「ナガジン」長崎往来人物伝

https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/jinbutsu/071221/index.html 【種田山頭火】より

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滞在期間/4日間

連れ/長崎の俳友と同行

目的/行乞(托鉢)

種田山頭火●たねだ・さんとうか/明治15年(1882)山口県西佐波令村(現防府市大道)生まれ。11歳のときに母が自殺。早稲田大文学科中退。実家の酒造場を手伝い、26歳で結婚。この頃から俳句に傾倒し、自由律俳句を提唱した荻原井泉水に師事する。本名は正一、大正14年(1925)、出家得度して耕畝(こうほ)と改名する。昭和15年(1940)、心臓麻痺で死去。57歳。

行乞の俳人、長崎ではやっぱり観光?

山頭火が行った見た感動した長崎の町

酒に溺れ、家を捨て、全国各地をさまよい歩き、立ち寄った町々で、その魅力を小さく切り取ってそこに住む人々の息づかいをストレートに一行の句に託す。その独特な自由律の俳句に現れる彼の生き様は、いつの時代も“究極の憧れ"として多くの人々に愛されてきた……その人の名は山頭火。

15年間に及ぶ行乞(托鉢)の旅のなかで、山頭火は九州や中四国を断続的に放浪。昭和6年から7年にかけては西九州を歩き、長崎にも立ち寄った。俳友に歓迎され訪れた長崎市内に滞在したのは4日間。着慣れた法衣から借りた服を身にまとい観光地を巡ったという。崇福寺、福済寺、大浦天主堂、思案橋、諏訪公園(長崎公園)、大波止、浜の町などに足を運び、句を詠み日記を記す。

【寺町にて】

寺から寺へ蔦かづら

寺から寺の塀をびっしりとうめ尽くしている青蔦を目にして、その青さが、また、何ともいい。山や海を旅してきた者にとっては、異国に来たような気分である。その雰囲気が、まことによろしい。と記す。

■寺町の塀   今も寺町通りの塀に青々と茂る青蔦

【大浦天主堂にて】

冬雨の石階をのぼるサンタマリヤ

ここには、長崎らしい特色がよくみえる。眺望において、家並みにおいて-、石段にも駄菓子屋にも。眼下には港と町が一望できる。エキゾチックな雰囲気が、わくわく伝わってくる。特に、サンタマリヤは気にいった。自分はクリスチャンではないが、サンタマリヤは好きだ。

と記す。

■大浦天主堂のマリア像  穏やかな笑みを浮かべる日本之マリア像

山頭火はいう。下って上って、そしてまた上って下って、そこに長崎情緒がある。山につきあたっても、或は海ベリに出ても。そして、長崎は行乞の町ではない。行乞するにしては、美しすぎる。とも。

独創的な視点と表現力でもって人々を惹きつける句作をした山頭火に、こう言わしめた長崎の町。山頭火のその審美眼を手本に、改めて各所を訪れてみたいものだ。


https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/jinbutsu/090701/index.html 【前野良沢 まえの・りょうたく】より

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滞在期間/明和7年(1770)、長崎游学が許可され、48歳で吉雄耕牛の門に入る。1774年、再び来崎(医術、算術に関する蘭書を購入)

連れ/なし

目的/オランダ語修得のため

前野良沢●まえの・りょうたく/亨保8年~享和3年(1723~1803)。

蘭学者、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)藩医。明和6年(1769)、47歳にして蘭学を志し、晩年の青木昆陽に師事。翌年藩主の参勤交代について中津へ下向した際、長崎へ。長崎通詞の吉雄耕牛、楢林栄左衛門らに学んだ。日本初の本格的な翻訳書『解体新書』の主幹翻訳者の一人。

『解体新書』の真の翻訳者

医学発展の功労者、前野良沢

誰もがきっと、歴史の教科書にラインを引いた記憶がある『解体新書』の文字。後世に残る歴史的な医学書だ。しかし、『解体新書』と聞いて前野良沢を思い浮かべる人はいたって少ない。翻訳者は杉田玄白と教えられたからだ。良沢は訳者の欄に名を連ねていないのだ。中津藩医の前野良沢は、オランダ語習得のために48歳にして長崎に留学。幕府公式の通訳、長崎通詞であり蘭方医としてその名を馳せていた吉雄耕牛の門に入った。その時、出会ったオランダ語に翻訳されたドイツの医学書『ターヘル・アナトミア』の詳細な解剖図絵に感動し、良沢は訳出を試みる。一説には、翻訳の中心は良沢で、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周らは彼の手伝い程度の存在だったという。その証拠に玄白は後に回想録で、自身はオランダ語のアルファベットさえ分からず、翻訳を思い立った翌日、良沢の家に集まってその本を前にして「誠に艪舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出せし如く」、つまり途方に暮れるだけだったと記しているのだ。

満足な辞書もない時代、基本的には、オランダ語習得に情熱をかけた良沢1人が訳出を行い、玄白らは訳出された文章の整理と、訳出が順調に進む環境に心を配る日々。やがて3年5ヶ月に及ぶ訳出を終え、『解体新書』と名づけた本書が世に出た。二人のその後の人生は、どうもそれぞれの性格に左右された節がある。良沢が『解体新書』の翻訳刊行の訳者に連なることを拒んだのは、自らの翻訳の不備を理解し、これを恥として許すことができなかったためという説がある(もちろん、当時の日本の語学水準からすればかなりの完成度!)。つまり、良沢は、人間嫌いの偏屈で理想主義、学者肌の気難しいタイプ。

長崎歴史文化博物館に常設された『解体新書』

一方の玄白は、人間好きで現実主義の順応性に富んだ世渡り上手。玄白は『解体新書』の訳者として名をあげ、江戸一番の蘭方医に、良沢は81歳で亡くなるまでの一生をオランダ語研究に捧げた。

しかし、『解体新書』の序文は、オランダ語の師である、吉雄耕牛が記している。そこには、「オランダは最先端の科学をもっています。オランダ語を習得するために長崎に来て勉強に励みますが挫折した者も多く、まして専門書を翻訳するのはとても大変なことなのです。この本を翻訳し完成させた前野良沢と杉田玄白は立派です。そして、医者を志す人たちがこの解体新書から得た知識で治療にあたれば、多くの人々の命が救われるかもしれません」。時が過ぎて明らかになる歴史も多い。だからこそ前野良沢の偉大さが、今も語り継がれているのだ。良沢は、完璧な訳を追求し、玄白が出版を急いだ。どちらも譲らなかったという二人の姿勢は、決して自分の名誉のためではなく、幕末の志士同様に、刻一刻と進歩している諸外国に比べ、取り残されているわが国に対する愛国心の現れだったのだろう。


https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/jinbutsu/091106/index.html 【「ナガジン」長崎往来人物伝 - 小林一茶 こばやし・いっさ】より

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滞在期間/寛政5年(1793) 期間は不明

連れ/なし

目的/俳句行脚

小林一茶●こばやし・いっさ/宝暦13年~文政10年(1763~1827)。

江戸俳諧の巨匠。長野県北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家の長男として誕生。本名は弥太郎。3歳で生母を失い8歳で継母を迎えるが、馴染めなかった一茶は、15歳の春、江戸奉公に。25歳頃には俳諧の一派、葛飾派に属し、俳諧を学ぶ。継母との精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめ、恵まれない人々への共感や子ども達、小動物への同情や愛着など、2万句にもおよぶ俳句は多種多様。

俳句の世界の登竜門的存在  明快で奥深い俳人、小林一茶

江戸時代を代表する俳人、一茶。芭蕉よりも身近で、蕪村よりも直接的。一茶の句は、読む人の心にスッと入り込んでくる不思議な力を持っている。どことなくユニークな一茶の句とはじめて出会うのは、今も小学校低学年だろうか。

痩蛙まけるな一茶是に有(文化13年/1816)

子どもながらに、痩せて弱々しいカエルに自分自身を投影し、励まし、応援する情景を想像した…そんな記憶が、今でもうっすらと残っている。

やれ打つな蠅が手をすり足をする(文政4年/1821)

ハエが手足を擦り合わせる姿を観察する一茶。身近な虫の登場にざわつく教室。弱く小さい命への愛と憐れみを詠んだ、明快でダイレクトに伝わるこの句には、江戸時代の人とは思えない親近感を感じたものだ。

そんな国民的詩人、小林一茶が長崎を訪れていたことはあまり知られていない。25歳から俳句の世界に飛び込んだ一茶は、30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に出た。それは、彼の生涯における一大行脚で、その名も「西国行脚」。来る日も来る日も句作に明け暮れ、一茶は、各地で知り合った俳人と交流した作品を残していった。芭蕉没後99年、蕪村没後9年が過ぎていた当時、俳諧を生業とする「業俳」は、僧侶や武士、あるいは医者など裕福な階級で趣味として俳諧に関わる「遊俳」らによって支えられることもしばしばだった。一茶がこの7年におよぶ「西国行脚」で、労働することもなく旅が続けられたのも、各地で一茶に衣食住を提供した「遊俳」達の存在があったからだ。一茶が長崎を訪れたのは、寛政5年。当然、鎖国の最中。その頃の長崎の様子は、円山応挙によって寛政4年(1792)にかなり精緻に描かれた『長崎港図』そのものだったと考えられる。一茶来崎後、寛政7年には中島川に架かる石橋が次々に流失した「寛政の大水害」が起こり、寛政10年(1798)には「寛政の出島大火」で出島内の建物は焼失するなど、長崎の町には災難が続いた。唐三か寺など中国色に溢れ、西洋の薫りも漂う、一茶はそんな平穏で華やかな町の姿を目にしたことだろう。この時一茶は、十善寺郷の唐人番の屋敷に滞在したと伝えられている。そして、池辺家十人町(長崎村十善寺郷字十人町)がその中の一つと考えられ、小林一茶寄寓の地なのだという。

君が世や唐人(からびと)も来て冬ごもり(寛政5年/1793)

長崎滞在中に詠まれた句だ。一茶は「日本」を題材とした句を多く詠んでいる。そして、そのほとんどは、文化文政年間に詠まれたもので、長崎来訪以後。まさしく、日本に西洋の波がおしよせ、幕末へ突入する直前の混乱と発展が入り交じった時代に詠まれたものだ。長崎で唐人達に出逢い、接触を持ったことが一茶に、より「日本」を意識させるようになったとも考えられるだろう。

江戸に帰り着いた一茶は36歳の壮年期に到り、俳人としての基礎も固まっていた。この長崎滞在を含めた「西国行脚」は、一茶に俳人としての成長をもたらしたまさしく一大行脚だったのだ。


https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/jinbutsu/index.html 【小泉八雲】より

■DATA■

滞在期間/明治26年(1893) 7月21日から二泊三日

連れ/不明

目的/不明

小泉八雲●こいずみ・やぐも/嘉永3年~明治37年(1850~1904)。

明治時代の作家。英文学者。ギリシャ生まれのアイルランド人。明治29年(1896)、日本に帰化する以前の名前は、パトリック・ラフカディオ・ハーン。

フランス、イギリスで教育を受け、20歳で渡米。得意のフランス語を活かし、20代前半より文芸、事件報道の現場でジャーナリストとして活躍。40歳の時(明治23年)、アメリカの出版社の通信員として来日するも契約を破棄し、日本にて英語教師となる。松江、熊本、神戸、東京と居を移しながら、日本の英語教育に尽力。『怪談』ほか、海外に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。

日本文化を海外に広め、祖国に再認識させた帰化日本人

日本文化を深く理解し、日本をこよなく愛した小泉八雲。彼は、アメリカ滞在中、すでに東洋の神秘さに興味を持っていたそうだ。英語教師として最初に訪れたのは島根県松江。寺院の鐘の音にはじまる人々の生活の音。木造橋を下駄で渡る際に鳴る「カラコロ」という音。宍道湖にかかる朝もや・・・・・・八雲は、昔のままの日本の風景が残る松江に強烈に惹かれたという。名前の「八雲」は、この最初の在住地、島根県松江の旧国名「出雲国」にかかる枕詞、「八雲立つ」にちなんだものといわれている。松江の士族の娘、小泉節子と結婚した明治24年(1891)の11月、八雲は、九州・熊本に移転。現在の熊本大学の前身となる第五高等学校に赴任する。彼が長崎を訪れたのは、この熊本在任中。目的は不明だが、二泊三日の旅だったようだ。7月20日、熊本市を俥で出発した八雲は、熊本城の長塀に沿って流れる坪井川河口の百貫港より船に乗り、21日の早朝3時に長崎港に到着した。そこからは人夫の案内で宿泊先へ。当時外国人居留地として華やぎを見せていた南山手のベルビュー・ホテル(現全日空ホテルグラバーヒルの場所)に投宿する。

「私はありうる最も美しい光の中で、美しい長崎の街を見た」。日が昇る風景に触れた八雲は、この時見た長崎港の日の出光景のすばらしさに感嘆した。早朝、彼は長崎の町へと俥で外出。しかし、お気に召さなかったものが、長崎の町の氏神様・諏訪神社にあった。彼に「私が今まで日本で見たうちで、最も醜いものだ」とまで言わしめたのは、諏訪神社参道入り口に威風堂々と建つ金属製の一ノ鳥居だった。額に「鎮西大社」と記されたこの鳥居は、天保2年(1831)に青銅で造られた。周囲を威圧する大きく近代的な大鳥居は八雲の美意識に沿わなかったのだろう。

八雲が嫌悪感を示した青銅製の大鳥居 <長崎大学附属図書館所蔵>

八雲は、朝食をとり再び外出する。「私の全体の印象は、長崎は今まで見たうちで、最もきれいな港である。---絵のような美しさ、古風な魅力に満ちた---美術家がエッチングし、写真家が撮影するように作られているということである」。八雲の目には、自然と人々が織りなした風景が美しく輝いて見えたようだ。長崎の町の美しい風景に心惹かれた八雲だったが、この地の暑さには耐えられず、あまりの暑さに二十五銭の氷水を四円分も飲み干したという。そして、一刻も早く長崎を離れたく、手に入れたいと考えていた書物も食料品も西洋風の店で見つけたかったものも買わず、7月22日午前3時、長崎港を発った。この時の八雲の来崎目的は定かではないが、和の風情に海外の文化が解け込んだ、異国情緒にあふれる長崎の町を一度はその目で見ておきたかったのかもしれない。

参考文献: 『長崎を訪れた人々~明治篇~』 高西直樹著 葦書房

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