スサノオはどこから来たのか?

https://inoue-pascal.jugem.jp/?eid=110【スサノオはどこからきたのか? ~その1】より

永井豪のマンガ『凄ノ王』(1979年連載開始)というタイトルを比較的長い間“スゴノオウ”と読んでおり、スサノオと読むのだと気づいたのはけっこう大人になってからです。

なぜこんな誤解をしていたかというと、私はこのマンガ自体を読んだことがないからです。

手塚マンガで育ったからでしょうか、どうも永井豪の過激でバイオレンスな雰囲気が性に合わず、食わず嫌いを続けていたからでした。

正確な中身は知りませんが、日本神話とは無関係なようです。

今回は日本神話のスサノオを扱います。

今さらこの神について私ごときが様々な考えを巡らすのも身の程知らずかもしれませんが、自分の理解を整理するために取り上げてみました。

《1》スサノオという神

 イザナギが黄泉の国の穢れを払ったときに生まれたのがアマテラス・ツクヨミ・スサノオの3神です。

日本の神話の中で重要な神は少なくありませんが、おそらくスサノオほど多種多様な顔をもった神は他にないのではないでしょうか?

①海神・他界神=父イザナギから“わだつみ(青海原)”と“根の国(冥界)”との支配を命ぜられます。根の国を単に地下世界と理解してよいのかわかりませんが、オオクニヌシがスサノオをたずねて訪問した際の根の国のイメージは黄泉の国(地下世界)よりも、むしろ海の彼方のニライカナイといった雰囲気を感じさせます。

②自然神=スサノオが亡くなった母親(イザナミ)を思って泣きわめくと青山は枯れ禍(わざわい)があふれ出るとされているのは、自然が荒れ狂った状態、すなわち暴風雨のような天災をもたらす神(荒神)ということを意味します。スサという言葉が「荒(すさ)ぶ」(例えば気持ちがすさぶ等という表現)からきているとするなら、永井豪の凄ノ王というネーミングもあながち無関係という訳でもなさそうです。

③英雄(神)=ヤマタノオロチを退治して世界に平和をもたらす英雄としての性質です。ここではヤマタノオロチをどのようなものと解釈するかがポイントかもしれません。その地方で跋扈する賊徒ととらえてもよいですし、氾濫を起こす河川や火山の溶岩と考える説もあったりします。

④製鉄神=ヤマタノオロチの死骸の中から草なぎの剣を取り出したことが剣=鉄を生み出した神であることが考えられます。スサノオを出雲地方の神だとするならこの地方が製鉄が盛んであったことが背景でしょう。

⑤文化神=最初の和歌とされる「八雲たつ 出雲八重垣…」を詠うのがスサノオですが、それまでのキャラとは全く異なる意外性のあふれるエピソードです。

⑥親神=祖神(はじまりの神)という意味ではなく、娘と結婚したいとやってきたオオクニヌシに対して様々な試練を与え彼がそれを乗り越えたとき、結婚を許して祝福する父性の神としてです。ここには以前の母親を恋しがって泣きわめいていたスサノオの姿はありません。スサノオの成長した姿といえるのでしょうか?

⑦樹木(農耕)神=韓(朝鮮半島)に渡ったスサノオは息子のイタケルと共に多くの樹木の種を日本に持ち帰ります。樹木の神として祀られているの(和歌山の伊太祁曽神社等)はイタケルの方が多いようですが、私は父親のスサノオも同様と考えてよいかと思います。

⑧防疫神(医薬神)=蘇民将来という人が救った旅人が実はスサノオであり、それによりその後、蘇民将来は子々孫々まで病から守られることとなったという伝承があります。いわゆる牛頭天王や祇園社の信仰です。

…と、ざっと上げただででもこれだけの属性がスサノオには入っています。

(参考『スサノオ信仰事典』戎光祥出版 2004年刊)

 様々なキャラが統合されてスサノオになる (作成 ムカシー)

《2》スサという場所

 スサノオとは「スサという地域のオ(男)」のことであるとするのが地名説です。

 正しくあげることはできないのですが、全国各地にスサという地名が残されており、もともとはその地域で信仰されていた古い神のことであるという考えです。

私もおそらく複数の地域の神のイメージがこの一人の神の像に結ばれていったのではないかと考えます。

スサという地域から生まれた神が各地へ伝播していく過程で様々なキャラが付け加わていった、あるいは従来その地域にあった古い神に代わってスサノオが信仰されるようになったとも考えられます。

この場合、スサという地名はスサノオの信仰が始まってから命名されたものと考えてもよいかもしれません。

 現在、スサノオの信仰の発祥とされるのが、出雲国須佐郷(現・島根県出雲市)の須佐神社とされます。

 この地を発して各地に広がっていったスサノオの信仰を古事記・日本書紀が取り込んで大和王権の神の一人に“造形”されていくことになるのです。


https://inoue-pascal.jugem.jp/?eid=111 【スサノオはどこから来たのか? ~その2】より

《3》スサノオは和歌山発…? ~松前健説

 出雲と紀伊が深い関係にあることは昔から指摘されていたようで、須佐や熊野といった地名が両方に存在しますし、スサノオを祀る須佐神社は和歌山にもあります。

出雲の信仰が和歌山に伝わってきたのだとするのが一般的な理解ですが、神話学の松前健さんは「スサノオは紀伊が発祥の地だ」といいます。

 まずスサノオは「海の民に信仰された神」だとします。

海の民をどのような人々とするかは多様な意見がでてきますが、造船や航海術に長け比較的広範な地域と交流を持っていた集団というように考えると、この人々によってスサノオ信仰が各地に広まっていったと理解できます。

紀州地域を古代から支配してきた紀氏(きし、きうじ)という勢力は海洋氏族で、遠くは朝鮮半島や大陸とも交流を持ち現に和歌山の紀氏の古墳(岩橋千塚古墳等)からは半島大陸由来の遺物が多く出土します。

スサノオが最終的に行きつくとされる根の国が、海の彼方にあるとされるニライカナイ(沖縄地方)のようなイメージだとするなら海と深い背景がうかがえますし、朝鮮半島に渡ったという書紀の記述からは、海外との交流が盛んであったことを示す内容です。

すなわち、もともと紀の国(和歌山)で信仰されていたスサノオという神が紀氏の進出に伴って各地に広げられたと松前さんは考えるのです。

 松前さんのもう一つの意見は、平安時代に作られた延喜式では、出雲の須佐神社は単なる式内社(式内小社)とされているのに対し、和歌山(有田市)にある須佐神社は名神大社と記されている点です。

延喜式とは律令(格式)のひとつで、その中で神社の格付けがされており、式内社は単なる官社(国立の神社)ですが、そのうちでも特に重要視されるのが名神大社(みょうじんたいしゃ)です。

和歌山の須佐神社を名神大社にしているのは、紀伊の方が重視されている証拠だと言います。

加えて、紀伊の須佐神社は海岸部にありますが、出雲の須佐神社の場所は比較的内陸に位置し周囲も山に囲まれた盆地になる、そのような場所から信仰が広がるだろうかと松前さんは疑問を投げます。

「…出雲の熊野と紀伊の熊野とは、後世に言われているように、前者が後者の本社であったのではなく、むしろ逆に後者こそ前者の本宗であったのではないかと思われる。しかもこの紀伊の熊野こそは、熊野漁民、熊野船の中心地・根拠地であり、また後世に修験・巫女の徒の霊場ともなったりして、他界信仰の中心地であったから、他の地方のあらゆる熊野の地名の最も本源地であったのではないかと思うのである』

(松前健『出雲と紀伊の熊野大神』より引用 2004年「スサノオ信仰事典」所収)

 このような考え方がどの程度一般的になっているのかは、素人の私にはわかりません。

しかし、少なくとも和歌山に住む者にとって、このような重要な神が紀伊発祥であるとする考え方はたいへん誇らしいというか嬉しい気持ちにさせてもらえる意見であることは確かです。

《4》須佐神社

 和歌山市内に須佐という地があって、ここには小さな祠だけの須佐神社があるだけです。

近くにはスサノオの息子のイタケルを祀る伊太祁曽神社があり、ここの信仰は“海”ではなく“木(樹木)”の信仰が中心といえます。

 延喜式で名神大社とされた須佐神社は有田市千田の山の中腹に位置しています。

社伝によれば、和同6年(713年)に奈良の吉野より歓請されてきたとされていおり、当初は山の山頂に建てられていたものを元明天皇の際に同地に移されたとされています。

その理由が、沖合を往来する際にこの神社に敬意を表さなかった船を暴風雨を起こして鎮めてしまうという神威を示したので、海が見えないような場所に移動させたとされています。

実際、神社の場所は周囲を森で囲まれ海を見ることはできません。

本殿が“海があるであろう”南を向いて建てられているのは、ぜめてもの名残なのでしょうか?

 須佐神社の本殿 (撮影 ムカシー)

 須佐神社の境内にある伊太祁曽神社 (撮影 ムカシー)

《5》隠された神

 香川の金毘羅神社がとほうもない長い階段を上らなければならないほど山の頂上にあるのは、海の沖合を航行する船から参拝を受けるために他なりません。

海の神にとって海から見える位置にあるというのが大前提なはずです。

しかし、須佐神社の神が暴風雨を起こすから海の見えない場所に移動させるというのは、極めて不思議な理由です。

祀ることによって神の力を鎮めるのではなく、海が見えないように神の方を封じ込めてしまったと言っているように思えてしまいます。

私は封じられたのは神そのものではなく、その神を信仰する人々=海の民の力ではないかと考えます。

 大和政権成立までの過程では多くの豪族たちの力が必要でした。

その中には海の民が重要な位置を占めていたことは、その後に作られた古事記・日本書紀に安曇氏などの多くの海人系氏族の名前が登場することからわかります。

 しかし、ある時点から大和政権はこれらの氏族の力を抑えようとする動きをとりはじめます。

それは天皇を中心とする律令国家の形成のためにはできる限り余計な勢力の除いておきたいという中央政権の政治的な思惑が感じ取れます。

神社を移動させるということは、もはや地方の神さえコントロール下に置く力を政権は持つようになったということを示しています。

《6》スサノオのゆくえ

 スサノオの信仰が何処から始まったのかを論じてもあまり意味のあることではないのかもしれません。

仮に松前さんの言うように紀伊が始まりだとしても、それが各地に広まり様々な要素が加わって最終的には出雲の神として信仰されるようになっていったことに大きな変更が生じることにはならないようです。

本来、神とはそれぞれの地域の人々の願いや祈りが反映した心の姿であると思います。

スサノオに多くの属性が認められるというのは、それだけ各地の人々の心を映すことができたという多様性を持った神であるということができるのではないでしょうか?

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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