https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/90_sensouron/index.html 【名著90 「戦争論」】より
「人間にとって戦争とは何か?」という根源的な問いに対して、人類学の視点から答えを出そうとした一冊の本があります。「戦争論」。「ユネスコ国際平和文学賞」を受賞し、国際的に大きな反響を巻き起こしたこの著作は、フランスの高名な社会学者・人類学者ロジェ・カイヨワが(1913 - 1978)が「人類は戦争という現象とどう向き合うべきか」を世に問うた戦争論の名著です。終戦記念日を迎える8月、この本をあらためて読み解きます。
「戦争論」が書かれた1950~60年代は、米ソの冷戦が激化。第二次世界大戦の惨禍を味わった多くの人々が恒久平和を希求する一方で、国家間のエゴが対立しあい、軍備拡張や戦費の増大がとめどなく進んでいました。巨大な歴史の流れの中では、戦争を回避し平和を維持することは不可能なのかという絶望感も漂っていました。そんな中、戦争の歴史に新たな光をあて、これまでなぜ人類が戦争を避けることができなかったかを徹底的に分析したのが「戦争論」です。そこには、「なぜ戦争が国民全体を巻き込むような存在になったのか」「戦争と国家と産業はどのようにしてつながるようになったのか」といった多岐にわたる考察がなされており、単なる理想論を超えたカイヨワの深い洞察がうかがわれます。それは時代を超えた卓見であり、現代の状況すら予言的に言い当てています。
哲学研究者、西谷修さんは、民族間、宗教観の対立が激化し、テロや紛争が絶えない現代にこそ「戦争論」を読み直す価値があるといいます。そこには、「人間がなぜ戦争に惹きつけられてしまうのか」という、綺麗事ではない赤裸々な人間洞察があるからだと強調します。
番組では、長年「戦争」について研究を続けてきた西谷修さんを指南役として招き、カイヨワ「戦争論」を分り易く解説。現代社会につなげて解釈するとともに、そこにこめられた【人間論】や【国家論】、【歴史論】などを読み解いていきます。
第1回 近代的戦争の誕生
【指南役】西谷修(東京外国語大学名誉教授)…著書『不死のワンダーランド』『戦争とは何だろうか』で知られる哲学者。
【朗読】古舘寛治(俳優)
【語り】小坂由里子
人類は戦争を避けることはできないのか? カイヨワはその根源的な課題に向き合うために歴史を遡る。近代的戦争の起源は、「貴族の戦争」から「国民の戦争」へと本質を変えた「ナポレオン戦争」にあった。それは、騎士階級や傭兵ではなく、自由のために自ら戦争に参加する「国民」に支えられた戦争。これにより従来王家の財政に制約されていた戦争手段の調達は人的、物的に国家財政の枠まで広げられる。その結果、政治の一手段にすぎなかった戦争を、原理的には国家の破綻に至るまで遂行することが可能になる。第一回は、近代的な戦争が誕生した背景を探ることで、現代にも通じる、戦争の「絶対的形態」を明らかにしていく。
第2回 戦争の新たな次元「全体戦争」
第一次世界大戦は、さらに戦争の様態を一変させる。それは国民の生活世界全体を巻き込む「総力戦」だ。そこでは、産業は挙げて軍需工場や兵站基地と化し、日常の私的な活動は国家によって制約され、情報管理とイデオロギー統制によって人間の内面すらも体制に組み込まれ、戦線は空間となって社会全体に浸透する。この事態をカイヨワは「全体戦争」と呼んだ。これ以降、国家は戦争を前提として形成されることになる。第二回は、カイヨワが提示した「全体戦争」という概念を読み解くことで、「国家」「産業」「経済」「生活」が密接にリンクする仕組みを分析し、なぜ国民生活の全体が戦争に巻き込まれるようになったかを明らかにする。
名著、げすとこらむ。ゲスト講師:西谷修
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/90_sensouron/guestcolumn.html 【人間にとって戦争とは何か】
フランスの人類学者・社会学者であるロジェ・カイヨワの『戦争論』は、第二次世界大戦の直後に書き始められました。まずこの本の第二部にあたる「戦争の眩暈(めまい)」が一九五一年に発表され、それから第一部となる「戦争と国家の発達」が書き継がれて、約十年の月日をかけてまとめられ、一九六三年に刊行されました。その年、カイヨワはこの本により、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の国際平和文学賞を受賞しています。
第二次世界大戦は、破滅的な「世界戦争」で、文字通り世界が一つの戦争に吞み込まれました。各国が戦争に持てる最大の力や物資や人員をつぎ込んで、破壊と殺戮(さつりく)の規模は際限なく広がりました。ついには原子爆弾という殲滅兵器(せんめつへいき)までが開発され、使用されます。兵員も市民も含めて、全世界でおよそ五千万人が亡くなり、アメリカ以外では多くの都市が破壊されました。この二度目の世界戦争終結後には、第一次世界大戦のときにすでに語られていた「文明の没落」が、ついに実現してしまったのではないか、というムードが漂いました。未来の崩壊と引きかえにやっと終わったかのような戦争、それがどうして起こったのか、「文明」を目指していったい人間はこれまで何をやってきたのか、それが深刻に問われたのです。
それと同時に、もう一度この世界に新しい秩序をつくっていこうという、国家を超えた政治の動きも始まります。国際連合(国連)という組織ができ、二度と大きな戦争を引き起こさないための国家間の仕組みをつくろうとします。ただし戦争は先進国だけでなく後発の途上国からも起こるから、それを防ぐためにそれぞれの国の社会も豊かにしていかなければならない。そのためにはまず教育が必要だということで、世界の国々の教育を振興し文化を豊かにする目的で、ユネスコという国連の機関もつくられます。
カイヨワは、もともと二十世紀初頭におこったシュルレアリスム(超現実主義)の芸術運動から出発して、「遊び」や「祭り」といった、それまで人間に役立つとは思われていなかった、むしろ無駄だとさえ思われていたことの重要さに注目し、そこを立脚点としてさまざまな考察を続けた人です。第二次世界大戦中、カイヨワは南米のアルゼンチンにいました。大西洋の反対側からヨーロッパの戦禍を見ていたのです。そして戦後の四八年から、世界の平和づくりの拠点として発足したばかりのユネスコに勤めます。そこで思索を重ねながら、ユネスコの教育・文化振興にそれまでとは違う新しい考えを注入していこうとしたのでしょう。
というのも、「戦争の終わり」は純然たる平和の回復になったのではなく、その「平和」は破滅の核戦争の予兆に曇った、「棚上げされた平和」だったからです。あるいは、恐怖で「凍結された戦争」だったのかもしれません。「戦後」はすぐに「冷戦」の状況に入ります。人間は懲りずにまた戦争をする姿勢を崩さない。これはほとんど人間の性(さが)なのではないか。カイヨワは、一般的な政治的考察や歴史的考察ではなく、人間とその社会の本質に、どうしようもない「戦争への傾き」があると考え、それを見つめて、人類の行方を考えようとしました。
戦争を全般的に考察し、それについて論じる本は、クラウゼヴィッツの『戦争論』(一八三二〜三四)という古典をはじめとして、西洋近代以降、つまりフランス革命以降の近代国家体制が成立してから、折あるごとに書かれるようになりました。それらは国家間戦争という枠組みを前提にして、戦争をする国家や軍人の立場から、技術的にいかにそれを成功させるか、またなぜ失敗したか、あるいは政治的にいかに回避するか、といった議論が一般的でした。ところがカイヨワは、それとは違った形で、「人間にとって戦争とは何か」という問題に真正面から取り組みました。なぜなら、二十世紀の戦争は「世界戦争」であり、あらゆる人びとの生存を巻き込む人類的な体験だったからです。もはや戦争は単に国家の問題でもなく、また軍人や政治家だけの問題でもなく、われわれ万人にとっての、あるいは人類にとっての問題だと考えたのです。
ですからカイヨワは、軍事的な戦略や国家の政策の善し悪し、あるいは人間の善悪の問題としてではなく、人類学者・社会学者の視点から戦争を考えました。集団としての人間の「あり方の問題」として、人間とはこういうものなのだと、いったん受け止める。そして戦争を、総じて人間の文明そのものと不可分の事象として扱います。そのようにして書かれた本が『戦争論』なのです。
よく考えてみると、そもそもあらゆる物語は戦争から生まれたと言っても過言ではないでしょう。古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』や、古代ギリシアのトロイ戦争を題材にしたホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』からしてそうです。戦争という破滅的な体験から、それを語り出そうとする止みがたい営みが生まれます。勝った者たちはそこから英雄譚や武勲詩をつくり出すでしょう。敗れた者たちは、命があれば自分たちの運命を哀歌に託し、仲間を悼み、自らを悲しみ、そのことを生きてゆく糧にします。人びとの運命を翻弄する戦いが、そのようにして共同の語りを生み出したのでしょう。それが時間の秩序に従って整理され、因果関係を語るようになると、「歴史」になるわけです。「物語」と「歴史」は、ギリシア語ではどちらも historia(ヒストリア)です。それは戦争から生まれた。それくらい、戦争とは人間にとって根本的な体験だったのです。
カイヨワは、若い頃にジョルジュ・バタイユという作家・思想家から決定的な影響を受けています。そのバタイユが著した『内的体験』(一九四三)や『有罪者』(四四)は一種の戦争手記であり、特異な経済学を理論的に展開した『呪われた部分』(四九)も、じつはみな戦争の考察といってもよいものです。
若い頃のわたしは、ベトナム戦争や日米安保問題などで、社会が全般的にざわつく空気の中でものを考え、本を読みながら、たぶん相当混乱していたと思います。ただ、その当時はいまと違って、本を読むことが若者にとっての糧だった時代でした。
いろいろな本を読みましたが、わたしが特に惹かれたのが、二十世紀フランスのバタイユやモーリス・ブランショといった作家です。彼らは自分たちが置かれている「西洋」というものの限界を直視し、「世界戦争」時代の人間の生存の条件を突き詰めて考えた人たちでした。彼らの作品には、思考と文学の表現の境がなくなっていくという特徴があります。それは極限体験について書こうとしているからです。そこにはもはや生死の境すらもなく、知的な経験の限界領域において人は何を言うことができるのか、という課題との格闘がありました。真っ暗闇の中で、それでもこの世界にはトクトクと脈打つ何かがある。それは見ようとしても見えず、触れてみなければ分からない。そうした極限の思考体験を、わたしはかつて「夜の鼓動にふれる」という言葉で表現しました。
そのときに、こういう作家たちを生み出した「世界戦争」とは何なのだろうと、改めて本格的に考えるようになったのです。その頃読んだ戦争に関するさまざまな本の中に、もちろんカイヨワの『戦争論』もありました。この本は、戦争を人類学的な概念である「聖なるもの」と結びつけて考えるという際立った特徴を持っていると同時に、直接語られてはいませんが、背後にバタイユの巨大な影があります。そういう意味でも、わたしにとって特別な意味のある本なのです。
この機会に、カイヨワの『戦争論』を読み解きながら、同時にバタイユのことやわたし自身の考えもお伝えしたいと思っています。そして「人間にとって戦争とは何か」について、カイヨワの時代には存在しなかった戦争、つまり現在進行形の「テロとの戦争」に至るまでを、みなさんと一緒に考えていくことにしましょう。
第3回 内的体験としての戦争
戦争を支えているのはシステムだけではない。カイヨワは人類学的な視点から「戦争に惹きつけられてしまう人間本性」にメスを入れる。兵士の一人ひとりが一個の砲弾や機械部品と同じように消費される戦争。しかしその状況を積極的に引き受けることで新たな人間の価値を見出そうとする思想が現れる。過酷な塹壕戦を戦い抜いたエルンスト・ユンガーは「人間自身が一種の武器となり一種の精密機械となって、壮大な秩序の支配する全体の中で決められた地位を占めること」を戦争は要求するという。その要求を受け入れるとき人間は自己を超えた真の偉大さを獲得し自らの運命に合致した自由を見出すというのだ。その「恍惚」や「陶酔」は、人間が古来惹かれ続けてきた「聖なるものの顕現」としての「祭り」の体験と酷似する。第三回は、戦争自体に人類が惹かれ続けてきたというカイヨワの恐るべき洞察を通して、その本性とどう向き合い統御していくかを考える。
第4回 戦争への傾きとストッパー
コンピュータ、人工衛星、そして核兵器の登場によって戦争が人間の知的能力をはるかに凌駕する事態を迎えた現代。戦争が歯止めがきかない自走システムと化す中、カイヨワは無力感に打ちひしがれながらもその僅かな可能性を「教育」に託す。西谷修さんはカイヨワの課題を引き継ぎ、「諸国家の共存」や「人間の共同性の確保」を目指した新たな枠組みを考えなければならないという。それにはカイヨワが試みたような「戦争」や「国家」についての原理的・存在論的考察が欠かせない。その上で、人類を惹きつけてやまない戦争の本質や、人間の本能、思考の枠組みを冷徹に見極め、政治や権力に利用されない方法を模索しなければならない。第四回は、カイヨワの戦争に対する洞察をさらに深堀りしながら、人類が戦争を避けるには何が必要かを考察する。
こぼれ話。
「戦争」の根源を見極める
100分de名著では、これまで8月という月を大切にしてきました。広島、長崎に原爆が投下され、そして終戦を迎えた8月。戦争体験が風化しつつあるともいわれる中にあって、これまで、カント「永遠平和のために」、大岡昇平「野火」など、戦争を防ぐ方法や生々しい戦争体験を伝える作品を読み解いていこうと思ったのです。
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2019年度の企画書を練る中でも、常に、思いの中によぎり続けたのは、イギリスのEU離脱、ホルムス海峡を巡る緊張状態、米中の貿易摩擦等々……世界各地に存する不安定要素。極右勢力の台頭による排外主義の風潮にも心を痛めてきました。
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そんな中でふと思い出したのが、西谷修さんの「戦争論」という一冊の書物のことでした。西谷さんの著作は「不死のワンダーランド」以降、いくつかの著作を愛読していました。とりわけ「戦争論」で展開された「世界戦争」という概念が、何か緊迫した状況が起こるたびに、喉にひっかかった骨のように気にかかり続けていたのです。
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次の8月にどんな名著を取り上げたらよいのか? この本を読み直せば、そのヒントが得られるかもしれない。第一章がいみじくも「世界戦争」という表題だったことを思い出しました。読み進めていくうちに肌が粟立ちました。これはまさに現在起こっていることを分析するために有効な手立てを教えてくれる本だ、と再読して直観しました。さらには、この本には、クラウゼヴィッツ、ヘーゲル、エルンスト・ユンガー、フロイト、ハイデガー、バタイユ、レヴィナス等々、錚々たる思想家たちが名前を連ね、彼らの著作が引用されている。彼らの本のどれかを取り上げれば、「戦争」に鋭く切り込む番組が作れるのではないか、そう思ったのです。
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ところが、それぞれの思想家による論考は非常に優れていて興味深いのですが、ある意味、マニアックというか、領域が極めて狭い。戦争についてのある側面を深く刺し貫いてはいるものの、全体としての「戦争という現象」を俯瞰するものがありませんでした。
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悩みに悩んでいたときに、西谷さんが引用しているカイヨワ「戦争論」というタイトルにふと目が止まりました。他の思想家の著作はすでに知っていましたが、この著作だけは読んだことがありませんでした。早速取り寄せて読んでみたところ、まさに戦争の博物誌とでもいえるほどに、戦争の長い歴史を俯瞰し、さまざまな角度からの分析がなされている著作で、驚きました。各論に限っていうと、バタイユやフロイトほどは深い論考にはなっていないのですが、逆にそれだからこそ、一般の人に近づきやすいとも感じました。
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また、カイヨワが展開する「全体戦争」という概念が、西谷さんが唱える「世界戦争」という概念と強く響き合っていると思いました。合わせて、西谷さんがよく引き合いに出しているクラウゼヴィッツやエルンスト・ユンガーによる戦争論についても論究されている。また名前こそ出てこないものの、戦争を「聖なるもの」と位置付けるバタイユを下敷きにしたと思われる戦争論も刺激的でした。
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カイヨワの「戦争論」を使えば、これまで展開されてきた戦争論の数々が一度に展開できるのではないか。そして、それは西谷さんが展開している戦争論ともうまくリンクしていきそうだ。そんな欲張りなアイデアが浮かんできたのでした。
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東京外国語大学を退官されていたあとでしたので、連絡先がわからなかったのですが、西谷さんの教え子でもある作家の小野正嗣さん(9月に講師として登場します。ぜひご注目ください)に引き合わせてもらいました。当時、立教大学の特任教授として教えていらっしゃり、小野さんと同僚だったことがご縁になりました。
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折しも、小野さんは、同僚の学者、福島亮大さんと二人で、西谷さんのこれまでの研究を振り返る「翻訳・戦争・人類学」というロングインタビューを敢行したばかり(立教大学のホームページに公開されているのでぜひご一読ください)。その内容にも大きく触発されました。
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裏を明かせば、西谷さんが本当に解説したかった思想家はジョルジュ・バタイユでした。バタイユの思想的な深度の深さからすると、カイヨワの分析は少し浅い部分もあるかと思います。私自身の心もかなり揺れましたし、可能性もいろいろ検討したのですが、国際情勢がますます緊迫した様相を呈する中、ストレートに「戦争論」(原典では「戦争への傾き」)と明確にタイトルを打ち出したカイヨワの著作の方が、「8月」という月には大きなインパクトをもつのではないかと判断し、西谷さんに譲っていただく形で、カイヨワ「戦争論」をセレクトすることにしたのでした。
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私の手ごたえとしては、歴史的な段階を追って、戦争の変容のプロセスをクリアカットに分析していくカイヨワの論考は解説の素材として極めて有効でしたし、少し浅いと思われる部分については、バタイユについて深く知悉している西谷さんに見事に補ってもらうことで、厚みのある解説になったのではないかと感じています。そのあたりは、ご覧になった視聴者の皆さんも同感してくださるのではないでしょうか?
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一番悩んだのは、第四回でした。カイヨワの時代にはもちろん「テロとの戦争」は存在していません。しかし、この論点を避けると、現代の戦争を語るには、少し物足りなくなってしまいます。そこで、カイヨワの論述の中でも、現代を予見しているような洞察をキーにして、その延長で論じていただくことにしました。
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実際にカイヨワは、「人びとの生活全体が組みかえられてしまうのも、遠い先のことではなかった。敵に対して、できるだけ有効で致命的な潜在的打撃を加えるために、政治、経済、科学の分野にまたがる、全般的な施策が実行された」と述べています。特に「生活全体の組みかえ」「政治、経済、科学の分野にまたがる全般的施策」という言葉によって、「テロとの戦争」以降に生じる、IT技術を駆使した徹底的な監視社会化、戦争のアウトソーシング化、セキュリティ国家体制の構築を暗示するような分析をしていて驚きます。科学技術分野にも深い知見をもっていたカイヨワは、おそらく「生活全体の組みかえ」という言葉で、急速な科学技術の進歩によってもたらされる、生活世界全般を厳しく管理する社会を予見していたのではないでしょうか?
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もう一つ悩んだのは、最後に示す処方箋です。これだけ戦争の恐ろしさについて徹底的に分析したカイヨワは、そのあげくに、その抑止策として「教育」の一言しか語っていません。いったいこの言葉の裏側にあるものは具体的に何なのか? 番組を締めくくるにあたっては、この点も深読みしなければならないと考えました。
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これについてもカイヨワはいくつかヒントになるような言葉を残しています。たとえば「たえず人間を押しつぶそうと脅かすこの根源的な諸力を緩和し、さらにはそれを人間的なものとするためには、(中略)明晰な思考と堅固な意志と巧みな技とを与えることによって、不釣り合いに巨大なものとなった諸々の力を、柔軟に制御できるようにすることであろう」と。戦争へ向かわせるさまざまな力を柔軟に制御できるようにするための「明晰な思考」「堅固な意志」「巧みな技」。西谷さんは、ご自身の解釈として、これらを保証するものとして「人権」という概念を提示してくれました。
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「人権」といっても、「人権派弁護士」「人権教育」といった言葉でイメージされるような、生易しいものではありません。それは、アウシュヴィッツやヒロシマ・ナガサキといった過酷な経験を経て、人類が血みどろになってつかみ取ってきた「統制的な理念」です。
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その「人権」の内実を語るのに、西谷さんの番組テキストの言葉を借りてみます。
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「世界が合理的にIT化され、徹底的に計算され、管理されて、たとえ人間が遺伝子情報に還元されたとしても、いまを生きるわたしたち一人ひとりが、血の通ったこの生身で生きているというそのことです。ハイテク化されていくヴァーチャルな世界に、『わたしには血が通っているのだ』と表明し、その潮流にブレーキをのようにつっかい棒を差し込むことが、わたしたちに残された可能性ではないでしょうか?」
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もちろんカイヨワはここまで書いていませんが、これこそ私たちの時代にカイヨワの思想を生かすための創造的な読みではないかと思います。
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最後に、西谷さんのお話の中で、忘れがたい一節をご紹介して締めくくりたいと思います。第一回放送のラストで語られた言葉です。
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「答えがすぐに出なくても、答えをこれから作っていく足場を作る。それが『考えるということ』の一番重要な役割だと思います」
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今、世界では、カイヨワも戦争の要因として指摘した「ナショナリズム」が猛威を振るっています。「ナショナリズム」というのは人類を最も気持ちよく酩酊させる美酒ともいえます。しかし、それに溺れると確実に我が身を破壊されます。それどころか周囲の人たちにもその酩酊を広げてしまいます。人間の本性上おそらくこの誘惑から逃れることは非常に難しいでしょう。それでも決してあきらめてはいけない。私たちは、カイヨワが差し出してくれた巨大な問いに応えるためにも、西谷さんもいうように、「考える」という力を絶対に手放さないことです。それこそが、危険な方向に流されない、しっかりとした足場を作っていくことにつながるのだと思います。
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