倭寇の城址と言われていますが、一説には古代祭祀遺跡とも考えられています。
https://goto.nagasaki-tabinet.com/spot/61684 【勘次ヶ城跡 かんじがしろあと
山崎の石塁】より
勘次ケ城跡は、富江町南部の低い溶岩台地上の海岸部に構築された砦状の遺構です。「山崎の石塁」ともよばれ、1970年に県の指定史跡になりました。
今から150年ほど前、大工の勘次が河童と築いた石の城という説や、大きな施設でのぞき穴などがあることから倭寇のアジトとして築城されたという説があります。迷路のような石積みが巡らされ、その延長は180mに及びます。
現在はそのミニチュアがすぐ近くに作られていますのでご覧ください。
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/442 【富江町・山崎の石塁】より
史跡(県指定)
よみがな とみえちょう・やまさきのせきるい
指定年月日 昭和45(1970)年1月16日 所在地 五島市富江町岳 所有者 個人
富江町南部の低い溶岩台地上の海岸部に構築された砦状の遺構である。
人頭大の火山礫によって構築されたほぼ長方形の構造で、入口は1箇所、東北約27m、東南約40m、壁の高さ約3.6mの構造物がある。大工の勘次が構築したともいわれ「勘次が城」の称もある。倭寇の根拠地であったという口碑もあるが明確ではない。明銭の出土例があり、後者の説をとる研究者もある。所在地「山崎郷」は松浦党の田尾氏の所領であり、田尾氏との関係ある構築物である可能性がある。
https://www.eonet.ne.jp/~nagasaki/kappa/gotou4kp.htm 【勘次ヶ城(かんじがしろ) 下五島・南松浦郡富江町(とみえちょう)山崎(やまさき)】 より
「勘次ヶ城」は、富江町の東端山崎の海岸にあり、長崎県指定史跡です。
この石塁は、勘次という者が河童と力を合わせて苦心の末に立派な城を築いたと言われている。
勘次ヶ城
明治以前は森林地帯で、山崎へ入植したのは明治9年、女亀に入植したのが明治33年で、五島藩時代はこの辺境までは目が届いていませんでした。
山崎石塁(せきるい)(勘次ヶ城)
勘次ヶ城にある倭寇像 13世紀から16世紀にかけ、北九州や瀬戸内海を拠点とし、朝鮮半島や中国大陸を侵した海賊は、かの地で「倭寇(わこう)」とよばれ恐れられていた。
この山崎石塁の構造は、当時、明国沿岸に築かれた海賊の築城と同型といわれ付近には、倭寇ゆかりの八幡瀬や唐人瀬があり、明銭・陶器破片・人骨が出土している。
富江の豪族田尾氏は、松浦党に属し、ここを出城として海賊・密貿易で勢力をのばしたといわれている。
その後、廃城に勘次という男が住んでいたことから、俗に勘次ヶ城といわれている。
昭和45年1月16日 長崎県教育委員会指定
勘次は富江の有名な大工であったが、ちょうど富江藩の命令により大江富江間の道路建設中に突然、姿をくらませてしまった。 この時勘次の年は三十才位だった。多くの人夫による捜索により玉之浦村の小川でやっと見付けはしたものの発狂してどうにもならなかった。
しかし、富江に連れ帰って間もなくして、山崎に住み付くようになった。
勘次の発狂の原因は父の代からの信仰を怠けたからだという。
つまり、勘次の父が山崎郷海岸で難波した唐人船から塔載していた金箱を拾ったが、それには、唐人の幽霊が乗移っていたが、賢い勘次の父はこの幽霊に向かって
「貴殿はその上に坐っていても伺にもなるまい。それより私にその箱を与えたならば、毎日貴殿の供奉を続けましょう。どうか私にそれを譲って下さい。」といったら幽霊はこの話を解して海中に姿をからました。
この金箱には銭が六貫目もあったので勘次の家は栄え、父も勿論、供養を怠らなかった。
ところが、勘次は父の死後、仕事にのみ熱中して供奉することを忘れ怠ってしまつた。その為、唐人の幽霊のたたりで急に発狂してしまったというわけである。
勘次は山崎郷に住み付くようになってからは、クブキを背に負って村中を歩きまわり食物を乞うていた。与えられた食物は少しも残さず食い尽くしていた。また、米飯を与えられると、謝礼として一滴の水も漏らないという立派な桶を贈ったという。
この様な生活をしながら夜はずっと河童と一緒に力を合わせて山崎に立派な「勘次ケ城」を築き上げたのである。
<五島 熊本商科大学民俗学研究会 昭和47年2月発行より>
https://gotofan.net/simogoto/fukuejima/fukue-079/ 【五島列島福江島にある史跡 勘次ヶ城 福江島】より
五島列島福江島にある勘次ヶ城と書くとどこかの藩の城郭かと思ってしまうが、江戸末期に大工だった男が住んでいたと言われる場所の石塁のことを指す。摩訶不思議な言い伝えの伝説が残る海岸沿いのサイクリングコースにある五島の史跡を紹介しよう。
大工の勘次が住んでいたので勘次ヶ城
江戸末期に大工だった勘次という男がこの石塁のある場所に住んでいて、「ここは河童と一緒に作った石塁だ」語っていたと言い伝えられているとか。その話が定かかどうかは置いておき、しっかりとした石塁がいまでも残っている。
このあたりは山崎地区と言うため、山崎石塁という名称でも呼ばれている。
大きな石が積まれた石塁。かなり大きな建物があった跡であることはこの石塁からわかる。
もともとは倭寇が中国との貿易などを行うときに使われた施設があり、その土台の石塁ではないかという説もある。
このあたりの海岸は八幡瀬(ばばんぜ)と呼ばれ暗礁になっている。勘次の父かここで遭難した船から金品を奪おうとしたところ幽霊があらわれて「毎日祭祀してくだされ」と言われ、父は祭祀を欠かさなかった。しかし、父を継いだ勘次は祭祀をしなかったために祟られて人目を避けるようにこの石塁跡地に住んだとも言われてるとか。
大きな倭寇の像が海を見張っている。この表情を近くで見るとなかなかの迫力だ。
八幡瀬の海岸。溶岩が続いている荒々しい海岸。
縮小してつくられた勘次ヶ城の全容。かなり大きな建物だったことがわかる。実際の石塁と見比べると規模がよくわかる。
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