古代史系譜

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https://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1230.html 【仲麻呂全盛時代】より

 749年7月 阿倍内親王が即位して孝謙天皇になった。

 孝謙 父:聖武  父父:文武    父父父:天武

                   父父母:宝姫(金庾信の姪。鏡王)

          父母:元明    父母父:天智

                   父母母:姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)

    母:光明子 母父:藤原不比等 母父父:天武

                   母父母:宝姫(金庾信の姪。鏡王)

          母母:橘三千代

 孝謙の父の聖武は、新聖武に殺された兄の方である。

 その聖武の母は通説では不比等の娘・宮子だが、本稿では元明が草壁との間に日高(元正)と吉備(長屋親王の妻)を産み、文武と再婚後に聖武を産んだと考える。したがって1/8は天智の血も入っていることになる。

 さらに私見では、天武の長男が文武、次男が不比等だから、それぞれの子である聖武と光明子は従兄妹にあたる。 

 孝謙天皇時代の前半は光明子と藤原仲麻呂が実権を握った。

 皇后ではなくなった光明子は皇后宮を紫微中台と改名し、その長官の紫微令に仲麻呂を任命。

 孝謙即位を玄宗に正式に承認させるため、藤原清河(房前の4男)を遣唐大使、大伴古麻呂を遣唐副使に任命し、752年3月に節刀を与えた。しかし、このときの遣唐使はいつ出発したという記録がなく、754年1月、大伴古麻呂が帰国した記事だけがある。

 清河らに節刀を与えた直後、新羅・景徳王が日本に金泰廉ら700人もの軍勢を送ってきた。

 4月 東大寺の大仏の開眼供養が行なわれたが、孝謙天皇はそのまま仲麻呂邸に入って住み込んでしまう。

 6月 金泰廉が孝謙に調を献上。7月に帰途につくが、難波の客館に泊ったとあり、帰国したとは書かれていない。

 9月 渤海の慕施蒙らが佐渡島に着いた。

 753年1月 朝賀の儀式が行なわれなかった。

 5月 慕施蒙らが朝廷を拝して贈物を貢上した。

 6月 慕施蒙が帰国。

 『続日本紀』は何事もなかったように淡々と記録しているが、孝謙即位の承認を求める遣唐使派遣を巡り、新羅や渤海をも巻き込んだ戦闘があったようだ。

 そこには、かつて新聖武が日本から送り込んだ前新羅王の孝成王も関与していたと思われる。

 再び日本に戻って来た孝成王は、自分こそ新聖武のあとをついで日本国王になる権利があると考えたのではないか。金泰廉率いる700人の新羅軍も、その野望に加担したと考えられるのである。

 753年は新年の儀式も挙行できないほど緊迫した状況にあったが、753年6月までには新羅が負けた形で決着が付き、遣唐使を派遣できたようだ。

 仲麻呂が大欽茂に援軍を要請し、それに応えてやって来たのが慕施蒙の軍勢である。

 渤海は当時、安禄山と同盟して唐に対抗していたので、同盟の輪を日本にも拡げ、親唐の新羅を叩きたいという思惑があったのだろう。

 

 しかしそんな苦労の甲斐もなく、玄宗は孝謙即位の承認を拒否。

 (天武系であっても女帝ならば黙認するというのが唐の基本方針だが、あくまでも黙認であって、正式に承認したことはなかったのだ。)

 藤原清河は在唐大使として現地に留まり、二度と祖国の土を踏むことはなかった。

 それに対し、大伴古麻呂は753年正月の唐の朝賀の際、日本の席次が新羅より低かったことについて「古来より新羅は日本の朝貢国である」と強く抗議し、唐の将軍がこれを聞き入れて席を入れ換えさせた事件で新羅との関係をますます悪化させ、翌754年、鑑真とその弟子たち8人を伴い、凱旋するように帰国したという。

 鑑 真

 日本から唐に渡った栄叡、普照らが鑑真に来日を懇請したのは742年。

 さっそく翌743年に渡海が試みられたが失敗し、その後も何度も失敗を繰り返して、来日には10年もの歳月を要した。船を出すたびに暴風に見舞われたというのだが、そんな不自然な話はあるまい。

 一般に、聖武天皇が仏教の戒律を広めるために鑑真を招いたとされているが、それは来日後の鑑真が東大寺に戒壇院を設け、孝謙天皇が受戒するなどして、唐の名高い名僧として受け容れられたという結果が生んだ後付けであろう。

 新聖武が唯一庇護していたのは行基だったからだ。

 その行基一派の力が強くなりすぎるのを懸念し、鑑真の招聘を決めたのは舎人親王であり、それを10年にもわたって妨害したのは新聖武その人だったと思われる。

 ようやく鑑真が来日できたとき、舎人親王と行基はすでにこの世になく、新聖武も譲位したあとだった。

 そして、鑑真が良弁と共に行基以来の大僧都に任じられたのは、新聖武が没したのと同じ756年5月だった。

 新聖武の目が黒いうちは大僧都になれなかったという事実が全てを物語っている。

 奈良麻呂の変

 新聖武は道祖王(ふなどおう。新田部親王の子、天武の孫)を皇太子に任命するよう遺言したが、翌年、実際に立太子したのは大炊王(おおいおう。舎人親王の子、天武の孫)だった。

 仲麻呂はかねてから皇孫の大炊王に目をかけていて、長男の真従(まより)が亡くなったあとも私邸(田村第)に住まわせていた妻の粟田諸姉を大炊王と再婚させ、大炊王も私邸に招き入れたのだった。

 大炊王はのちの淳仁天皇だが、こうした経緯からも、淳仁が完全に仲麻呂の傀儡だったことは明らかである。

 757年1月 橘諸兄没。

 7月 諸兄の子・奈良麻呂によるクーデターが密告によって未遂に終わる。

 これによって黄文王、道祖王、大伴古麻呂、小野東人ら、反仲麻呂勢力が一掃された。

 主犯である奈良麻呂も殺されたに違いないが、のちに息子の清友が桓武天皇の側近となり、清友の娘が嵯峨天皇の皇后、仁明天皇の母となったことにより、正史は奈良麻呂の処分については何も語っていない。

 

https://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1240.html 【淳 仁】より

 安禄山の乱(安史の乱、755〜763)

 安禄山は康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血児だったと言われている。

 玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽など北方の辺境地域の三つの節度使(唐の官職。辺境警備隊隊長のようなもの)を兼任していた。

 軍事力を手に入れた安禄山の野望はエスカレートし、755年に反乱を起こして、玄宗が首都長安を去って放浪するという事態になった。

 756年 安禄山は一時的に唐を滅ぼし、燕国を僭称したが、757年1月、自分の息子によって殺されてしまった。

 燕国は安慶緒、さらに史思明に引き継がれたので「安史の乱」とも呼ばれ、史思明の子・史朝義が殺される763年まで続いた。

 758年8月 安禄山の乱による唐の混乱に乗じ、日本では孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇となった。仲麻呂がドサクサまぎれに天武系男子の即位を強行したのである。

 安禄山勢力は渤海や中国東北部勢力を支配下に置き、渤海と共闘体制を取っていた仲麻呂も自然の成り行きとして安禄山側についた。

 仲麻呂は唐の威光が目障りな鑑真を引退させ、良弁を大僧都とした。

 760年 光明皇后没。仲麻呂の完全な独裁政治が始まった。 

 762年 唐の玄宗・粛宗が相次いで没し、代宗が即位。

 763年 唐軍が史朝義を滅ぼし、安禄山の乱が終結した。

 代宗は渤海に対しては懐柔作戦を採り、大欽茂を渤海郡王から渤海国王に格上げすると、渤海は完全に唐に臣従する政策に転換したため、渤海の軍事力が頼りだった仲麻呂は国際的に孤立してしまった。

 国内でも、道鏡が仲麻呂を失脚させるための準備を着々と進行させていた。

 道 鏡

 道鏡について『続日本紀』には以下のように記されている。

 道鏡は俗姓は弓削連、河内国人なり。略梵文(サンスクリット文字)に渉りて、禅行を以て聞ゆ。是に由りて内道場に入り、列して禅師となる。宝字五年(761年)、(称徳が)保良(宮)に幸せしより、時に看病に侍して、稍く寵幸せらる。

 弓削氏は物部守屋(突厥系)から派生し、天武朝末期、物部氏と枝分かれした。

 実際、道鏡も守屋の子孫と考えられていたらしい。

 道鏡は自ら天皇になろうとし、称徳(孝謙が重祚)もそれを是認していたことはよく知られているが、あの仲麻呂でさえ淳仁を傀儡とし、自ら即位しようという発想はなかったように、天智もしくは天武の血筋でない者はいかに実力があろうと天皇にはなれないというルールは不動のものだった。

 道鏡は単なる僧侶ではなく、ちゃんと皇統につながる血筋だったからこそ即位の野望を抱いたのである。 

 若き日の道鏡は、葛木山で禅師の修業(のちに孝謙の病気を治療)を積んでいた。

 小林惠子氏は、702年に22歳で新羅王になった聖徳王は、文武天皇の四男(日本生まれ)で、葛木山で修業していた役行者として知られている人物がその正体だという。

 道鏡の弟子の円興なる人物は、役行者の子孫とされる賀茂氏一族である。

 道鏡は、葛木山では役行者の後継者と目されていたようで、賀茂氏一族とはじっこんの間柄だったのだろう。

 聖徳王はその後、新聖武に対して反抗的になったため、736年に大和朝廷の圧力で没し、孝成王が即位した。

 この孝成王こそ道鏡であると小林氏は推理している。

 親聖武は、聖徳王(役行者)の後任として、葛木山でも役行者の後継者と目されていた道鏡がうってつけであると考えたのかもしれない。

  新羅・孝成王 = 道鏡

 天武の子に弓削皇子がいるが、母は天智娘の大江皇女で、祖母は忍海造小龍(おしうむのつくりこたつ)の娘。忍海一族は兵器の製造を職としていた。

 弓削皇子は文武天皇即位に反対し、699年に若くして没した。

 道鏡が弓削皇子の子だったとすれば、半島に亡命した白壁王(志貴皇子の子)と同様、大和朝廷からは追放状態だったと考えられ、ゆえに葛木山で修業をしていたのだろう。

 道鏡 父:弓削皇子 父父:天武                        

           父母:大江皇女  父母父:天智

                    父母母:忍海造小龍の娘

    母:不明

 (なお、小林惠子氏の新説では、道鏡を新聖武の弟(元明に譲位して大陸に渡り、高文簡となった文武天皇の子)としている。いずれにせよ、道鏡が天武の孫であることには違いない。)

 742年 孝成王が死去。しかし実際は、文武の時と同様、火葬して東海に散骨したという記録を残して日本に亡命。

 来日した頃の孝成王は、日本における俗姓を林王といい、仏名を道鏡といったようだ。

 天武の孫ならば、新聖武の次の日本国王の座を狙ったとしても不思議ではない。

 しかし前述のように、新羅勢をバックにした武力による道鏡即位は失敗に終わった(752年)。

 そこで道鏡は、男性であっても宮中の奥深くに出入りできる禅師の立場を利用し、孝謙の内道場に入り、信任される時機が来るのを待った。

 孝謙が保良宮で道鏡の看病を受けたのを契機に、両者は急接近した。

 孝謙が淳仁や仲麻呂との離別を決意したのも、道鏡から国際情勢を学び、仲麻呂が孤立している事実を知ったからだ。

 孝謙は保良宮から平城京に帰ると、常祀(祭礼・儀式)や小事は淳仁が行い、国家的事件や賞罰は孝謙自身が行うと宣言した。もともとは全て仲麻呂が独断的にやっていたことなので、これは仲麻呂に対する宣戦布告であった。

 朝廷でも、渤海がたよりにならなくなった仲麻呂よりも新羅をバックに付けた道鏡の発言力の方が強くなってきた。

 763年2月 金体信ら新羅使者211人が来日。道鏡が仲麻呂追討に備えて呼び寄せたと思われる。

 5月 鑑真が没し、9月に道鏡が少僧都に就任。

 764年1月 吉備真備が造東大寺長官として太宰府から帰京。道鏡と共に反仲麻呂勢力を形成した。

 仲麻呂の乱

 764年9月 近衛兵の物部磯浪なる者が、仲麻呂が天皇のしるしの鈴印を奪おうとしていると孝謙上皇に報告した。

 孝謙はただちに淳仁のいる中宮院に少納言の山村王を行かせ、鈴印を奪わせた。

 仲麻呂は息子の久須麻呂をやって奪い返そうとしたが、坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)がこれを殺害。

 続いて中衛将監の矢田部老を武装させて行かせたが、紀船守に射殺された。

 ついに仲麻呂は近江に逃走したが、最終的には琵琶湖の高島で拘束され、斬り殺された。

 天皇のしるしの鈴印を奪ったのは孝謙側だから、これは正しくは孝謙の淳仁に対するクーデターだった。

 仲麻呂は当時の最高権力者ゆえ「乱」など起こす必要はなく、「仲麻呂の乱」という名前もおかしいのだが、歴史はいつも勝った方が正義だから、負けた方は謀反の罪を着せられ、殺されてしまうのである。

 対仲麻呂戦に功があった山村王らはみな昇進し、白壁王も中納言、正三位に急上昇した。

 道鏡は大臣禅師に任命された。

 こうして仲麻呂打倒という共通の目的を果たしたあと、白壁王と道鏡はひとつしかない天皇の座を巡って激しく対立することになる。

 金良相

 安禄山の乱の頃、新羅では761年に侍中の金良相が安禄山勢力と結んでクーデターを起こし景徳王が中国に亡命。恵恭王が即位するまでの4年間、金良相が新羅王室に入り込んで実権を握った。

 小林惠子氏は、この金良相こそ百済王女天(=白壁王)が百済王族の末裔・高野新笠との間にもうけた山部王、若き日の桓武であると推理している(当時25歳)。

  金良相 = 山部王(桓武)

 金良相は、父・白壁王の政敵である仲麻呂を討伐するために兵を募集し、私的な軍隊を形成した。

 近江に逃走した仲麻呂は琵琶湖の高島で拘束され、斬り殺されたが、この地に陣取っていたのが金良相率いる新羅軍だったのである。

 乱後、白壁王が中納言、正三位に急上昇したしたのも、仲麻呂一族に最後のとどめを刺した息子の働きが大きくものを言ったからであろう。

 孝謙のバックには、百済王女天(志貴皇子の子・白壁王)、新羅・孝成王(天武の孫・道鏡)という、共にかつて朝廷から追放され、国際社会で活躍した皇孫たちがいた。

 そして、中国東北部勢力と結び、さらに新羅の実権を掌握して兵を集めた金良相(白壁王の子・山部王)の軍事力があり、日本国内にはこれに対抗できる軍団は存在しなかったのである。


https://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1250.html 【称徳重祚】より

 764年10月 孝謙は重祚し、称徳天皇となった。

 淳仁は淡路に配流され、翌年、逃亡に失敗して亡くなった。

 称徳重祚の翌765年、道鏡が太政大臣に任じられた。

 一介の僧侶でありながら朝廷で異例の出世を果たしたのはひとえに称徳の寵愛によるものだったと一般には考えられているが、道鏡は実は皇孫であり、前新羅王(孝成王)でもあり、仲麻呂一族滅亡にもブレーンとして貢献したという功績が評価されたのだろう。

 道鏡もこのときは即位する気マンマンだったはずだが、称徳重祚で妥協せざるをえなかったのは、天武系であること、出家していることなどについて、吉備真備、白壁王ら反対派が存在したことと、新羅の軍事力を金良相に握られてしまったからだろう。

 朱泚

 安禄山の乱後、安禄山に代わって中国東北部の節度使となり、強力な軍事力を持つようになったのは朱泚という人物だった。

 安禄山の乱のとき、史朝義の配下だった李懐仙を離反させ、史朝義を殺させた功績が代宗に認められたという。

 新羅の金良相はこの朱泚と同盟関係を結び、道鏡の即位を武力で阻止する構えを見せていた。

 

 しかし、安禄山の乱で唐が勝利したことは金良相の立場を悪くし、亡命した景徳王の嫡子・恵恭王が即位した。

 767年8月 渤海の大金茂は正式に唐と和平。日本への侵攻も完全に終結した。

 768年 新羅で金隠居が侍中となり、良相は平壌に移った。

 唐の建国以来、中国の周辺遊牧民族では突厥に代わって吐蕃(とばん)が勢力を持つようになっていたが、良相が平壌を本拠地にするにあたっては、朱泚と、李懐光なる人物が吐蕃の南下を防いでいたようだ。

 宇佐八幡宮神託事件

 宇佐八幡神宮の前身は、今は摂社になっている地主神の北辰社だったらしい。

 ここに宇佐一族の氏族神・比咩(ひめ)大神が連座。

 九州の土着最大勢力だった宇佐一族は、大和朝廷にとって、唐や新羅から日本を守る対外防衛の中心的存在だったため、聖武のとき、応神天皇を祀る八幡神が連座し、比咩大神と並祀された(725年)。

 八幡神宮と道鏡の縁は、新聖武が孝成王(道鏡)を新羅に送り出すときに八幡神宮に援助したのが始まりだったようだ。

 740年 広嗣の乱で八幡神宮が反広嗣側に回ったことで、新聖武との関係はぎくしゃくしたものになるが、749年に孝謙が即位すると仲麻呂に厚遇され、再び朝廷と急接近した。

 764年 仲麻呂一族滅亡。八幡神宮は再び道鏡と強く結び付くようになる。

 766年 道鏡は法王に、吉備真備は右大臣になった。

 769年9月 吉備真備は大宰府の主神(かんづかさ)であった習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)に命じ、宇佐神宮より「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」との神託があったと道鏡に伝えさせた。

 勅使として参向した和気清麻呂もまた真備サイドの人間で、この神託が虚偽であることを上申。

 道鏡は激怒して清麻呂と姉の法均を配流にした(道鏡の失脚後に復帰し、光仁・桓武朝で活躍)。

 吉備真備は親唐派で、道鏡の即位の野望を摘み取るために、八幡神宮と道鏡の結び付きを逆に利用したのでる。

 道鏡はこの事件で直ちに失脚したわけではないが、大きなきっかけにはなった。

 藤原清河の書簡

 宇佐八幡宮神託事件の2ヶ月後、金初正ら新羅使者226人が在唐大使藤原清河の書簡を持って対馬に到着した。人数から考えて、これは道鏡に対する軍事的な威嚇であった。

 仲麻呂側にあった清河にとって道鏡は敵であり、書簡は道鏡の即位を否定する唐の意志を明確にしたものだった。

 しかし、これは宇佐八幡宮神託事件の後で書かれたものではなく、1年ほど新羅・恵恭王のところでストップしていたらしい。

 恵恭王はどうやら道鏡支持だったようだが、度重なる唐の圧力と、宇佐八幡宮神託事件の失敗により、もはや清河の書簡のあるなしに関わらず道鏡の即位は不可能と見て、金初正らの行動を承諾せざるをえなかったようだ。

 770年2月 道鏡は称徳を人質に、弓削宮に籠った。

 しかしほどなく称徳が病死(藤原百川による暗殺説あり)。

 8月 称徳の死が発表され、ただちに白壁王が立太子した。

 後ろ盾を失った道鏡は失脚し、下野国に下向して現地で没した。

 親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名は捕えられ、土佐国に配流された。

 


http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho551.htm 【書誌紹介:根本誠二著『天平期の僧侶と天皇』】より

掲載誌:「道鏡を守る会」27(2005.4)

書評:本田義幾

 道鏡に関する著作は、小説の分野が多く、研究書として一冊をなすのは、数は多くない。戦前では松木幹雄の『弓削道鏡伝』、戦後間もなく新聞記者上田正二郎の『法師道鏡』そして昭和34年の古代史研究家横田健一の『道鏡』、同じく北山茂夫の『女帝と道鏡』そして在野研究家古田清幹の『道鏡の生涯』である。

 『弓削道鏡伝』に引用される史料は、戦前故伏せ字が多く、道鏡に対する見方は客観的立場に立とうとするものであるが、汚名を晴らすという視点ではない。特にその挿絵の「憤怒せる法王道鏡」は後代の道鏡肖像画としていつも使用されてきた。

 『法師道鏡』は研究書ではないと著者が断っているように、読みやすい書き方である。ラスプーチンとの比較は、昭和25年当時の社会状況を反映する。道鏡こそ貴族と真っ向勝負してその上に僧侶の地位を築いたとしている。

 『道鏡の生涯』は、道鏡の汚名を晴らすため、一在野研究者が書いた本である。在野にも道鏡擁護者がいたが、一冊に纏めたのは古田さんが最初であろう。和気清麻呂逆臣論の立場からもろもろの道鏡論を批判的観点で取り上げている。

 三冊に共通するのは道鏡皇胤論である。

 『道鏡』は多方面から道鏡を見る本格的な研究書で、内容も学問的である。この本を越えるものはなかなか登場していない。道鏡皇胤論を否定した。

 『女帝と道鏡』は奈良時代史に道鏡と女帝を位置づけた一般向きの本と言える。内容的には、学者でありながら「二人は愛欲に溺れて政治を顧みなかった」と記したりしている。著者には「道鏡をめぐる諸問題」という論文があり、女帝と道鏡の個人的関係をすべてに優先させたとしている。

 さて本書(岩田書院・03年10月)は、副題を「僧道鏡試論」としているように、主として僧侶としての道鏡を論じている。俗人道鏡を敢えて視野に置かない視点である。

◎多くの人に門戸を開放した奈良仏教のおおらかさの中に道鏡は登場した。なお奈良仏教は密教化しつつあった。

◎道鏡は仏の力をバックに人々を救済する僧であった。

◎道鏡を僧侶としてだけではなく、政治家としても見た論が多かった。そのため非難されることになる。

◎道鏡を毘沙門天に称徳天皇を吉祥天に見立て、信仰的に「交歓」したとする。それを堕落とする見方が広がった。

◎一方藤原氏は皇統についてきわめて神経をとがらせていた。ところが、称徳天皇の皇統観は従来とは違っていた。

◎そのような時、にせ仏舎利事件がおこり、称徳は仏法への疑義をもつようになった。

◎それで宇佐八幡から神託が届いたとき(事件)では神に頼った。

◎称徳天皇と道鏡の関係は、世俗面では道鏡にゆらぎをもつが、仏法の世界においては切れていなかった。

◎僧道鏡は行基を見習う生き方をした。行基のやり方は聖に俗を持ち込むやり方ではなかったか。道鏡は破戒の僧と見られた。

 以上簡単にまとめてみたが、著者は最新の文献にも目を通されて僧道鏡を論じられている。その姿勢は、「まえがき」や「あとがき」にも見られ、かつこれまで研究者が正式には取り上げて来なかった、小田原市勝福寺に残る伝承(下野へ向かう途中道鏡は十一面観音を納めた)を取り上げていることは画期的でさえある。

 史料だけに頼るのではなく伝承にも目を向ける姿勢は、遅ればせながら歴史研究の新たな出発となるのではなかろうか。ただ残念なのは、史料不足と伝承を取り上げたためか、と、思うとしていることが多いことである。今後、であるとして頂くためにも私たちの掘り起こしが更に必要となると考える。

 また二人の関係を「交歓」という言葉で表現しているが、これは寵愛ともつながりかねないと思う。かつて唐招提寺の遠藤氏が二人が男女関係にあるなら破戒僧となると申されていた。つまり僧ではなくなる。称徳天皇は戒を授かり、かつ剃髪している。だから自分で僧道鏡の支えが必要だと言っている。それ以上の詮索は不要ではなかろうか。

 著者の根本氏は、以前『奈良時代の僧侶と社会』で道鏡の死は卒伝でもなく、まして薨伝でもなく単なる「死」扱いであり、これによって道鏡への誤解を生んだと書いていた。なぜこうなったのか。本書では、道鏡への筆誅だけではないとしている。

 そこで東アジアの仏教界の様子を視野に入れるべきだとしている。そうすると中国の則天武后と僧葭懐義との関係が奈良時代に伝わって(僧は殺される)、警戒心を日本の貴族におこさせ、二人についても警戒したのではないかという。

 また左遷先の下野薬師寺に関してだが、道鏡と鑑真の弟子たちとは軋轢が少しあったのではないか。下野薬師寺には鑑真の弟子道忠がいて戒律を授けていた。道鏡にとっては緊張する場所への旅立ちであった。とこれまでにない視点を提起されている。

 なお栃木県では、鑑真の弟子如宝が来ていて一定の役割を果たしていたと考えられてきた。実際鑑真碑が龍興寺に伝わり、鑑真肖像画が安国寺に残る。著者は道忠と如宝の関連についてふれてはいない。

 そして強大化する道鏡仏教(呪術に長けた)に対抗するために、桓武側は神託事件を起こし、道鏡を失脚させたし、天台・真言を育成した。初めての論ではないが、桓武の存在を奈良末期にも意識した見方である。その点でこの本はよく読むとおもしろい。

 道鏡についての画期的文献が横田氏のだとするなら、本書は約半世紀ぶりの道鏡論である。さらに付け加えれば、表紙カバー裏に孝謙天皇陵と道鏡塚が並べて置かれている。黒岩重吾の小説『弓削道鏡』の表紙カバーで二人の並んだ姿が描かれているが、それ以来である。ここにも道鏡研究の進捗があった証しが見られる。本書は専門書的側面をもつので、漢字が多く、奈良時代の予備知識も必要とするので、読みやすいとは言いがたいかもしれない。

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