トリック/レトリックスターとしてのスサノヲ

facebook辻 信行さん投稿記事  鎌田東二「スサノヲの冒険」

第15回 トリック/レトリックスターとしてのスサノヲ

ウェブマガジン「なぎさ」

弱冠23歳の鎌田東二先生による、山口昌男『文化と両義性』の批評が、『週間読書人』(1974年12月号)に掲載されました。

山口の論理を単純で硬直したものであると見做し、スサノヲがトリックスターでレトリックスターでもあると論じたスリリングな論考を振り返ります。

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スサノヲの冒険 第15回

鎌田東二

トリック/レトリックスターとしてのスサノヲ

 トリックスター論が流行っていたのは、1970年代から80年代であった。トリックスター(trickster)は、いたずら者で、世界秩序を惑乱する存在である。しかし、神話伝承の中では、そんなトリックスターがいないと、世界は面白い展開をみせない。秩序が固定し、はずまない。ダイナミックにならない。

 事態を混乱に導くと同時に、動かし、打開に向けても突破口を開く。それがトリックスターの役割だ。しかし今、現代にはそんな危機打開のトリックスターはいない。独裁者や帝国主義者予備軍は大勢いるが。

 こうして、往々にして、トリックスターは善悪の彼岸者となり、両義性を持つヤヌス的・ヌエ的存在となる。トリックスターは禁欲主義者でもコンプライアンス信奉者でも倫理家でもまったくない。哲学者の中では、ニーチェが最大最高のトリックスターである。

 と、ここまで書いてくると、なぜ本連載でトリックスターを改めて取り上げるか、その理由がわかっていただけよう。

 それは、まさしく、日本神話のスサノヲこそがそのトリックスターの典型神だからである。

 わたしが、トリックスターについて言及したのは、山口昌男の『文化と両義性』(岩波書店、1975年)について、1975年12月掲載の『週刊読書人』に批評文を書いたことが最初であった。

 当時、『週刊読書人』が書評的な批評論文を募集していたので、それに応募して『文化と両義性』に対する批評を試みたのだ。それを選者の池田浩(当時京都大学教授・ドイツ文学者)が評価してくれて同紙に掲載された。中心と周縁を軽々と踏み越えて往来する知のトリックスターがその頃の山口昌男であったが、山口は『アフリカの神話的世界』(岩波新書、1971年)や『知の遠近法』(岩波書店、1978年)でもトリックスターやスサノヲについて論及している。

 だが、当時の私は山口昌男が鮮やかに解釈したトリックスターの「神話的弁証法」に、ヘーゲルを道化者にしたような大衆受けするトリックを感じて、論理が単純で硬直しているように思ってしまったのだった。

 そこで、さらにいたずら度を増して、わたしは、スサノヲをトリックスターであるばかりか、レトリックスター(rhetoricstar)として持ち上げてみたのだった。

 つまり、スサノヲはたしかにトリッキーないたずら者だが、それにとどまらず、同時に、極めて巧妙なレトリック(修辞=和歌)のスター(歌唱英雄)でもある、と。

 このトリック/レトリックスターとしてのスサノヲについて、詳細な論考を書くだけの体力が今はないので、その論考の下準備となる要点を簡潔にまとめておく。

A, トリックスターとしてのスサノヲ

父イザナギの鼻から生まれた子であるのに、母イザナミを「妣」として思慕するというカン違いないし筋違いのトリック(親詐称詐欺)

妣の国・根の堅洲国に行くと言いながら、姉のいる高天原に行くというトリック(行先詐称詐欺)

「宇気比」により自分の持ち物である十握の剣から生まれた三柱の姫(宗像三女神)が手弱女であるから自分の心は「清明」であると言い張るトリック(機能詐称詐欺)

ヤマタノヲロチを酒を飲ませて殺害する(ある意味で騙し討ち)トリック(油断騙し討ち詐欺)

そして、いつのまにか、ちゃっかりと根の国に行って、そこのヌシ神のような存在になっているというトリック(所領取得詐欺)

二度も兄神たちに殺されて逃げ落ちてきた六世の孫に危険な罠のような課題・難題を仕掛けるトリック(パワハラ詐欺)

B, レトリックスターとしてのスサノヲ

ヤマタノヲロチを殺して、清々しい気持ちで歌を詠う

自分を頼って逃げてきた子孫のオホナムヂを危険な目に合わせ、最愛の娘・スセリビメを奪って逃走するオホナムヂに、尊称(大国主神・宇都志国玉神)を授け命名し、後継者として認証し、祝福を与えた

 これらの次々と繰り出されるトリック/レトリックはたいへんスペクタクルで面白くもあり、スリリングでもある。そしてとてもいい加減で混乱しているようにも、その逆に実に深謀遠慮のようにも見える。

 そして、これらがすべて大変レトリカルな異文脈・多文脈連結であることに驚かされる。つまり、シュルレアリスムを現わす命題となったロートレアモン(イジドール・ヂュカス)の言う「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘との偶然の出会いのように美しい」(Beau comme la rencontre fortuite sur une table de dissection、『マルドロールの歌』)そのもののような行動軌跡をスサノヲは辿ったのである。

 してみれば、スサノヲのトリックはすべてレトリックでもある。がゆえに、トリックスターとしてのスサノヲは、レトリックスターでもある。ただのいたずら者が大変深遠な文化英雄に変容するのだ。そのレトリックマジックによって。

 不思議な魔法使いのスサノヲは、その魔術(トリック&レトリック)を駆使して、自己と世界を変容させる。混沌と秩序を入れ替え、息を吹き込む。事態を動かし、世界の深みと動力を目覚めさせる。その魔法に誰しも魅了され、目を開かされるのである。ロートレアモン伯爵は、スサノヲ神話に出会うべきであったね。そうすれば、少なくとも、山口昌男のトリックスター論よりもっと面白くダイナミックな詩的イメージが喚起表現され、世界はもっともっとおもろくなっていたであろう。

2024年11月1日、須佐ホルンヘルス(山口県萩市須佐町)でホラを吹く

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