https://www.tabirai.net/sightseeing/okinawa/info/about/history.aspx 【沖縄の歴史】より
琉球から沖縄へ。歴史がそのまま沖縄文化の礎に
沖縄は古来、アジア各国との交易が盛んで、そのため、国際色豊かな文化が育まれてきた。独立した国家・琉球王国として栄えながらも、時代の潮流によって激動の歴史を刻んできた。沖縄の歴史を知ることで、沖縄の旅も違った趣を味わうことができるだろう。
約1万年前までは大陸と繋がっていたとされる琉球列島。沖縄人がどこからやってきたのかは不明だが、南アジアや東南アジアに生息する動物の化石が発見されていることから、琉球列島へも動物を追って人類が大陸からやってきたといわれる。昭和42年(1967)沖縄県具志頭村(現・八重瀬町)で化石人骨が発見され、その後の発掘調査により、1万8000年前の人骨であることがわかった。「港川人」と命名され日本の旧石器人として世界的にも紹介された。このほかにも沖縄各地で旧石器時代の化石人骨が発見されている。当時の生活に関する遺物は発見されていないため、当時の暮らしがどういったものかはわかっていないが、貝塚が発見されるなど、海辺で魚介類を採取して生活していたことがうかがえる。
古琉球
長く続いた貝塚時代のあと農耕文化へと移り、社会を形成し、各地には按司(あじ)と呼ばれる実力者が出現し、グスクが築かれることになる。その後、勢力争いへと発展していき沖縄本島を北山、中山、南山の3つの「三山時代」へと時代は変わっていった。その後1429年に尚巴志(しょうはし)が三山を統一し「琉球王国」が誕生することになる。世界遺産に登録されている勝連城跡(沖縄県中部/うるま市)
グスク時代
海辺の生活から平野部、台地へと移り住み、農耕社会へと変わっていくのと同時に、集落が形成された。このころから村の守り神としての拝所、「聖地」が作られていった。一方、海外交易も盛んに行われるようになり、交易で得た富や権力を元に按司(あじ)が地域を治め、グスクを築き支配力を高めていった。勝連城をはじめとする有名なグスク以外にも沖縄各地には、当時のグスクが現存する。日本では鎌倉時代にあたり、時、同じくして、有力な武士が支配力を強め小国家を形成していた時期と重なる。
三山時代
グスクを中心とした各集落では、農耕社会が形成されるとともに、作付け、収穫などの共同作業が必要となり集落内での協力、集落外との交流が始まる。今につながる「ゆいまーる精神」が培われたと言える。浦添、読谷、中城、勝連、佐敷、今帰仁といった良港をもった按司は、その勢力をさらに拡大させて行き、やがて按司を統率する「世の主」が現れ、今帰仁を中心とした「北山」、浦添を中心とした「中山」、大里を中心とした「南山」に大きなグスクを築城して、沖縄本島を3分割する三山時代となった。沖縄本島北部にある今帰仁(なきじん)城。別名北山城
琉球の大交易時代
実在した王としては、琉球王朝を誕生させた尚巴志(しょうはし)が初代の王となるが、琉球の歴史における最初の王は「天孫」と称されている。天命を受けて降臨し、琉球の島々を作ったとされ、今の沖縄に数多く残る聖地と言われる場所は、こうした神話が元になっている。王統は「舜天王統」「英租王統」「察度王統」と続いた。「察度」はもともと浦添の按司で、中国の皇帝へ弟の泰期を派遣し、貢物を治めたことにより、中国との交易が認められた。このときより、中国を足がかりに琉球の大交易時代が幕を開けた。残波岬灯台へ向かう途中にある「泰期」像。中国への初の進貢使
琉球王国誕生(第一尚氏王朝)
三山時代に終わりを告げるのは、1429年。佐敷の按司であった尚巴志が琉球統一を図り、首里城を整備し琉球王国の中心に据えた。これを第一尚氏王朝と呼んでいる。さらに、日本や中国、東南アジアとの貿易も精力的に行われるようになり、このころに三線、泡盛、紅型といった琉球文化の基礎が流入した。琉球王国の政治、文化の中心であった首里城では、中国からの使者「冊封使」が訪れるようになり、もてなしの儀式や宴会などが催された。現在、そうした儀式の再現が、観光イベントとして行われている。ちなみに、尚巴志の祖父が、伊平屋島出身であることから、伊平屋島では尚巴志に関わる遺跡、行事、イベントが多く行われている。国王・王妃からなる琉球王朝の行列と冊封使の行列を再現した「琉球王朝絵巻行列」
第二尚氏王朝
第一尚氏王朝の第5代王・金福が亡くなると、再び武力による権利争いが起きたが、跡を継いだ尚泰久が王位につくと、仏教を重んじて寺社を建立したり、「万国津梁の鐘」を作ったりと、琉球王国の平穏に尽くした。その後、護佐丸・阿麻和利の乱を治めた尚徳が王位についた。これが第一尚氏王朝の最後の王であった。先の王朝の官僚であった「金丸」が即位し、尚円と称することとなり、これが19代続く第二尚氏王朝の始まりであり、本格的な王朝の繁栄が訪れた。
近世琉球
華やかで優美な首里の宮廷文化も、外部との交易で得られる利権争いによって様相が一変する。薩摩・島津藩の琉球侵入とともに、第二尚氏王朝は日本(ヤマト)の実質統治下に置かれることとなった。
琉球文化の基礎
第二尚氏王朝の第3代尚真の業績は重要で、今の沖縄の文化の基礎となったものが多くある。たとえば王家の墳墓である「玉陵(たまうどぅん)」や園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)などの石造建築物が造られた。また中国文化を積極的に取り入れ、沖縄独自の芸術や工芸品が生み出され、豊かな国づくりが行われた。舞踊、組踊、三線、陶芸、漆器、織物、染物・・・・・・。あらゆる琉球文化が首里王府のもとで保護され発展していった。首里城公園「中秋の宴」での組踊の様子
江戸上り
1609年に薩摩藩が沖縄北部の運天港に上陸し、今帰仁城を落城させると、一気に琉球に侵攻し首里城を占拠。江戸幕府の徳川家康から琉球の支配権を与えられた島津の統治下に入ることとなった。事実上、幕府に組み込まれた琉球は、江戸へ使節を送ることが慣例となり、これを「江戸上り」といい、琉球装束を身にまとうことで、独立国としての対面を保っていたともいわれる。
交易
江戸幕府に組み込まれながらも、依然として中国への進貢は続いていた。中国は明から清へと王朝が変わったが、清とも冊封・朝貢関係を維持することで、琉球王国としての独自性を保っていた。また、交易相手は中国、東南アジアにとどまらず、鎖国政策をしいていた日本への足掛かりとして、欧米各国が琉球へ開港要求をしてくるようになった。1853年には、日本との交渉前に、アメリカの東インド艦隊司令長官・ペリーが琉球に来航した。
近代沖縄
日本では明治維新により新政府が誕生。これによって廃藩置県が行われ、琉球王国は琉球藩として位置づけられたが、明治12年(1879)には、ついに琉球王国が崩壊した。沖縄県の誕生である。
琉球処分
明治5年(1872)に琉球王国から琉球藩となったが、王府は、琉球の管轄が薩摩藩から明治政府に変わっただけで体制に影響がないと見ていたが、明治政府は中国(清)との冊封、進貢関係を絶たせ、強硬に藩政から県政へと推し進めようとしていた。王府は琉球存続の嘆願を繰り返したが、琉球処分官により、政府命令を通達。明治12年(1879)に廃藩置県を断行。首里城は明け渡され、藩王であった尚泰は華族として東京に居を移すことになった。ここに450年続いた第二尚氏王朝は終焉を迎えた
沖縄県誕生
近代日本に組み込まれた沖縄県だが、古い制度を残し急激な改革を行わない「旧慣温存策」が取られていた。しかし、旧支配層のみがその恩恵を受けるばかりで、一般県民は貧困に苦しむという状況が続き、1886年から87年に伊藤博文総理大臣をはじめとする政府要人が来島し、沖縄県統治の方針が修正されることになった。当時の沖縄民衆運動のひとつ、宮古島の「人頭税廃止運動」の名残である「人頭税の石」は今も宮古島に残る。
第二次世界大戦
日本政府が、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦へと突き進む中、沖縄も戦争に巻き込まれていく。第一次世界大戦終結後に起きた戦後恐慌では、沖縄では「ソテツ地獄」と称され、命を落とす危険さえあるソテツの実や幹を食べて飢えをしのぐほどの悲惨な状況だった。第二次世界大戦から昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入すると、沖縄の各島々には飛行場の建設が進められ、実戦部隊が配備されるなど、沖縄がアジアへの前線基地としての色合いが濃くなっていった。沖縄戦の様子(写真提供/OCVB)
沖縄戦・終戦
戦局が深刻になり、昭和19年(1944)の10月には、ついに沖縄上空にアメリカ軍の戦闘機が現れ、空襲により那覇市は炎上、壊滅状態に陥った。昭和20年(1945)になると、アメリカ軍の襲来は激しさを増し、3月には慶良間に上陸。住民を巻き込んでの地上戦となり多くの犠牲者を出した。続いてアメリカ軍は4月に沖縄本島への上陸を果たし、沖縄本島を中部で分断し、北部から攻め落とし、最後行き場を失った日本軍と住民は南部へと追い詰められていった。日本軍の牛島満司令官の自決により、最後の砦「摩文仁」をアメリカ軍が占領して沖縄の地上戦が終結した。むごい最期を遂げた住民は数え切れず、ひめゆりの塔をはじめ、南部には今も戦争の傷跡が残り、慰霊の火が消えることはない。読谷村渡具知にある集落跡「木綿原遺跡」
現代沖縄
昭和20年(1945)8月15日に太平洋戦争は終わりを告げたが、沖縄は同時にアメリカ軍統治へと変わる。今へと続く基地問題はこの時から始まった。沖縄が日本に復帰するのは、戦後27年経ってからのことだった。糸満市にある平和祈念公園
アメリカ統治時代
アメリカによる直接統治が始まっても戦後の混乱は続き、沖縄の人々の生活は米軍からの配給によるものだった。ポークランチョンミートやコンビーフなど、米軍の物資は、その後の沖縄の食生活に大きな影響を与えた。また、沖縄には通貨がなく、昭和23年(1948)になってB型軍票(B円)に統一され、その後約10年間使用された。その後は、復帰までは米ドルが基本通貨となった。アメリカの影響は沖縄の文化にも現れた。本場のジャズやロックなどもオキナワンミュージックへとつながるものとなった。工芸の分野にもアメリカの生活文化の影響があった。土産物でも人気の琉球ガラスは、元々はコーラの瓶の再利用から始まったものだ。
日本復帰
米軍支配下の沖縄では、住民の人権が蹂躙される事態が多発。平和憲法のもと、日本復帰を望む機運が高まり、昭和40年(1965)には、当時の佐藤栄作首相が「沖縄が復帰しない限り、日本の戦後は終わらない」と表明。昭和47年(1972)5月15日に、ついに日本復帰を果たすことになった。しかし、米軍基地問題をはじめ、沖縄県民にとっては、必ずしも満足のいく復帰ではなかった。日本復帰に伴い、沖縄県内では米ドルから円への通貨切り替え、道路交通の切り替え(右車線走行から左車線走行へ)などが行われた。
沖縄国際海洋博覧会
沖縄の祖国復帰を記念したイベントが次々と開催され、昭和47年(1972)には復帰記念植樹祭が、翌48年(1973)には、沖縄特別国民体育大会(若夏国体)が開かれた。昭和50年(1975)7月から半年間、沖縄北部・本部町で沖縄国際海洋博覧会が行われた。現在は、跡地に「沖縄美ら海水族館」が建つ。海洋博覧会の開催は、一大公共事業となり、道路整備、空港・港湾整備、治水事業、ホテル建設など、多くの経済効果と社会基盤の整備をもたらしたが、海洋博後は、一転、景気が落ち込み倒産が相次ぐなどの暗い一面もあった。海洋博公園中央にある噴水広場
首里城復元
14世紀に築城されたとされる首里城。琉球王朝の中心であり、栄華を極めた城も、昭和20年(1945)の沖縄地上戦により破壊され、さらに戦後は琉球大学が建設されることになり、城壁が残された程度で完全に破壊された。昭和33年(1958)に守礼門が再建された後、歓会門や石垣なども復元された。本格的な首里城の復元は昭和50年代後半から始まり、平成元年(1992)にようやくほぼ現在の形に再現されて首里城公園としてオープンした。平成12年(2000)には世界遺産に登録されたが、再建された建物や城壁は含まれず、「首里城跡」としての登録になる。現在も調査・復元が進められている。今なお復元が行われる首里城
沖縄サミット
平成12年(2000)7月に沖縄で第26回主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)が開催された。沖縄開催を決定した時の総理大臣は小渕恵三。開催時の総理大臣は森喜朗。サミット開催にあたり、那覇空港が整備され、また沖縄自動車道と那覇空港自動車道の接続により、空港からサミット開催の主会場であったザ・ブセナテラス、万国津梁館のある名護市(許田IC)までの移動がスムーズになった。歓迎夕食会では安室奈美恵がイメージソングの「NEVER END」を披露、泡盛が振舞われるなど、沖縄色の濃いサミットとなった。サミットを記念して守礼門が描かれた2000円札が発行された。九州・沖縄サミットが開催された万国津梁館
世界遺産登録
平成12年(2000)に沖縄の9つの文化遺産が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された。14世紀から約450年続いた琉球王国の独自文化を象徴するグスクとその関連遺跡が対象。グスクや造形美にも優れた城壁、中国との交流から生まれた庭園、沖縄の精神の元となる御嶽や陵墓は観光の名所でもあり、今も沖縄の人の心の拠り所となっている。首里城に関しては、復元後の建物は対象外で、首里城跡としての登録となっている。
ゆいレール開通
那覇空港と首里を結ぶ、沖縄唯一の軌道式モノレール。正式名称は「沖縄都市モノレール線」。戦前には沖縄にも軽便鉄道や路面電車が走っていたが、戦後の復興で道路整備が優先され、鉄道路線が復活することはなかった。慢性的な交通渋滞の解消のため、都市交通の手段として跨座式モノレールが導入されることになり、平成8年(1996)に着工、平成15年(2003)8月に全線開業した。那覇空港駅から首里駅までを約27分で結ぶ。平成24年(2012)に、首里駅から浦西駅(仮称)までの区間延長が認可され、2019年春に開通する予定。詳しく知る那覇市内の移動に便利な「ゆいレール」
新都心・おもろまち開発
那覇市の北側に広がる一大再開発地。昭和62年(1987)5月に全面返還された米軍牧港住宅地区の跡地を造成したもので、一帯の面積約214ヘクタールのうち、元米軍基地は192ヘクタールを占める。県立博物館・美術館や大型ショッピングセンター、DFS「Tギャラリア 沖縄」、数多くの飲食店が立ち並ぶ。最近では住宅開発が盛んで、タワー型の高層マンションの建設も進んでいる。平成15年(2003)の沖縄都市モノレール開通により、「おもろまち駅」が設置された。
詳しく知るモノレールおもろまち駅直結の免税店DFS「Tギャラリア 沖縄」
新石垣空港開港
八重山観光の拠点である石垣島。その石垣島に平成25年(2013)3月、新空港として「南ぬ島石垣空港」(ぱいぬしまいしがきくうこう)が開港した。旧空港は戦時中に造られたもので、滑走路が短く、長距離便が離着陸できないという問題を抱えていた。日本各地からの直行便の対応も難しく、島の観光、産業にも影響を与えていたため、平成16年(2004)に新石垣空港整備に国の予算が降り、平成18年(2006)に着工、平成25年(2013)3月に完成した。現在、国内線では5つの航空会社が運航、国際線では2つの航空会社が運航している
https://note.com/guideshiken/n/n526b32b2186d 【カイヨワ「戦争論」を読んで沖縄に「平和を背負いに」行く】より
那覇のペリーとクジラ
日本でコロナが騒動となる一か月前の2019年12月末、五歳になったばかりの息子を連れて那覇に飛んだ。那覇では台湾人や中国人の観光客をたくさん見かけた。1997年から翌年にかけて名護に住んではいたが、まさか二十数年後に息子を連れてこの島に来るとは思ってもいなかった。幼稚園児を連れた父親の旅というのはどのようなものなのか、世間的な「相場」はよく分からないが、沖縄に連れて行きながらビーチリゾートは従で、主は沖縄戦と基地問題、そしてその合間に沖縄の民俗学の跡を歩くという旅になった。
翌日南西諸島一の港町、那覇の泊港に向かった。ホエールウォッチングで知られる慶良間諸島国立公園の中心的な島、座間味に行くためである。ターミナル脇の芝生には数十もの白い十字架が建っている。米兵の墓地だ。そしてそのはずれの立派な石碑に「ペルリ提督上陸之地」とある。
日本史の教科書では浦賀に来たことになっているペリーだが、実は浦賀来航直前にこの那覇に来ていた。1853年、200人もの軍隊を率いて強引に首里城に入場したペリー一行は、その後小笠原経由で浦賀に来た。これがいわゆる「黒船来航」である。そしてその後再び那覇港に戻り、翌年浦賀を再訪問した際に結んだのが日米和親条約であった。下田、箱館の港をこの時開いたのは周知のことだが、開港の目的は米国から清国へ向かう船の薪水や食料の補給基地とするためであり、また鯨油をとっていた米国の捕鯨基地とするためだったという。
座間味到着―アドベンチャー・ツーリズムVSピース・ツーリズム
泊港から座間味まで約一時間。「ケラマブルー」の異名をとる透き通るほど美しい空と海。座間味到着のしばらく前、船内アナウンスでクジラが窓の外に見えるとの放送があった。ちょうど観光の閑散期である十二月下旬から四月上旬にかけてはこの海をクジラが水面を跳ねるのが見えるのだ。自然とアクティビティと文化体験のうちいずれか二つ以上楽しめる旅行形態を「アドベンチャー・ツーリズム(AT)」というが、この島はまさにATのメッカといえよう。
夕方小さな港に到着し、民宿に向かった。アメリカからの観光客を数人見た。聞くと普段はそれ以外にもクジラとマリンスポーツ目当ての各国の訪日客がいるという。アスファルトにはめ込んだマンホールの図柄を見ると、やはりクジラである。なるほど、ペリーら当時の米国人にとって、日本列島の太平洋側はクジラ捕り放題の場所だったのだろう。
民宿で旅装を解き、夕方裏山に登った。私がこの島を訪れた最大の理由は鯨ではない。この美しい島こそ1945年3月に始まった沖縄戦の発端だったため、訪れたのが第一目的だ。沖縄戦は日本史上類例のない戦いだ。まず、米軍の本土上陸を遅らせるために国家が「国民」を「捨て石」として使ったのは沖縄戦だけである。そして何の補給もないままの地上戦だったため、「友軍」が住民を虐殺したり、あるいは集団自決を迫ったりしたのも例がない。結果として民間人のほうが軍人より死傷者が多い戦闘も沖縄戦だけだ。
「慶良間諸島国立公園」としてのATの面と、集団自決というピース・ツーリズム(平和観光)という両面性を持った島なのだ。とはいえ、来島客のほとんどはAT目的なのはいうまでもない。
平和の塔―皇民化教育と「ムラ」の論理
坂道を十数分歩くと、赤瓦とコンクリートの民家が建ち並ぶ座間味の集落を見下ろす丘の中腹にたどり着いた。すでに夕暮れ時だった。亜熱帯植物に囲まれるようにして「平和の塔」という高さ3メートルほどの慰霊碑が鎮座している。1957年3月26日付でたてられたその塔には、軍民合わせて1200名ほどの人々の御霊が眠るという。島民は集落ごと、軍人は出身都道府県ごとにまとめられて名前が書かれているが、そこに連れてこられていたはずの朝鮮人の名は、通名さえない。
事前に日本軍が駐屯していたとはいえ、衆寡敵せずで日本の敗北を悟った島民たちは、「鬼畜米英」に捕まったらどんな恥辱を与えられた末に面白半分に殺されるかもしれないと信じていた。さらにそれまでの「皇民化政策」のせいもあって「天皇陛下のために死ぬのが臣民の務め」と教えられていた。そしてまさにここで家族ごと集まって手榴弾を爆発させたり、包丁や鎌や鉈(なた)などの農具、工具で斬殺したり、首をつったりして七百名もの島民の命が失われたのだ。
国家に対するこの屈折した忠誠心の他、「右ならえ」のムラの論理がある。個人の意志よりもムラの意志のほうが優先されていた島では、「ともに生きよう」というのも「ともに死のう」というのも、その発想の根は同じである。逆に言えば「自分だけ生き残ること」へのうしろめたさと「自分だけ死ぬこと」に対する納得のいかなさも表裏一体といえる。
とはいえ座間味の集団自決に関しては、軍から島民に手榴弾を渡され、一つは敵に、もう一つは自決用にと言われたことなどの証言から、軍部の指示と誘導があったことは明らかだった。ただし平成の教科書検定ではその部分は削除された。まるで島民の意志によって集団自殺をしたかのようになっている。ピース・ツーリズムで大切なのは、表に見えることよりも裏に隠されたことを探し、読み解く訓練を積むことである。
暗くなり、場所が場所だけに何かぞっとするものを感じてきたので山を下り、宿に戻った。
「沖縄人」と「沖縄人」の戦い
果たして島民は本土から来た軍人にとって「同じ国民」だったのだろうかというと、はなはだ疑問である。琉球王国が「琉球藩」となり、「沖縄県」として成立してから太平洋戦争までわずか六十数年しかたっていない。つまり当時の高齢者が生まれた時、彼らは「日本国民」ではなかったかもしれないのだ。そこで「外様扱い」されてきたふるさとのため、血をもって「国民」、いや「臣民」であることを証明しようとしたのが沖縄県民だったように思える。「国民」「臣民」であるべきことを意識したのは、それだけ「日本人」ではなかったことの表れだ。
ちょうど沖縄戦線に送られてきた日系米人に沖縄出身者が数多く加わり、語学力を生かして諜報活動や宣撫活動に従事し、血をもって闘うことで合衆国に忠誠を示したように。
第二次大戦後のフランスの人類学者、カイヨワは「戦争論」のなかでこう述べている。
「国家は兵士に戦わせるために、彼らに誇りを与える。」
いわば天皇陛下の赤子として日の丸という誇りを背負った沖縄人と、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国の誇るべき国民として星条旗を背負った沖縄人が、父祖の地で戦ったのが沖縄戦だったのだ。この「戦争論」は戦争そのものの研究ではなく、戦争が人間の心と精神をいかに惹きつけ、高揚させさせるかを研究したものであったが、戦争とはそもそもどのような機能をもっているかということを考えるにあたっての必読書というので、怒りと涙で思考が停止してしまいそうなこの理不尽な沖縄戦から一歩離れてみるために、カイヨワをガイドとして沖縄を歩いてみたいと思う。
島ぞーりを履いて
翌朝、近くの売店に向かった。東京からはいてきたウォーキングシューズでは足もとが蒸すので「島ぞーり」と呼ばれるビーチサンダルを売店で購入した。那覇では相場が千円しないのに、ここは離島の中の離島だけあって値段が二倍もする。島ぞーりを履いて歩きだすと足元もこころも解放されたかのような気になり、足取りも軽く昨日の山道を登っていった。
二十分ほど急な坂を歩くと展望台が見えてきた。高月山展望台である。ここからは湾が弧を描き、海をはさんで阿賀島や慶留間島、渡嘉敷島などが見える。朝日に映えてこの上なく美しい絶景だ。しかし「あの日」はここから見える海いっぱいに米国の軍艦があふれんばかりにひしめき、こちらに砲口を向けていたはずだ。
沖縄の激戦地に共通することは、何も知らねば美しすぎる風景にうっとりとしてしまうことだ。こんなに美しいところで島民同士が自決をせねばならなかったかと思うとそのギャップがやるせない。
ホエールウォッチングやホエールスウィム、シュノーケリングなどに興ずるでもなく、一日に数回しかない那覇泊港行きの船が出るので、それに乗った。帰りに渡嘉敷島の東に浮かぶ前島という島の南を横切った。ここは日本軍人の入島を拒否したため、米軍が上陸した際に自決させられることもなく、激戦地にもならなかった。軍隊で島を守るはずが、軍隊がないほうが島を守れたというのは沖縄戦共通のパラドックスである。
ロシアのウクライナ侵略以降、軍事力を増強しなければ侵略を受けるという意見が喧(かまびす)しくなってきた。しかし先の沖縄戦に関して言えば日本軍が頑張る場所に限って悲劇が起きていることをどうとらえるのか。単なるディベートのテーマ以上の重い課題を突き付けられている。
那覇新都心:おきみゅーで見る沖縄の歴史
那覇の「新都心」と呼ばれるエリアには「おきみゅー」という愛称の県立博物館・美術館がある。白い石積みのような外壁の巨大な建物は、沖縄戦に限らず地質学から自然、動植物、歴史、民俗学、文化等、各方面から総合的に沖縄を理解するに必見のミュージアムである。
戦後まもなく民間人が文化財の散逸を防ぐべく集めたていたところ、米軍がペリー来沖百年を記念して1953年に琉球政府立博物館を設立し、それらを保護したのが本館の前身だ。琉球文化を徹底破壊したのも米国なら、戦後復活させたのも米国なのか。ただし琉球をヤマトとは異なる民族という意識を植え付けることで民族を分断させ、沖縄の米軍基地を恒久的に使用するという魂胆もあったという。
今回は特に歴史のコーナーが興味深かった。沖縄には縄文文化も弥生文化も伝播していなかったが、12世紀ごろから15世紀ごろまでに沖縄島各地の聖地を土塁や石塁で囲んだ「グスク」ができ、群雄割拠の時代となった。これを「グスク時代」という。その後15世紀に琉球王国が成立するわけだが、本土で例えるなら縄文時代の後にいきなり源平合戦が来るかのような「いきなり感」が不思議である。
ところで琉球の伝統文化は薩摩による圧政の時代につくられたといわれる。例えば壺屋焼のルーツは苗代川の薩摩焼であり、紅型(びんがた)のルーツは加賀友禅といわれる。とはいえ同時代の元禄文化、化政文化のように町民の自発的な文化とは程遠い。高級品をつくるのも薩摩藩の懐を肥やすためだったからだ。
17世紀から始まる島津の搾取はひどかった。館内を歩くと、もしかしたら鹿児島県民は肩身が狭く感じるかもしれない。ただ首里の政府はそれを宮古や八重山といった先島諸島の民を搾り取ることでやりくりした。仁政とは程遠いこの統治方法を見ていると、島津が来なくてもひどい政治しかできなかったのではないかと邪推してしまう。
沖縄『國學』に対するまなざし
館内をぐるりと回って気づいたのは、ここが「沖縄『國學』」のミュージアム」であることだ。18世紀に本居宣長によって大成されたヤマトの「國學」が、「日本を日本たらしめているもの」を自民族が探求することだとすると、近代以降に外国人が客観的目線で日本を探求すればそれは“Japanology”と呼ばれる。同じようにこれを見る本土の観光客は、沖縄を異文化としてみるのだろうか。それとも同じ国内の地域文化としてみるのだろうか。
館内の歴史コーナーを歩きながら分かってきたのは、沖縄を島根県や茨城県のような日本の単なる一県ではなく、「沖縄」たらしめている原因は、明清の冊封体制下における琉球王国の繁栄と搾取・被搾取、そして沖縄戦とその後の占領によるということだ。この部分に注目するときの私は「やまとんちゅ」すなわち他者としてのまなざしで沖縄を見ている。
しかし一方で館内の民俗学コーナーを歩くと、外観こそ異なれ、古神道に基づく政治が行われていた点、特に「ノロ」とよばれる神に仕える女性の勾玉を見た時は、同じ価値観や風習を共有している出雲族としてのまなざしに変わっていた。勾玉は古代出雲のシンボルである。そこに我らが先祖、古代出雲族の姿を見た。やまとんちゅとして違和感を抱き、出雲人として共鳴する沖縄が私の中にあるのだ。
方言札
近代史の展示で最も引っかかったのは「方言札」だった。国民に標準語を普及させるために方言を使った児童生徒の首に方言札をかけさせ、次に方言を話す子が現れるまでそのままにされたという。本土で就職したとき困らないように、という「親心」とはいえ、日本の教師は同じことを後に朝鮮や台湾、ひいては日本各地の方言が強い地域にも強要していた。さらに沖縄戦の時には方言を使用しただけでスパイ容疑で射殺されることもあったという。
薩摩人をルーツにもつ那覇出身の近代詩人、山之口貘(やまのくちばく)は戦後久しぶりに沖縄に戻り、うちなーぐち(沖縄言葉)で話したが日本語で返ってきたことに衝撃を受け、「弾を浴びた島」という作品を残した。
島の土を踏んだとたんに ガンジューイとあいさつをしたところ
はいおかげさまで元気ですとか言って 島の人は日本語で来たのだ
郷愁はいささか戸惑いしてしまって
ウチナーグチマディン ムル イクサニ サッタルバスイと言うと
島の人は苦笑したのだが 沖縄語は上手ですねと来たのだ
※ガンジューイ(元気ですか?)
※ウチナーグチマディン ムル イクサニ サッタルバスイ(沖縄の言葉までみんな戦争でやられたのか)
キラマチージ=シュガーローフへ
見ごたえが十分すぎるこの沖縄「國學」の殿堂を後にして、広々と開けた道を、最寄りのゆいレールおもろまち駅に向かった。このエリアは観光客のショッピングの中心であり、大型バスが出入りしていた。DFSの背後にある20mほどの小高い丘を、かつて沖縄では慶良間まで望めたため「キラマチージ」と呼び、米軍はシュガーローフという甘ったるい名で呼んだ。
この丘からおきみゅーを含むその周辺は、沖縄戦でも凄惨な激突の場のひとつでもあった。1945年5月12日から1週間にわたり、この丘の攻防戦が繰り広げられたが、米軍はここだけで2700名近くの戦死者と、その半分ほどの精神疾患者を出した。日本側の被害は正確には分からないほどという。
すべてが焼き払われた後は、銃剣とブルドーザーで住民の土地を奪った米軍の住宅地となった。それが五月雨式に返還され、平成になってようやく再開発のめどが立ったと思ったら、不発弾や遺骨や遺品が出るわ出るわ。私が1997年ごろに沖縄に滞在していたころは特に何もなかった広大な空きに、おきみゅーやDFS、各地のロードサイドによくありそうな本土資本の各種大型店やショッピングモールなどが林立したのは2000年代後半からだ。
大量生産のための大量破壊?
カイヨワの「戦争論」の次のくだりを思い出した。
「つまるところ戦争は、規格化された大量生産を促進することとなった。大量生産が順調に行われるためには、大量破壊がなくてはならない。組織的破壊こそは、新規需要の最大の保証である。」
人間はなぜ戦争などをしてしまうのか。冷徹なまでに戦争を見つめて出したカイヨワの答えが、「組織的大量破壊」↔「規格化された大量生産」というサイクルがそこにあるからという。彼は言葉を変えてこうも述べる。
「国家機構は、戦争から生まれ、戦争に育てられ、そしていつの世においても、戦争により補われ強化されてきた。」
だから戦争はなくならないのだという。その連鎖を解こうと思ったら、発展そのものをやめるしかないのか。かつて「シュガーローフ」と呼ばれたこの20mほどの丘の周辺を見ると、ガストにツタヤ、洋服の青山にスターバックス、東横イン…大量生産された店舗でひしめいている。規格化された大量生産が、組織的な大量破壊の後に見事に表れているではないか。新しくビルを建てたいと思ったら、戦争をしてここをみな焼き払い、新たに大量生産をするのか?カイヨワの理論の「正しさ」が証明されているようで悔しかった。
とはいえ私たちのその日の宿も安里の全国チェーンのビジネスホテルだった。偉そうなことは言えない。
国際通りー「奇跡の1マイル」も組織的大破壊あってこそ?
観光客が那覇を訪れた際、町の中心となるのは国際通りであろう。ここも先の沖縄戦で焦土と化したが、数年後には見事に復興した。現在「てんぶす那覇」という商業施設があるところに、戦後「アーニーパイル国際劇場」という映画館があったため、「国際」通りとなったのだという。焼け野が原だった地区がわずか数年で繁華街として再スタートしたため、米軍からは「奇跡の1マイル」と呼ばれた。1マイルというのは、東端の安里から西端のパレットくもじあたりまでがおよそ1マイル(≒1.6㎞)だからこう呼ばれる。
通りにはとにかく観光客向けの土産物屋と飲食店であふれているが、一歩奥に入ると南国の雰囲気あふれる市場風になる。いや、なっていたというべきかもしれない。第一牧志公設市場という、本土人からみれば「東南アジア風」の市場があったが、私たちが訪れた2019年12月には場所を変えて屋内に移設する最中だった。
「戦争論」でカイヨワはこう述べる。
「戦争というものが単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであるということを、心に留めておいてこそ、はじめて理解することができる。」
あの沖縄戦における米軍も、沖縄を「占領」してそこを足掛かりに本土を攻撃することを目的とする以外に、「破壊」そのものを目的にしていたのだろうか。そして小規模ではなく徹底的な組織的大破壊の結果、少なくともこの国際通りは「見事に」復興を遂げた。これも米軍の戦略だったのか。
カイヨワのいうことが正しければ、まるで我々人間は「戦場」という劇場で敵味方に分かれたふりをして相互攻撃を演じ、劇場ごと火をつけ、また劇場を作り直すというパフォーマンスをさせられているかのようで虚しく思えてくる。
「アジアのハブ」琉球の都、首里
首里は那覇市にある。しかし那覇と首里の関係は九州でいうなら博多と福岡の関係に近い。つまり那覇は活気ある港町であるのに対し、首里には宮殿があり、国際色豊かな宮中文化があった。ただ、それも沖縄戦ですべて消えてしまった。首里城は日本軍の司令部が置かれていたため、集中砲火を浴び、地形が変わるほどの猛攻を受けたという。
首里城公園の開園時間前に公園北側に位置する龍潭(りゅうたん)という中国風庭園の池を訪れた。その時は緑色の水面に朝の木漏れ日が反射し、静かな空間だったが、かつてはここで数百人もの明からの使者たちを連日もてなしていたという。ただ朝早いうえに観光ルートを多少それているため、現代の中華系の観光客はほとんど見なかった。
そして猛攻にも耐え奇跡的に残った中国風石橋の橋脚の上を歩き、隣接する弁財天堂も訪れた。16世紀に朝鮮国王から大蔵経が贈られたが、それを収めるために建てたお堂であるが、後には航海の女神、弁財天をおさめるようになった。
さらに隣接する円覚寺の門は、15世紀末に鎌倉の円覚寺をモデルとして建てられた臨済宗寺院の門だ。中国や朝鮮、ヤマトだけでなく東南アジアとの交易も絶えなかった首里城には、「万国津梁(ばんこくしんりょう)」、すなわち「アジアのハブ港」と彫られた鐘があり、現在はおきみゅーに保存されているが、ここを歩くだけでもそれは実感できる。
黒こげの首里城
丘の上の守礼門をくぐると、左に園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)という石門が見えてきた。「御嶽(うたき)」とは神社のような建築はなくてもなにか霊的なものを感じられる聖地である。この石門は世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の資産の一つとして登録されている。
門にはヤマトの影響かシャチホコのような魚が見えるが、魚が屋根につけられているということは、建物全体が海に沈んでいることを意味し、それで防火を祈ったというが、ここも沖縄戦でほぼ破壊された。現在のものは残存した部分を新しい石材で接いで再建したものだ。ただ、門よりも、その向こうの森自体が御嶽となっており、信仰の対象となっていることに意味がある。戦火に遭って建造物は破壊されても、信仰までは燃えつくすことができなかったのだ。
歓会門から瑞泉門に向かう。この間のほぼ垂直にたち、うねうねと蛇行する石垣を見ると、沖縄に戻ってきたという思いが高まってくる。このあたりまで来たら焼け焦げた匂いが漂ってきた。その二か月前、首里城正殿は失火により炎上していたからだ。中国を連想させる朱色の奉神門も所々焼け焦げ、その向こうにあったはずの正殿は跡形もなく、所々焼け焦げて真っ黒になった柱や梁が所在なげに残っている。
それなのに空だけはこの光景に似つかわしくないほど透き通って明るい。沖縄戦のあとも沖縄中がこのような光景だったのだろうか。
すいむいうたき(首里森御嶽)は残っていた!
そんな中でも奉神門前に青々とした大きな木々が残っていた。首里森御嶽(すいむいうたき)である。首里城全体で御嶽は十カ所もあるというが、その中でも最も格式の高いところがここである。琉球王国の時代には神に仕える女性がこの前に、その後ろに多くの男性を従えて御嶽の神に国家安泰や五穀豊穣などを祈ったという。本土では神主も男性中心だが、琉球では人間界での交渉は男が、神の世界との交渉は女が司ることになっており、役割分担をしていたのだ。なにやら卑弥呼を連想させる。
一般の観光客は首里城に来ると守礼門やかつてあった正殿の写真を撮ることに夢中になるが、首里城が琉球最高のグスクとなったのもこの杜のおかげである。たしかにどこにでもある木々が数本かたまっているだけで、周りの石門も復元に過ぎない。しかし私は知っている。沖縄のおばあたちにとって、燃えてしまった正殿は目に見える原寸レプリカに過ぎないが、もっと大切な「目に見えないシンボル」がここであることを。
玉陵から金城町の石畳をくだりつつ
首里城から西側に山を下って玉陵(たまうどぅん)に向かった。琉球国王の総石造りの陵墓で、宮殿を模しているかのようだ。ここまで巨大な石造りの建物を本土では見たことがない。あっても地震ですぐに崩壊するだろう。しかしここを崩壊させたのは地震ではなくやはり沖縄戦だった。ここも日本軍がたてこもったために大破したのを復元し、我々が赴くちょうど一年前の2018年12月に県内初の国宝建造物となった。
そこから南に坂を下ると、昔ながらの石畳にシーサーをのせた赤瓦屋根が続く。「昔ながら」とはいって戦後長い間はコンクリートだったのが1983年に再び石畳に戻ったものだ。沖縄を舞台にしたテレビや映画のロケ地にしばしば出てくるこの金城町を歩いていると「一中健児の塔→」という看板を見つけたので寄ってみた。「一中」とは昔この地にあった沖縄県立第一中学校を指すが、それだけでなく戦前は師範学校、第一高等女学校等の建ち並ぶ学生街でもあったのだ。
米軍の猛攻を前に、この十代の学生たちもにわか仕込みで上級生は「鉄血勤皇隊」、下級生は「通信隊」、さらに女学生も「ひめゆり学徒隊」などに組み込まれた。「志願制」というのは名目で、事実上の義務であった。ちなみに鉄血勤皇隊は1800人弱のうち半数が死亡。女子学徒隊は600人弱のうち過半数が戦死したというほどの確率から、その戦場における過酷さが想像できる。
「自分の価値の重要さ」に気づいて参戦?
それにしてもなぜ相対的に学問もあるはずの彼らがこんなにも命を捧げることができたのだろうか。軍国主義に洗脳されていたから。どうせ死ぬなら戦って死んだほうがましだから。みんなが志願するから。いろいろな要素があるのは分かるが、カイヨワは「戦争論」でこう述べている。
「数かずの危険に立ち向かい、 敵を倒すことにより、 自分も貴族や特権階級とまったく同じ人間なのだということを、いやというほどはっきりと悟った時、はじめて彼らは自分の価値の重要さを意識したのである。」
つまり、民族的、歴史的、構造的に本土から差別されていた沖縄人が、東京の特権階級と同じ「天皇陛下の赤子」であることを証明するために戦った、というのだろう。そういえば石垣島が生んだ具志堅用高選手は1976年に世界チャンピオンとなったときに「120%沖縄のために戦った」とインタビューで語った。沖縄戦から30年以上も経ってからの若者もそう考えていたのだから、戦時中の沖縄の知的エリートだった一中生たちが、自分たちを馬鹿にするやまとんちゅを見返すために志願して戦ったというのは納得できるが心が痛い。
少年兵の切りこみは民主主義をつくらなかった
カイヨワはこうも述べる。
「マスケット銃が歩兵をつくり、歩兵が民主主義をつくった。 平民はみじめな生活をし、 黙ってたえ忍ぶことに慣れてきた。 けれども一旦その手に銃を与えられ、 国民を防衛するために呼び寄せられたとき、はじめて彼らは自分の価値の重要さを意識した。」
「彼ら」=少年兵は銃をもたされればまだよいほうで、多くが「切りこみ突撃」をさせられた。これは爆弾を抱えて敵の戦車に突撃し、キャタピラを破壊させて立ち往生させる任務だ。死が前提である時点で、もはや「作戦」の名に値しない。しかし1945年5月25日からの連日の攻撃により、5月30日に首里は陥落した。地下30メートルに総延長1キロを超える壕があったが、戦車で壕の口を開いて火炎放射で焼き尽くした。これを日本側では「馬乗り攻撃」と呼ぶ。
結局歩けなくなった約5000人の兵士は壕に捨て置かれて自決し、動ける者のみ南部に撤退した。カイヨワは兵士たちが国民を防衛するために集められ「はじめて自分の価値の重要さを意識した」と述べている。また「歩兵が民主主義をつくった」というのは、命がけで国を守った兵士たちが戦後国民意識を高め、それが民主主義につながったということだろう。
米兵として志願し、太平洋や欧州戦線で散った日系米人に関してはそうだったかもしれない。しかし沖縄に関しては捨て置かれて亡くなる者も多かっただけでなく、当時十代の少年兵たちが戦後民主主義を手に入れるまで、つまり本土復帰するまで26年もかかった。カイヨワの述べたこともいつも当てはまるわけではない。
さらに生きてゲリラとして戦う人々、そして軍とともに落ちのびていった人々の足跡をたどって車を借りて南部に向かった。
沖縄県営平和祈念公園―無名の英雄と有名人
那覇から糸満市の県営平和祈念公園に向かった。広大な駐車場に車を停め、息子と歩いて平和の礎(いしじ)に向かおうとすると、おそらく沖縄戦のころには子どもだったであろう年格好のおばあに声をかけられた。慰霊碑に花を供えてほしいとのことで一束500円で買った。その後、ゴルフ場にありそうなカートを運転していた、戦後すぐ生まれたくらいのおじいにも声をかけられ、20分間500円で各都道府県の戦没者が眠る慰霊碑をまわってもらった。各都道府県のそれぞれのモニュメントはアート作品のように多彩である。
そして奥の「黎明之塔」についた。この下にある壕が沖縄戦における最高司令官、牛島満中将が自決した場所だ。昭和20年6月23日のことだった。そのためその日は全県「慰霊の日」として学校や職場を休み、平和を祈る。その時にこの広大な公園で儀式が行われるのは周知のとおりである。
沖縄戦における総責任者、牛島中将は毀誉褒貶(きよほうへん)はあれども「有名人」である。それに比べ、各都道府県の慰霊塔に眠る将兵たちは全く無名の人たちだ。それをカイヨワは「戦争論」でこう述べている。
「(前略)英雄とされるのは、もはや武勇をもってその名を轟かせた者のことではない。それは無名の兵士、いいかえれば自分を無にすることをよく為し得た者、彼がどこにいたのか探し求めてもその痕跡さえないような者、をいうのである。」
そして生き地獄のようなこの戦線から生きて本土に戻った人々の多くも、どこで何をしてきたか分からない。分かろうともしない。
平和の礎(いしじ)は光り輝かない
カートは平和の礎についた。屏風のようにおり曲がった数多くの慰霊碑に、沖縄県民は満洲事変以降亡くなった人の氏名が市町村や集落ごと、日本兵は都道府県ごと、さらには敵ではあっても沖縄戦で戦死した米兵の名前も一人ひとり刻まれている。その数24万以上。よく見ると県民の名前で「〇〇の子」という表現もある。名前は分からなくてもたしかにその子が亡くなったことを刻むのが、その子の生きていた証明なのだろう。
ふるさとの島根県の戦没者名を見た。中国地方でよく見かける、例えば「山根○○」などという苗字を見ると、これまでふるさとで出会った「山根さんたち」のおじいさんではないか、などと思いをはせてしまう。しかしそんな感傷的なことを口走ったらカイヨワに釘を刺されるかもしれない。沖縄に連れてこられた者たちのなかにも、戦地に赴くことを誇りに思っていた者も少なからずいたはずだからだ。カイヨワ曰く。
「死しては死肉の山の中に見分けもつかぬ肉片となったこれら無名兵士の栄光は、武功に対して与えられたあらゆる名誉や、世にもまれなる諸徳に与えられたあらゆる名誉にもまして、光り輝くものであった。」
そしてこれを国家主導でシステム化したのが靖国神社になるのだろう。ただしこの平和の礎は栄光とは程遠く、ただただかなしく虚しい。
「朝鮮人は骨まで腐ってしまったのでしょうかね」
私は無数に建ち並ぶ石碑の中から、徴兵・徴用された朝鮮人の名がないか探した。沖縄戦と朝鮮人というと、戦後文学で1980年にすばる文学賞を受賞した又吉栄喜の「ギンネム屋敷」という作品がある。そこに戦時中徴用されていた朝鮮人が出てくるのだが、彼は作品の中でこのように人々に問う。
「あなた方は骨と言えば、沖縄住民のか、米兵のか、日本兵のか、としか考えませんね、じゃあ何百何千という朝鮮人は骨まで腐ってしまったのでしょうかね」
この作品の登場から15年たった1995年に平和の礎は完成した。はたして彼らの名もあった。北朝鮮82名、韓国382名。彼らがここで亡くなった時、三十八度線はひかれていなかったはずなのに、ここでは南北に分断されていた。
息子と中央の慰霊碑に花を捧げて平和を祈った。摩文仁の丘には12月なのに海の向こうから南風が吹く。「あの海にアメリカの軍艦がいっぱい浮かんどって、こっちに向かってバンバン大砲を売ってきたと。」と見てきたように息子にいう。言いながら、自分は何も戦争のことは分かっていないと思いつつ、だからカイヨワとともにこの島を歩いているんだと、心の中で言い訳をしてみた。
平和の礎から道路を挟んだところに太極旗がはためいている。韓国人慰霊塔である。石造りの小型円墳のような慰霊塔には1975年に刻まれた日本語とハングルの追悼文があり、「徴兵・徴用された1万人もの人々が苦しんだだけでなく、戦死したり虐殺されたり…(拙訳)」とある。沖縄で亡くなった朝鮮人の魂は、むしろ平和の礎よりもここのほうが安住して眠れるのだろうか、と思いながら、先ほどみた平和の礎に彫られていた韓国人、朝鮮人の姓名の写真をカメラで見返してみた。
思った通りだ。男性の姓名しかない。沖縄まで連れてこられた慰安婦には日本人はもちろんのこと朝鮮人もいたという証言が各所で残されている。彼女らはいたのにいないことになっている。ここは彼女らの戦場でもあったのだ。
「戦争は女の顔をしていない」
ベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチという女性ジャーナリストにして社会活動家がいる。ソ連は1941年に女性も戦場に動員し、看護などだけでなく狙撃やあらゆる攻撃任務につかせた。アレクシェーヴィッチは第二次世界大戦時のソ連のために戦った女性軍人にインタビューを重ねて「戦争は女の顔をしていない」という作品にまとめ、2015年にノーベル文学賞を受賞した。彼女は「女と戦争」についてこう述べる。
「私たちが戦争について知っていることはすべて「男の言葉」で語られていた。 女たちの戦争は知られないままになっていた…。」
目の前のこの韓国人慰霊塔には、彼女たちの魂も眠っているのだろうか。ナショナリズムに基づて慰霊を執り行う時には「男の言葉」になりすぎないだろうか。当時の大日本帝国において、朝鮮人の地位はというと、アレクシェーヴィッチ言うところの「虐げられ、踏みつけにされ、侮辱された人たち」に近かった。
しかし彼らでも「日本兵」として沖縄で行動している限りは、沖縄の島民たちよりは立場が強くなったため、沖縄の人々もその状況では朝鮮人を「友軍」として扱ったはずだ。帝国内における民族的ヒエラルキーをリセットしてしまうのが軍隊だったといえよう。逆に言えば、朝鮮人兵士は連れてこられるまでは被害者の面が強いが、帝国軍人の末端として島の人々に接してからは、加害者としての側面も出てくる。
さらにいうなら朝鮮人慰安婦は、それらの民族的・構造的ヒエラルキーにはじめから入れられず、死んでもいなかったことにされている。
アレクシェーヴィッチはソ連の女性兵士たちにインタビューを重ねてこういう。
「声だけが私の中で響いている。頭の中で合唱している。巨大な合唱、その合唱の中では時として言葉が聞き取れず、嗚咽しかない。」
立派でいかめしい韓国人慰霊塔に、もしかしたら入れてもらえていない慰安婦たちの言葉が、嗚咽が、合唱のように聞こえてきそうだ。
「ひめゆり」には見出しにくい「女であるがゆえの痛み」
沖縄戦で最も知られた悲劇というと、ひめゆり学徒を避けては通れまい。首里の師範学校や第一高女の十代半ばの女学生と引率の教師からなる240名以上の従軍看護婦が、首里陥落後に砲弾飛び交う南部戦線を命がけで移動し、換気も劣悪な中、命がけで将兵の救護に当たった話は小説や映画、ドラマでも知られる。牛島中将自決の五日前の6月18日に突如解散してからも、ある隊は壕にガス弾等を打ち込まれ、またある隊は集団自決したため、約六割近くが命を落とした。
平和の礎から4㎞ほど西にある、彼女らがこもった壕、とても小さなひめゆりの塔、そして記念館をまわりつつ、彼女らが「女であるゆえに」受けた痛みを知りたいと思った。しかし手記を見てもパネルを見ても、戦争のむごたらしさ、かなしさ、虚しさ、そして平和への希求は強く感じるが、アレクシェーヴィッチが探ったような「女であるゆえ」の痛みを見出すことはほとんどない。
自分で銃をもって敵を撃つのと、撃たれた兵士を看護するのとでは、戦時下にあっても立場上「同じ女」とは言えないのかもしれない。また看護婦という職務上、「男性原理」に従う以外になかったからかもしれない。
断髪、男物のパンツに泣く余裕
アレクシェーヴィッチは「女の戦争」が「男の戦争」と違う例を、インタビューを通して列挙する。すると女性は男性よりも自らの身体に関してこだわりが強いことが見えてくる。例えば入隊に際して、「女の命」とされた髪を切ることを命じられた時のこと。
「指揮官のマリーナ・ラスコアは全員に髪を切るよう命じました。私たちは髪を切って泣きました。」
よく考えると、日本でも「髪は女の命」とされたが、戦時下の女学生はほとんどがおかっぱだった。沖縄戦以前からそれを素直に受け入れていた。ひめゆりの手記で目立つのは、例えば湿気の高い壕の中でウジが傷口を食い尽くすのをピンセット代わりの木の枝で取ってあげるなど、負傷兵の体に関する記述が圧倒的だ。
また「戦争で一番恐ろしかったのは?」という質問に関して、
「戦争で一番恐ろしかったのは、 男物のパンツを履いていることだよ。これはいやだった。」
と答える元女性兵士。戦争は男の体のサイズに女を合わせることを強制していたのだ。一方でひめゆりの女学生たちに支給された下着というのはおそらくない。もしあったとしても、ふんどしを縫い直してけなげに腰巻の足しにでもしていたに違いないほど困窮していたはずだ。
また機銃掃射を受けたときのリアクションについてある元女性兵士曰く、
「機銃掃射を受けたときも、殺されたくないと思うより、とにかく顔を隠したものよ。女の子はみんなそうだったと思うわ。男たちは私たちのことを笑ってた。男たちにとってはおかしかったのね。」
男の場合は戦闘で顔に傷が残ったら「男の勲章」になるから、というわけではないが、私が兵隊だったなら、顔よりも頭を覆うことだろう。戦闘中における男女の「身体に対する思い」がいかに違うか思い知らされると同時に、ひめゆりの手記で目立つのは自分の顔を隠すどころか、例えばついさっきまで一緒に働いていた仲間の顔が、艦砲射撃が直撃して胴体だけになり、結局頭部は見つからなかった話など、比較にならないほど凄惨である。
包帯のウェディングドレスと銃剣に花を添える少女
戦場で結婚式を挙げようにもウェディングドレスがないから包帯で作ろうとしたソ連の女性兵士曰く、
「包帯は仲間の女の子たちと一緒に一ヶ月前から少しずつ集めておいた宝物。それで本格的な花嫁衣裳ができたの。写真が残っているわ。」
男性兵士は、おそらく小ぎれいな軍服のままだったのだろうが、ひめゆりが招集され、任務に就かされた二ヵ月間、二百名以上の隊員で結婚式を挙げようとした者はいなかったはずだ。ソ連の対独戦線が妙に牧歌的に思えてくる。極めつけはこのエピソードだ。
「スミレの花をたくさんつんで小さな花束にして、銃剣につけて帰った。(中略)指揮官は小言を言い始めました。『兵隊は兵隊らしく。花摘み娘ではないんだ!』でもスミレは捨てませんでした。そっとそれをはずしてポケットに入れました。」
戦場の女性の視点を描いたこの話題作も、沖縄で読むと実に平和に見える。訓練中のこととはいえ、銃剣にお花とは、もはや戦時中のこととは思えない。いかに沖縄の置かれた状況が絶望的だったかが分かる。ソ連が豊かだと思ったことはなかったが、少なくとも日本軍よりははるかに余裕があったのではないか。
ところでカイヨワの「戦争論」の原題は“Bellona”である。ヴェローナとはマルスとともに戦の神ではあるが、男性神マルスが戦勝の栄光を表す反面、女神ヴェローナは勝っても負けてももたらされる悲惨さを表すという。戦争のオモテとウラを男女の軍神に代表させたカイヨワは、人類にとって戦争とは何か、というテーマに人類学的アプローチで答えを見つけようとした。これを沖縄戦にまで敷衍(ふえん)すると、牛島中将はマルスたりえなかったが、ひめゆりはあまりにもヴェローナが過ぎたようだ。
斎場御嶽(せいふぁうたき)―琉球第一の聖地
最悪の激戦地だった糸満市から海岸線に沿って東に向かうと、南城市の斎場御嶽(せいふぁうたき)についた。琉球の民族の祖、アマミキヨが東の海の向こうからやってきたという、琉球王国最高の聖地である。さらにかつては国の最高位の神職、「聞得大君(きこえおおきみ)」という王族の女性が就任する、最大の国家儀式がここで行われた。いわば神々の世界の国会議事堂がここで、その国会の議長が女性だったのだ。
なにやら現世の出来事は大和が、冥界のことは出雲が司るという役割分担が書かれた「古事記」「日本書紀」を思い出す。とはいえ冥界を司る出雲のリーダーも代々男性だった。出雲と沖縄は似ているところのなかに小さな異なる点があるが、その小さな違いが興味深い。
この場所はかつて国王以外の男性が入ることはご法度だった。初めて訪れたときにはガイドの若い女性が、入山前に方言で自己紹介をした後、入山許可を神にこうてから案内が始まったのが印象的だった。
「お母ちゃんに会いたい」
道はよいとは言えないので、五歳の息子の手をひきながら歩く。途中大きな水たまりがあったが、これは大戦中米軍の艦砲射撃でできた穴に水がたまったものである。聖地であろうが容赦ない。
途中で息子が「お母ちゃんに会いたい」と言い出し、泣きそうになった。家を離れて四日目だった。母親が恋しかったのだろう。「もうちょっと歩くと、お母ちゃんにあえるけん」と、いつもの口から出まかせを言って先に進もうとする。しかしまんざらデタラメでもない。最も神聖な場所である三庫理は、左右の巨石が寄りかかるようにして鎮座し、その間の縦長の三角定規のような形をした空間に入るのは、あることの疑似体験だからだ。
本土でも沖縄でも、民俗学的に巨石と巨石の隙間に入るのは「胎内くぐり」といって、もう一度母親の胎内に入りなおし、出たらもう一度生まれ変わることを意味する。息子に言う。「ここはお母ちゃんの腹の中に入る門だけん、入るともう一度お母ちゃんの腹に戻ることになる。それで出たら、新しいお前になって、家に帰ってお母ちゃんにあえるだ」というと、素直に納得した。外に出てから家内にLINEで話しさせた。「僕、お母ちゃんのおなかに戻って、もう一度出てきたよ!」と元気にふるまったが、家内は何のことか分かっていなかった。
三庫理内部に入ると、左手に神の島、久高島がのぞめる。その島の女性はみな神に仕える者ということになっている。久高島にせよ、聞得大君にせよ、ひめゆりにせよ、どうやら沖縄では女性は社会を守る役を仰せつかっているかのようだ。そういえば戦後の国際通り近辺の牧志等の市場で大声を張り上げて客を呼び込み、一家を支えたのも女性たちだった。
沖縄には「おなり神」という概念がある。これは姉や妹に宿るセジ(霊力)により守ってもらう信仰である。この聖俗の役割分担がはっきりしている社会も、このおなり神信仰からきているのかもしれない。
座喜味城へーちむどんどん
読谷村(よみたんそん)の座喜味(ざきみ)城に向かった。琉球王国のグスクの特徴として、石塁がうねうねとのたうち回る龍のようにも見え、また、城郭内を歩くと直角にそそり立つ石塁群がヨーロッパの城郭を思わせたりもする点が挙げられる。城郭マニアの私にとって、このような「異国情緒」漂う沖縄のグスクを歩くと、2022年の朝ドラのタイトルさながら「ちむどんどん(胸がわくわく)」する。
特に座喜味城の場合、二ノ丸ならぬ「二の郭」の城壁に登って見渡すと、城郭の隅が出っ張っており、箱館五稜郭のように間近まで攻撃に来た敵をでっぱりの先にあったはずの櫓で撃退する意図がよくわかる。
カイヨワは「戦争論」で、人類の起こしてきた戦争を次の三期に分けた。
①身分差のない未開の段階の社会における部族間の抗争としての「原始的戦争」
②階層化された封建社会における専門化された貴族階級の機能としての「貴族戦争」
③国家同士がそれぞれの国力をぶつけ合う「国民戦争」
これに従えば、原始的戦争の時代は本土でいえば弥生時代の佐賀県の吉野ケ里遺跡や、奈良県の唐子・鍵遺跡などに見られる環濠集落が築かれた時代になろうが、琉球では農耕が始まる時期が本土より遅く、12世紀頃とされるため、農業社会への移行に伴う持つ者と持たざる者との対立がそれに当たるだろう。
そして座喜味城や首里城をはじめとするグスクが盛んに造営されたのは14世紀から15世紀にかけてである。それが南山、中山、北山に分かれて争った「三国時代」であり、カイヨワのいう「貴族戦争」の時代に突入したことになる。
そしてここが「国民戦争」に巻き込まれたのはもちろん太平洋戦争中だ。城跡からは東シナ海がよく見える。沖縄戦の時には慶良間を占領した米軍が、次に本島上陸に選んだのが眼下の読谷村の海岸であった。その直前、日本軍はここに高射砲を設置したため、米軍の格好の標的となった。米軍は占領後、城郭の一部を破壊して米軍基地を建設した。結局1972年の本土復帰と同時に史跡とされ、保護されるまでは荒れるにまかされていた。それがこのように見事に復元されたのだ。
チビチリガマとシムクガマ
座喜味城の駐車場脇にユンタンザミュージアムは城郭関係の資料も充実しているが、それ以外にも沖縄戦の際に住民が避難した自然壕「ガマ」の様子が再現されている。
1945年4月1日に読谷村に上陸した米軍から逃げるようにガマに隠れた村人たちに対し、米軍は投降を呼びかけた。しかし住民は捕まったら何をされるか分からないため、不安におびえていた。その中でシムクガマと呼ばれる壕に隠れた千人もの人々は命が助かった。それはハワイ帰りの人が、アメリカ人はそこまでひどいことはしないということを避難者たちに説いて聞かせ、米軍と交渉した結果である。
一方、チビチリガマという別の壕に逃げた140人ほどの婦女子と老人たちは、ある者は刃物で、ある者は注射器を使って家族を殺し、最後には布団に火をつけて壕内を無酸素状態にして、窒息死をはかった。その結果全体の6割近い83名の命が失われたのだ。身近な人を手にかけざるを得なかった集団自決だが、軍人の命令ではないにも関わらず、客観的判断ができずに起こった悲劇だ。このミュージアムにはその時のガマの様子が再現されているが、家族で刃物をもって手にかけようとする場面は痛ましすぎる。
ガマの中へ
座喜味城からチビチリガマまで、ナビを頼りにサトウキビ畑を迷いながら向かった。波平集落の公衆トイレの横に駐車場があった。ガジュマルの樹の下にガマの入口がみえる。五歳の息子を伴って入ろうとしたが、立入禁止なのかどうかもよく分からない。薄暗い中、息子の手を握って一歩一歩地面を踏みしめながら下りていった。
ガマの中には泉がわいており、川が流れていた。「黄泉」の国は地底に泉がわくというが、このような感じなのだろうか。自決しなくても水があればしばらくは我慢できたものを、と思っていると、息子が「くさい、くさい、トイレのにおいがする」とぼやく。確かに、隣の公衆トイレのにおいなのか、臭気がたちこめていた。
目を凝らして奥を見ると、一瞬ぞっとした。三線を弾いているおじさんの周りにドクロのようなものが見える。もちろん塑像かなにかだろうが、場所が場所だけに恐怖を感じた。この中で八十名以上の人々が殺し合ったのだ。しかも親しい者同士で。ガマの中にはまだ遺骨や遺品も残っている。怨念が残らないわけがない。
さらに2017年には「肝試し」にきた地元の若者がここを荒らしたというが、狂気の沙汰でしかない。数珠を取り出して般若心経と正信偈をあげた。カイヨワは言う。
「このような体制の力となっているのは狂信と時計仕掛けのような組織とであって、これこそが、近代戦にその固有の性格を与えているところのもの、すなわち、熱情と組織である。」
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」といった狂信的な考えが支配的で、さらにそれが軍国主義教育と戦時体制下の「隣組」を背景に隅々まで組織化されていた。生き延びたいという本心もあったろうが、この「組織的狂信」の中で「生を選ぶ」という意見はかき消されたのかもしれない。
一方、シムクガマのハワイ帰りの住民は、海外で暮らしてきたためか「組織的狂信」の仕組みを見破っていたから、集団自決から逃れさせることができたのではなかろうか。
しかしこうも思う。このハワイ帰りの住民のような人がチビチリガマにもいれば、助かったのだろうか。このような絶望的な空気のもとではそれもかなわなかったのかもしれない。
嘉手納へ
チビチリガマから外に出た。空気がおいしい。車のエンジンをかけて畑を走り、しばらくすると嘉手納町に入った。フェンスの向こうに米軍基地が広がる。町の面積の8割以上が米軍基地というこの町の道の駅「かでな」についた。ここの展望台からは東アジア最大の米軍基地、嘉手納基地が見渡せるというので登ってみた。
広い。圧倒的に広い。見渡す限りの滑走路だ。聞けば、成田空港の二倍の面積という。フェンスで仕切られたこちら側には多くのせせこましい沖縄の住宅が密集している。たとえ二重窓にしても、これでうるさくないはずがない。そして基地があるということは米兵による犯罪への恐れとともに生きねばならないことを意味する。
昔名護にいたころ、中国人留学生に言われたことを思いだした。「沖縄は解放前の中国みたいだ。自分の国なのに外国人が条約に基づいてやりたい放題で警察も手をこまねいている。」ここに立って基地と住宅の対比を前に、ふとそのことを思いだした。
元々この広大な土地の大部分は約27000人の地主のものだった。本土復帰に際しては引き続きこれらの土地を米軍が使用するにあたり、日本政府は税金を投入してそれまでの六倍もの軍用地料を与える条件で、軍用地主との間に賃貸借契約を結んでいった。しかし一割強の約三千人はその「儲け話」を断った。戦争のために自分の土地を貸せないという彼ら「反戦地主」の存在は平和を希求する沖縄の良心だろう。
キツネとタヌキの化かし合いのもとで泣かされる人たち
25歳で沖縄に住むまで知らなかったことがたくさんある。その中でも耳を疑ったのは、私が生まれる直前の1960年代を通して、世界最大級の核兵器の発射台が沖縄に四カ所あり、その司令部が嘉手納にあったということだ。佐藤栄作首相は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の「非核三原則」を1967年12月に宣言したが、「メースB」と呼ばれた巡航ミサイルが設置されつづけており、「非核三原則」の後も二年間、新たな核保有国中国のほうに向けてプルトニウムを搭載した巡航ミサイルがいつでも発射できるようになっていたのだ。
ただ、これに関しては米軍のみを責めることはできない。キューバ危機の起こった1962年に配備されたメースBだが、米国は日本政府に対し、日本国民に説明するよう要請した。一方当時の小坂善太郎外務大臣はそれを断り、秘密裏に配備することにした。理由は配備を国民に説明すれば、反対派が一斉に立ち上がり、収支がつかなくなるからという。「寝た子を起こすな」というわけだ。
ピークの1967年には実に1400発ものメースBがいつでも使用できる態勢にあったというが、これらの基地が直接攻撃を受け、核爆発を起こしたら、沖縄は消滅する。日本政府は沖縄を「人身御供」として切り捨て、米軍に差し出した。国民を欺いてこの島を核の島にした池田内閣や小坂外相の「罪」は不問に付されるどころか、1982年の国連平和賞は小坂善太郎に授与された。この危険極まりない「キツネとタヌキの化かし合い」のもとで甘い汁を吸う一部の人々と苦い涙を流す多くの人々がいた。日本にも米軍にも国連にも「正義」の二文字はない。
文明と戦争は「ワンセット」か?
飛行機という20世紀の人類の「文明」のシンボルが離着陸するこの巨大な滑走路。一方、瞬時に世界を滅亡させることもできる核兵器。カイヨワは言う。
「戦争は影のように文明につきまとい、 文明と共に成長する。」
つまり戦争と文明はワンセットで切り離せないものというのだ。逆に言えばこの巨大すぎる基地という「影」は、現代文明の大きさを表しているとはいえ、文明の発展を手放しに喜べない。
沖縄が「核の島」にされていたことを知っていた沖縄人はいなかった。しかし相次ぐ米軍による人権無視の行為や犯罪行為に対して沖縄県民は本土復帰を心から願った。1960年代後半に沖縄返還交渉の時、「即時無条件全面返還」が沖縄の民意だったが、基地を残すという「条件付き返還」が米軍だけでなく日本政府の合意だった。この交渉は沖縄の人々の頭越しに行われたのだ。
その後の沖縄県は基地依存経済から財政依存経済になっていったが、観光業は数少ない産業となった。基地の跡地を再開発してショッピングモールにした北谷アメリカンビレッジがその代表例だ。青い海と砂浜、パステルカラーのビルが楽しそうな「アメリカン」を演出しているが、沖縄戦とその後の米軍の人権蹂躙を忘れ捨ててここで楽しくショッピングに興ずることは、私にはできず、すぐに立ち去った。「文明と戦争はワンセット」。カイヨワはここでも警鐘を鳴らす。
「祖国」から「レンタル」された沖縄
二十数年ぶりに沖縄市のコザを歩いた。コザは「米軍基地城下町」で、町には米兵御用達の飲み屋や土産物屋、インド人テーラーの店に和風刺繍のスタジャンを売る店などが並ぶ。ベトナム戦争時には米軍の飛行機がここから飛んでいったため、死地に赴く前に刹那の快楽として「飲む、打つ、買う」が許された場所で、当時は連日連夜「ドルの雨」が降ったという。私が名護に住んでいた90年代半ばには治安面では落ち着いてはいたものの、夜になると騒々しくアヤしい世界に変わっていったように記憶している。
この町ができた終戦直後、米軍には沖縄政策に関する二つの意見がぶつかり合っていた。まず「現場」を知る陸軍やマッカーサーを中心とする統合参謀本部は、沖縄戦で犠牲を払った代価として占領の継続を主張した。それに対し「現場を知らない」学者や海軍の支持を得た国務省は新たな戦争につながるからと、占領に反対し、住民による民主主義の実現を期待した。
結果、日本を復興させ、国民による民主主義を実現させ、再スタートを切らせることになったのだが、軍政下におかれた沖縄は「日本」に含まれないというダブルスタンダードが講じられた。こうして米軍は沖縄を本土から分離させ、本土も軍事力の援助という実利と引き換えに沖縄を「レンタル」したのだ。
「自由と民主主義のシンボル」としての日の丸
1945年沖縄で組織的戦闘が集結すると、軍民を問わず米軍の収容所に収容されることとなった。そこで嘉手納基地をはじめとする、本土襲撃に必要な軍事施設をつくるための作業員として収容者が働くことになった。給与は軍票で、後に米ドルで受け取るようになり、ここに「基地依存経済」の基礎が形作られた。
本土が東京タワーに東海道新幹線、東京五輪や大阪万博に沸いていたころ、民主主義を求める沖縄人たちのうねりは高まり、米軍との衝突を繰り返していた。米軍の検閲があるため、密貿易により本土の教科書や平和憲法の条文まで手に入れた沖縄の人々は「祖国」としての民主主義国家日本に戻ることを夢見た。本土では当時一大勢力となっていた左派にとって、日の丸、君が代は前時代的な軍国主義を想起されるものだったが、同時期の沖縄では願っても与えられない自由と民主主義のシンボルでさえあったのだ。
コザ:ひっくり返された80台の米軍車両
コザの主要道路、330号線を走っていると、そのうち音楽複合施設コザ・ミュージックタウンについた。車を停めて付近を歩いた。ここは本土で大阪万博が終わって三ヵ月ほど経った1970年12月20日に起こったコザ「暴動」と呼ばれる事件の現場である。
深夜に起こったその事件の引き金となったのは米兵によるひき逃げだったが、死を目前に荒れている米兵の暴力や犯罪におびえ、制度的に人権を蹂躙されても泣き寝入りしてきた人々のたまりにたまった怒りが爆発したのだ。日米地位協定のため、基地の外で起こった事件の容疑者が米兵の場合、捜査も裁判もまともに行われない上に、検閲のため新聞掲載も極めて難しかった。重ねて同月に起こった基地内労働者の大量解雇など、怒りが限度に達していたのだ。
人々は威嚇射撃してくるMP(憲兵)たちに立ち向かい、「Yナンバー」の米軍車両を見つけると米兵やその家族を引きずり出し、放火したり車を横転させたりした。その数およそ2.5㎞の通りに八十台。目の前のミュージックタウンの前だけでも十台ほどの米軍車両がひっくり返され、燃えていたという。
コザ「暴動」は「祭り」だったのか?
とはいえ「暴動」と呼ぶには暴動が「人」には向かわず「車」、しかも白人の車だけに向かっていた。当時の人種差別は沖縄の基地内にもはびこっており、黒人の盛り場は白人とは異なっていた。誇り高い沖縄人たちは自分たちを「人種差別」の被害者であるとは思わなかったろうが、白人に虐げられていた黒人に同情的だったのは事実のようだ。
さらに車両への放火はずらりと並ぶ店舗から離れた道路の中央に近いところで行われた。店まで延焼すると、そこで働く沖縄人たちが困るからだ。ある意味理性的であるといえる。それでいて、いきりたった人々を指揮したリーダーはいない。
コザ・ミュージックタウンでは「エイサー会館」があり、観光客も夏に熱狂的に踊りまくり、全島でもりあがる祭り、エイサーが体験できる。「祭り」。あの出来事は「暴動」というよりも、季節外れの「祭り」ではないかとさえ思えてくる。カイヨワ曰く、
「戦争と祭りは、平常の規範を一時中断することであり、真なる力の噴出であって、同時にまた、老朽化という不可避な現象を防ぐための唯一の手段である。」
つまり米軍の「合法的圧政」という平常の規範に対して「NO」を突き付け、一時中断させる力が噴出したのだ。しかもカイヨワは、この点で祭りも戦争も同じ側面を持っているという。
「戦争と祭りとは二つとも、騒乱と動揺の時期であり、多数の群衆が集まって、蓄積経済のかわりに浪費経済を行う時期である。(中略) このある間隔をおいて生ずる熱狂的な危機は、色褪せて、静かで、単調な日々の生活を打破するものであった。」
米軍車両を破壊するのは「蓄積経済」の破壊に他ならない。しかし「蓄積経済の破壊」をこの沖縄で最初にやったのは米軍だった。さらにカイヨワは
戦争は定期的に起こる爆発である。原始社会において祭りが果たしている役割が、機械化された社会においては戦争によって果たされているのは、このためである。
と述べる。あたかもそれまで人類が築いてきた文明を「在庫一掃セール」と銘打って大量破壊を行うことで、新陳代謝をさせているようではないか。
戦争と祭りの違い
しかし一方で戦争と祭りの相違点についてはこうも述べている。
「その違いはむしろ、祭りがその本質において、人びとの集まり合体しようという意思であるのに反して、戦争はこわし傷つけようとする意志であるという点にある。」
コザ「暴動」の目的が「こわし傷つけようとする」こと自体ではないのは明らかだ。むしろリーダー不在でありながら一定の理性をもって「集まり、合体しようとする意志」を見せた点で、あれが魂の叫びを支配者に見せつけた「祭り」ではないかと思えるのだ。
「祭り」の後、米兵にはオフリミッツ(外出禁止)が敷かれた。クリスマスシーズンの稼ぎ時でもある。すると干上がったバーの店主たちが米軍にオフリミッツを解くように陳情に上がったという。この「持ちつ持たれつ」の基地依存経済は、翌年のドルショックによるドル安と、一年半後の本土復帰、そして米軍のベトナム撤退の後、徐々に廃れていった。今は表向き小ぎれいな街になってはいるが、本土復帰前はおろか90年代に比べてもさらに活気はなくなっていた。
しかし日米地位協定は今なお続いている。沖縄戦量の25年後に「コザ暴動」が起きた。そしてその25年後に本島北部、やんばるで米兵3名による少女暴行事件が起こった。しかし沖縄県警は日米地位協定によって捜査を阻まれ、手も足も出ない。四半世紀ぶりに沖縄の人々の怒りが沸点に達し、島ぐるみで立ち上がった。県民総決起大会に集まったのは約8万5千名。私がやんばるの名護に赴任したのはそれから1年半後、まだ怒りが冷めやまないどころか、名護市辺野古への普天間基地の移設問題まで浮上し、それらが複雑に絡み合って民意が二分していた。
改めて息子を連れてやんばるの中心都市、名護市に向かった。
「やんばる」とは?
沖縄自動車道を北上し、車はやんばるに入った。そもそも「やんばる」のエリアがどこか、というのは「やんばらー(地元民)」の間でも話題のネタになろうが、名護がやんばるであることを疑う人はいまい。やんばるは漢字で書けば「山原」となるが、その名の通り海抜数百メートルの山が続く。そのエリアが世界遺産として登録されたやんばる国立公園である。
許田ICで下りて昔住んでいた名護市についた。辺野古ヘリポート移設問題で大揺れに揺れていた1997年当時と比べて静かなことこの上ない。
復帰前に米兵が使っていた宿舎を改装したホテルに投宿し、本土より早い1960年代に沖縄にオープンしたアメリカ直輸入のハンバーガーチェーン店A&W(エンダー)に向かった。映画「アメリカン・グラフィティ」のドライブインのような雰囲気で昔時々いっていたものだ。名護の町はコザなどとは異なり、米兵は少なく、A&Wでも全く見なかった。米軍は嫌いでもあの時代のアメリカ文化そのものは大好きなのは私だけではあるまい。
やんばる国立公園の中でも人気の高いスポット、比地大滝に行ってみた。マイナスイオンたっぷりの亜熱帯林を、遊歩道を上がったり下がったりしながら三十分ほどで滝についた。このうっそうと茂るやんばるの森は、幕府でいう「老中」にあたる蔡温が、18世紀中ごろに王宮の木材として、または清に行く船をつくるために必要な大木の乱伐を禁じたことから保護した遺産である。しかしこのやんばるの森にも戦時中の悲劇はあった。
「一人十殺」の護郷隊
これまで歩いてきた南部や中部と比べると、やんばるは伊江島等を除き沖縄戦における激戦地というよりも中南部の人々が避難してきた場所である。しかし栄養失調やマラリア、そしてハブにかまれて命を落とす避難民も極めて多かった。
名護十字路付近にあった昔の勤務先「名護日本語学校」の先に「護郷隊の碑」がある。「護郷隊」とは陸軍のスパイ養成機関中野学校の将校が、やんばる等の十代半ばの少年たちを組織した遊撃隊である。「一人十殺」、すなわち一人当たり十人の敵を殺せば死んでもよいという、まったく希望も戦略もない精神論だけを教えられた少年たちの心はいかばかりか。
「護郷」とは名ばかりで、敵に利用されることを防ぐために地元の家を焼かせたり、地元の橋を落として住民まで避難できないようにしたり、動作が遅いというだけで見せしめに射殺されたりするものもいた。推定1000人の隊員のうち、162年の少年たちが命を失った。ただ護郷隊に対して恨みを抱く住民もおり、この石碑は目立たずひっそりと立っている。カイヨワ曰く、
「この期に及んでは、軍隊はもはや単に国土を護る道具ではない。それは国民の最高の表現であり、国民再生の至高の原則となったのである。」
国土の片隅の少年たちを駆り立ててにわか仕込みの軍隊にした、というよりも、「天皇陛下万歳!」といって死ぬことが「臣民のあるべき姿」として教え込んだとしか思えない。もはや「護郷」が目的ではなくなったのだ。さらにその教えによって国民は再生されることはなかった。
また、北部には約二千人の日本軍がゲリラ活動をしていたが、米軍に投降した住民が支給された食料を日本軍に見られ、取り上げられただけでなく射殺され、さらには方言で話しただけで射殺された者もいた。中南部の集団自決のように米軍に追い詰められたというより、明らかに「友軍」に殺されたとのだ。
そして戦後は約三十万人がやんばるで収容所に入れられ、七千人もの人がその中で亡くなった。
パイナップルと台湾人
名護市は特に観光地というわけではないが、本土からの団体客がよく行くところとして亜熱帯風の庭園にレストランや土産物屋、資料館などが一つになったナゴパイナップルパークが挙げられる。本土復帰前には名護のパイナップルは亜熱帯の気候を生かした一大産業だったが、それを陰で支えたのは台湾人たちだった。
私が名護に住んでいた1997年に、今帰仁村(なきじんそん)出身の目取真俊(めどるましゅん)が「水滴」で芥川賞を受賞した記事が、地元紙のトップ記事を独占したことを覚えている。彼の初期の作品で「魚群記」という小説がある。そこにはやんばるにやってきた台湾人と沖縄の人々とのねじれた関係が描かれている。
主人公の周りの人々はパイン缶工場の季節工として働く台湾人女性を売春婦とみなしていた。現に主人公の兄も父も、台湾人女工と関係を持っていた。あるとき主人公たち数人が台湾人女工をからかいに行ったら、色白の台湾人女工が不良品のパイン缶をくれた。それを主人公は受け取ろうとしたが、悪友たちは
「台湾女から物もらわれるか、馬鹿にするなよー」
と投げ捨てた。主人公も空気に流され、投げ捨てざるを得なかった。戦前の台湾では地理的に近いこともあり、沖縄県民が教員や警察官などをしていたこともあり、台湾よりも沖縄のほうが「上」だと考えられていた。一方で「中琉親善」の名のもと、「中華民国」としての台湾は「弟分」の琉球を助けるために技術指導として女工をパイン缶工場に送った。しかしパイナップルパークでも、そのホームページでも、沖縄と台湾との交流についての記述は見られなかった。
ちなみに台湾人が経済力を持ち始めた1990年代から、労働者としてではなく観光客として沖縄を訪れる人が増えた。ただこのような場所は台湾人には人気がない。パイナップルの本家は台湾だからだ。さらに言えば沖縄に来ても、沖縄そばより博多ラーメン、ちんすこうより白い恋人など、本土のものが台湾人観光客に受ける。彼らの多くは沖縄に来るのではなく、「日本」に来ているという認識だかららしい。「沖縄認識」の違いも興味深いところだ。
美ら海水族館から眺める伊江島たっちゅー
本部半島の国営沖縄記念公園に行った。本土復帰後の1975年に開かれた沖縄海洋博の会場だったところだ。ちなみに本土復帰前の沖縄観光は慰霊目的の中高年層だった。しかし海洋博の前年に恩納村(おんなそん)から本部(もとぶ)にかけてリゾートホテルが雨後の筍のように建つと、リゾート目的の若者へと客層が変わっていった。ただし積極的に観光業に関わったのは本土や外国の大手資本で、沖縄人は零細企業主か下請け、または労働者だった。
ちなみに海洋博のあった1975年の沖縄県全体の訪問者数は約156万人だったが、翌年は約84万人へと半減した。そうでなくとも米軍の起こす戦争や台風などで、不安定になりがちな観光立県としての沖縄がこうして本格的にスタートした理由の一つに、工業を推進しようとしても、部品の現地調達が不可能な沖縄には難しかったことも挙げられる。
私が名護に住んでいた当時は海洋博のシンボル「アクアポリス」がまだ海に浮かんでいた。これは未来の水上都市をイメージして手塚治虫がプロデュースした夢の21世紀を想起させるものだったが、すでにサビと腐食で汚らしくなっており、残骸が海中に取り残されていたというような感じだった。また、小さな水族館もさえなかった。
しかしその後リニューアルオープンしたのがあの日本一有名な水族館といってもよいほど人気の美ら海水族館である。ジンベイザメやマンタといった巨大な魚を、まるで見学者が海底にいるかのように感じさせる施設として老若男女から愛されている。
「沖縄のガンディー」たちの伊江島
巨大な駐車場に車を停め、しばらく歩いて水族館に向かうと、海の向こうに平らな伊江島が広がり、その真ん中ににょっきりと岩山が突き出ている。「たっちゅー」と呼ばれて親しまれている高さ180mほどの岩山の島も、戦時中は約二千名もの日本軍が駐留したため、戦時中はやんばる最大の激戦地だった。
そもそも日本軍は戦時中「東洋一の飛行場」をここに建設していたが、米軍の沖縄上陸直前にこれを放棄し、敵に使用されないように苦心して作った滑走路を壊し始めた。さらに米軍が上陸した1945年4月16日から六日間にわたる激戦中、ここでも「全島民が一人十殺」という号令のもと、婦女子までも敵の戦車に爆弾を抱えてぶつかる「切りこみ」が行われた結果、約1500名の島民の半数以上に当たる781人が犠牲となった。
伊江島の人はやんばるの東海岸や慶良間諸島の収容所に送られ、二年後ようやく帰島した。すべてが破壊されつくされたふるさとで、生活の再建をしたのだ。さらに米軍は島に射撃場をつくるために土地を接収しようとしたが、島民はこれに対して独自のルールを設け、ガンディーさながら「非暴力不服従」を貫いた。銃剣で追い払われ、ブルドーザーで家を壊され、あるいは焼き払われても、決して怒鳴らず、静かに対話する。手には何も持たず、手を耳より上にあげない。そして「沖縄のガンディー」たちは座り込みに徹したのだ。
抵抗の象徴としての日本語
昔同僚たちと伊江島に行ったとき、真っ白で美しいサンゴ礁を歩きながら、映画の中の世界にいるかのような気がしたことを覚えている。しかしこのサンゴ礁の白砂に、島民たちの本土復帰に対する熱い思いがこもっていたことを知ったのはつい最近だ。
戦後米軍はこの島に標準語教育ではなく琉球語教育を施そうとした。カイヨワも「言葉の共用がナショナリズムを生んだ」、つまり同じ言葉を話すから同じ国民だと思うのだという。であれば島民が日本語を話せなくなれば、自らを日本人とは思わなくなり、沖縄と本土を分断し続けることができるという理屈だろう。
実は島民の言語文化は極めて貴重で、ユネスコはやんばるの言葉「国頭(くにがみ)語」を消滅の危機のある言語・方言のうちの「危機言語」としている。しかも名護の方言以上に古語が残っている。しかし当時の島民たちは自分たちを戦争に引きずり込み、母語を話しただけで射殺し、挙句敗戦国となった本土で使う日本語を、紙も鉛筆もないので海岸の白砂に指で書いて覚えたという。
それは単なる出稼ぎ先の言葉として便利だからというだけの理由ではないはずだ。沖縄を切り捨てて、米国の傘の下でいち早く自由で民主的で豊かな国家を再建した本土ではあるが、米軍のあまりに理不尽な統治に対し、祖国に対する思いは理想化され、募るばかりだったのだろう。日の丸、君が代とも日本語そのものが植民地支配への抵抗の象徴だったのだ。
「島ぐるみ闘争」へ
島の人たちの抵抗はそれだけでは終わらない。彼らはなけなしの金を集め、伊江島の窮状を訴えるため、代表者を送って沖縄中を歩いた。それが後の「島ぐるみ闘争」のルーツという。私が名護にいたころも、この「島ぐるみ闘争」の話題はしばしば耳にした。なにせ私の勤務先の名護日本語学校職員室は、フロアの半分が辺野古ヘリポート基地建設反対派の拠点だったからだ。
改めて美ら海水族館から伊江島を眺めると、くっきりとリーフのところで海の色が変わっているのが分かる。沖縄ではリーフの内側の薄いブルーのところはこの世、その向こうはあの世であり、その向こうにニライカナイという「極楽浄土」があると考える。それを考えるとリーフの向こうに浮かぶ伊江島がニライカナイに、にょっきり立つたっちゅーが巨大な墓標のように思えてきた。水族館の巨大な魚を見て興奮していた息子には、もう少し大きくなってからこの話をしようと思う。
不条理を押し付けられてきた村
名護市からやんばるの森を越えて東海岸のほうに向かう。今は世界自然遺産にもなっている東村の森の中には慶佐次(げさし)という沖縄島第一のマングローブ林があり、カヌーやカヤックの名所としてにぎわっている。暮れの平日の朝早くなら予約なしでもカヌーツアーに参加できるかと思っていたのだが、満員御礼とのこと。仕方がないので整備されたボードウォークの上を息子と歩き、間近にヒルギの樹を観察したりした。やんばる観光においてはこのようなアドベンチャー・ツーリズムがよく似合う。
ところで同じ東村の山奥にはやるせない不条理を押し付けられつづけている集落がある。そこはベトナム戦争前、南ベトナムの集落の村民に見立てられ、子供を含む約二十名の村人が軍事演習に巻き込まれていた。しかしここでもこの非暴力不服従が貫かれた。
私が名護を離れた翌年の1998年、この村に水道等インフラ整備と引き換えに、ヘリパッドが建設されることになった。後にそこはオスプレイが配備され、人々の座り込みが今なお続く東村高江集落である。2016年にはここを公示するにあたって配備された大阪府警の警察官が、座り込む人たちを排除しようとするだけでなく「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」「黙れ、こら、シナ人」と暴言を吐いた。「土人」と「シナ人」。彼らの全てとは言わないが、権力者の一部にこのような前時代の帝国主義的な発想があることを確認せざるを得なかった。
「非暴力不服従が守れない者はでていけ。反対運動をするのではない。ここで平和に暮らしたいだけなのだ。」というこの集落の在り方はオスプレイの爆音と警察官の差別的暴言の前ではあまりにも非力なのだろうか。
もう一つのカヌー
カヌーツアーに参加できないので那覇空港に戻ろうかと思い、西に向かった。道沿いに辺野古集落があるので寄ってみた。キャンプシュワブのゲートにはデモ隊などは誰もいなかったが、息子にはここに日本中からヘリポート基地反対の人がいたことを話しながら、車を昔の米軍バーが並んでいた街並みに向けた。そこはコンクリートの壁に色褪せた星条旗がペイントされている廃虚だった。廃墟。廃墟。廃墟。少なくともこの数年はだれも入っていないような店ばかりだ。「兵どもが夢の跡」を感じつつ、「夢」の抜け殻の写真を数枚おさめて立ち去った。
海岸にテント村があると聞いたので探していってみた。ここは基地建設反対派が運動会で使うようなテントを二張り備え付けて、資料を展示し、訪れる人に平和を訴えている。五十代の男性がいたので声をかけてよもやま話をしていたが、基地問題に関してよりもお互い知っている人物の確認で共通人物を探し当てるという地元民のようなコミュニケーションが始まった。
「部落(集落のこと)はどこですか?」と聞くと、「家内の実家は名護市内ですが、埼玉出身です。」とのこと。そういえば昔から反対派には本土の人も多かったことを思いだした。
息子は目の前の砂浜に棒きれで絵をかいて遊んでいる。平和そのものだ。戦後間もないころにはこの浜でも子供たちが棒きれで仮名文字や漢字を書いていたのかもしれない。目を彼方に向けると基地の建設中である。今日はたまたま静かだが、土砂で埋め立てるのを阻止するために反対派はカヌーやカヤックで現場に向かう。同じカヌーやカヤックでも慶佐次のマングローブと辺野古の海ではその在り方が180度異なる。
インフラやカネとの引き換えに差し出す生命
戦後まもなくのころ、キャンプシュワブは民間人の収容所だった。飢えた人たちはこの辺野古の海の幸で命をたすけられたという。その後、1951年のサンフランシスコ講和条約で独立を成し遂げた本土で反米軍基地運動が相次ぎ起こったため、沖縄に基地が集中した。その波は辺野古にまで来たのだが、米軍は懐柔策として水道、電話、電気などのインフラ整備を施した。さらにベトナム戦争時はここも歓楽街が栄に栄えた。カイヨワは言う。
「衣食住の心配こそなけれ、国家によって完全に支配されたところの新しい生活様式を個人に課してくる。人はこの支配者からすべてを受け取ることができるが、一方いつかはこの支配者に対して、すべてを差し出さねればならないのだ。」
つまり人々はインフラを整備してもらうことを条件に、いつか米軍の戦争に巻き込まれかねなくなった。それが戦争なのだ。しかしその賑わいはベトナム戦争が終結するまでで、その後は見ての通りだった。
また、辺野古にも弾薬庫に核兵器が格納されていたが、基地で働いていた労働者には知らされていなかった。カイヨワは核兵器の時代になると、それまでとは戦争の在り方が全く異なってくるという。
核兵器という遠距離まで届く大量殺戮の道具は、構想を全地球的規模に拡大する役割を果たした。戦争が大量破壊的なものとなるのは、もう不可避なことであった。このような条件においては、戦争は国民という枠をはみ出してしまう。
万が一辺野古の核が爆発していたら。さらにベトナム戦争当時すでに原水爆を保有していた中国がそれを沖縄に発射していたら。おそらく沖縄と中国だけの問題ではなく、全面核戦争になっていたことだろう。戦争が「国民という枠をはみ出す」とはそういうことだ。そしてそれはロシアのウクライナ侵略によって改めて現実におこりうることとして浮上した。
97年当時、名護の職場のフロアの半分がヘリポート辺野古移設反対派の牙城となって、私は正直なところ戸惑っていた。心情的には移設反対だ、そもそも当時は「海上ヘリポート」と言っていたが、この表現だけだと都会のビルの上にでもありそうな、競技用プールサイズのものと勘違いしそうだが、英語でいうとsea base facilityである。「ヘリポート」という和製英語ではいかにも軽い。実際に目の前の辺野古の海を埋め尽くすほどの大きさというので、言葉のごまかし方が気に入らなかった。
とはいえ、辺野古に移設されない場合、現に問題になっている普天間基地周辺の人々は危険なままなのか?それに納得のいく反対派の答えは聞けなかった。だから戸惑っており、積極的に反対運動には加わらなかったのだ。
名護の町を、太鼓をたたきながら「南無妙法蓮華経」を唱える集団もあれば「太陽の子」の著者、灰谷健次郎氏やミュージシャン喜納昌吉氏など、「大物」も道端で人々と握手していた。それでも私はまだ煮え切らなかった。
叫ぶ女たち
私を含む当時の名護市民に対して民意を問う住民投票では女性の活躍が目立った。それまで女性が政治の表舞台にでてくることは、やんばるではめったになかったという。ただ、基地移設問題となると婦女暴行の恐れや治安の悪化、子育て問題、集落の安定した生活など、女性の関心をひきやすいことに直結した。
名護の中心街の名護十字路では連日のごとくラウドスピーカーを持った老若男女が反対の声をあげていた。女子高生たちまでスピーカーを持ちながら「私たちには投票権はないけれど聞いてください!」と前置きして反対を訴えていた。奥地から名護にでてきたと思われるおばあが、やんばるの言葉で何かを訴えかけ、それを息子と思われるおじさんが「通訳」しているのもみた。さらにある女性は辺野古にいる「ジャン(ジュゴン)」を守れという環境面から反対していた。
思い返せば琉球に最初にやってきて斎場御嶽におりたったアマミキヨも女性だった。神の声を政治に反映させるノロも女性の役職だった。沖縄戦では命がけで将兵を救おうとしたひめゆりたち学徒隊も女性だった。そして目の前で声をあげているのも女性たちのほうが目立つ。女性の叫び声は「痛み」の共感に基づいていた。沖縄戦で亡くなった人々。基地の周りで被害に遭った人々。二年前の暴行事件の少女。犠牲となる動植物たち。みな虐げられた者たちの痛みに共感することからスタートしていた。
1997年のクリスマスプレゼント
一方、推進派は現実的である。やんばるを発展させ、辺野古のかつての栄光を取り戻す唯一の切り札こそ基地受け入れであり、インフラ整備と振興予算という名の「迷惑料」だという。どちらもふるさとのことを考えてのことだ。当時人口五万人の田舎町で、それまで築かれてきた人間関係が基地移設の賛否で失われるのをこの目で見た。
1997年12月21日の住民投票では賛成約43%、反対約53%で反対多数となった。しかしその三日後の24日には比嘉哲也名護市長が首相官邸に赴き受け入れを表明し、辞任した。その時、私は反対派の中心人物たちと寿司屋で飲みながらテレビニュースに釘付けになっていた。反対派の人は「最悪のクリスマスプレゼントだ」とがっくりとうなだれつつも、「(比嘉)鉄也もああするしかなかったんだよな」と、決して相手を責めなかった。私が反対派も推進派もふるさとを思う気持ちは同じということを確認した瞬間だ。
そんな昔話を思い出しながらも、目の前の辺野古移設問題は全く解決せず、それどころか膠着状態が続いている。テント村から埋め立て予定地が見渡せる丘の上に登り、息子に言った。「ここから見える風景をよーく覚えとけ。お前が大きんなったら、ここがどげなっとるか。」そして車に乗り、那覇空港に向かった。
ふるさとを背負い続ける沖縄人
沖縄滞在の一年間でいくつか沖縄の言葉を学んだ。例えば、私の職場に貼ってあった反対派の集会のポスターに書いてあった「ヘリポート移設問題?わじわじするさあ!」というのを思い出す。「わじわじ」とはうまく考えがまとまらず、よくわからず、フラストレーションがたまることらしい。また、職場が発行していたローカル雑誌のタイトルは「あちこち駆け回る」を意味する「あっちゃー」だった。
息子とともに沖縄の戦跡を改めて「あっちゃー」しながら、ずっと「わじわじして」きたことを、今思いだしつつ文章化することで、「わじわじ」の正体がおぼろげに見えてきた。私は「沖縄人はなぜふるさとを背負い続けるのか?」ということを考え続けていたのだ。
沖縄の社会は山陰の田舎から来た私にとって、流動性が激しく思えた。それも自らの意思というより、政治的、経済的状況に左右されてである。例えば1945年からわずか10年の間だけでも、ふるさとの集落から収容所に、収容所からまたふるさとに、しかしそのふるさとは米軍基地となっていたので、ある者は本土に、ある者はハワイに、中南米に移住を始めた。いや、それ以前からフィリピンのダバオなどに移住していた人もあった。
もちろん移住する人は山陰にもいた。しかしその割合が桁違いなのだ。しかも彼らは山陰の人と異なり、日系人の間でも本土出身者から差別を受けた人も少なくない。
しかもふるさとを離れながらも、ふるさとを背負い、さらには子どもたちにもふるさとを背負わせる。名護日本学校時代にはボリビアやアルゼンチンから「二世」が日本語習得に来ていたことを思いだす。そして彼女らはやんばるで沖縄を「背負いなおして」帰国していった。彼女らが南米で生まれ育っても沖縄人であり続けるのは、家やコミュニティの教育の賜物だろう。
一方、後に松江に戻って県内出身の日系ブラジル人に出会った私は、同じく出雲を「背負いなおして」もらいたかったが、彼のアイデンティティは日系人であり、出雲人ではなかった。彼の幼少期の教育は出雲人教育ではなく日本人教育だったからだ。
平和教育
カイヨワの「戦争論」を読みながら沖縄を歩く旅も終わりに近づいてきた。文明と戦争は切り離せないものなので、文明が進展する限り戦争だけを排除することができないメカニズムであることは一応分かった。しかしこの戦争だらけの世の中への「処方箋」はないのだろうか。カイヨワは言う。
「人間に奉仕するこの巨大な機構は、目に見えないいろいろな方法により、人間に奉仕しながら人間を服従させている。 これに対処する方法となると(中略) 人間の教育から始めることが必要である。」
月並みだがカイヨワも「教育」をあきらめないことで平和を守るしかないと言っている。実は私が五歳児を連れまわして、こんな旅につき合わせたのも、期せずして同じ意図だった。
ようやく見えてきた。沖縄人が沖縄を離れても子孫に沖縄を背負わせ続けたように、私も子供たちに、知らぬ間に背負っていた平和を背負わせ続ければいいのではないか。それは平和の礎やガマの中や嘉手納飛行場や辺野古だけでなく、ベタな観光地の首里城や美ら海水族館から見える風景のなかに、人々の地と涙と平和への思いがしみ込んでいることを伝え続けることが、平和を背負わせ続けることになると思っている。旅はまだまだ続きそうだ。(了)
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