facebook岡本 よりたかさん投稿記事「生まれてきた理由」
ちょうど4年ほど前の講演後のこと。「自分が生まれてきた理由が分かりません」という質問が一人の青年から来た。その理由を僕が教えられるはずもなく、さて困ったとしばし考えてみたが、答えは出てこない。
「一つ訊きたいんですが、貴方は誰かに救われたとか、教えてもらって良かったと思ったことがありますか?」僕はそう訊き返してみた。
青年はしばらく考えた後、こう答えた。
「よりたかさんの投稿で救われたこと、あります。よりたかさんの本とかにも」
「なるほどね。では、僕の人生は今、完成しました。つまりね、自分を必要とする人が現れた時、自分の人生は完成するんですよ。」
青年は目を少し輝かせた。
「自分はなぜ生まれてきたかという答えをね、自分の中に探しても、おそらく見つからないと思う。自分という人間が誰かのためになった時、自分を頼ってくれる人が現れた時、初めて自分の人生に意味がでてくるんじゃないでしょうか。
それまでは要するに修行のようなもの。あるいはずっと探し物をしているようなもの。
つまりね、貴方が自分のためではなく、誰かのために、あるいは世の中のために何ができるかと考えられるようになる必要がある。
なんでもいいんです。好きなことでも、得意なことでも、とにかく興味を持つ物を見つけること、そしてそのことに励むこと。
励んだ後は、かならず"誰かに伝えること"。それができた時に、自分が生まれてきた意味が完成する。僕は、そう思っています。
この先、色々と悩むこともあるだろうし、何を選んだら良いか考えあぐねる時もあると思う。
そんな時はね、必ず最初に思った方を選択して欲しい。そうすれば、ほぼ間違いなく上手くいく。不思議とそう言うものです。」
人生60数年生きてきて、最近になってやっと分かったこと。
そのことを20代や30代で気付ければ、この先の人生、後悔することはないと思う。
だから、僕も、自分の無肥料栽培のことだけではなく、この混沌とした世の中を幸福に生きていく方法というのを伝え続けたいと思う。それが、僕が生まれてきた理由だから。
さて、まもなく年末。2024年も終わり、僕の残りの人生も見えてきた感じがする。
だらこそ、いっそう伝え続けていきたいと思う。
facebook川原 茂雄さん投稿記事
詩人谷川俊太郎さんの魂が青空のむこう側二十億光年のかなたに行って、一か月以上が経ちましたが、不思議なことに谷川さんがどこか遠くに行ってしまったというような感じがしません。むしろ、谷川さんが逝かれてからの方が、急に谷川さんの名前や詩の言葉があちこちから湧き出てきて、むしろ以前よりもその存在を近くに感じるくらいです。私は高校生の時から谷川さんの詩を沢山読んできましたが、間違いなく私の日本語の使い方は、谷川さんの詩から学んだものだと思います。谷川さんの詩のように、けっして難しい言葉や難しい言い回しを使うことなく、できるだけ日常的な言葉による平易な表現で、なおかつ意味があり考えさせるような深い文章を書きたいと思ってきました。谷川さんは私の父親と同じ年の生まれです。私は父親からは生命と肉体をもらいましたが、谷川さんからは私が使う日本語の文体をもらったと思っています。谷川さんの詩の中には自分の「死」について書いた詩がいくつもありますが、この「さようなら」という詩もそんな詩のひとつです。谷川さんの肉体とは「さようなら」をしましたが、これからも谷川さんの魂は、私の日本語の文体の中で生き続けていくのだと思います。(かわ)
私の肝臓さんよ さようならだ 腎臓さん膵臓さんともお別れだ
私はこれから死ぬところだが かたわらに誰もいないから 君らに挨拶する
長きにわたって 私のために働いてくれたが これでもう君らは自由だ
どこへなりと立ち去るがいい 君らと別れて 私もすっかり身軽になる
魂だけのすっぴんだ 心臓さんよ どきどきはらはら迷惑かけたな
脳髄さんよ よしないことを考えさせた 目耳口にもちんちんさんにも 苦労をかけた
みんなみんな悪く思うな 君らあっての私だったのだから
とはいうものの 君ら抜きの未来は明るい もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて 泥に溶けよう 空に消えよう 言葉なきものの 仲間になろう
「さようなら」 作:谷川俊太郎
http://www.poetry.ne.jp/zamboa_ex/tanikawa/3.html【さようなら 谷川俊太郎】より
ぼくもういかなきゃなんない すぐいかなきゃなんない どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど おかあさんごめんなさい おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ ぼくもういかなきゃなんない
facebook上田 一美さん投稿記事
どこかで誰かが死ぬと、死は必ず あなたの扉をもノックする。人間だけではない。
犬が死に、カラスが死に、木の葉が色あせて木から落ちる。あなたは死んでゆく。
なぜなら、私たちは 互いと入り交じりあい、互いの一部となり、互いの一員となっているからだ。人間は孤島ではない。私たちはみなある種の結びつきのなかにある。そして死は世界中で、刻一刻、無数の形で起こっている。<存在>は死を通して生き、死を通して自らを更新する。死は最大の神秘だ。生よりさらに神秘的だ。
なぜなら、生は死へと向かう巡礼の旅にほかならないからだ。
Prem Sheel
生における最大の神秘は生そのものではなくて、死だ。死は生の絶頂であり、生の究極の開花だ。死において、生のすべての総計が出され、死においてあなたは到着する。生は死に向かう巡礼の旅だ。生まれ落ちたその日から、死が近づきはじめている。
誕生の瞬間から、死はあなたのもとに近づきはじめ、あなたは死に向かって進んでゆく。
人間のマインドに起こった最大の悲劇は、彼が死に対立するようになったことだ。
死に対立することで、あなたは最大の神秘を取り逃がしてしまう。死に対立することはまた生そのものを取り逃がすことでもある。なぜなら、それらは互いに深くかかわりあっているからだ。それらは別々のものではない。生は成長であり、死はその開花だ。旅と目的地は別々のものではない。旅は目的地において完結する。
死は高まりゆくものの頂点として受けとめられなければならない。
それによって異なった視野が開けてくる。あなたは死を避けないようになり、死に対立しなくなる。その神秘に身震いし、それを楽しむようになり、それについて黙想し、瞑想するようになる。死はさまざまな形でやってくる。あなたが死ぬことは、死の多くの形のひとつにすぎない。あなたの母親が死ぬとき、それはあなたの死でもある。
母親はあなたに深くかかわり、あなたの存在の大きな部分を占めていたからだ。その母親が死ぬ。あなたのなかのその部分も死ぬ。
あなたの父親、兄弟、姉妹、友人が死ぬ。敵が死んだときですら、あなたのなかの何かが死んでしまう。なぜなら、敵もあなたの一部と化していたからだ。
あなたは何かを失って、何かが欠けてしまい、もはや二度と同じではない。
だから、死はあなたが死ぬときだけに訪れるのではない。
死は多くの道を通ってやってくる。死は常にやってきている。子どもの幼さが消えて、青年になるとき、あなたには見えないだろうか?そこに死が起こる。
子どもの日々が終わり、子供の日々が死んで、その扉が閉ざされる。
後戻りすることはできないし、取り戻すこともdきない。それは永久に去ってしまう。
子どもとしてのあなたは死んだ。いつの日か青春は老年へと移り変わる。
またそこでも死が起こる。数えきれないほどの死がある。
実際のところ、深く、貫くように見るなら、自分が刻一刻と死んでゆくのを見ることができる。なぜなら、あなたは刻々と変化しているからだ。
何かがあなたの存在から抜け落ちてゆき、何かがあなたの存在の中に入ってくる。
一瞬一瞬が誕生と死だ。あなたはこの二つの堤、誕生と死のあいだを流れている。
あなたの生の川は誕生と死があってはじめて流れることができる。
しかもそれは刻々と起こっている。死はきわめて静かに起こる。その足音を聞くことはできないし、それはどんな音もたてない。
それは起こり続けている。あまりにも絶え間なく起こるので、あなたはそれを見ようとしない。明白すぎるからだ。明白なものは忘れられ、生の一部になってしまう。
あなたは突然起こることにしか注意を払わない。不意のものごとにしか注意を払わない。
そして死は絶え間ない。だからあなたはそれにいかなる注意も払わない。
・・・
どこかで誰かが死ぬと、死は必ずあなたの扉をもノックする。人間だけではない。犬が死に、カラスが死に、木の葉が色あせて木から落ちる。
あなたは死んでゆく。なぜなら、私たちは互いと入り交じりあい、互いの一部となり、
互いの一員となっているからだ。人間は孤島ではない。私たちはみなある種の結びつきのなかにある。そして死は世界中で、刻一刻、無数の形で起こっている。
<存在>は死を通して生き、死を通して自らを更新する。
死は最大の神秘だ。生よりさらに神秘的だ。なぜなら、生は死へと向かう巡礼の旅にほかならないからだ。 Osho - The Revolution
facebook助川 哲也さん投稿記事
「ほんたうの幸」を求めて列車に乗った詩人は、この星の命宿るあらゆる停車場で一時下車し、そこで見た音を、聞いた像を、心のなかで咲いた鉱物の花々をボクたちに伝えてくれる。
もちろんこの列車は、現在という駅から発車はしているが、戦前の日本にも、台湾にも、あるいはヘンリ・デヴィッド・ソローと安藤昌益が「自然」について言葉を交わす森のなかにも詩人を連れていく。
詩人が放つ文字は、ボクたちのそれぞれに旅の追体験を与えてくれ(それはもうほんたうにそれぞれの「幸」であり)、「今日からやり直して、また旅に出ようぜ」とつぶやいてもくれる。それは心でたどる旅に違いないが、同時に現実の旅でもある。
宮沢賢治がファンタジーの人ではなく、理科的な教養と鋭い観察眼に支えられたリアリストであったように、管啓次郎さんもまた、ボクらを生んだ「土」の正しさから始まる旅を、億万の蛍烏賊が燃えるような情熱を持ち、「ほんたうの一冊」として提示してくれている。
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