Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事 超えていけ
東寺にいますと、空海さんの事を考えたりします。
大日如来は、真言密教の本尊ですが、宇宙を司る大生命を擬人化したものです。密教の教えは、一言でいうなら「即身成仏」、宇宙との一体化のことでしょう。
長く苦しい修行をしなくても、私たちは宇宙の一部であるから大日如来となりえるというのですね。悟りとは、仏になることですが、すでに仏(大日如来)であれば、それを思い出す方法さえあればいい・・・それが真言密教においては三密加持だと思います。
※三蜜加持とは本尊を現す「印(いん)」を手で結ぶことを、「身密」。真言を、口で唱えるを「口密」。
ご本尊の姿を心(意)に思い描くことが、「意密」です。
この3つが完璧にできたとき、ご本尊と一体となることができ、その身そのままで「即身成仏」を達成することがきるという修行法。
仏を言い換えれば慈悲でしょう。よって、慈悲とは、生命を生んだ大宇宙につながります。昨年が弘法大師ご誕生1250年記念でしたが、こういう宇宙観というか生命観がそんな時代にあったことに今更驚きます。それとも、そんな時代だからこそでしょうか?
科学が迫ろうとしていることに、「真理」という側面から近づいていたのですね。
文明は、ある側面、人間の本来の感性や知覚を束縛したり、不自由なものにします。科学も長くそうでしたね。科学崇拝とか科学主義といわれたものです。男と女というふたつの性が正反対のように語れてきたことに似ている気がします。
それにしても・・・と、古にこそ、大宇宙を見て、大宇宙と語っていた人たちがいたことに憧れを抱きます。
真言とは真実の言葉というより、言葉をこえるもののこと。知など、やすやすと超えていけるのだ、軽く超えていけ。見事に飛んでいます。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
人間というのは一つの種子です そんな気がします 人間であることが 最終地点ではなく
種子が芽を出して 花が咲くように 人間は人間を 超えていくのだと 思います
人間という種子から 芽が出ると 自分自身という 不可思議への探究が 始まります
それまでは 仕事や責任や やるべきことの中に 埋没しています
それが「生きる」 ことだと信じて いるからです
でも、愛離別苦や 生老病死といった 生におけるあらゆる 不具合が その場所から
成長していくことを 促して行きます
「わたしとはなんだろう?」これが芽が出てきた瞬間です
そして、あらゆる場所を旅します あらゆる人に会い あらゆる本を読み あらゆる実践を重ねて 自己探究の旅は 終わることなく 続いて行きます
それはおそらく今生だけの話しではないでしょう^ ^
何十生にも渡って人は「自分」とは何かを探究しているように感じています
なぜなら人の一生は自己を探究するにはあまりにも短いからです^ ^
そんな長い長い探究の旅の果てにある日突然 花が咲きます
まさにこれ以上 無い完璧な タイミングで 花は咲きます
当たり前ですが その花の美しさを 種子は知るよしも ありませんでした
自分は固く閉ざされた 可能性の中を生きていると信じていた種子にとっては
花は全く違う存在の形態にしか思えないからです
では人間における 開花とはなんでしょう? それはあらゆる人が 花として咲くという
ことを知っているということです
人間はそんな閉ざされた小さな存在ではないと知っているという事です
種子が花になる事を存在で証明しているという事です
そして何よりも存在そのものが美しい^ ^
それが僕にとってのグルジであり人生で出会った忘れられない人たちです
花に説明は不要ですただそこにあるだけで十分です
花とはこんなものだと百万回聞かされるよりも一度でも花を見ればわかることです
その美しさも香りも感じるだけで十分です
そしてそれが芽吹いた種子にとって花へと飛躍する確信に変わります
今地球にたくさんの花が開花しつつあります
そして、どうやらその連鎖は止まりそうにありません^ ^
そんな風景はかつて有史以来誰も見たことがなかったでしょう
僕は今とてもワクワクしています新しい地球の予感でいっぱいだからです
花として生きましょう古い地球には稀だった花が新しい地球にはそこら中に咲き誇っているのが見えます^ ^
こんなおもしろい時代をご一緒出来て幸せです😊では皆さまも素敵な一日を🌈らぶ🌼
Facebook人の心に灯をともす投稿記事【精進をもって自分の人生を全うする】
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
生きるとは息をすることである。息をするのをやめた時、人は死ぬ。
しかし、息は人間が意思し努力してするわけではない。
人間を超えた大きな力が働いて私たちは息をしている。
心臓が休みなく鼓動しているのも同じである。
人知人力の及ぶべくもない大きな力の間断のない働き、精進によって私たちの生がここにある。
即ち生命と精進は一体なのである。
絶えざる精進のないところに生命はない。
「釈迦の人生観は精進の二字に尽きる」と言ったのは松原泰道師である。
百一歳まで求道精進に生きた人の言葉だけに心に残っている。
事実、釈迦は八十歳で亡くなるまで、熱砂の中を布教に歩いた。
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』にこう記されている。
「阿難(あなん)よ、私は老い衰えた。齢すでに八十に及ぶ。阿難よ、たとえば古い車は革紐の助けによってやっと動くことができるが、思うに、私の身は革紐の助けによってやっと動いているようなものだ」
そういう状態の自分を廃車寸前になぞらえながら、「心ある人の法は老ゆることなし」
・・・心に真理を具えている人は身体は老いても、心が老いることはない、と言っている。
「この釈尊の言葉を受け、私も一所懸命勉強している」と言っていた百歳の泰道師の声がいまも耳に残っている。
『遺教経(ゆいきょうぎょう)』のこの言葉も味わい深い。
「汝等比丘(なんじらびく)、もし勤めて精進すれば、則(すなわ)ち事として難き者なし。この故に汝等当(まさ)に勤めて精進すべし。たとえば少水の常に流れて則ち能(よ)く石を穿(うが)つが如し」
精進すれば必ず道を成就できる。
少ない水でも常に流れていれば石に穴を開けることができるようなものだ、というのである。
何度も読み返し、自分のものにしたい言葉である。
そして、臨終に際し弟子たちに語った言葉。
「では比丘たちよ、私はお前たちに告げよう。すべてのものは移りゆく。怠らず努めよ」
釈迦の人生はこの言葉に凝縮している。
私たちもまた、精進をもって自分の人生を全うしたい。
『小さな修養論5』致知出版社
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産婦人科医・医学博士、池川明氏は著書『ぼくが生まれてきたわけ』(KADOKAWA)の中でこう語っている。
『人はなぜ、生まれてくるのでしょうか?
これを子どもたちに聞くと、「人の役に立つため」、とりわけ「家族を幸せにするため」という答えが多いです。
臨死体験をされた方々の複数の証言によると、死後、閻魔様(えんまさま)の前で聞かれるのは、次の2つのことだけだとも言います。
1. 陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人の役に立ったか?)
2. 自分の人生を楽しんだか?』
精進をするとは、まさに陰徳を積むということ。
人知れず、ひそかに行う徳を積む行為。
それは、「人に親切にする」「ゴミを拾う」「人知れず掃除をする」「人のために尽くす」等々の他に、「(どんなときも)愛語で話す」「いつも笑顔で接する」「人を許す」ということもある。つまり、人の役にたつ生き方をすること。まさに、それこそが精進だ。
そして、「自分の人生を楽しんだか」ということは、どんな困難なことが起きても、愚痴や泣き言、不平不満を言わず、不機嫌にならず、その中から楽しみを見出し、楽しんだか、ということ。
つまり、どんなことが起ころうと、いつも機嫌よくしているか、ということ。
これもまた、精進。
精進をもって自分の人生を全うする…生きている限り精進する人でありたい。
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