Facebook玉井 昭彦さん投稿記事 今すでに「戦前」だと思う
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核といのちを考える③#小野瑛子さん
海の中、私を殺そうとした母の手の力 絶望と願いを娘は伝え続けた
広島市の山本信子(38)は亡くなった長女(8)と別れ、教師の夫(39)を捜しに向かった。
夫の学校は全焼。消息は、臨時の事務所で知らされた。 1年生はあの朝、建物疎開の作業で川岸にいた。そこから約500メートルの場所に米軍が原爆を投下。 12~13歳の旧広島二中1年生323人と引率教員4人が亡くなった。 その教員の1人こそ、信子が19歳で初めて出会い、あの日の朝、疲れた様子で出勤していった夫だった。
「お母ちゃんもすぐに行くからね」 翌日。信子は、次女の英子(6)と宮島に向かった。
亡くなった長女と別れる際、「お母ちゃんもすぐに行くからね」と伝えていた。
次女の《欲しがるものはすべて買ってやり、水着を着せて海に入った。》
《私は英子の頭を水の中に押し込んで、溺死(できし)させようとした。》 しかし、思いとどまる。
《この小さい天使は何事もなかったかのように、水の中を跳ねたり走り回っていた。この子にも、ほかの子どもと同じように生きる権利はあるのだ。》
信子は、次女と生きるために通訳の仕事を始めるが、長女の死は自分のせいだと一生悔やみ続ける。
被爆の1カ月前、なじめない長女を疎開先から自分の判断で広島に連れ戻し、被爆当日の朝も気が進まない娘を登校させていた。
《すべて私の罪なのだ。疎開先から連れ帰らなかったなら、あの朝、学校に行かせなかったなら》
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優秀で人見知りな姉と違い、次女の英子(6)は元気で社交的な女の子だった。戦後、自分よりも亡くなった姉を思う母に育てられる。 宮島の海で、母が、自分を殺そうとしたこともわかっていた。「海の中で私の頭をおさえ込んだ、母の強い手の力」は深い心の傷になる。
被爆した6歳の頃から下痢や発熱など放射線の影響も懸念される症状が出て、体調不良は中学生になる頃まで続いた。 就職後は結婚を考える相手ができたが、英子の被爆を理由に相手の親が反対し、破談になった。
その後、別の男性と結婚。母の手記を見つけたのは、1978年に母が70歳で亡くなった直後。遺品を整理している時だった。
「TIME」宛ての手記は、GHQ(連合国軍総司令部)の検閲などで届かなかったようだった。原爆の惨状を伝えるために自分は生き残ったのではないかと、母は手記につづっていた。
しかし、母の手記からは、やはり自分ではなく、亡くなった姉への強い愛情が読み取れた。
傷ついた英子はしばらく手記にさわらずにいたが、4年後、母の願いをかなえようと動き出す。
手記を国際会議で配布。被爆前後の生活と手記をまとめた著書「炎のメモワール」を1982年に出版(現在は絶版)した。
その後も、被爆体験を伝える活動に尽力。亡くなる2カ月前まで小学校に出向いた。
「生き残ったのが自分ではダメだったの?」
千葉県に住む英子の長女(52)は「母は幼い頃から『生き残ったのが自分ではダメだったの?』と感じ、祖母の愛を求めていた。原爆がなく4人で幸せに暮らしていたらこんなことにはならなかったが、被害を繰り返させまいと伝え続けた」と話す。
女性は「母や祖母が残そうとしたことが消えてしまわないように」と、手記をHPで公開。英子の友人で、被爆経験の絵本化を生前に頼まれた絵本作家三枝三七子は今夏、絵本「さいごのあさごはん」を出版した。
被爆の惨状を世界に伝えようとした信子の手記は、こう終わる。
《私は最もむごたらしい地獄を見たのだ。(中略)私はまた、天国も知っている。(中略)家庭の幸福、夫や妻、子どもたちとの間の互いの愛情から生まれる平和と満たされた思いである。(中略)アメリカでも多くの母親や妻たちが、夫を、息子たちを亡くしたという事実を考えずにはいられない。そしてそれが原爆の使用を理由づけているのかもしれない。
しかし、もしその人たちが、核兵器の凶暴な残酷さを見ることができたら、そしてもし原爆が残した傷あとと悲惨さを理解することができたら、もう二度と原爆を使用しようとは誰も考えないだろう。
この戦争という無意味な虐殺には、終結がないのだろうか?》
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〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉
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(天声人語)雪と受験と立春と
たった一人。白く息を吐きながら、ギュッギュッと新雪を踏みしめていく。教科書で出会った高村光太郎の「道程」は、読みかえすたびにそんな光景を思い起こさせる。
〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。
自分の力で人生を切り開く。詩人が決意を文字にしたのは、ある年の2月のこと。詩の舞台は冬というわが想像も、そう間違っていないのかもしれない。
さて、そんな雪景色に今朝は一変しているだろうか。都心を含めた関東甲信では雪が積もるかもしれないと、気象庁が警戒を呼びかけている。交通機関の乱れのおそれもある。気が気でないのは受験生たちだろう。
首都圏では中学受験の熱が高く、いまがピークだ。きのうの早朝は電車の中で、親子連れを何組も見かけた。やや緊張した面持ちの子。マフラーを巻き直してやったりと、何くれとなく世話をやく親。どちらも大変だ。私立大でも入試が始まっている。
週明け以降には、強い寒波がやってくる。暖かい格好で備え、受験会場までの道程では、凍った路面で転んだりせぬようにくれぐれもご注意を。
https://book.asahi.com/article/12555127 【高村光太郎の戦後 [著]中村稔】より
19世紀ドイツの法学者ギールケは、普仏戦争開戦直前の首都ベルリンで、「共同体の精神が、原始の力で、ほとんど官能的な形象を伴ってわれわれの前に発現し、……我々の個としての存在を感じさせなくなる」経験をしたという。同種の体験が日本では、共同体精神の特権的な表現人であった天皇を、表象として用いて語られる。
たとえば、真珠湾攻撃の一報をきいた体験を、詩人・高村光太郎は次のように回想している。「この容易ならぬ瞬間に/……昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/……私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」(「暗愚小伝」から)
以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の典型」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
中村稔は、詩人としても法律家としても、そうした高村に一貫して拘ってきた。その文学人生の最終盤に、高村の「戦後」といま一度腰を据えて取り組んだのが本書である。この重みを踏まえなければ、岩手・花巻郊外の言葉も通じない山中で、高村が独居生活した戦後の7年間を、何故「冗漫に耐えて」執拗に追体験しようとしているのかは、理解できない。
しかも感動的なのは、そうした地道な作業の結果、齢92歳の著者が、近著『高村光太郎論』でも披瀝された若き日からの持論を「あさはかな批評」と断じて、自ら改めるに至ったという事実である。
かねて評価した歌人斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出すに至ったのである。
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なかむら・みのる 1927年生まれ。詩人・弁護士。「世代」同人。50年に第一詩集『無言歌』を出版。ほかの詩集に『鵜原抄』『羽虫の飛ぶ風景』、著書に『束の間の幻影』『私の昭和史』『回想の伊達得夫』など。
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◆俳諧の巨魁虚子150周年と俳句のその後
昨日(2024年11月29日」、受け取った『週刊金曜日』1499号は、俳句界の巨魁・高濱虚子生誕150年を記念する虚子の特集号だった。題して「俳句は極楽の文学」。
66頁中13頁を費やしての大特集だったが、戦後、桑原武夫により「悲惨な世界大戦の渦中にあっても、花鳥風月の世界に閉じこもっていた閉鎖性」を糾弾し、俳句は『第2芸術』でしかないと(要旨)と宣告された一大事はどう扱われているのか。
特集のうちの「私と虚子」のコーナーでは、リードで「俳句の世界は、どの師に学んだかという「師系」を重んじる。そして師系をたどると、ほとんどの俳人は虚子に行きつく。新進気鋭から中堅、ベテラン俳人が虚子への想いを綴る。」とあって、例えば、≪存在の「あはれ」を肯定する 奥坂まや1950年生まれ≫や≪「客観」という神の域 野名紅里(あかり)1998年生まれ≫など、礼賛のオンパレードである。
もちろん師系を手繰って集めたのだから当然のことだが、虚子本人は「第十芸術であっても致し方がない。俳句の性質はかえる(更える)ことができない」と語っているとの紹介があって、「初志に反して〈小説家を志して途中で断念し〉俳人となってしまった虚子の、俳句に対する屈折した愛情が感じられる』とは書いても『第2芸術』論が与えた衝撃には何ら触れない。
戦争中は日本文学報国会の俳句部会長であったとさらりと述べているが、例えば高村光太郎が戦後文学の責任を背負って山にこもったように自らを問うこともない。俳句を守ってやりすごしたということでは痛みなどなく、かすり傷さえ生じなかったといえよう。
圧倒的多数の俳人が選び取った道は…俳句形式の容量に見合った対象・主題飲み飽くことなくとりあげ…俳壇なる閉鎖社会をつくりあげた。そしてその内での自足であり、安逸であった。という改革派の江里昭彦の紹介に移りたい(つづく)
【午後には,恒例の毎週パレスチナ連帯デモが控えているので、いったん筆を擱き。無事帰宅すれば再開する】
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