https://culturemk.exblog.jp/25964141/ 【没後 40年 幻の画家 不染鉄 東京ステーションギャラリー】より
先般このブログでもご紹介した、アール・ブリュットの画家アドルフ・ヴェルフリの展覧会を見に東京ステーションギャラリーを訪れた際、何やら異様な絵画をあしらったチラシが目に入った。それは上に掲げたもので、富士山とその麓を海まで俯瞰で描いたものであるが、写実的とはとても言い難く、だがその一方で描写はかなり細かい。一見して「異様」と感じたのは、このような密集感と富士という雄大な山とのアンバランスであったようだ。「不染鉄」とあるのはどうやら画家の名前らしいが、聞いたことがない。未知の画家の展覧会となると、私は血が騒ぐのである。なにか通常と違った感覚をそこで得ることができるのではないか。そう思って、会期が始まってまだ間もない頃にこの展覧会を訪れた。
画家の名前は不染 鉄 (ふせん てつ)。1891年に東京、小石川の寺の息子として生まれ、本名は哲治 (てつじ)。日本画を習ったが、写生旅行先の伊豆大島や式根島で突然漁師になったかと思うと、現在の京都市立芸大に入学して首席で卒業、その後は帝展で入選を重ねるなどの実績を挙げたが、戦後は画壇を離れ、奈良に住んで気ままに絵を描いたという。1976年に亡くなってから昨年で 40年。これまで、1996年に奈良県立美術館で一度回顧展が開かれただけで、東京での展覧会は今回が初めてである。これが不染の肖像。上記の絵の一種異様な迫力からすると意外だが、飄々とした人柄のように見えるではないか。
まず、ポスターに使われた彼の代表作、「山海図絵 (伊豆の追憶)」(1925年) から見てみよう。これが全体図。真ん中に聳えるのは紛れもない富士山だが、それより手前は茶色い土地、向こう側は白い土地である。これは一体どういうことなのか。
手前の風景は、副題にもある通り、伊豆の方、つまりは太平洋側である。このように集落や岩や灯台などが細やかに描かれ、緑色をした海の波も丁寧に表現されている。そこには船もあり、人々の営みが感じられる。
その一方、奥の風景は何かというと、これはなんと、しんしんと雪の降り積もる日本海側なのである。茅葺の家が静かに佇んでいて、ここには人々の暮らしは雪に閉ざされている。
このように、富士を挟んで、実際にはありえない対照的な風景を俯瞰するという作品なのである。しかもその表現がかなり細密であるがゆえに、不思議なリアリティと詩情が画面を支配している。なるほど、ちょっとほかにはないような奇妙な作品である。展覧会ではこのような不染の作品の数々との新鮮な出会いを果たすことができる。初期の習作などは展示されておらず、大正期の完成作から始まる。20代の作とはいえ、不染の個性が最初から明確に感じられるものばかり。これは「暮色有情」。古い家並みを俯瞰で描いており、墨の濃淡だけで素晴らしい情緒を描き出している。私はこの家々を見て、なぜとも知れず懐かしい思いを感じたものだ。この静謐感が伝わるだろうか。
これは一転して鮮やかな赤が印象的な「東京郊外秋景」(1917-18年頃作)。まさに錦秋という言葉がふさわしい紅葉を描いているが、だが上の作品と同様、静かな情緒が画面を支配していて、見ていて懐かしい思いにとらわれるのである。
これは「林間」(1919年頃作)。やはり茅葺屋根の家がどこか懐かしい。そしてここにも見える細密性。
これは「雪之家」(大正末期~昭和初期頃作)。既にこれまで見てきた何点かの抒情性を合わせたような印象であるが、面白いのは、同じ茅葺の家を描くにも、最初の作品とは違って、輪郭はくっきりと線で描かれている。それによって画面に硬質なものが付与されているが、その硬質さすら抒情性を醸し出していると思う。非常に優れた手腕である。
展覧会に展示されている作品の中には、ただ風景を描いたのみならず、そこに不染自身が紀行文のようなものを書き加えている例が多く見られる。これは 1923年の「伊豆風景」。メルヘンタッチと言ってもよい作品であり、添えられた言葉も、例えば「二三日前に乗った汽車は今頃もあの道を走っているかもしれない」と、詩情あるものである。
これは、不染がその後の作品でも繰り返し描くこととなる奈良・西ノ京の風景で、お寺好きには一目瞭然だが、奥の建物は唐招提寺の金堂である。1927年作の「都跡村之図」。やはり下の方に文章が書かれていて、唐招提寺の詩情を、ですます調の丁寧語で書き綴っている。このような作品を描いた彼の心の中には、一体どのような思いがあったのか。ただ厳しい画業の追求ということではなく、自分の足で歩き、目で見たものを、詩的に表現することで、人々に時の流れの儚さや人の営みの尊さを訴えたかったのか。つまり、画壇で成功しようという野心が感じられず、むしろ人々に訴えることに価値を見出しているように思われる。
これも同じ西ノ京だが、遠景に描かれているのは、薬師寺東塔である。不染の抒情性を表現するには、この西ノ京の風景はうってつけであったのだろう。やはり詩情豊かな作品で、なんとも心が穏やかになるが、但し、前景の家の描き方にはかなり細密描写も使われていて、かなり細やかな神経がここで使われていることも感じ取ることができよう。
さてここまでの不染の作品を見て気づく特徴のひとつに、風景の中に人物が全く描かれていないことである。独特の静謐さはそのようなナイーヴな感性からも来ているのだと勝手に納得していると、1927年の作、「思出之記」(海邊) という横長の作品には、家の内外で語り合ったり作業をする人たちが描かれているのを発見した。ただ、もともと彼の風景画には人間の存在が暗示されているし、これらの人物も、言ってみれば風景のひとつを構成しているのではないか。それもこれも、不染の感性のなせるわざだと思う。
そう、不染の作品は独特の硬質でいて抒情的なタッチなのであるが、そこにはその土地で暮らす人々の人生を見つける目があり、またそれは常に自らの来し方行く末に戻って行く感覚なのである。絵の中に自らの感傷的な思いを書き込むことも、あのあたりと関係しているのではないか。そして彼は、さらに直接的に自分を語る「生い立ちの記」という作品 (1931年) も残しているのである。これは部分的な写真だが、書いてある文章の冒頭は、「東京のかた隅 小石川の或小さなお寺に生まれました 母はランプの下でしきりにはたををっていた事なぞ覚えております」というもの。
彼の作品には時に毒々しい要素があるものの、その多くは抒情的かつ現代的だ。この「凍雪冬村之図」(昭和初期頃) は、浮世絵風に見えながらその感性はかなりモダンで鋭角的と言ってもよいのではないか。それでいて抒情的である点に、不染の揺るぎない個性がある。
これは、巻物になっている横長の水墨作品で、1947年の「南都覧古」。例によって手書きの説明のついた部分。
この作品もそうだが、やはり奈良の西ノ京を描いた作品群が紹介されている。この昭和中期頃の作とされる「奈良風景」には、唐招提寺と薬師寺があり得ない位置関係で描かれている。つまり彼は現実の風景を写実的に描くことには興味がなく、抒情を表現するために空間を自分の中で再構成するのであろう。これが理解できると、冒頭の「山海図絵 (伊豆の追憶)」の手法がその集大成であることに気づくのである。
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これから 3点、薬師寺東塔を描いた作品をお目にかける。最初の「奈良風景」(昭和中期頃) は、この塔と唐招提寺金堂に加えて、遠景に東大寺大仏殿も見えている。
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次の「薬師寺東塔の図」(1970年頃) は、私の心にズシンと衝撃を与えてくれた作品。朝日がなぜか二重となっているが、シュールなまでのリアリティがあって美しい。これはデザインとして完全に完成されており、事実不染は似たような構図で何枚もの作品を残している。
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ところがそれに先立つ 1965年頃のこの「薬師寺東塔之図」は、同じ塔を描いていて、やはり日の出は二重になっているものの、背景を丁寧に描いており、上代の例えば春日曼荼羅のような風景入りの仏画のような雰囲気がある。これも実に素晴らしい絵で、できれば複製を手元に飾っておきたいくらいである。
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展覧会ではこの後に上記の「山海絵図 (伊豆の追憶)」が展示されていて、その他いくつかの富士山の絵も見ることができる。これは昭和初期頃の「富嶽之図」。細部のタッチはいかにも不染であるが、富士の写実的な描き方に迫力があり、ちょっと意外な連想だが、片岡球子などを思い起こさせないだろうか。
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不染の創作活動がこのように様々な様相を呈していることは非常に面白いのだが、ほかの例を挙げると、この「南海之図」(1955年頃作) はどうだろう。縦長の掛け軸の画面の下 2/3 以上が暗く渦巻く海で、それを墨だけで表しているのである。
さあそしてこれは、中世の仏画を思わせる「蓬莱山之図」(昭和中期頃作)。仙人の住むという蓬莱山を描いているわけであるが、円形に閉じ込めたこの聖なる山の様子は、見ているうちに仏画ではなくヨーロッパの写本のように見えてくるから不思議である。
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と思うとこの「海」(1975年頃) では、おなじみの茅葺屋根の家々が並ぶ前を、なぜか魚たちが泳いでいる幻想的な風景が描かれている。さて、これをもってパウル・クレー風と言ってしまいたくなるのは私だけだろうか。
これは 1974年頃作の「潮騒」の一部。こうなってくると、現代若手画家として注目を集めている池田学のペン画のようだと言ってしまいたくなる。
仏教のお堂を描いた対照的な作品も大変に興味深いのでご紹介する。まずこれは、昭和 40年代に描かれた「夢殿」。言うまでもなく法隆寺の有名な建物であるが、このしのつく雨の中の凛とした姿はどうだろう。
そしてこれが、1971年の「静雨 (静光院)」。同じ雨模様でも、これは全く異なるタッチの幻想的な風景。静光院とは、架空の寺院らしいが、もし多少なりとも近いイメージの建物を探すとすると、新薬師寺の本堂ではないか。建物のかたちも近いし、内部も、本尊薬師如来を取り囲む眷属の十二神将たちを思わせる。展覧会の図録には、「仏たちを従えた阿弥陀如来が鎮座している」とあるが・・・。
これは、1968年12月29日に制作された「古い自転車」。知人に贈呈したもののように思われるが、78歳の自分を揶揄するような内容の文章が書かれており、この古い自転車とは、彼自身のことなのかもしれない。
また彼は、自分が生まれた小石川の光圓寺にある大いちょうを何度も描いている。これは昭和 40年代の作品。実はこのいちょう、樹齢千年を超えると言われているが、戦時中の爆撃で焼けてしまったらしい。だが今でも焼け残った部分から、逞しく枝葉を伸ばしているとのこと。そうするとこの絵は、不染のイメージの中にある大いちょうが黄金の葉を散らしているところということだろう。ここでも古い自分を自分になぞらえているのだろうか。
彼がはがきに絵と文を入れて実際に投函したものが沢山展示されている。夜明け前に目覚め、自らの中に神と悪魔、ジキルとハイドを感じている不染。だがその自画像は飄々としていて、深刻な精神のバランスの危機は感じさせない。鋭敏な感性を持つ芸術家なら、むしろ当然のことであろう。もっとも、上で見てきたような多彩な作風に、彼自身、複数の人格を感じる瞬間があったとすれば、その内面を少し覗いてみたい気がする。
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このように、全く未知の画家の様々な面に触れることができて、大いに触発される展覧会である。これからは時々、この展覧会の図録を見ながら、郷愁の世界に浸ることもあるかもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E6%BA%90%E9%83%B7 【桃源郷】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
桃源郷(とうげんきょう)は、俗界を離れた他界・仙境。ユートピアとほぼ同意で、陶淵明の『桃花源記』はかつて存在した武陵郡地域の話[1]なので「武陵桃源」(ぶりょうとうげん)ともいう。
概要
ウィキソースに桃花源記の原文があります。
陶淵明の作品『桃花源記』が出処になっている。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している)[2]。
創作されてから約1600年経った現在でも『桃花源記』が鑑賞されているのは、既に人々の心の内にある存在を、詩的に具象化したものが桃源郷であるためとされる。既に知っているものであるため地上の何処かではなく、魂の奥底に存在している。桃源郷に漁師が再訪出来ず、劉子驥が訪問出来なかったのは、心の外に求めたからであり、探すとかえって見出せなくなるという[3]。
ユートピアとの相違
陶淵明研究者の伊藤直哉は以下の通り述べている。トマス・モアの思想書『ユートピア』に由来するユートピア思想の根底にあるのは、理想社会を実現しようとする主体的意志である。この本ではユートピアに滞在した経験がある人物が、モアに現地の様子を紹介する設定になっている。ユートピアは遠く離れた島国とされているが、全く到達不可能な夢幻としてではなく、地理や社会制度の意味において十分到達可能なものとして描かれており、その上でユートピア人の風俗や法律などの成立の根拠の合理性に疑問を投げかけている。モアのユートピアは「夢想郷ではなく、普通の人々が努力して築き上げた社会主義国家」なのである[4]。陶淵明が生きていた時代は異民族の征服王朝が次々と現れ中国の北部を支配し漢族は異民族に征服された時代であった。漢族は異民族の奴隷になったり、屈服され臣下になっても悲惨な生活を送っていた。労役から南に逃げた漢族たちは東晋という国を建国したが東晋も異民族の侵略に苦しんでいた。異民族の征服からもう逃げる場所がない漢族の心理から陶淵明の桃源郷という作品が作られるようになった。陶淵明はユートピアだけを夢見た芸術家ではなかった。彼が住んでいた乱世でこの山の奥のユートピアはとても現実的なイメージを持っていた[5]。
一方で桃源郷は、「理想社会の実現を諦める」という理念を示している。中国史上稀に見る混乱期の中、人々は苦悩と悲劇に満ちた現実から逃避しようとし、文壇では遊仙詩(神仙郷に遊ぶ詩)が現れた。しかし陶淵明の作品は、題材は遊仙詩と似ているが、思想が本質的に異なるとされる[6]。陶淵明は、神仙郷の実在を決して信じず否定しており、日常生活を尊重していた。同時に、書物を通じて神話世界を自由に飛翔し、神仙の境地に至っていた[7]。
孟夏 草木長じ 屋を遶りて樹扶疏たり 衆鳥は託する有るを欣び 吾も亦吾が廬を愛す
既に耕しては亦た已に種ゑ 時に還りて我が書を讀む 窮巷は深轍を隔て 頗る故人の車を迴らす
歡言しては春酒を酌み 我が園中の蔬を摘む 微雨東より來り
汎覽す周王の傳 流觀す山海の圖 俯仰して宇宙を終せば 樂しからずして復た何如
(初夏になって草木が伸び 我が家の周りには樹木が生茂る 鳥たちは巣作りに喜び励み 私も自分の家が気に入っている
野良仕事に精を出し 家に帰ると読書を楽しむ 狭い道には車も入って来れぬから 煩わしい付き合いをしなくて済む
近隣の人たちと歓談しては酒を酌み交わし 肴に庭の野草を食う 小雨が東の方から降ってくると それに伴って気持ちのよい風も吹く
周王の傳を精読し それに添えられた絵に目をやる 寝ながらにして宇宙のことが分かるのだから こんなに楽しいことはない)
—陶淵明、讀山海經其一
西洋のユートピア思想は悲惨な管理社会を生み出し潰え去った。また東洋も二千年以上前に、韓非子の思想に支えられて現れた秦帝国の専制支配とその崩壊によって、同様の道を辿った。反面、『桃花源記』の描写は「老子」を踏まえつつも、ユートピアの末路を象徴している。つまり、地上にユートピアを作ろうとする熱意が生む惨劇を表現している。だが、災厄から逃れた先祖は、彷徨の果てに辿り着いた地があった。つまり、ユートピアの崩壊後に姿を現すものが桃源郷である[8]。対照的な両者はもたらす結果も逆になっている。すなわち、主体的・積極的なユートピア思想は、その目標とは全く裏腹の大きな災禍を生じる。消極的な桃源郷は、現実には何の力も持ち得ないが、人間の精神に大きな慰めを与え得る[9]。伊藤直哉は、映画『千と千尋の神隠し』主題歌の歌詞「海の彼方には もう探さない 輝くものは いつもここに わたしのなかに みつけられたから」を、『桃花源記』の良い注釈として引用している[10]。
思想
この話は後に道教の思想や伝承と結びつき、とりわけ仙人思想と結びついた。山で迷って仙人に逢うという類の伝説や、仙人になるために食べる霊力のある桃の実や、西王母伝説の不老不死の仙桃などとの関連から、桃の林の奥にある桃源郷は仙人の住まう地とも看做されるようになった。
しかし、北宋の蘇軾は、「もし仙郷であるならば、どうして鶏をつぶして、漁師をもてなしたりするものか?」と言っている。唐代の李白などは、桃源郷=仙郷と考えていたようだが、宋の蘇軾、王安石は、あくまでも搾取や戦乱のない人間の世界だと考えていたようだ。
関連地域
『桃花源記』は創作であるが、現在の中華人民共和国湖南省常徳市の数十キロ郊外に位置する桃源県に「桃花源」という農村があり、桃源郷のモデルとして観光地になっている。
1984年に王維の作品『桃源行』に因んで張家界市の自然保護区が武陵源と命名されて1992年にユネスコの世界遺産に登録されている[11]。
1994年、雲南省広南県の洞窟にある峰岩洞村という村が、偶然訪れたテレビ取材班に由って発見される。それまで広南県政府はこの村の存在に気付いていなかった。住民は全て漢族で、最も早く住み着いた家族の祖先は300年前に江西省から移住したという。
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思春期の和多志は生きることも死ぬこともできない、ニヒリズムの深い淵に沈んでいました。生きる意味ばかりを求め、ささやかなレジスタンスを繰り返し続けました。胎児のように体を丸め息を凝らしてこんな痛みをやり過ごしてきました。こんな時、偶然キリスト教と出会いました。これまでの「生きる意味を問う在り方」から「神から生き方を問われるものになろう」と決め、その規範を聖書に求め、聖書の学びをし始めました。そしてクリスチャンワーカーになるべく、日本基督教団のキリスト教教育主事として 活動を続けてきました。しかし教会の働き人は 教育の専門家であったり、各社会分野の専門家であったりしました。その人たちは 無給の奉仕者です。和多志はそのころ二児の母として 子連れの(パートタイマーとはいえ)有給職員でした。教会生活には家族全員がかかわる羽目になりました。和多志が心理療法を学び始めたのは そんなコンプレックスの中で 自分の専門性を高めるためでした。 そんな和多志にブレークスルーが起きたのは サダナ黙想会への参加、各種心理療法の学び、ブレークスルーテクニックへの参加etc.でした。そんな体験の中から「生きる意味は探すのではなく 自分が選び取るもの 創造するもの」という実感を得ていきました。幸せの青い鳥を探し続けたチルチルミチルのお話をご存知でしょうか?幸せは外に探し求めるものではなく、氣づくこと!ちょうどそんなお話の実感と重なります。 阪神淡路大震災の前後から キリスト教会の様々な問題、人間が織りなす交わりの大問題などから 教会の仕事をやめる氣持ちになっていきました。 残された人生を図らずも学び、出会った心理療法を生かすことで人生へのお返しをしたいと願い みなみ心理健康オフィスを立ち上げることにしました。 よき援助者になるためには 自分のクリアリングが必要です。仕事のようにセルフヒーリングをし続けました。一番大きなスタックポイント・肩甲骨の下(生きてきてごめんなさい)を外した途端、立っておれないほど体が震え 「アメジスト色と、白昼光のセットの光」が三度輝き クンダリーニが覚醒し激しい霊現象が起こり始めました。この死の淵をさまよい続けることになった霊現象で今までの人生観、神観、価値観のすべてが覆されることになりました。
***
中学生の頃 和多志は 「生きる意味ばかり」を求めるニヒリストでした。
授業は 興味が持てなくなると 読みたい本を読み 教室から追い出され クラス担任が担当教師に平謝りすることが何度かありました。
休憩中は職員室に入り浸りで 教師相手に「生きる意味」を問い続けました。
ある理科の教師が 「命なんて リトマス反応のようなものだよ」と言ってのけました。
その時は大ショックでしたが 命はニュートラルなエネルギーであり 人生の意味は個別で 魂が選んで決めること、そして魂の選択によって エネルギー現象が変化することを 実感するようになりました。
生きる意味は自分が選んで作り出すという意味になります。
ある国語教師は「死ねる自由がある者と 無い者とでは どちらが幸せか」と和多志に尋ねました。
和多志が「行き着く先が墓場だから 好きなことをして、切羽詰れば死ねばよい」と断言し 自分を満たしてくれるものを求め始めたからです。
「幸せの青い鳥探し」を始めたのかもしれません。
生きる意味も、自分を満たしてくれるものも 外に求め続ける限りは決して 掴み得ないものでした。喉の乾きを潤すために塩水を飲み ますます乾きに苦しみ 喘ぎ続けた思春期でした。
しかし死の自由とはなにでしょう?和多志たちは日々新しい存在です。
新陳代謝そのものがそれを指示します。和多志たちは体に宿った時から死と再生を 繰り返し 成長します。胎児に死に乳児に生まれ 幼児に死に小学生となり 子どもに死に大人に生まれ………死と再生はセットといえます。
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