承2年)には得長寿院(とくちょうじゅいん:京都府京都市)の落慶供養(らっけいくよう:寺社の新築・改築を祝う儀式)において千体観音を寄進した功で、昇殿が認められるようになりました。瀬戸内海での海運などにより築いた富が、平氏の躍進を支えていたのです。のちに平忠盛の嫡子・平清盛が全盛期を築く下地は、この頃すでに盤石なものになっていました。
天皇家と摂関家の後継問題と、武家の台頭
院政に陰りが見えはじめたのは、1155年(久寿2年)に「近衛天皇」(このえてんのう)がわずか17歳で早逝したことがきっかけ。鳥羽法皇の次に天皇となった「崇徳上皇」(すとくじょうこう)と、近衛天皇の弟後白河天皇の間で皇位継承問題が生じたのです。
結果的に鳥羽法皇の力で後白河天皇が即位しましたが、院政は自分の子を天皇に即位させないと敷くことができないことから、崇徳上皇にとって受け入れがたい状況となりました。
1156年(保元元年)に鳥羽法皇が崩御すると、両者の対立は決定的なものになります。背後に、藤原北家の摂関職を巡る対立が絡み、後戻りできない状況に陥っていたのでした。皇位継承問題と並行して勃発した藤原北家の摂関職後継問題は、藤原忠実が引き起こしたとも言えます。
ときの関白は藤原忠実の嫡子「藤原忠通」(ふじわらのただみち)でしたが、藤原忠道は後継に恵まれず、弟の「藤原頼長」(ふじわらのよりなが)を藤原忠実の後押しにより養子にしました。しかし、藤原忠通に子どもが生まれると状況は一変。
我が子を後継ぎにしたいと考えた藤原忠通は、次第に父・藤原忠実及び弟・藤原頼長と距離を置くようになります。すると藤原忠実は、藤原北家の氏長者が代々継承してきた朱器台盤を押収し、強引に藤原頼長を藤原北家の氏長者に指名。
藤原北家の後継を巡る対立は決定的なものになりました。源氏の棟梁「源為義」(みなもとのためよし)は藤原忠実に召し抱えられていたため、崇徳上皇・藤原忠実・藤原頼長方に付き、平氏の棟梁・平清盛は、鳥羽法皇とつながりの深い後白河天皇・藤原忠通に味方します。
一方で、源氏も平氏も万が一に備え、双方に戦力を分けていました。平氏は平清盛の伯父「平忠正」(たいらのただまさ)らが崇徳上皇方に付き、源氏は源為義の嫡子であり東国武士の元締めだった「源義朝」(みなもとのよしとも)らが後白河天皇方に付いていました。1156年(保元元年)に両軍が激突した保元の乱は、後白河天皇方の圧勝。
一説によれば、後白河天皇の近臣である「信西」(しんぜい)が藤原頼長に謀反の疑いをかけたことで、崇徳上皇方が挙兵に追い込まれたとも言われています。この戦いにより、朝廷内部の権力争いにも武士の力が不可欠であることが証明され、後白河天皇に味方した平清盛と源義朝が一躍政界の中枢へと躍り出ました。
平治の乱により平清盛が政権を奪取
保元の乱の勝利により、後白河天皇は嫡子「二条天皇」(にじょうてんのう)に譲位し、院政を敷きました。しかし平穏は長くは続かず、後白河上皇の近臣の対立が平治の乱を引き起こすきっかけとなります。
この近臣のひとりが知恵者と謳われた信西、もうひとりは後白河上皇の寵臣であり、一説では後白河上皇の男色(男性の同性愛)相手とも言われる「藤原信頼」(ふじわらののぶより)です。
まず信西は、武士でもっとも強大な勢力を誇っていた平清盛を重用し、自らが辣腕をふるう政治改革の後ろ盾としました。主な政策は「保元新政」(ほうげんのしんせい)の発布などです。保元新政とは天皇が最高権力者であることを知らしめる7箇条に及ぶ宣旨で、私有地である荘園を統制するのも天皇及び上皇・法皇であると定めたもの。
しかし、半ば強引な改革は多くの敵を生みました。特に官位昇進を邪魔された藤原信頼は、信西を目の敵にしていたのです。こうして1159年(平治元年)に平治の乱が起こりました。源義朝を抱き込んだ藤原信頼は信西討伐に成功したものの、平清盛に敗北。以後、平氏の時代が到来するのです。
このとき、平清盛はしたたかな戦略を見せました。藤原信頼を打倒したことをきっかけに、自分に敵対する実力者を一掃。後白河上皇の近臣はことごとく捕らえられ、院政は事実上壊滅に追い込まれました。平治の乱は、平清盛が源氏との対決に勝利した戦いだと捉えられがちですが、実は邪魔な政敵を一網打尽にしたクーデターとも呼べる戦いだったのです。
院政の終焉と平清盛が築いた武士の時代
平治の乱をきっかけに、朝廷の要職は平氏一門で固められました。平清盛は太政大臣にまで上り詰めると、娘の「平徳子」(たいらのとくし)を「高倉天皇」(たかくらてんのう)へ入内させ、1178年(治承2年)には平清盛の血を引く「安徳天皇」(あんとくてんのう)が誕生。平氏一門が天皇家の外戚となり朝廷内の権威を盤石にさせる一方で後白河上皇への配慮も忘れず、「三十三間堂」(京都府京都市)を造営し、荘園や所領を寄進することで財政的な利益も提供しました。
こうした富の配分を可能にしたのが、瀬戸内海の海運を活かした「日宋貿易」でした。平氏の隆盛は、貿易で得た莫大な利益によって下支えされていたのです。ところが後白河法皇は、表面上は協調路線を取りつつ、裏では平氏の躍進をこころよく思っていませんでした。その思惑が表出するきっかけとなったのが、平清盛の嫡男「平重盛」(たいらのしげもり)の急死です。
平氏の隆盛を留める好機だと考えた後白河法皇は、すかさず平重盛の遺領を没収し、それに激怒した平清盛が後白河法皇を幽閉するという事件が起きました。いわゆる「治承三年の政変」(じしょうさんねんのせいへん)です。これにより平氏と後白河法皇の関係は破綻。院政は停止に追い込まれ、同時に平清盛政権が誕生したのです。
しかし1180年(治承4年)、後白河法皇の第三皇子「以仁王」(もちひとおう)が、全国の源氏諸勢力に平氏打倒を命じる「以仁王の令旨」を発令。この呼びかけに伊豆国(現在の伊豆半島)に配流されていた源義朝の三男「源頼朝」(みなもとのよりとも)をはじめとする、全国に雌伏していた源氏一門が次々に挙兵していきました。
平清盛は、こうした対抗勢力を抑えるため、平氏の地盤である瀬戸内海に面した福原(兵庫県神戸市)への遷都を画策しますが、あまりに評判が悪く約5ヵ月で断念。平氏の隆盛が減退しはじめます。そんな中、1181年(治承5年)に平清盛が死去。一説では亡くなる直前、「一刻も早く、源頼朝の首を我が墓前に供えよ」と、後継者の「平宗盛」(たいらのむねもり)らに命じたと言われています。
源平合戦を経て、武家政権の時代が到来
源氏と平氏の争いは、約5年にも及びました。源氏の勢力に押された平氏一門は、皇位継承に必要な「三種の神器」と安徳天皇を連れて西国へと落ち延びますが、復権を期して臨んだ戦いに次々と敗れ、1185年(寿永4年/元暦2年)の「壇ノ浦の戦い」で滅亡。源頼朝によって鎌倉幕府が開かれたことで、平安時代は終わりを告げたのです。
なお、源平合戦において源氏軍を率いたのは、源頼朝の弟である「源義経」(みなもとのよしつね)と「源範頼」(みなもとののりより)でした。源頼朝が鎌倉に留まり続けた理由は、幕府を開くための基礎固めに取り組んでいたためだとされています。
1180年(治承4年)に起こった「富士川の戦い」の際、手柄を立てた家臣に直接、所領安堵や新恩(しんおん:新しい領地)を与えたことで強固な主従関係が生まれた経験をふまえ、源頼朝は武力で政権を奪取したときの受け皿を整備しておく必要を痛感していたのです。1191年(建久2年)に「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)より宣下された「建久新制」で公式に諸国の守護権を手にした源頼朝は、自由に領土の分配が可能になります。
また、平氏滅亡前から侍所(軍事や警察を担う組織)や公文所(財政を担当する組織。のちの政所)、問注所(裁判を取り仕切る組織)を新設し、各領地内を統治する制度も取り決めていました。源頼朝が征夷大将軍に任命されたのは1192年(建久3年)ですが、それ以前に支配体系は確立されていたのです。
平安時代の経済
荘園の広まりにより貴族や寺社に富が集まりはじめる
平安時代は、奈良時代後半まで続いた公地公民制(すべての土地と人民は天皇が所有するという原則)が崩壊したことで、富が一部の富裕層に偏りはじめた時代。その最大の要因となったのが荘園制度です。荘園制度とは、朝廷の公家や寺社、武家による土地の領有形態のこと。
743年(天平15年)に「墾田永年私財法」(こんでんえいねんしざいほう)が制定されて以降、土地は開墾した者が永久に所有できることになり、農民のモチベーションは格段に上がりました。しかし、開墾するには財力や労力が必要です。水田はそもそも用水がなければ作ることができません。
しかし、国が管理する用水を使用すると、その田地は公田、すなわち国の所有物になるという決まりでした。つまり、用水を造るための人とお金を集められる者だけが、荘園を所有できたのです。そのため農民達は、財力のある有力貴族や寺社のもとで開墾及び田地での耕作を行うようになります。
当時の財は田地などから採れる農産物が主体だったため、土地をたくさん所有することが財力を蓄える最大の手段でした。こうして富裕層による、土地の争奪戦がはじまったのです。ちなみに、当時の税は大きく2種類ありました。ひとつ目は、公田(こうでん:国が所有する農地)などにかけられる「租庸調・雑徭」(そようちょう・ぞうよう)です。
祖は農地での収穫物の約3%を指し、庸は都での10日間の労働、もしくは布のことで、調は諸国の特産物を指します。雑徭は国司から課せられた土木工事などの労役でした。ただし、米や布、特産物などの現物は、都へ直接納めに行くルール。
国庁(国司が政務を執る役所)に集めたあと、農民の中から運脚(納入する人夫)が選ばれ、国司引率のもと都へ運ばれました。その間の食費などはもちろん自腹。途中で餓死する者も多かったと言われ、運搬自体も大きな負荷となっていました。
ふたつ目は、荘園にかけられる年貢や公事(くじ)、夫役(ふえき)です。荘園領主に納めるもので、年貢は農産物、公事は臨時で課せられる布や野菜、炭などの雑税で、夫役は労働を指します。ただし、農民は公田と荘園のどちらかにしか属していません。
そのため、身の安全が守られやすく、都への運搬もない荘園に身を置く農民が増えていきました。朝廷が財政難に陥った主な理由は、荘園が増えたことで公田から徴収できる税が減ったことに起因します。時代が進むにつれてこの傾向は顕著になり、やがて租庸調・雑徭は消滅していきました。
富が一部の有力貴族へ集中する体制へ
平安時代中期に入ると、次第に自墾地系荘園(自分達で開墾した荘園)が減り、代わりに寄進地系荘園(有力者に寄付する開墾済みの荘園)が主流になっていきます。中流の富裕層が権力者に荘園を贈ることで見返りを求める形態が生まれたのです。
こうして財力は、朝廷で権力を握るごく一部の有力貴族に集中。藤原北家が莫大な富を築いたのは、この構図によるものでした。また、この頃地方官である国司の力も増大。国司の任命権は摂政や関白、大臣などが有していたため、摂関政治を行っていた頃の藤原北家は、寄進地系荘園を多くもたらした者や近親などを国司に任命したのです。
しかし、国司となった者達は優遇される立場を持続するため賄賂を贈り続け、領民からは必要以上の税を徴収するという横暴が増えました。また、財力を得た国司のなかには地元の豪族の開墾地を奪う者まで現れ、地方の治安は徐々に悪化していきます。
その背景には、藤原北家などごく一部の有力者だけが許可された「不輸・不入の権」(ふゆ・ふにゅうのけん)が大いに関係していました。国に税を納める必要がなく、国から荘園の立ち入り調査も受けないという権利です。つまり、不輸・不入の権を持つ有力者に取り入ることができれば、国司は何をしても咎めを受けることがなかったのです。
富裕層の力を削ぐためにたびたび出された荘園整理令
もともと荘園は、朝廷の財政難を回避するために認められたものでしたが、結果的には藤原北家などの権力者に富が流れる仕組みになってしまいました。そのため、平安時代中期から後期にかけては、たびたび荘園整理令が発令されることになります。
延喜の荘園整理令
902年(延喜2年)に醍醐天皇が発令した最初の荘園整理令です。脱税目的で寄進された荘園は不輸の権(税を納める必要がない権利)を剥奪するというものですが、その対象は醍醐天皇が即位した897年(寛平9年)以降に限定しています。
これ以前の荘園における無法は許す代わりに、これ以降に設立された荘園は規則を守らせるようにするという法令。不正な寄進は禁止されたものの、それ以外の寄進は公認していたため、荘園の抑制にはつながりませんでした。
延久の荘園整理令
藤原北家が衰退し、170年ぶりに親政(天皇が直接政治を行うこと)を採った後三条天皇が1069年(延久元年)に発令。国司に摂関家や寺社の荘園も含んだ領国の荘園把握を命じた法令です。
記録荘園券契所という専門部署を設立することで一定の効果を上げましたが、対象となった荘園は1045年(寛徳2年)以降に限定されました。
保元の荘園整理令
1156年(保元元年)に後白河天皇の近臣・信西らが主導して発布した「保元新制」は、荘園を規制する側面が強いため、保元の荘園整理令とも呼ばれています。
荘園の支配者はそもそも天皇であることを宣言しており、荘園を新たに設立する場合は天皇の許可が必要になりました。また、当時は公田を勝手に耕して自分のものであると主張する手口が横行していたため、この「出作・加納」も禁止。
しかし、その後平清盛が政治の主導権を握ったことで天皇の地位向上を狙った保元新制は軽視され、思うような効果は得られませんでした。他にも荘園整理令はたびたび出されており、その数は計11回に及びます。いずれも荘園による貧富の拡大や権力者の抑制にはつながらず、効果は限定的でした。
地方豪族や寺社の隆盛
朝廷の権力者と手を結んだ国司の横暴が激しくなると、各地でたびたび反乱が起こるようになります。つど発布された荘園整理令がことごとく効果を発揮しなかった通り、地方行政を朝廷の法律で取り締まることは不可能となり、地方の権力者の罪を問う方法は、武力に頼る他ありませんでした。
例えば平将門の乱は、国司の配下である大掾(だいじょう)が平将門の所領を横領したことがきっかけと言われています。こうした争いが各地で起こるようになったことで、地方に下向した下級貴族や地元の豪族達は徐々に武装化していきました。
平安時代中期以降になると、寺社も独自の武装兵力を持つようになり、武力を背景に国司に対抗するようになります。もともと巨大寺社は広大な領地を有しており、境内に都市を形成するほど人が集まっていました。墾田永年私財法が発布された当時、もっとも自墾地系荘園を増やしやすかったのが寺社だったのです。
初期荘園を多く抱えていたことで、寺社勢力は高い経済力を維持。やがて強訴と呼ばれる武力行使で、朝廷に対してもたびたび自分達の要求をのませるようになりました。平安時代後期になると、国司の人事すら動かす寺社が現れます。
「伊勢神宮」(三重県伊勢市)は、1030年(長元3年)に御神酒を造るための田を無断で刈り取った国司「源光清」(みなもとのみつきよ)を配流へ追い込み、1037年(長暦元年)には「石清水八幡宮」(京都府八幡市)が、神人(じにん:神社に仕える下級神職)を射殺した国司「源則理」(みなもとののりまさ)を朝廷に訴え、流罪としています。
平安時代末期に院政を敷き政界のトップに君臨していた後白河法皇ですら、思い通りにならない存在として「鴨川の水、双六の賽、山法師」を挙げるほど寺社勢力は強大なものとなっていたのです。
平氏の栄華を支えた海上交易
藤原北家が隆盛を極めた時代は、所有している荘園数こそ財力の象徴でしたが、平清盛が覇権を握ると大きな変革が起こりました。平清盛の父・平忠盛が海賊追討使に任命され、平清盛とともに瀬戸内海を制圧。
瀬戸内海の制海権を掌握したことにより海上の交易路が確保できるようになり、貿易によって莫大な収益を上げはじめたのです。当時、日本と宋は民間での取引(私貿易)こそ細々と行われていたものの、国同士の貿易は行われていませんでした。
日本における貿易港の拠点となっていたのは太宰府や博多でしたが、平清盛は「大輪田泊」(おおわだのとまり:現在の神戸港)を交易港として改修。太宰府や博多だけでなく、都近くまで交易船を入港できるように整備したのです。
日宋貿易によって生み出された莫大な富は、平氏政権を支える原動力となりました。1168年(仁安3年)、平清盛が「厳島神社」(広島県廿日市市)に大規模な社殿を造営し、平氏の氏神と定めたのも、平氏の繁栄が海運によるものであったことを示しています。
荘園制度から武家の経済・封建制度への転換
荘園などの土地が経済基盤である形態は江戸時代まで引き継がれますが、平安時代末期に土地を譲与する方法に大きな変革が起こりました。手柄を立てたときに領土が安堵されたり、新恩が与えられたりする「封建制度」が普及しはじめたのです。
直接的な契機となったのが、源頼朝が平氏の大軍を破った富士川の戦い。このとき源頼朝は、通常朝廷にうかがいを立ててから行うべき論功行賞を独断で行い、鎌倉幕府の成立基盤である「御恩と奉公」の基礎を作りました。
朝廷を通さない場合、通常は公的な報酬にはなりませんでしたが、源頼朝は平家滅亡後に帳尻合わせをします。1191年(建久2年)に後白河法皇が出した「建久新制」の中で、源頼朝が諸国守護権を握ることを認めさせ、すでに恩賞として与えていた土地を、後追いで公式なものと定めたのです。
荘園の寄進や付与の場合は明確な規則を設けていなかったため、権力者が荘園を自由に没収したり加増したりすることも可能でしたが、源頼朝は侍所という役所を設け、権力者個人ではなく組織(鎌倉幕府)と武士の契約という形式を採用。これにより土地すなわち経済力は、武功をたくさん上げた者に与えられるという仕組みとなり、富の集中が軽減されていったのです。
平安時代の外交
遣唐使の復活と密教の伝来
平安時代の外交は、遣唐使にはじまります。804年(延暦23年)に桓武天皇が27年ぶりに遣唐使を派遣。「藤原葛野麻呂」(ふじわらのかどのまろ)が大使を、副使は「石川道益」(いしかわのみちます)が務めています。同行者のなかには、のちに天台宗を開く「最澄」(さいちょう)や、真言宗の開祖「空海」(くうかい)がいました。
遣唐使の目的は、貿易ではなく大陸の政治制度や文化、技術などを学ぶこと。最澄と空海が同行したのも、中国の新しい仏教を知る目的がありました。日本が唐から学ぶ立場であったため、唐も日本を対等な国とは認めておらず、朝貢国(ちょうこうこく:貢ぎ物を献上する国)と捉えていたのです。
現在ほど造船技術や航海技術が発達していなかったことから、遣唐使の派遣は命がけでもありました。出航は五島列島の福江島からで、全4艘のうち2艘が遭難し、唐にたどり着いたのは2艘のみ。一行は唐の都・長安に入り、皇帝に謁見し、許可された範囲で書物や物品などを購入。唐の文化に触れていきました。
このときの遣唐使が手にした最大の収穫は、最澄や空海が持ち帰った「密教」です。密教とは大日如来(太陽を司る仏が進化した存在で密教の教主)が説いた秘密の教えのことで、苦しい修行の果てに悟りの境地を目指す考え方でした。
特に空海は、当代一の密教家「恵果」(けいか)から直接指導を受け、わずか3ヵ月で奥義を授かると、密教の真髄に到達します。最澄も密教を学んで帰国したものの奥義の体得までは至らず、年下である空海に弟子入りして灌頂(かんじょう:正統な継承者になるための儀式)を受けました。
ところが後年、両者は対立。空海の高野山金剛峯寺(和歌山県高野山町)と、最澄の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)は、密教の二大巨頭として思想面でしのぎを削ることになるのです。
菅原道真による遣唐使の廃止
遣唐使はその後も2度にわたり唐へ派遣されますが、政治や文化面での目立った成果は得られませんでした。平安時代3度目の遣唐使派遣が計画されたのは、894年(寛平6年)です。当初は宇多天皇のもとで辣腕をふるっていた菅原道真が大使になる予定でしたが、唐から学ぶべき政治体制がもはや底をついている点や、そもそも遭難が多すぎる点などを指摘し、遣唐使の廃止を提案。
実際、14年後に唐は滅亡しています。この決断は、日本独自の文化形成に大きな影響をもたらしました。日本国内の文化に目を向けるようになり、国風文化が醸成されるきっかけになったのです。
平清盛が主導した日宋貿易が行われた背景
遣唐使が廃止されたあとも、太宰府や博多などの港では細々と中国との貿易が続けられていましたが、国家間の外交が再開されたのは1173年(承安3年)頃のこと。遣唐使が政治体制や文化の輸入を目的にしていたのに対し、日宋貿易は交易を主な目的としたもので、日本が経済面の恩恵を目指して開始したはじめての貿易とも言えます。
その背景には、宋の情勢が大いに関係していました。この頃、宋は北方民族である金に攻め込まれ南下し、中国大陸の南半分に南宋を建国したところ。宋人はこぞって南へ移住し、建設ラッシュが起こっていたのです。
そこで宋人が目を付けたのが日本の木材でした。平清盛は、まず交易路と港の確保を進めます。これまで私貿易の窓口となっていた太宰府と博多を押さえるため、事実上太宰府を統率できる「大宰大弐」(だざいのだいに)に就任し、弟の「平頼盛」(たいらのよりもり)が赴任。博多に日本初の人工港を築きました。
一方で平氏の支配下にある瀬戸内海に大輪田泊を整備し、二大貿易港で入港管理を行い、大々的な貿易事業を展開していったのです。なお、日宋貿易は当初木材の輸出が中心でしたが、平氏の所領である伊勢国(現在の三重県北中部)で水銀が産出されることが分かると、主な輸出品は水銀などの鉱物へ移行。
宋銭
宋銭
他にも日本刀や硫黄なども輸出されたと言われています。輸入品は主に宋銭や陶器をはじめとする美術品や書籍など。
宋銭はもともと、当時の宋船が転覆しやすかったため重しとして積まれていた物でしたが、平清盛が貨幣の利便性に目を付けて大量に輸入するようになりました。
宋銭を利用して平氏の経済力を裏付けようと考えたのです。ところが、宋銭の流通は大いに反発を生みました。当時日本は物々交換が主流で、貨幣の役割を担っていたのは絹や米。宋銭の流入は絹の価値低下を引き起こし、朝廷の財政は悪化してしまいました。
これに苦慮した後白河法皇は「宋銭は贋金と同じ」だと断じ、宋銭の流通を禁じたことが原因のひとつとなり、後白河法皇は幽閉されてしまいます。ただし、宋銭の流通量に歯止めがかかることはなく、鎌倉時代に入ってからも貨幣として用いられました。
平安時代の文化と生活
怨霊信仰の広まり
平安時代は、数多くの天災に見舞われた時代でもありました。特に859〜877年の貞観年間の被害はひどく、861年(貞観3年)に筑後国(現在の福岡県南部)の直方(福岡県直方市)に隕石が落ちたのを皮切りに、863年(貞観5年)には都で疫病が流行し多数の死者を出した他、864年(貞観6年)には富士山が噴火したのです。
現在の青木ヶ原樹海が生まれたのは、このときの溶岩によるもの。さらに868年(貞観10年)には播磨国(現在の兵庫県南西部)で地震が発生し、869年(貞観11年)には東北地方を大津波が襲う大地震が起きています。
平安時代初期まで、こうした天災は自然や神の怒りだと考えられていました。しかし、たび重なる災害に見舞われた貞観年間あたりから、天災は怨念、すなわち恨みを残して死んでいった者達の「たたり」だと考えられるようになってきました。
この考えの背景には密教の影響があったとされています。密教は、個人の精神世界に目を向けて己を切磋琢磨する信仰。そこに日本古来の「神祇信仰」(じんぎしんこう:仏教渡来前から信仰されてきた古神道のこと)のうち、祖先信仰(死んだ祖先が生きている者の生活に影響を与えているという考え方)などが合わさり「怨霊信仰」が一般化していったのです。
怨霊信仰が定着した一因は、太宰府に左遷されてから非業の死を遂げた菅原道真の失脚にかかわった人々が、次々と変死を遂げたことにありました。まず、菅原道真に嫌疑をかけた「藤原定国」(ふじわらのさだくに)と「藤原菅根」(ふじわらのすがね)の両名が謎の死を遂げ、左遷の黒幕とされる政敵・藤原時平が病死。
さらに左遷を決定した醍醐天皇は、最愛の皇太子「保明親王」(やすあきらしんのう)を失った上、その後皇太子に立てた保明親王の子「慶頼王」(やすよりおう)まで早逝したのです。ちなみに保明親王は藤原時平の甥、慶頼王は外孫にあたります。
この一連の出来事に醍醐天皇はたたりを確信。公式に菅原道真追放の詔を取り消し、官位を右大臣に戻して正二位の地位まで与える詔を発し、「北野天満宮」(京都府京都市)を造営し、死者の霊を弔ったのです。
しかし、醍醐天皇の悔恨むなしく、930年(延長8年)には内裏(天皇の御所)の清涼殿に雷が落ち、数名の死傷者が出る事態となりました。さらに醍醐天皇は病に伏せり、3ヵ月後に崩御。これによりたたりが実在することは、この時代の一般常識と呼べるほど当然の考え方となったのです。
仮名文字による新たな物語や日記の誕生
平安時代は日本史上もっとも文学が発展した時代のひとつでした。とりわけ文学史を代表する女流作家が次々と現れ、仮名文学と呼ばれる日本独自の文学が発展。その背景には、仮名文字の誕生が深くかかわっています。
もともと日本語は、独自の書き文字を持たない言語で、文字を記す場合は、中国渡来の漢字のみが用いられていました。しかし、894年(寛平6年)に遣唐使が廃止されると、日本独自の文化が醸成し、書き文字も変化。漢字の音を当てはめた仮名文字が広く用いられるようになり、さらに書き崩した片仮名や平仮名が生まれたのです。
これにより、会話と同程度の緻密さで文章表現をすることが可能になりました。やがて、日本最初の物語である「竹取物語」や「伊勢物語」が登場。いずれも作者・成立年は不明ですが、ここから仮名文学が広く親しまれるようになります。
これまで読み物と言えば、「古事記」に代表されるような神話が中心でしたが、「竹取物語」や「伊勢物語」は主人公の心の葛藤が主軸。表現する対象が劇的に変わり、より人間の内面を追求するようになりました。
仮名文字が、日常の何気ない事柄の描写に適していたことから、やがて、日記調の文学が流行しはじめます。935年(承平5年)には日記文学の代表作「土佐日記」が成立。天皇の命で編纂された「古今和歌集」の撰者(せんじゃ)として知られる「紀貫之」(きのつらゆき)が、女性目線で土佐国(現在の高知県)から京へ帰る紀貫之一行を描きました。
当代一流の歌人が、ユーモアを交えて展開するスタイルを開拓したことで、仮名文学の裾野はさらに拡大。こうした地盤が形成されたあと、仮名文学を代表する女流作家、清少納言や紫式部などが現れることとなったのです。
両者が活躍したのは、藤原道長が権勢を誇っていた時代でした。清少納言は藤原道長の姪・藤原定子に仕え、1001年(長保3年)頃までに「枕草子」を書き上げます。四季の草花やふとした日常生活を巧みに切り取り、「をかし」と称される美的表現を完成させました。紫式部は藤原道長の娘・藤原彰子に仕え、1008年(寛弘5年)に源氏物語を発表。
計54巻にも及ぶ大長編で、主人公の光源氏を通して平安貴族の生活と実情、葛藤などを克明に描き出しています。登場人物は約500名に及び、恋愛小説としては世界でも比類ない作品です。仮名文学の到達点として、現在も20ヵ国以上の国々で翻訳されています。
平安貴族の遊びについて
平安時代の貴族は、午前中に朝廷での勤めを終えたら午後は基本的に自由時間でした。この空いた時間に行われていたのが、平安時代に流行した様々な遊びです。
「蹴鞠」(けまり)
鹿革を馬革で縫い合わせて作った鞠を落とさずに蹴り合う、サッカーのリフティングに近い遊びです。主なルールは、必ず3回以上蹴ってから相手に渡すことや、近くの木々のうち一番低い枝以上の高さに蹴り上げることなど。宮廷内に競技場なども設けられ、2人1組となって、どの組が一番長く続けられるかを競うこともありました。
「小弓」(こゆみ)
室内で行う射的遊びです。ぶら下げた的を専用の小さな弓で打ち、あたる回数を競います。
「打毬」(だきゅう)
竿の戦端に網を張った「毬杖」(さで)というスティックを使って、「毬門」(きゅうもん)というゴールに毬を投げ入れる遊びです。馬に乗って行う競技と徒歩で行う競技がありました。現在のポロとホッケーに近い球技です。
「物合」(ものあわせ)
2組に分かれて、双方で物を出し合いどちらが優れているか勝負する遊び。小鳥の鳴き声を競う「小鳥合」(ことりあわせ)や、雄鶏を戦わせる「鶏合」(とりあわせ)、花の美しさを競う「花合」(はなあわせ)、和歌の腕を争う「歌合」(うたあわせ)などがあります。
「州浜づくり」(すはまづくり)
盆の上に砂や石を配して入江の風景などを作り出す箱庭遊びです。州浜は宴の飾り物としても用いられていました。枯山水や盆栽などは、この遊びから生まれたと言われています。
「碁」(ご)
現在の囲碁のことです。中国から伝来した遊びですが、日本で広くたしなまれるようになったのは平安時代からのことでした。清少納言も趣味として楽しみ、「枕草子」にもたびたび登場します。
この他にも、3月の「曲水の宴」(きょくすいのえん)、8月の「観月の宴」(かんげつのえん)、9月の「重陽の宴」(ちょうようのえん)など、娯楽色の強い行事も頻繁に行われていました。出席者は詩歌を詠んだり、琵琶・琴の演奏をしたり、舞を披露したりするので、教養が試される場でもあったのです。
これらの行事は遊びと言うよりも接待に近かったと言われています。なお、庶民の間でも様々な遊びが流行しました。
紐など用いて回す「独楽」(こま)や、笹竹の枝に跨がって行う騎馬ごっこ「竹馬」、人形を着替えさせたりして楽しむ「雛遊び」(ひいなあそび)、銭を使ってめんこ遊びを行う「銭打」(ぜにうち)など、現在にも受け継がれている遊びが多いのも特徴です。
国風文化が生んだ美術品の数々
藤原北家によって摂関政治が行われた時代に花開いた文化は、仮名文学だけではありませんでした。「蒔絵」(まきえ:漆で模様を描く技法)や「螺鈿細工」(らでんざいく:貝殻の光沢を装飾に利用する技法)などが美術品に用いられるようになり、建築物では「寝殿造」(しんでんづくり)などの邸宅建築が流行し、屋内に上がるとき履物を脱ぐ文化が生まれました。
こうした日本独自の美意識が芽生えた文化活動のことを「国風文化」と言います。また、当時の文化に特に大きな影響を与えたのは、庶民の間で広まった浄土信仰でした。阿弥陀仏にすがって念仏「南無阿弥陀仏」を唱えれば、死後に極楽浄土へ行けると説いた教えです。
その先駆者として知られる人物が「空也」(くうや)。町中で大衆に仏の道を説いて回ったことから「市聖」(いちのひじり)と呼ばれ、井戸掘りや道路作り、橋の建設などの公共事業も行いました。
空也から広まった浄土信仰は、庶民だけでなく貴族の間にも浸透していきました。藤原道長なども晩年は浄土信仰にのめり込み、1022年(治安2年)に阿弥陀仏を御本尊とする法成寺を建立。死の間際も藤原道長は念仏を唱え続けていたと言われています。
これほど浄土信仰か広まった理由は諸説ありますが、特に大きな影響を及ぼしたと考えられているのが怨霊信仰です。怨霊すなわち「たたり」が実在するのであれば、この世はそうした恨み辛みが溜まっていくお皿のようなもの。つまり現世は穢れとともに存在するのが常です。穢れは人畜の死や出産、罪悪、疫病などに宿っており、接することで伝染すると考えられていたため、日々の生活も極めて窮屈なものでした。
そこへ、念仏を唱えるだけで救われるという教えが登場。人々はこぞって浄土信仰を歓迎し、一気に広まっていったのです。やがて、念仏を唱える際に思い描く仏の姿や極楽浄土の風景は、対象が具体的な方が祈りやすいことから建築物や美術作品などで表現されるようになります。こうして生まれたのが、国風文化を代表する芸術様式のひとつ「浄土美術」でした。
建築物では、「平等院鳳凰堂」(京都府宇治市)や「法界寺阿弥陀堂」(京都府京都市)、「中尊寺金色堂」(岩手県平泉町)などが挙げられます。彫刻では、平等院鳳凰堂の「阿弥陀如来像」や「三千院」(京都府京都市)の阿弥陀三尊像、「法界寺阿弥陀如来像」など。絵画では、高野山の「阿弥陀聖衆来迎図」(あみだしょうじゅらいごうず)や平等院鳳凰堂の「板絵」(いたえ)が有名です。
平安時代の合戦
「延暦二十年の征夷」
平安時代のうち最初に起こった大きな戦いが、801年(延暦20年)の「延暦二十年の征夷」(えんりゃくにじゅうねんのせいい)です。奈良時代からたびたび行われていた「蝦夷征討」(えみしせいとう)の総仕上げとなった戦いで、桓武天皇の即位中3度目の出兵でした。総大将は征夷大将軍の坂上田村麻呂。
約40,000の軍勢で蝦夷の族長・阿弖流為を攻めました。両軍は陸奥国の胆沢(岩手県奥州市)で激突。戦いの様子はほぼ記録に残っておらず、平安時代に変遷された歴史書「日本紀略」には「夷賊を討伏す」とだけ記されています。
その後、蝦夷を統治するために築かれた胆沢城(岩手県奥州市)の築城中に、阿弖流為が同胞の族長「盤具公母禮」(いわぐのきみもれ)とともに投降。坂上田村麻呂は2人を連れて平安京へ帰京し、服従を受け入れて陸奥国へ返す旨を奏上しました。
しかし、公卿達はこれに猛反対。斬罪を指示され、河内国(現在の大阪府南西部)で両名を処刑しました。この蝦夷平定によって、朝廷の勢力圏は現在の東北地方にまで拡大したのです。
「承平天慶の乱」
「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)は、平安時代中期に起こった反乱で、関東地方を制圧した平将門の乱と、瀬戸内海で猛威をふるった藤原純友の乱の総称です。この時期、地方では国司の権力が増長し、地元の豪族らとたびたび争いが起こっていました。
平将門の乱の発端にも国司が影響しており、平将門在京中、伯父で常陸国(現在の茨城県)の大掾を務めていた「平国香」(たいらのくにか)が所領を横領していたことが原因となったのです。激怒した平将門は935年(承平5年)に平国香を殺害。その際、平国香の同胞「源護」(みなもとのまもる)の子「源扶」(みなもとのたすく)ら三兄弟に襲われる事態となり、こちらも討ち取ってしまいます。
一度は源護の訴えで京へ召喚された平将門ですが、恩赦により無罪放免になると源護や平国香の弟「平吉兼」(たいらのよしかね)らは反発。ここに一族間での争いが勃発しますが、平将門はそれらをことごとく退け、勢力を拡大しました。しかし、このときはまだ反乱と呼べる状態ではありませんでした。
一線を越えたのは、939年(天慶2年)、地元の豪族「藤原玄明」(ふじわらのはるあき)に頼られ常陸国府と激突したときです。平将門は1,000の兵で3,000の国府軍を打ち破ると、国府を焼き払って印綬(いんじゅ:国司の証明書)を奪取。
さらに世直しと称して近隣の国府を次々と攻めて印綬を奪うと、やがて8ヵ国を占領するまでに勢力を拡大し、新皇を自称するようになりました。朝廷は追討軍を出しつつ、同時に「平将門を討ち取った者は誰でも貴族にする」と全国へ通達。ここで立ち上がったのが下野国(現在の栃木県)の官人「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)です。
甥の「平貞盛」(たいらのさだもり)らと4,000の兵を集め、平清盛の本拠・下総国(現在の千葉県北部・茨城県南西部)を攻撃。対する平将門は、兵が出払っておりわずか1,000の軍勢しか集められませんでした。
戦いは徐々に平将門軍が押し込まれ、幸島郡(茨城県古河市)で最後の決戦を決行。このとき平将門軍の手勢はわずか400の寡兵でしたが大軍相手に一歩も引かず、一時は優位に立ちました。しかし、突如反撃を受けた際、流れ矢に当たり最期を迎えるのです。
東国を大混乱に陥れた平将門の乱とほぼ同時期に、西国で暴れ回ったのが藤原純友です。もともとは伊予国(現在の愛媛県)の掾(じょう:国司に従う判官)を務め、海賊を鎮圧する任務にあたっていましたが、936年(承平6年)頃に海賊の統領となると、瀬戸内海を制圧。1,000艘以上の船を有す巨大勢力に発展しました。
淡路国(現在の兵庫県淡路島)や伊予国、讃岐国(現在の香川県)の国府などを次々と襲って略奪行為を働くと、やがて西国最大の拠点である太宰府まで占領しました。ところが941年(天慶4年)、追捕使「小野好古」(おののよしふる)・次官「源経基」(みなもとのつねもと)らの軍勢を迎え撃った「博多湾の戦い」で大敗を喫し、伊予国へ落ち延びたところを捕縛。反乱は鎮圧されました。平将門の乱の終焉から、わずか2ヵ月後のことでした。
前九年の役と後三年の役
平安時代後期に起こった前九年の役と後三年の役は、陸奥国と出羽国が主な戦場となった戦いです。この時期、朝廷は地方をほぼ野放し状態にしており、地方行政は朝廷から派遣された国司に一任されていたため、強大な勢力を持ち、かつ都から離れている豪族にとって邪魔なのは国司だけで、もはや朝廷はないに等しい存在でした。
陸奥国の豪族「安倍氏」(あべし)はその代表格。安倍氏は11世紀中頃から朝廷への年貢を拒み、ほとんど独立国に近いかたちで領地を治めていたのです。1051年(永承6年)、安倍氏の棟梁「安倍頼時」(あべのよりとき)は、国司の領土にまで進出を開始します。陸奥国の国司「藤原登任」(ふじわらのなりとう)は数千の兵を繰り出し、安倍氏の侵攻に対処。こうして起こったのが「鬼切部の戦い」(おにきりべのたたかい)です。
この戦いで国司軍が敗北したことにより、朝廷は次に源氏の嫡流・源頼義を陸奥国の国司に任命。1028年(長元元年)に関東で起こった「平忠常の乱」などで勇名を馳せていた源頼義が、嫡子・源義家を引き連れて赴任すると聞いた安倍氏は、その武力を警戒し恭順の姿勢を示しました。
ところが、源頼義の任期がちょうど終わる時期であった1056年(天喜4年)、源頼義の部下が野営しているとき何者かに襲われ、その犯人が安倍頼時の子「安倍貞任」(あべのさだとう)だという疑いが浮上(阿久利川事件:あくとかわじけん)。
これにより源頼義と安倍頼時による戦いが起こります。安倍氏に属していた「藤原経清」(ふじわらのつねきよ)と「平永衡」(たいらのながひら)が源頼義に味方したことで、早期に決着するかに思われましたが、源頼義が平永衡を謀反の疑いで殺害すると、藤原経清が敵対。戦いは長期戦となりました。なお、阿久利川事件については、源頼義が陸奥国を支配下に置くために行った策略だとも言われています。
いったんは任期どおりに国司を退いた源頼義でしたが、すぐに返り咲くと安倍氏攻略に着手。しかし、安倍頼時は討ち果たしたものの、その後棟梁を継いだ安倍貞任が頑強な抵抗をし、1057年(天喜5年)の「黄海の戦い」(きのみのたたかい)では安倍・藤原連合軍の前に源頼義軍が敗北しました。源義家の活躍で辛うじて退却に成功したものの、安倍氏優勢の戦況が続きます。
そこで源頼義が講じた策が、隣国・出羽国を実質支配していた豪族・清原氏(きよはらし)を味方に引き入れることでした。源頼義は、棟梁「清原光頼」(きよはらのみつより)に贈り物を続けて参戦を懇願したとも言われています。清原氏を味方に引き入れた源頼義は一気に優位に立ち、次々と安倍軍を撃破。やがて安倍氏の本拠地である厨川柵(くりやがわのさく:岩手県盛岡市)を攻め落とすと、ようやく12年に及ぶ戦乱に終止符が打たれたのです。
ところが20年後、再び陸奥国に争いの火種が起こります。安倍氏の領土を吸収した清原氏に家督争いが勃発。棟梁を継いだ「清原真衡」(きよはらのさねひら)に対し、異父兄弟である「清原清衡」(きよはらのきよひら)とその弟「清原家衡」(きよはらのいえひら)が離反したのです。ここで介入したのが、国司として赴任した源義家でした。
清原真衡に味方して清衡・家衡を破り、いったん争いに終止符が打たれましたが、その後、清原真衡が急死したことで状況は一変。嫡子がいなかったため、源義家の裁定で清原清衡と清原家衡が、領土を半分ずつ相続することになったのです。
すると今度は、この両者が対立してしまいます。領土が少なかった清原家衡が兵を挙げ、清原清衡の館を急襲。源義家は清原清衡に味方し、ともに清原家衡軍を攻撃しました。空を飛ぶ雁の群れの乱れから伏兵を察知するなど、名将らしい戦いぶりで敵を追い詰めた源義家でしたが、清原家衡は籠城策を駆使してたびたび源義家軍を撃退。戦いは長期戦へと突入します。
決着がついたのは1087年(寛治元年)です。清原家衡の居城・金沢柵(かなざわのさく:秋田県横手市)を兵糧攻めで攻略。戦役から5年を経て、ようやく戦いに終止符が打たれたのです。ところが、源義家が朝廷に奥州平定を報告すると私戦(個人的な戦い)と見なされ、恩賞や戦費の支払いはゼロ。
源義家は自腹で家臣達に褒賞を与える他ありませんでした。朝廷は、これ以上武士が力を持つことを恐れていたのです。なお、清原清衡はのちに藤原清衡と名を変え、奥州藤原氏の初代当主に就任しました。
保元の乱と平治の乱
武士の世が到来するきっかけとなった合戦が、1156年(保元元年)の保元の乱です。皇位継承問題と摂関職後継問題が絡み合い、崇徳上皇・藤原頼長(氏長者)に対立する後白河天皇・藤原忠通(関白)の構図が生まれました。源氏と平氏の武将は親子や親戚で敵味方に分かれて対立。源為義(源氏の棟梁)や平忠正(平清盛の伯父)らは崇徳上皇側、平清盛(平氏の棟梁)と源義朝(源為義の嫡男)らは後白河天皇側につきました。
はじめに後白河天皇側は藤原頼長に謀反の疑いをかけ、財産を没収。この事態に狼狽した崇徳上皇は、次に狙われるのは自分であると考えて御所を脱出し、軍勢を白河北殿へ集めました。対する後白河天皇側は高松殿に軍勢を結集。
ここで双方は軍議を開き、今後の方策を練りました。焦点となったのは夜襲決行の是非です。崇徳上皇側は源為義が献策し、後白河天皇側は源義朝と信西が主張したと言われています。結果、夜襲を実行したのは後白河天皇側。兵力に劣る崇徳上皇側は、興福寺(奈良県奈良市)からの援軍を待つ決断を下したのです。
早朝、平清盛軍300騎と源義朝軍200騎は白河北殿を包囲し、いっせいに攻撃を開始。不意を突かれた崇徳上皇側は、源為義の子「源為朝」(みなもとのためとも)の強弓などで抵抗を見せますが、やがて総崩れとなり、後白河天皇側が勝利しました。崇徳上皇は流罪に処され、藤原頼長は重傷を負って失意の中命を落とし、源為義や平忠正はそれぞれ源義朝と平清盛の手で処刑されました。
その後、勝利の立役者となった平清盛と源義朝は政権の中枢に抜擢。互いに後白河天皇を支える存在として、政権に大きな影響を及ぼすようになるのです。再び争いが起こったのは、保元の乱から3年後の1159年(平治元年)のこと。原因は院政を開始した後白河上皇の側近である2人、信西と藤原信頼の対立でした。
藤原信頼は保元の乱における恩賞で平清盛に格差を付けられていた源義朝の不満を利用して裏で結託。平清盛が熊野詣(和歌山県田辺市などにある熊野三山への参詣)に出かけた隙を狙って挙兵し、500騎で御所を急襲して後白河上皇を拘束すると、逃亡した信西を見つけ出し自害へ追い込みました。これを聞いた平清盛は、そのまま落ち延びるべきか帰京すべきか悩んだ末、都に戻り藤原信頼に恭順の姿勢を示します。
ところが、平清盛は帰京時に紀伊国(現在の和歌山県・三重県南部)の軍勢を引き連れており、数の圧力で京の勢力図を優位に保つと、藤原信頼に不満を持つ貴族達を味方に引き入れて反撃を画策。後白河上皇を「仁和寺」(京都府京都市)に逃がし、二条天皇を六波羅(京都府京都市)の自邸へ招き入れることに成功しました。
平清盛軍3,000騎は、藤原信頼・源義朝軍800騎を六波羅周辺へとおびき寄せると一蹴。藤原信頼は斬首、源義朝は東国へ逃れる途中、尾張国(現在の愛知県西部)で味方の裏切りにあい入浴中に誅殺されてしまいました。このあと、平清盛は政権を掌握し、事実上国政の頂点に上り詰めたのです。
「源平合戦」(治承・寿永の乱)
平安時代に終わりを告げた「源平合戦」は、別名「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)とも呼ばれています。1180年(治承4年)、平氏政権への不満から以仁王と、源氏で唯一平氏政権の中枢に抜擢されていた「源頼政」(みなもとのよりまさ)が挙兵したことが発端。以仁王と源頼政の軍は討伐され両名とも戦死を遂げますが、源頼朝のもとへ集結した源氏諸勢力はその後相次いで挙兵をしていきました。
1180年(治承4年)に起こった「石橋山の戦い」に大敗しながらも、同年の富士川の戦いにおいて源氏優勢へと転じます。源頼朝と甲斐源氏の「武田信義」(たけだのぶよし)らの連合軍が平重盛の嫡子「平維盛」(たいらのこれもり)と対陣しますが、このとき源氏約40,000騎に対して、平氏は2,000騎しか兵を集めることができませんでした。
一説によると、飛び立つ水鳥の羽音に驚いた平氏が敵襲と勘違いし、戦わずして退却したと言われています。1183年(寿永2年)には、信濃国(現在の長野県)で挙兵した「木曽義仲」(きそよしなか:源義仲)が、「倶利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい)で平維盛率いる平氏軍約70,000を撃破。
一説では平氏が総力を結集して送り込んだ大軍を、角に松明をくくり付けた数百頭の火牛を敵陣に放つという奇想天外な計略によって打ち破ったと言われています。倶利伽羅峠の戦いの大敗により平氏一門は京都から追い落とされ、再起を図るため西国へと落ち延びていきました。
木曽義仲(源義仲)は上洛を果たしますが、平氏の圧力から解放された後白河法皇との間で新たな問題が起こります。木曽義仲(源義仲)が皇位継承問題に口を挟んだり、兵士達が略奪を働いて京の治安を悪化させたりするなどの問題行動を起こしたことで、両者は決裂。1183年(寿永2年)には武力衝突(法住寺合戦)まで起こり、再び後白河法皇は幽閉されてしまいました。
幽閉された後白河法皇は源頼朝に上洛の宣旨を出します。この頃伊豆国から本拠地を相模国(現在の神奈川県)の鎌倉(神奈川県鎌倉市)に移し、関東地方一帯を支配下に治めていた源頼朝は、自らは本拠地に留まり、弟の「源義経」(みなもとのよしつね)と「源範頼」に出陣を命じました。そして1184年(寿永3年)の「粟津の戦い」(あわづのたたかい)で木曽義仲(源義仲)を討ち取り、源氏の棟梁は源頼朝であることを世に知らしめたのです。
その後、後白河法皇から平氏追討の宣旨を受けた源頼朝は、源義経・源範頼に出陣を命じ、平氏との全面対決に臨みます。主な戦いは、1184年(寿永3年/元暦元年)の「一ノ谷の戦い」と1185年(寿永4年/元暦2年)に起こった「屋島の戦い」、最終決戦となった「壇ノ浦の戦い」です。いずれも源義経は奇策で平氏を圧倒しました。
一ノ谷の戦いで総大将を務めたのは源範頼です。総勢約66,000騎で、平氏約80,000騎が守りを固める一ノ谷へと進軍を開始。一ノ谷は海と断崖に囲まれた難攻不落の地であったため、まともに攻めても勝ち目はありません。そこで源氏は挟撃作戦を採り、源範頼の率いる大手軍(敵の正面を攻撃する軍)と、源義経率いる搦手軍(敵の背後を突く軍)の二手に軍勢を分けました。
源義経は初戦の「三草山の戦い」で夜襲を仕掛けて勝利を収めると、兵を分けてさらに獣道へと分け入ったのです。このとき源義経が率いていた手勢はわずか70騎。その頃、源範頼は平家屈指の名将「平知盛」(たいらのとももり)らが構築した強固な守りに手こずり、一ノ谷の入口で攻めあぐねていました。
戦況が変わったのは、源義経が一ノ谷背後にそびえる断崖絶壁に到着したとき。鹿が崖を降りているのを指さし「皆の者、駆け下りよ」と号令をかけた源義経は、自ら先陣を切って馬で崖を下りると、敵陣のど真ん中に突入したという伝説が残っています。予期せぬ場所から敵が現れたことで平氏軍は大混乱。次々と海へ逃げ出しました。この機に源範頼も総攻撃をしかけ、見事勝利を収めたのです。
予期せぬ敗北を喫した平氏は、本拠地の屋島(香川県高松市)で軍勢の立て直しを図ります。早く追撃したい源氏でしたが、屋島へ渡るための船が足りず膠着状態が続きました。その間、源頼朝は平氏の退路を塞ぐべく、源範頼に九州の制圧と水軍の確保を命令。源範頼は兵糧難にあえぎながらも、備前国(現在の岡山県東南部)での「藤戸の戦い」(ふじとのたたかい)などで辛勝を収めて九州へ上陸を果たします。
やがて1185年(寿永4年/元暦2年)に太宰府を制圧し、平氏の拠点である九州の制圧に成功するのです。これにより屋島に留まる平氏の背後は遮断されてしまいました。そこで源義経は後白河法皇から出陣の許可を得ると、わずか150騎で出陣し、暴風雨の中で船を出して屋島へ上陸。一帯の民家などに火を放つことで大軍をカモフラージュしつつ背後から奇襲作戦を敢行し、再び平氏を敗走させたのでした。
四国の拠点まで失い、九州も制圧された平氏には、もはや瀬戸内海に浮かぶ拠点・彦島(山口県下関市)しか残されていません。そこへ勢いにのった源義経軍が押し寄せ、こうして1185年(寿永4年/元暦2年)、壇ノ浦の戦いが開戦。源氏は840艘の船で彦島へと進軍し、対する平氏は500艘の船で迎え撃ちました。
戦いは序盤こそ船の操縦に慣れている平氏が優勢でしたが、潮目が変わると源義経軍が反撃。平氏の水軍は壊滅状態に陥ります。陸には源範頼軍30,000がひかえており、逃げ道も残されていませんでした。やがて最後を悟った平氏一門は、安徳天皇らとともに次々と海に身を投げ、滅亡。ここに5年に及ぶ源平合戦が終了し、武士の時代となる鎌倉時代へと突入していくのです。
なお、源平合戦で最大の武功を挙げた源義経は、許可を得ずに後白河法皇から検非違使の役職を授かっていたことが原因で、源頼朝と決別。一度は直接申し開きをするため鎌倉へと向かいますが追い返され、逆に刺客を送り込まれてしまいました。
その後、源義経は青年期を過ごした奥州藤原氏を頼りますが、3代当主「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)が没すると、4代当主「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)が源頼朝の圧力に屈し、源義経を急襲。自害へと追い込みました。しかし、奥州藤原氏もまた「勝手に源義経を討った罰」として源頼朝軍に攻められ滅亡してしまうのです。こうして源頼朝に対抗しうる勢力は一掃されました。
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