http://saenulee.com/board/jstore/72215?ckattempt=1 【姜 永根 No221.古代の渡来人/東漢氏/坂上田村麻呂】より
『思ひ給はば我が行く方を見よやとて。地主権現の御前より。下るかと見えしが。下りはせで坂の上乃田村堂の軒洩るや。月のむら戸を押し開けて内に入らせ給ひけり内陣に入らせ給ひけり。』
これは、作者〔世阿弥元清〕の有名な謡曲《田村》の一節だ。場所は京都東山の清水寺。
清水寺は、世界文化遺産に登録され、世界の観光のメッカの一つであることを知らぬ人はいない。
この由緒ある寺の創建者は、〔延鎮〕という奈良仏教系の観音信仰の僧侶であるが、そのパトロンとして深く関わったのが、平安時代初期、日本で最初の征夷大将軍として桓武天皇の信任厚かった〔坂上田村麻呂〕である。
この坂上氏こそ、渡来系氏族として、〔秦氏〕と双璧、〔東漢(やまとのあや)氏〕の本流の末裔である。
征夷大将軍〔坂上田村麻呂〕の名前は歴史教科書にも載せられ知名度は抜群に高い。だが、この偉人の出自が、渡来人系の〔東漢氏〕であることを知る人はどれほどいるだろうか?
No218で、京都の伏見稲荷大社を創設した〔秦氏〕のことについて、その概要を述べたが、ここからは〔東漢氏〕についてお話しよう。
記紀によると、〔東漢氏〕は〔秦氏〕と同じく、応神天皇から雄略天皇の時代(4世紀末〜5世紀末)にかけて、朝鮮半島の百済から新しい様々な文化や技術をもって渡来したとされる。
この頃、相前後して、数多くの氏族が渡来してきている。そして一番後々まで勢力を持ち系図的にもはっきりしているのは、〔東漢氏〕だけのようだ。
朝鮮半島から、日本列島に次々と渡来した中国の漢の国の末裔だと称する漢人(あやびと)一派を、総称して漢氏(あやうじ)と呼んだ。
朝鮮半島には、紀元前108年〜4世紀半ばまで、中国王朝の直接支配地が存在した。
履歴はいろいろあるが、最終的には、楽浪郡(現在の平壌辺り)と、帯方郡(現在のソウル辺り)の2郡があった。ここに漢民族の多くが本土を追われて住んでいたとされる。
上記2郡も高句麗の勃興、進展によりついに313年に滅び、漢系の多くの民がさらに南へ、百済などの地に流民となってやってきたのだ。
この〔楽浪郡〕には、司馬遼太郎の歴史小説《劉邦と項羽》で名高い前漢の始祖・高祖の子孫であるとされる〔王氏〕がいた。
方や〔帯方郡〕には、後漢霊帝・献帝の子孫である一族がいたとされる。漢から魏への政権交代の時、〔帯方郡〕に逃れた。
そして、応神天皇の頃、この〔帯方郡〕出身の〔阿智王〕らが日本列島に渡来する。そして大和国の飛鳥地方を本拠とした。
同じ頃、〔楽浪郡〕出身で日本に漢字を伝えたあの〔王仁〕らが日本列島に渡来する。彼らは河内国を本拠地とした。
前述したように、〔阿智王系〕も〔王仁系〕も、共に漢系とされ、総称して〔漢氏〕と呼ばれるのである。
上記、2つの流れの漢系氏族を区別するために、大和国に住する阿智王系の氏族を〔東漢氏〕と称し〔直〕姓が与えられる。
一方、河内に住んだ王仁系の氏族を〔西文(かわちのふみ)氏〕と称し、〔首〕姓が与えられた。これが更に〔西漢(かわちのあや)氏〕と呼称されるようになった。
両漢氏は、当時としては、最も先端的な文化と技術を有していた。その中でも特に文字や文書関係の仕事を朝廷から引き受けてやっていた氏族に、〔文(ふみ)氏〕の姓が与えられるのである。
これは東西の漢氏それぞれに、そのような専門集団ができたので、〔東文(やまとのふみ)氏、西文(かわちのふみ)氏と称するようになる。
当初は、〔東西漢文氏〕はほぼ拮抗した勢力であったようだが、時代と共に〔東漢氏〕のみが歴史上重要な位置づけとなった。
〔東漢氏〕は、〔秦氏〕とは異なり、中央政治と密着した活動記録が数多く残されている。
次回、〔東漢氏〕出身の著名人を列挙し、その活躍ぶりを紹介しよう。
―続くー
http://saenulee.com/board/index.php?mid=jstore&document_srl=72250 【姜 永根 No223.古代の渡来人/東漢氏/高向玄理】より
No221で話したように、百済系渡来人・東漢(やまとのあや)氏出自の末裔である著名人を何人か取り上げたい。
高向玄理(たかむこのくろまろ)は、7世紀中ごろの学者である。
生年は不祥で、河内の錦部の高向(大阪府河内長野市)に住んだ。608年、遣隋使〔小野妹子〕に従って隋へ留学した学生・学問僧8人のうちのひとりだ。
そして640年、〔南淵請安(みなぶちのしょうあん)〕らと共に新羅を経て、32年ぶりに隋から帰国した。
607年に隋に渡った〔小野妹子〕は、608年にも隋に向かい609年に帰国するが、当時、高向玄理などの留学生たちは極めて長い期間、中国に滞在した。
645年、〔乙巳の変(いっしのへん:中大兄皇子や中臣鎌足が蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏を滅ぼした政変)〕後に成立した孝徳天皇朝の新政権で〔国博士〕になった。
〔国博士〕とは、当時、先進国であった中国において、儒教などの思想・哲学を研鑽したり、現地での体験などを基に、天皇や支配層の思想や考えを代弁する政治顧問であり、また国政上のブレーンの役割を担う人物を指す。
このことで、〔遣隋使〕として派遣された〔高向玄理〕の功績が、いかに高く評価されていたかがよくわかる。
ところで、〔遣隋使〕や〔遣唐使〕というのは、歴史教科書に載せられているため誰もがよく知っているが、当時〔遣新羅使〕とか〔遣百済使〕呼ばれる〔派遣使節団〕があった。
〔遣新羅使〕とは、日本の政権から新羅に派遣された公式の使節のことで、記録に明らかなのは、欽明(きんめい)天皇朝の571年以降に限ると、882年まで46回を数える。
646年、孝徳(こうとく)天皇朝の政権は新羅を含む東アジアの等距離外交に転じた。この年、〔高向玄理〕は〔遣新羅使〕として新羅との外交折衝に当たり、その翌年、相手方の政権を担当する〔金春秋(のちの武烈王)〕を伴って帰国した。
だが、その後、663年に勃発した〔白村江の戦い〕では、ヤマト王権の天智天皇は、百済を救済するために唐・新羅の連合軍と戦う。
そして戦後、途絶えた新羅と国交を回復することを目的に、668年から再び〔遣新羅使〕を統一新羅に送ったのだ。
〔遣新羅使〕は、その際、金銀や織物などの他に駱駝や孔雀、オウムなどを持ち帰ったようだ。その中には香料や顔料、染料なども含まれ、朝廷が必要な量だけ確保すると、残りは民に販売されたらしい。
ただ、〔遣新羅使〕が持ち込んだのは、このような良き物だけではなかった。735年から737年にかけて、〔天平の疫病〕と呼ばれる天然痘が流行した時期があった。
〔遣新羅使〕が出港した大宰府で発生したため、彼らが天然痘を持ち帰ったのではないかと推察されている。因みに大宰府で発生した天然痘は、平城京でも大流行し、やがて日本全国に拡大し、そして738年に収束する。
654年に、〔高向玄理〕は〔第3次遣唐使〕の〔押使〕に選ばれ、大使・河辺麻呂、副使・薬師恵日と共に唐に渡った。〔押使〕とは大使より高い地位で、遣唐使全体を統括する官職である。
唐の都長安に向かい、唐王朝第3代皇帝・高宗に謁見したが、病を患い、帰国することなく唐で亡くなった。
〔高向玄理〕はさぞかし無念であっただろう。だが、渡来人の末裔として生まれ育ったヤマトの国、大陸中国を統一した隋や唐といった国、そして新羅・高句麗・百済の三国鼎立時代における新羅の国、これらの国々の架け橋になった高向玄理の生涯は、実に見事であった。
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🟧🟦🟪🟨No416.近代の渡来人/その末裔/今後、私たちはどう生きるべきか?(1)
なぜ私たちは歴史を学ぶのか?
古代、弥生時代から4期に亘って朝鮮半島から日本にやって来た人々が、この日本に何をもたらし、どんな影響を与えたのか?
また、その子孫たちがどのように暮らしてきたのかを知ることによって、私たちが今後、この日本の地で幸福に生きていくための必要な力や、豊かな知恵が得られると思っている。
日本に漢字をはじめ、儒教や仏教などの思想や宗教、土木や農耕、養蚕や機織、医療や製薬、鉄の精錬や陶器の製造など数々の技術を日本に伝え、有力な豪族になったあの秦氏や東漢氏や和邇氏、また〈白村江の戦い〉の後、亡命してきた百済や高句麗から渡来した数多くの人々。
その末裔はいったいどうなったのか?
戦前の古代史観に異議を唱え、史実に基づいた厳密かつ独自の解釈で「帰化人」というたいへん優れた書籍を著した東北大の関晃博士は、
「9世紀、平安時代の初頭になると、帰化人の氏は、日本在来の氏と殆んど性質の変わらないものとなり帰化意識も薄くなった。その一つの現れは、氏姓を改めて日本風にすることが頻繁に行われたことである。
その端緒は、757年の詔(みことのり)で、高麗・百済・新羅の帰化人で姓を賜りたいと願う者は、悉くこれを許すと述べたことにある。」と論じている。
つまり、時を経て世代が交代し、彼らのほぼ全てが日本名を名乗り日本人になり、数多くの政治家、官僚、僧侶、武士、商人などを生み出した。
例えば、最澄や行基などの渡来系僧侶は、朝鮮半島から伝来した仏教の黎明期に活躍し、日本の宗教文化発展の嚆矢となった。
高句麗や新羅からの渡来人は、関東に入植しアイヌ人と交わり、坂東武士として後の武士政権誕生の礎となって力を尽くし、
また、計数に強かった百済からの亡命者たちは、商売のノウハウを確立し、広く日本全国に商人文化を波及させ、そこから生まれた後の総合商社は今や世界に飛躍している。
かつて、朝鮮半島から玄界灘を渡ってきた近代の渡来人である私たちの先祖が、何を考えどんな体験をし足跡を残してきたかを知ることは、私たちの子孫のみならず、
今後、未曽有の人口減少社会が到来するこの日本において、多様な国々から続々とやって来る現代の渡来人たちの宝物になるに違いない。
ところで、私たち在日コリアンの数は、2018年から2023年までの5年間で約40,000人も減っている。
彼らの多くが日本国籍を取得し日本人になった。そしてその殆どが日本名で帰化している。
戦後日本にやって来た、いわゆる「ニューカマー」の人たちを省いた特別永住権を有する在日コリアンの2023年末の人口は約281,000人。
在日70万人と言われた時代と比較すれば、4割ほどになる。実に6割の減少だ。
この5年間の減少率に基づき算出した約8,000人の在日コリアンが、これから毎年日本国籍を取得していくとするならば、
朝鮮半島解放後100年を迎える2045年には、その数が10万人を切り、2023年から数えて35年、2058年にはその数はゼロになる。
つまり、単純に机上で計算すると、戦前から日本に定住し、韓国・朝鮮籍を有する近代の渡来人としての在日コリアンは、2050年後半には完全に消滅するのだ。もちろん実際はゼロにはならないだろうが。
古代と近現代とでは、日本や朝鮮半島を取り巻く情勢や環境、法律や制度、人々のものの見方や考え方などが異なっているので、単純に比較はできないものの、人間の本質はさほど変わることはない。
今在日コリアン社会は、戦前、朝鮮半島から日本に渡来した1世の人たちがほとんどいなくなり、2世から3世、4世の人たちによって構成されており、すでに5世も誕生している。
「2025年問題」というのがある。
第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)に生まれた人たちのことを「団塊の世代」と呼ぶが、
この世代がすべて75歳以上の後期高齢者になり、社会構造や体制が大きな分岐点を迎え、雇用や医療、福祉など、様々な分野に大きな影響を与えることによる課題をいう。
近代の渡来人の末裔である在日コリアンも同じにように、団塊の世代を構成する人々が少なくなく、同様の問題を抱えることになる。
今後、民族組織である在日韓国民団に所属する人たちの減少、或いは超高齢化に伴い、民団は組織運営に大きな影響を受けることになるであろう。
東京や大阪、愛知や神奈川、京都や兵庫、宮城や福岡など、大都市圏で居住する在日コリアンで構成するところはともかく、2025年以降、中堅都市圏や人口減少が著しい地方都市にある組織は、徐々に消滅していくに違いない。
このような時代を迎えて、私たち在日コリアンは、どのように生きるべきなのか。
私は、日本社会において、個々の価値観に基づいた行動様式が益々重要になっていくだろうと考えている。
今後このサイトで、それらに関する私の考えや構想を具体的に述べようと思う。
https://www.mindan.org/old/front/newsDetail1100.html 【常識を覆す日本最大級の石室 渡来の東漢氏 真実の姿は】より
真弓鑵子塚古墳の横穴式石室
奈良明日香村の真弓鑵子塚
奈良県明日香村にある真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳(6世紀中頃)の横穴式石室が、床面積が18畳分もあり、日本最大級だったことがこのほど確認された。これまでは、同じ明日香村にある蘇我馬子の墓とされる石舞台(7世紀前半)が最大級とされていた。真弓鑵子塚古墳は、渡来系の有力氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)の墓域にある。日本古代史に新たな謎の出現だ。
百済系の有力集団
蘇我馬子を凌ぐ権力者か
東漢氏とは、秦氏と並ぶ古代の渡来系有力豪族だ。始祖伝承によると、応神大王の治世(『日本書紀』では応神20年条・実際の年代では5世紀後半)に、後漢の霊帝(れいてい)の曾孫とされる阿知使主(あちのおみ)が、息子の都加使主(つかのおみ)とともに、党類17県・7姓の漢人(あやひと)を率いて、朝鮮半島の帯方から渡来したとされている。
この伝承では、渡来時期はある程度史実と考えられるとしても、秦氏が秦始皇帝の末裔と自称しているのと同様、始祖が後漢皇帝とは史実として認めがたい。実際には伽耶諸国のひとつ安羅(あら、安邪=あや)から渡来した人々が、擬制的に同族集団をつくりあげたと指摘する学者が多い。
ただし、漢氏を名乗る氏族は、西漢氏(かわちのあやうじ)や志賀の漢人、百済渡来の「今来才伎(いまきのてひと)」などを含め、秦氏が新羅系(新羅に併合された伽耶諸国を含む)としてまとまっているように、百済系氏族としてのまとまりがあり、実際は百済(百済に統合された伽耶諸国を含む)からの渡来氏族集団の可能性が高い。
日本古代史に新たな謎呼ぶ
真弓鑵子塚古墳の石室の広さは、古代史に新たな大きな謎を投じた。この時代、墓の規模はその人物の権力の大きさにほぼ比例する。明日香村周辺では、石舞台の石室は付近のどの天皇陵よりも広く、6世紀後半から7世紀前半にかけて、蘇我馬子は天皇をも凌ぐ事実上最大の権力者であったことを示すものでもある。
ところが、ほぼ同時代(6世紀中頃)の東漢氏の古墳・石室が蘇我馬子のそれより広いということは、これまでの常識ではまず考えられない。
日本書紀によると、592年に崇峻天皇が殺害された。殺害を命じたのは蘇我馬子で、実際に犯行に及んだのが東漢氏の倭漢直駒(やまとのあやのあたいこま)とされている。石舞台を凌ぐ国内最大の石室を建造した氏族の一員が、ほぼ1世代後には石舞台(古墳)に葬られた人物の『使い走り』の役割を担っているのである。
蘇我馬子による崇峻天皇殺害の命は、蘇我氏の権勢を示すと同時に「悪役」の印象を強く与え、馬子の孫・入鹿の殺害(大化の改新)を正当なものと印象づける伏線になっている。今回の発掘で、「崇峻天皇殺害」の真相や東漢氏の真実の姿が、今までの常識とはかなり違っているのではないかという疑念を新たに生じさせる。
子孫の史氏は訓読の発明者
東漢氏からは、古代政権を支えた多彩な官僚氏族を輩出したが、最も有名なのは『蝦夷征伐』の田村麻呂がいる坂上氏である。ほかには、公文書の執筆を担ってきた史(ふみと、文・書=ふみ、とも言う)氏も重要だ。一昨年に亡くなった漢字研究の世界的権威・白川静氏は、「本当の訓読を発明したのは、『史(ふみと)』として文章のことをやっていた、百済人だと思う」と述べている。
これまでの古代史研究ではあまり重視されていなかった印象がある東漢氏だが、発掘を契機にもっと注目されてもいいだろう。今までの常識を覆すような、大きな謎を秘めているかもしれない。
フリー・ジャーナリスト 吉成 繁幸
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