https://note.com/spitze_244/n/n546f7cedd139 【[もり]森vs杜】より
本日は「[もり]森vs杜」をテーマに書いていきます。
以前、仙台の地下鉄一日乗車券について記事を書いた。その際、仙台は「杜の都」(もりのみやこ)と呼ばれるとも述べた。では森と杜では何が違うのだろうか。
✅結論から言うと、森と杜の違いはそれらの守備範囲にある。
僕の考えはこうだ。・森=無造作に木々が集中した場所・杜=木々は残しつつ、仙台という都市に溶け込むように人口的に整備された「空間」しかし、調べてみたところ違いは他にあるらしい。
✅①まず、「森」は自然が作り出す木々が密集した場所を指す。
そもそも森の語源は「盛り」だと言われていて、木々が集まっている場所に対して、さらに上から木を盛るようなイメージである。ここで「森」という漢字をじっくり観察してみる。
すると木という漢字が三角形のような形に3つ書かれていることに気がつく。
しかも「林」という下の2本の「木」に対して、さらに上からもう一本「木」が盛られている。つまり標高が高くなる。森の方が林より高いし、森=山とも言えるかもしれない。
だから林と森の間には高さの違いがある。以上が森の意味と語源である。
✅②続いて杜の都の「杜」は詩的な表現で、林や森を美しく表現した言葉である。林や森が美しくないというわけではない。森の方が一般的な語彙であるということ。
特に神聖な森や庭のことを指して「杜」と表記することが多いそうだ。
だから「杜」の守備範囲は純粋な森だけでなく、庭園や公園も指す。
つまり仙台は庭園や公園、木々が多くとても自然豊かな都市であるということ。
そこに神秘的な意味合いを込めたからこそ、「杜の都」と呼ばれるようになったと考えられる。もし仙台が「森の都」だとしたら、仙台のほぼ全域が木で覆われていることになりビル群などは存在しないことになってしまう。
森なのか、杜なのか。木々が山のように形成されているのか、森以外の庭園なども豊富で神秘的な意味合いを込めているのか。森と杜の違いは奥深い。
https://www.sendai-hp.jp/%E4%BB%99%E5%8F%B0/%E6%9D%9C%E3%81%AE%E9%83%BD 【杜の都・仙台のいわれ】より
よく耳にするフレーズであり、だれもが知っているようで実はよく知らないのが杜の都・仙台。仙台は、いつごろから、なぜ杜の都と呼ばれるようになったのでしょうか。
仙台が杜の都と呼ばれているわけ
仙台は「杜の都」と言われていますが、この緑豊かなまちの姿の原点は、今から約400 年前までさかのぼります。仙台市史によれば、戦災前の仙台市街は、伊達政宗公が慶長6(1601)年に創設した城下町の遺構が、おおむねそのまま保たれていたといいます。城下町完成時の戸数は、町屋敷約1,400戸、侍屋敷約8,900戸、総数10,300戸余り。その屋敷割は、最小の町人屋敷が1戸当たり150坪(約495m2)、並足軽が175坪(約578m2)とたいへん広いものでした。城下の大部分を占める武家屋敷は、禄高のランクに応じて千坪単位まであり、ゆとりのある邸内には屋敷内の生活や産業振興に役立つ樹木の植樹が義務づけられ、果樹や生活用品の材料にもなるスギ、ケヤキ、タケなどが盛んに植えられていました。
さらにこの城下町の北・西・南の三方を囲む丘陵地帯の原生林と一体となったため、仙台は圧倒的に緑が多く、まるで緑の中に家屋敷の屋根が浮き沈みするような景観を呈していたといいます。これが「杜の都」と呼ばれるようになった由来であるというのが最も有力な説です。
仙台を「森の都」と呼ぶようになったのは明治時代後期のころからで、明治42年には仙台の観光案内書に記されています。「杜」の字を当てて書き記すようになったのはさらに遅れて第二次世界大戦後間もないころからだとみられ、また「杜」の字は「社(やしろ)」から発生したものともいわれます。
昭和45年に仙台市が「公害市民憲章」を制定したのを機に、仙台を指す場合は「杜の都」が公式表記と定められました。「杜の都・仙台」の「杜」は、山の森林を中心とする緑だけではなく、屋敷や寺社を囲む緑、人々が長い年月をかけて育ててきた豊かな緑のことです。
現代の「杜の都・仙台」の顔
第二次世界大戦時の仙台空襲で、まちの緑は焼けてなくなってしまいますが、その後の復興により「杜の都」を代表する緑は、青葉通や定禅寺通などの街路樹、青葉山公園や西公園などに代わってきました。
定禅寺通の由来は、その名のとおり「定禅寺」という真言宗の寺があったからで、かつてこの界隈は門前町でした。今はその姿を見ることができませんが、定禅寺は仙台藩祖伊達政宗公が仙台開府のとき、鬼門封じのために現在の勾当台公園のところに建立した寺で、明治時代に入り仙台藩からの保護を失うとともに廃寺(明治6年)となりました。
仙台は城下町であったため、多くの人は(仙台市民でさえ)この道が藩政時代から変わっていないのではと思いがちです。 しかし、その歴史は意外にも新しく、昭和21年の戦災復興計画の一環として整備されたもので、並木のトンネルを形成するまでに成長した定禅寺通のケヤキは、昭和33年に植えられました。幅員46m、延長0.8km、中央部の幅12mの緑地帯には遊歩道が設けられています。緑地帯と歩道の両側に植えられたケヤキは166本、高さ約16mに達しています。仙台を訪れた観光客の多くは、この通りの中央、樹木に覆われた緑のトンネル状の遊歩道をゆっくり散歩しながら杜の都・仙台の風情を全身で味わい、自分は今、間違いなく仙台に身を置いているのだと実感することでしょう。
Facebok滝沢 泰平さん投稿記事
「仙台市街には、六芒星(ダビデの星)の結界が張られている」これが発見されたのは、1993年5月のこと。
大崎八幡宮 榴岡天満宮 青葉神社 愛宕神社 仙台東照宮 仙台城本丸
結界は、伊達家由来の神社・仏閣などを中心に張り巡らされていることから、約400年前より、伊達家四代に渡って、秘密裏に進められた結界であると噂されています。
六芒星の結界は、東西南北から15度傾いて配置されており、鬼門ポイントを頂点に合わせる意図があるようです。
すべて計算された仕組みで作られた仙台の街ですが、さらにまた六芒星とは別に
「四神」の結界が張られているのが、仙台のすごいところ。
四神とは、天の四方を司どる神として知られています。
北は「玄武-げんぶ」亀に蛇が絡みついた神(黒)東は「青龍-せいりゅう」青い龍(青)
南は「朱雀-すざく」赤い鳳凰(赤)西は「白虎-びゃっこ」白い虎(白)
仙台の街は、仙台城を中心に北の玄武は「亀岡八幡宮(亀)」南の朱雀は「瑞鳳殿(鳳)」
西の白虎は「太白山(白)」東の青龍は「松島の瑞巌寺(松島青龍山瑞巖円福禅寺)」
が存在しており、六芒星のさらに外に四神による守りも張られています。
これは単なるネット上の都市伝説でもなく、今では仙台の観光名所になりつつあり、バス会社までもが、この六芒星から四神を巡るツアーを企画するほど。。。
さすがは、我が生まれ故郷の仙台。
そう、滝沢泰平は、1982年8月17日に、この仙台の六芒星の結界の中(イムス明理会仙台総合病院[旧:仙台逓信病院])にて生まれたのでした。
ユダヤの象徴的シンボルであるダビデの星(六芒星)から生まれた人間が、将来イスラエルに縁ができ、イスラエルに通い続けるのも、偶然のような必然の宿命。
「水」の漢字の頂点を結ぶと六芒星になり、六芒星と水は関係があり、そんな中、仙台の六芒星の中心には、水の神である「瀬織津姫(セオリツヒメ)」が祀られている神社があり、おまけに、その名前は「瀧澤神社」であります。
封印されし、瀬織津姫を表向きに祀っている神社は、宮城県でも3つほどしかない中、仙台では唯一の神社、その名前が瀧澤神社というのも、ほとんどギャグであり、ご存知の方はご存知のように、滝沢の聖地巡礼の旅が始まったのは、2013年6月、兵庫県にある瀬織津姫の御神体の磐座とされる「六甲比命神社」を参拝したところからであります。
もっと言えば、初めて八ヶ岳を訪れた2011年春、八ヶ岳で有名なパワースポットである大滝神社を訪れた際に、突如降臨したのが、瀬織津姫であり、すべて瀬織津姫によって動かされてきた流れですが、すでに自身のルーツからどっぷり瀬織津姫に浸かっているのでした。
だから、仙台は本当にあまりにも深い意味で、ルーツの中のルーツ。自身の魂の原点の地です。
今回、自身のルーツとも繋がる、この六芒星の結界、そして四神の結界、合計10箇所を北海道のヒーラーである鳴海周平さんと一緒にすべて巡ってきました。
にわかに観光化された聖地とは言え、1日にすべて廻ってしまうと、さすがにヘロヘロになるので、2日間に分けてゆっくりと。
それでも、身体には結構堪えるほど、いろいろな意味でエネルギーを消費しましたが、なんとかやり切った達成感はあります。
そして、六芒星と四神を巡った最後には、もちろん瀧澤神社にもご挨拶。
鳴海さんの感覚では、やはりこの瀧澤神社が、自分にとって最も反応する神社であったそうです。神様ってわかりやすいですね。
さて、大切な神事が終わったら、もっと大切な直会(なおらい)・・・。
せっかくなので、直会の会場は、六芒星のど真ん中の場所に行くと、ここに「與五郎(よごろう)ビル」というビルがあります。
この中を除くと、不思議なモニュメントが飾られているのが目に着きます。
「あっ、トッチさんの綿棒で作った立体神聖幾何学!」そう、六芒星の中心にある「與五郎(よごろう)ビル」の中には、宇宙の真理であり、この世の秘密の中心にある
「フラワーオブライフ」の立体版が祀られており、それを提供したのは、紛れもない立体神聖幾何学の申し子である、あのトッチさんであると。
と、ここのビルに入っている「与五郎(よごろう)寿司」の亭主が鳴海さんに教えてくれたようで「タッキー、トッチさんって知っている」と聞かれ「もちろん、知っているも何も、これと同じものが、僕の部屋に飾られていますよ」という始末。
さて、仙台の六芒星の中心地の秘密は、これで終わりではなく、鳴海さんがまた、とんでもないことに気づく。このフラワーオブライフが入った、六芒星の中心言われるビルの名前は、
「與五郎(よごろう)ビル」であり、ここにある寿司屋も「与五郎(よごろう)寿司」という名前。そう、感の良い方は、お気づきのように「よごろう=456」であり、立体の数秘学において、もっとも重要な数字は「5」であり、それが真ん中に来る456を名前に使うのは、あまりにも出来すぎた話。
ただ、与五郎寿司に至っては、今から100年も前に創業されており、これは創業者が知っていたのか、それとも天の計らいなのか、もはや謎は深まるばかり。と、思いきや、この与五郎寿司の前には、なんと「三吉」という名前のおでん屋さんがあります。
「おっ、三四五六」と思いきや、さらに隣のビルを見ると、なんと「七十七銀行」まで揃っています。おでん三吉(3)、与五郎寿司(456)に七十七銀行(7)。34567。
鳴海さんは、これを発見して、日月神示などに出てくる
「三四五(みよいづ)の仕組み」「五六七(みろく)の仕組み」であると解釈されました。
みよいづとみろくの仕組みとは何か。
日本最大の予言書とも言われる、自動書記で書かれた日月神示には、以下のような記述があります。
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日月神示 富士の巻~第4帖 一二三(ひふみ)の仕組みが済みたら 三四五(みよいづ)の仕組みぞと申してあったが、世の本(もと)の仕組みは三四五(みよいづ)の仕組みから
五六七(みろく)の仕組みとなるのぞ、五六七(みろく)の仕組みとは弥勒(みろく)の仕組みのことぞ、獣(けもの)と臣民(しんみん)とハッキリわかったら、それぞれの本性出すのぞ、今度は万劫末代(ばんこうまつだい)のことぞ、気の毒できるから洗濯大切と申してあるのぞ。
今度お役決まったら そのままいつまでも続くのだから、臣民(しんみん)よくこの神示(ふで)読みておいてくれよ。
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一二三(ひふみ)の仕組みは、神の世界であり、その次に、この三次元の三四五(みよいづ)の世界である今の物質社会があります。
三次元(三)の肉体を脱いだら、次に進むのは死後(四五)の世界。
そして、この三四五の世界の次にあるのが、アセンション(次元上昇)でもブームになった
「五六七(みろく)」
の世界であり、コロナ(567)がやってきた今、まさに時代は次のステージへと移り進んでいます。
仙台六芒星の中心に大胆に仕掛けられた34567の仕組みは、そのことを告げるメッセージなのでしょうか。
これまた偶然にしては出来すぎた親父ギャグならぬ、神様ギャグのオンパレード。
さらに七十七銀行の隣には、六芒星を掲げるイスラエル料理店があるから、みんな天界からこっそり降りてきてドッキリでやっているとしか思えません。
いよいよ、時代は三四五の仕組みから五六七の仕組みへ。
スピリチュアルジョーク満載の我が生まれ故郷に是非遊びにいらしてくださいね。
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