https://note.com/kodaigpt/n/nb6e7b38036b1 【新撰姓氏録について】より
新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は、日本の古代史における重要な文献の一つで、奈良時代の日本で編纂されました。この文献は、当時の日本の豪族(氏族)とその出自(姓)に関する記録を集めたものです。
新撰姓氏録の概要
編纂時期: 『新撰姓氏録』は、814年に編纂されました。これは平安時代の初期に当たります。
目的: この文献の主な目的は、日本の各氏族の出自、系譜、地位、および特権を記録し、当時の政治的・社会的な構造を整理することにありました。
構成: 『新撰姓氏録』は、官姓(かぶね、中央政府によって与えられた姓)、臣姓(官位の低い貴族や地方豪族)、そして国姓(地方の豪族)といったカテゴリに分けられています。
重要性と内容
氏族の記録: 各氏族の起源、分布、及び天皇家や他の有力な氏族との関係が記されています。これにより、奈良時代の社会構造や氏族間のネットワークを理解することができます。
姓のシステム: 『新撰姓氏録』は、当時の日本における姓のシステムと社会階級を示しており、古代日本の身分制度や政治体制の研究に不可欠な資料です。
歴史学的価値: この文献は、歴史家や学者にとって、日本の古代史、特に氏族や社会構造に関する研究の基礎資料となっています。
『新撰姓氏録』の使用
史料としての利用: この文献は、日本の古代史を研究する上で重要な参考資料となっており、特に氏族研究や社会構造の解析において広く用いられています。
総括
『新撰姓氏録』は、日本の古代社会における氏族の系譜、地位、関係を詳細に記録した文献であり、日本古代史研究にとって非常に重要な情報源です。これにより、奈良時代の社会構造、身分制度、政治体制に関する理解が深まります。
『新撰姓氏録』に記載されている氏族の例
藤原氏:
日本古代における最も有力な氏族の一つ。中臣鎌足を祖とし、多くの政治家や学者を輩出した。
中臣氏:
藤原氏の前身。中臣鎌足が天智天皇から藤原の姓を賜り、藤原氏に改称された。
坂上氏:
天武天皇の子孫とされ、武士団を形成し、後の武家政治に影響を与えた。
平氏:
天智天皇の孫である平高望を祖とする。平安時代には政治の中心となり、後の源平合戦で有名。
源氏:
光仁天皇の孫、源経基を祖とする。後の平安時代には武士団を形成し、源平合戦で主要な役割を果たした。
大伴氏:
古代日本の有力な氏族で、古墳時代から奈良時代にかけての文化に大きく貢献した。
阿倍氏:
古代の地方豪族で、奈良時代に中央政治に参画した。
紀氏:
奈良時代に活躍した氏族で、紀伊国(現在の和歌山県)を拠点としていた。
小野氏:
学問や文化に貢献した氏族で、奈良時代には多くの学者を輩出した。
物部氏:
古代の神道において重要な役割を果たした氏族。中央政府の祭祀を司った。
『新撰姓氏録』はこれらの氏族の出自や地位に関する記録を提供しており、日本古代史における社会構造や政治体制を理解するための重要な資料です。
http://korea-np.co.jp/sinboj2001/10/1012/62.htm 【ウリ民族の姓氏-その由来と現在(11)「族譜」の祖型である「譜牒」】より 起源と変遷(9) 朴春日
わが国の統一封建国家時代は、高麗王朝と朝鮮王朝の2つの時期を包括するが、姓氏の変遷史から見ると、画期的な進展が生まれたのは高麗時代である。
それはひと言でいって、檀君朝鮮以来、姓氏を用いたのは王侯貴族や士族らの支配階層に限られていたが、そうした制約が高麗時代に大きく崩され、一般の庶民層にも姓氏を持つことが認められるようになった事実である。
それを具体的に見ると、史上初の統一国家を樹立した高麗の太祖・王建は、何よりも民族内部の和合と大団結を図るため、諸豪族と功臣らの婚姻、賜姓などを積極的に行い、庶民層の生活安定と政治的諸改革、そして旧高句麗の領土回復などの基本政策を強力に推進した。
こうした太祖の政策は、その後の高麗国王にも引き継がれたが、なかでも第4代の光宗は、従来、豪族や功臣の子弟を優先的に高級官吏に登用していた悪弊を正し、科挙の制度を導入することによって、新進気鋭の人材を広く在野から選抜する道を開いた。
そして、それらの改新は第6代の成宗によっていっそう整備され、第11代・文宗の時期に至っては、ほぼ完成段階に入ったといってよいだろう。
とくに文宗は、姓氏の使用が普遍化する社会のすう勢を踏まえ、役所に姓氏と血族の系統を記録した台帳を備えさせ、科挙に応試する者たちの身分関係を確認する措置をとった。
また「宗簿寺(チョンブシ)」という役所には、各氏族の系譜を記した「譜牒(ポチョプ)」という文書を管掌させたが、これがわが国における「族譜(チョクポ)」の祖型となったわけである。なお「寺(シ)」とは、役所名の下につけられた用語である。
高麗時代の社会的身分は、王族と貴族、良人(リャンイン)と賎民(チョンミン)の4つから成っていた。このうち支配階層に属するのは、王族を頂点とした文班と武班、すなわち両班貴族の高級官僚と、中流層に属する下級官吏、つまり中央官庁と宮中の役人、そして地方官庁の郷士と下級将校らが含まれていた。
一方、被支配階層は、まず良人、つまり平民であるが、ここで圧倒的多数を占めたのは農民であり、手工業者や商人もこれに含まれていた。また最下層の賎民と呼ばれた人たちは、公私の奴婢(ノビ)と白丁(ペクチョン=と殺業者)や被差別地域の住民である。
この被支配階層の中で、新たに科挙応試の資格が認められたのは良人だが、この事実はそのまま当時の平民層がすでに姓氏を有していたことを物語っている。それは先の文宗が、「姓氏を持たない者には科挙に応試する資格を与えない」と布告していたことからも確認できよう。
このように、わが国では高麗時代、すでに一般庶民に至るまで姓氏を持ち、それを日常生活で使っていたのである。(パク・チュンイル、歴史評論家)
http://korea-np.co.jp/sinboj2002/7/0722/63.htm 【政治・文化的影響与えた移住氏族
終章「新撰姓氏録」が語るもの(下)】より
朴春日
つづいて、大和・摂津・河内・和泉諸国の朝鮮系豪族を見よう。
まず大和国(奈良県)は、漢系11氏、百済系6氏、高句麗系6氏、新羅系1氏、伽耶系2氏の計26氏。「倭(やまと)は国のまほろば」と歌われたように、ここは倭国誕生の地であり、多くの宮都が営まれ、古代の有力豪族が根拠地としたところである。(「まほろば」は高く秀でたところの意)
奈良朝末、朝鮮系氏族中の雄族・東漢氏(やまとのあやうじ=百済系)の後裔・坂上苅田麻呂は、光仁天皇に対し、同族の桧前忌寸(ひのくまのいみき)が高市郡の郡司を務めるのは、かつて阿知使主が多くの人民を連れて檜前村に定住したからだとし、「高市郡内には檜前忌寸の一族と十七県の人民が満ちあふれ、他の姓の者は十人に一人か二人しかいない」と述べている。
その檜前村のすぐ隣が明日香村で、飛鳥王朝と飛鳥文化の発祥地となった。
つぎに摂津国(大阪府西北部と兵庫県東南部)は、漢系13氏、百済系9氏、高句麗系3氏、新羅系1氏、伽耶系3氏の計29氏。
百済郡の設置は奈良時代で、百済野・百済川・百済寺などがあった。漢系には檜前忌寸、秦忌寸らがおり、百済系では林史(はやしのふひと)が「百済国人・木貴の後裔」だという。
河内国(大阪府東部)は、漢系35氏、百済系15氏、高句麗系3氏、伽耶系1氏の計54氏である。
河内は、もう1つの雄族・西漢氏(かわちのあやうじ)一族が繁栄したところ。始祖は有名な博士・王仁と伝えられ、漢系の古志連は「文宿祢(ふみのすくね)と同祖。王仁の後裔」と名乗る。
錦織郡には百済郷、交野郡に百済王神社と百済寺が見える。また大県郡と渋川郡の巨麻郷(こまごう)は、高句麗(こま)人ゆかりの地であろう。
和泉国(大阪府南部)は、漢系11氏、百済系8氏、新羅系1氏の計20氏。
奈良時代の名僧・行基大僧正は王仁の後裔で、俗姓を高志氏と称した。彼が建立した寺院は和泉を初め大和・山城・河内・摂津など49院に及ぶ。
百済公(くだらのきみ)と六人部連(むとべのむらじ)は「酒君の後裔」だという。百済郷に住んだ王族の子孫らしい。
最後に、未定雑姓は計38氏だが、その大部分も朝鮮系氏族と見てよい。たとえば左京の百済氏、右京の加羅氏、河内の狛人(こまひと)氏、大賀良氏のように。
このように、古代朝鮮の移住氏族は、倭国の中心地である畿内地方へと進出・定着し、権力の中枢部を掌握しながら、大きな政治的・文化的影響を与えつづけたのである。 (パク・チュンイル 歴史評論家)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2 【新撰姓氏録】より
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年8月)
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。
概要
京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。
現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。
なお、書名に「新撰」とつくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。
『新撰姓氏録』には「逸文」がかなりあり、その内容にも曾孫を四世孫とする場合や玄孫を四世孫と書いたり、同神あるいは同一人物が違った文字で書かれている場合などがあり、内容のすべてを信頼することはできないという指摘がある[1]。
構成
全30巻が3冊の形状となっており、30巻目の後に不掲載の姓氏の記録も添付されている(平氏、阿蘇氏など)。
本書には、全部で1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類され、さらに国別に天神、天孫、地祇に分類されている。
皇別
筆頭にあげられた「皇別」の姓氏とは、神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族のことで、335氏が挙げられている。代表的なものは、清原、橘、源などがある。皇別氏族は、さらに、皇親(「真人」の姓(カバネ)をもつ氏族)とそれ以外の姓をもつ氏族に分かれる。
神別
「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族のことで、404氏が挙げられている。神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」として3分類している。
「天神」に分類された姓氏は藤原、大中臣など246氏、「天孫」は尾張、出雲など128氏(隼人系の氏族は天孫に分類される。)、「地祇」は安曇、弓削など30氏がある。
諸蕃
「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「任那」として9氏、「漢」として163氏それぞれ挙げられる。
また、これらのどこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。
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