雲の上の景色

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/17369966/  【松尾芭蕉の「かるみ」の心境で生きる】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/32256476/ 【「螺旋の思考」(1/2)——ミクロ/マクロ、生命そして宇宙のつながり】


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雲の上の景色を見ると宇宙観のような、俯瞰して地球や人類の存在について考えてしまう


Facebook麻果 葉さん投稿記事

昨日の夕刻わずかな時間 異様なまでに外全体がが赤くなり何か不穏を感じ思わず外に出た。

数日空模様が乱れっぱなしなので心が空と共振している。

いつもは見えないものが見えて来るこの時をたのしむチャンス

不安や後悔、ねばならないの重たい感情自分に向けられるものも、他者に向けられるものも同じ。空模様のように移り変わる心は今、この時しか味わえない

けれどその雲の上には絶対的に澄み渡る不動の青空 俯瞰している、青空の視点は

良い悪いなどでは分けることができない

調和のタマの世界 だから 今、感じることを恐れずに とことん感じ切る

だって晴れたら、雲があったことなどすっかり忘れてしまうのだから。

水の粒は見えずとも、変わらずそこに在るのだけれどね

そして晴れが続けば今度は雨が欲しくなる😆それが生身で生きているということ


Facebook澤村 洋二さん投稿記事

〇ブックカバーチャレンジイベント、三日目

『意識と本質~精神的東洋を索めて』井筒俊彦(1980年)

井筒俊彦(1914~1993)は、言語学者・イスラーム学者・東洋思想研究者・神秘哲学者・慶応大学名誉教授であり、30以上の言語を操る語学の天才、欧米で高く評価されている掛け値なしの知の巨人であり大碩学だ。

西田幾多郎・鈴木大拙・和辻哲郎に続く独創的な東洋哲学を構築した偉人だと評価されているが、渉猟する範囲はけた違いでギリシア哲学・ギリシア神秘主義、イスラムスーフィズム、ヒンドゥー教、大乗仏教(禅・華厳経・密教)、道教、老荘思想、儒教、ユダヤ教、スコラ哲学に及んでいる。

本書は井筒の全生涯の精神的営為を総合し、東洋哲学の諸伝統を時間軸からはずし、「構造的に包み込む一つの思想的連関空間」探求したと井筒は述べ、東洋哲学全体の思想カタログという様相を呈している。

通例、時間軸に従い哲学の発展史が語られるが、井筒は若い時代にシュールレアリズム(詩人アンドレ・ブルトンが主導する超現実主義)の洗礼を受けた。シュールレアリズムは芸術を進化論的な歴史的発展史としてみるのではなく、全ての芸術を共時的(時間軸を外し、同列に)に価値づけたのだ。つまり、原始美術もルネサンス美術も近代芸術も同価値の物として並列的に俯瞰した流れを井筒は引き継いでいる。

なおかつ、井筒は東洋哲学と称しながら、西洋文明に属する人々の精神的営為も取り上げられている。サルトル、リルケ、マラルメ、松尾芭蕉、本居宣長、老子、荘子、朱子、宋学の儒者、スフラワルディー、イブン・アラビーなどのイスラームの神秘哲学者、僧肇、道元、青原惟信、空海、ユダヤ教神秘主義、古代ギリシア哲学、インド古代哲学の哲人たちに及んでいる。

井筒によれば、我々、日本人は明治維新以来、東洋文明の母体に西洋文明が骨肉化され、生ける東西比較思想だとしているからだ。

本書の難解さは、西洋哲学・文学との比較において、極東。中近東という広大なアジア圏に展開された複雑多岐に錯綜する哲学思惟の伝統を共通構造の名の元に通観するという井筒の破天荒な知的冒険に、我々、凡俗が随伴し得る膨大な知識在庫を持ち合わせていないことにある。

 我々、表層的現実に生きる人間は、この現実世界の確かさを信じ、現実世界の中での位置の上下にあくせくするのに終止し、今回のコロナ禍では、確かである筈の日常世界が不確かな不条理世界に変質したのに右往左往している。だが、世界の真実は見方を変えれば、不条理ではないだろうか?誰でも襲ってくる死という不条理は避けがたい。我々は、条理と不条理の間で揺れ動き、大騒ぎする存在だが、井筒は、不条理の深層構造が世界の根幹であるのを見続けた人間かも知れない。

 その井筒の特異で哲学的な心性を決定づけたのは、少年の頃の異質な経験が原点となったのだろう。

『神秘哲学』井筒俊彦

「瞑想の核心部分の構造」

<私(井筒俊彦)はこの父から彼独特の内観法を教わった。というよりもむしろ無理やりに教え込まれた。

 彼の方法というのは、必ず墨痕淋漓たる『心』の一字を書き与え、一定の時間を限って来る日も来る日もそれを凝視させ、やがて機熟すと見るやその紙片を破棄し、「紙上に書かれた文字ではなく汝の心中に書かれた文字を視よ、二十四時の間一瞬も休みなくそれを凝視して念慮の散乱を一点に集定せよ」と命じ、さらに時を経て、「汝の心中に書かれた文字をもてあますところなく掃蕩し尽くせ。『心』の文字ではなく文字の背後に汝自身の生ける『心』を見よ」と命じ、なお一歩進めると、「汝の心をも見るな、内外一切の錯乱を去ってひたすら無・心に帰没せよ。無に入って無をも見るな」といった具合であった。

しかしながら私(井筒俊彦)は同時に、かかる内観の道上の進歩は直ちに日常的生活の分野に内的自由の撥露すべきものであって、修道の途次にある間はもとより、たとい道の道奥を窮めた後といえどもこれに知的詮索を加えることは恐るべき邪解であると教えられた。

西欧の神秘家達は私にこれ(父親の説く徹底的に思索を否定する修道)と全く反対の事実を教えた。そして、特にギリシアの哲人達が、彼らの哲学の底に、彼らの哲学的思惟の根源として、まさしくvita comtemplativaの脱自的体験を予想していることを知ったとき、私の驚きと感激はいかばかりであったろう。私は、こうして私のギリシアを発見した。>

この内観法は、観無量寿経典の眼を閉じても開いていても目に焼き付けた太陽を幻視するという観想の技法と、密教の阿字観瞑想(阿という字を瞑想する技法)、禅の無の瞑想をミックスした技法だと想像される。父に強要された修道は、少年の井筒にとって、苦痛で、とても内的自由への道だとは思えなかった。だが、長じて、父が禁じた概念的思索の塊である筈のギリシア哲学の中に、少年の頃に叩きこまれた内観法と同様の恍惚とした自己を越える体験が潜んでいるのを知り、ギリシア哲学に開眼したと述べている。

 そうであれば、井筒を真に理解するためには、この内観法によって無の境地に習熟した人間でなければならないことになる。ここが、我々、表層世界の住人にとって井筒が余人の立ち入り難い高峰だという最大の理由かもしれない。それに加え、ギリシア神秘哲学と禅の無が同質だとする考え方、想い方の力業が難解であり、独特の魅力なのかも知れない。

 無理無理、理解しようとする若年の日々はとっくに過ぎたが、錯綜した大密林、逆巻く深海のような本書は。捨てられもせず、本棚の隅に居座わり、たまに香気に耽溺する時間を今も過ごしている。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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