ふたりごころ

http://www.asahi.com/area/tottori/articles/MTW20180306320540001.html 【旅立った 豪快な俳人】より

 「梅咲いて庭中(にわじゅう)に青(あお)鮫(ざめ)が来ている」

 理解を超える一枚の絵、のような俳句。この俳句の作者に会いたいと思った。14年前のこと。自宅に電話してみた。「ほう、お医者さんですか。私の父も田舎医者でした。こりゃあご縁ですな」

 俳人は鳥取市の、私たちが建てたセミナーハウス「こぶし館」に、55人目の客人としてやって来てくれた。開放的で豪快だった。講演会のあとの宴席も盛り上がった、自然に。俳人の句で一番好きなのを、皆が順に発表した。「冬眠の蝮(まむし)のほかは寝息なし」、「暗黒や関東平野に火事一つ」、「朝はじまる海へ突込む鴎(かもめ)の死」。各自違う句を心に秘めていた。「霧の村石を投(ほう)らば父母散らん」を地元の詩人。「きよお!と喚(な)いてこの汽車はゆく新緑の夜中」を地元の同人。「水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」と「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」を地元の反戦運動家が。「なるほど、なるほど」と俳人は肯き、その句の成り立ちをぐいっと飲みながら語った。聞いてぼくらも「なるほど」とぐいっと飲んだ。

 ホテルへお送りする時、「長寿の母うんこのようにわれを産みぬ」と最新作を紹介された。ずばり、高齢人への愛着と敬意を放った句に、足元をすくわれた。

 俳人の本は何冊もあった。「心と情」についての下りが目に留まった。「心」をひとりごころと読み、「情」をふたりごころと読んでいた。情がかすむ時代だ。また、足元をすくわれた。俳人は尾崎放哉のフォーラムで鳥取に招かれた帰り、ぼくらの診療所を訪ねてくれた。「日本になくてはならないユニークな人間だ」と玄関に迎えると、「you too(君もだ)」と返された。豪放な誤解だった。俳人は金子兜太さん、先日、98歳で旅立ちされた。(野の花診療所院長)


https://akomix.blog.fc2.com/?no=526 【汎心論と情(ふたりごころ)】より

汎心論。?。万物に心がある? うちの御嬢に言わせれば、かなりどうでもいいことだ。で、そんなことよりもプールに行きたいと言われた。

でも僕としては今のところプールよりも関心が高い。

現代思想6月号特集汎心論を読んだ。概ねどの論考も相変わらず人間中心主義的で、人間様が主語の話(思考実験としては面白いけど何ものをも幸せにしない)をする中で、齋藤帆奈「石のチューリングテスト 思考する物質として生きること」が一番共感できた。

<対象の文脈で世界を見ようとすることと、単に見いだすことはどの様に区別したらよいのだろうか。>という魅力的な疑問。

<対象について熟知しなくてはならない。対象について熟知した結果、わたしたち自身の構造が変化する。そこで獲得できた文脈を用いて、その文脈から外れた状況を誘う必要がある。>というのは一つのヒントになると思った(*1)。

そして、ごく控えめに記された最後のパラグラフ「あらゆる存在を招き入れるために」が印象的。

<いわゆる原始的な生物や、物質に能動性を認めるような発言がなされたとき、「単に人間が見出しているにすぎない」と反省を促すことは可能だろう。しかしそのとき、暗黙の前提としての私たち自身をさす言葉としての「人間」とそうでないモノたちの間の線は、顧みられることがない。「私たちでないモノもまた世界を解釈している」という考えは、「私たち」の境界線をその都度引き直す余白を許す。あらゆる存在を招き入れる可能性をはらむ余白は、他者と共に生き続けることや、新たな作品の制作、また科学的な発見に必然的に含まれるものではないだろうか。>

齋藤帆奈さんが言う「私たちでないモノもまた世界を解釈している」という考えは、金子兜太の「情(ふたりごころ)」に重なり、豊かな世界と触れ合う幸せにつながっている。

僕はいわゆるスピリチュアリズムとかオカルトはまったく信じない。もちろん哲学は科学との連続性の中にあると考える立場だ。

そういう立場に居ながら汎心論に関心がある。

関心があるというか、俳句をやるようになって、むしろいっつも触れていること。

兜太先生から学んだ「ふたりごころ」(とか「生きもの感覚」とか「詩は肉体」とか)につながることであり、俳句を詠んだり読んだりすることに大いに関係する。

金子兜太の「情(ふたりごころ)」とは、相手を思いやり、それと交わり向かうこころのこと。『三冊子』の芭蕉の教えにある「情」だ。「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし…松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のありしも私意をはなれよといふ事也。此習へといふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云ふは、物に入りてその微の顕れて情感ずるや、句となる所也。たとへ物あらはに云ひ出でても、そのものより自然に出づる情にあらざれば、物と我二つになりて其の情誠にいたらず。私意のなす作意也。」 この「情」を金子兜太は「ふたりごころ」と読む(*2)。

そしてこの「情(ふたりごころ)」は、俳句に限らず「そのまま再現するのではなく、見えるようにすること(クレー)」であり「質的差異の啓示(プルースト)」でもある。あるいはライブハウスで奏者と観客が一体になって感じる「グルーブ」感や「離見の見(世阿弥)」にも通じるものだろう。

ありありと感じるリアリティ、感動の質感、を表現するということは、頭で考えるというよりも、世界の一部分として世界と接している/浸かっている身体から思わずこぼれ出るものだ。僕は未熟者なので未だ身体のコンディションをうまくコントロールできないでいるが、汎心論の特集には何かそうしたことと関連するヒントがあるかもしれないと期待して読んでみたのだった。

さて、例えば「小川の水の流れと川底の小石と揺れる水草の関係」をイメージしてほしい。この時、「水」と「小石」と「水草」の関係は対等だ。たとえ「小石」が「人間」に置き換わってもその対等性は何ら変わらない、というのが「情(ふたりごころ)」の態度であり自然主義哲学の態度だ。ところが「小川の水の流れと川底の人間と揺れる水草の関係」となると、人間を特別扱いしないではいられないひとが出てくる。私は小石じゃない、自分の意志でよりよく生きる、と。

意識とか心が「人間にとって」どのように発生するかについては、脳神経や人工知能などの研究の中でそのうちもっとうまく説明されるだろうと思っている(*3)。「人間にとって」ではなくて、汎く「心」とは何か。「心」と言うからわかりずらいんだと僕は思う。「心」とは関係性の中で生じる相互作用、及ぼし合うこと、相互影響や相互変化のようなもので、「対象同士がお互いに解釈をしあうという世界観(齋藤帆奈)」、ドゥルーズなら「力」と言い、芭蕉や兜太(一茶も)が「情」と言うもの。あるいは、そのもの自体が独立した実体を持たず他に依存している現象を般若心経では「空」と呼び、すべてのものの本来の存在の仕方であり究極のもののありようとしているが、「心」とは「空」である、とも言えるような気がする。

(*1)さらっとシンプルに言うけど、ここでいう熟知とは自分の文脈で理解することではない。わたしたち自身の構造が変化して獲得する文脈って、その営みがアートだろう。では文芸や音楽においては、変化したあとの身体が繰り出す言葉や音ってことだろうか。それって時間をかければできることでもない気がする。ref 「詩は肉体(兜太)」「直観とは差異の享楽である(ドゥルーズ)」「not perform but reveal(K.Yost)」「感性というものは、誰にでも、瞬間的にわき起こるもの(岡本太郎)」

(*2)兜太にとっての「情(ふたりごころ)」は、もっと前の造型俳句論の時に既に感得しているもので当時は「意識に堆積されてくるもの=現実」と表している。

「素材や作者内心の風景だけを現実と見るのではなく、「感覚を通して自分の環境と客観的存在としての自分との両方に接しつつ、意識に堆積されてくるもの」を「現実」として尊重し、これを表現するのが現代俳句の新しい在り方だという。(栗山理一『俳諧史』)」

参考  兜太ナイト#2メモ

(*3)例えば齋藤帆奈参の論考にも引用されている「神経系の行動制御機構/行動制御ネットワーク(森山徹)」が複雑になったようなものを「意志」と思い込んでも構わないが、全体としては人間も何ら特権的ではなくダンゴムシ同様に自然の一部として生かされている、と言う感覚のほうが地球にも優しく平和だと思う。

参考 ダンゴムシに心はあるか?

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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