イマジン

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ジョン・レノンのイマジン(Imagine / John lennon)という曲をご存知でしょうか。

世界的大ヒットを記録した曲です。

もし、知らないという方がおいででしたら、下に動画を貼っておきますので、是非お聴きになってみてください。とても良い曲です。

この曲を歌ったジョン・レノンは、英国のビートルズのメンバーで、ボーカル・ギターを担当した人です。

彼は、日本人のオノ・ヨーコと結婚しました。

それでお名前をジョン・ウィンストン・小野・レノンと改名しています。

自分の名前に「小野」と入れたわけです。それだけ日本びいきの人でした。日本には、非公式によく来日しました。そしてオノ・ヨーコの親戚らと食事をしに行ったり、神社めぐりなどをして、日本の文化にたいへんよく親しみました。

下の写真は、ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと一緒に、靖国神社を参拝したときのものです。

その彼が、日本という文化に触れ、日本の神道を知ったとき、その衝撃から書いた曲が、実は「イマジン(Imagine)」です。


http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1936.html【ジョン・レノンのイマジンと日本人】より

「イマジン(Imagine)」は古い曲ですが、あらためて歌詞の日本語訳を読んでみると、若い頃には気付かなかった、そこに明快なメッセージがあります。

なんと日本神道の思考、日本人的思考が、その歌詞の根幹になっているのです。

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イマジン(Imagine)

Imagine there's no Heaven(想像してごらん 天国なんてないよ)

It's easy if you try(簡単だよ。やってごらんよ)

No Hell below us(地面の下に地獄なんてないよ)

Above us only sky(ボクたちの上には、ただ空があるだけさ)

Imagine all the people(みんなもさ、想像してごらんよ)

Living for today...(ただ今を生きているんだって..)

Imagine there's no countries(想像してごらん 国なんてないって)

It isn't hard to do(そんなに難しいことじゃないよ)

Nothing to kill or die for(殺す理由も、死ぬ理由もない)

And no religion too(そして宗教もない)

Imagine all the people(みんなもさ、想像してごらんよ)

Living life in peace(ただ平和に生きているって...)

You may say I'm a dreamer(ボクのことを夢想家って思うかな)

But I'm not the only one(でもボクは一人じゃない)

I hope someday you'll join us(君だっていつかみんなと仲間になって)

And the world will be as one(きっと世界はひとつになるんだ)

Imagine no possessions(想像してごらん 何も所有しないって)

I wonder if you can(君ならきっと出来るよ)

No need for greed or hunger(欲張ったり飢えることもない)

A brotherhood of man(人はみんな兄弟なんだって)

Imagine all the people(想像してごらんよ みんなが)

Sharing all the world(世界を分かち合うんだって...)

You may say I'm a dreamer(ボクのことを夢想家って思うかな)

But I'm not the only one(でもボクは一人じゃない)

I hope someday you'll join us(君だっていつかみんなと仲間になって)

And the world will be as one(きっと世界はひとつになるんだ)

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夏目漱石は、小説「草枕」の中で次の名文を残しました。

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人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。

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天国も地獄もない。あるのは、いまを生きている私たちだけ。思想や哲学や宗教が大事なんじゃなくて人が大事。偉い人が金持ちというのではなくて、みんなが豊かに暮らすことが大事。

誰かひとりが欲張るんじゃなくて、みんなが分かち合える社会。みんなが兄弟となれる社会。

イマジンが歌っている歌詞は、そんな社会を夢想しています。

そして、このいずれもが、西欧社会には、なかったものです。ご存知の通り、西欧社会の根底をなすのは、キリスト教哲学です。そこには人の世の他に、天国と地獄の存在が明確にうたわれ、宗教や哲学、思想のために多くの人が殺されました。

そして富は権力者が独占し、民衆は貧しいままに据え置かれる。そういう現実を前に、日本を知ったジョンレノンは、衝撃を受けるわけです。

宗教や思想にかぶれるのではなく、人々が協力しあうことをたいせつにする社会。

思想のために人を殺す社会じゃなくて、なにより人をたいせつにする社会。

欲張りのお金持ちがすべてを牛じるのではなくて、老いも若きも金持ちも貧乏人も、みんなが協力しあうことで、なによりも、みんなが食べていくことを大切にする社会。

それがかつての日本社会の姿です。

昨今の日本は、西欧文化の影響を受けて、だいぶ、こうした姿が崩れました。

けれど、江戸時代の日本は、まさに、こういう姿そのものでした。

宗教についていえば、日本でも浄土宗のように、極楽や地獄をうたっている宗派もあるじゃないかという人がいるかもしれません。

けれどそれは、そういう場所が死後の世界にある、というくらいのものであって、そこが本来の住みかであるとまでは説きません。

このあたり、西洋の中世にあった宗教観は、かなり徹底したものです。そこを理解しないと、ちょっと間違えやすい。

たとえば、肉体というものは、様々な欲望(性欲や食欲、排泄欲)などを持っていて穢れたものだから、そんな穢れた肉体を洗ったりしたらいけない。だからたとえばスペインのイザベラ女王は、生涯に三度しか入浴しなかったことが、信仰の証として自慢でした。

すくなくとも日本では、極楽にいるのが自分の本来の姿だから、風呂には一切入りませんなどという人は、修行僧の中にもいません。そんなことをするのは、最近のホームレスくらいなものです。なぜなら昔、ホームレスが乞食と呼ばれた時代は、全国どこの川でも入って行水できたからです。

日本の乞食が臭くなったのは、戦後、川が汚れて泳げなくなってからのことです。

支配層よりも、被支配層の方が豊かだったというのも、日本社会の特徴です。

早い話が、歌舞伎の舞台は、世界で一番豪華絢爛だと言われますが、その歌舞伎は、町人文化です。おもしろいことに、そこで描かれている演題の多くも、町人たちです。

これに対し、西欧の演劇やChinaの京劇などは、すべて王侯貴族のための文化です。

従って、描かれている演題も、ことごとく貴族が題材になっています。

中世までの西欧文化で、庶民が題材になったものは、ほとんどありません。

江戸日本にも、身分制はありました。士農工商です。その下に、穢多、非人というものもありました。

ただし、間違っていは行けないのは、まず第一に「士農工商」という名前は、Chinaからの輸入語だということです。

秩序保持のために便利だから使っていただけで、日本における「士農工商」は、Chinaの身分制度や、カーストのような固定的身分制度とはまるで異なります。

そもそも武家で家督を相続するのは、その時点で生き残った長子ひとりだけです。

武家は、後継ぎがいないと、家が断絶しますから、子はたくさんつくります。

けれど、兄弟のなかでひとりの相続人が決まれば、のこりは、家から出なければなりません。

では、家督を継がない次男坊、三男坊などがどうしたかというと、所領に帰って庄屋さんから土地を借りて、そこで百姓するケースがほとんどでした。

特別剣術ができるとか、学問ができれば、町道場主や私塾の先生になるケースもありましたが、そんなことができるのは、ごく一部です。あとはみんな百姓になった。

こうなるとおもしろいことがおこります。

武家は、領地を支配する人、庄屋さんは、その領主に年貢を納める人、つまり、武家と庄屋さんは支配階級と、被支配階級の関係にありますが、ところが、その庄屋さんが使っているお百姓さんたちは、武家の息子さんたちなのです。

極端な言い方をすれば、被支配層が、支配者の王子たちを人質にとっているわけです。

そして、領主様が早世すると、庄屋さんのもとにいる王子様が、領主になることだってあるのです。

はたしてこういう関係の中で、領主様は庄屋さんやお百姓さんたちに、支配者だからと酷い仕打ちができるでしょうか。

庄屋さんは、預かっている王子様をいじめれるでしょうか。

このような不思議な統治形態があるのは、世界中さがしても、日本くらいなものです。

また、身分も固定されていたわけではありません。

有名な勝海舟にしても、坂本龍馬にしても、勝家はもともと盲人の按摩(あんま)師でしたし、坂本家は商人です。ともに武家の株を買って士分になっています。

近藤勇、土方歳三、沖田総司などは、お百姓さんの家柄ですが、堂々と二本差しです。

そして江戸社会における士農工商は、それ自体が、貧乏の順番です。

さかさまにすると、お金持ちの順番になります。

商人=お金持ち  工人=宵こしの銭を持たなくても大丈夫なくらい稼ぎがある人たち

農民=お金はないが、食べ物はいっぱい持っている人たち。 武士=借金まみれです。

ここまで書いたので、穢多(えた)、非人(ひにん)についても触れておきます。

穢多というのは、穢れが多い人と書きますが、もともとは、中央を追われた物部氏の子孫だといわれています。

平家の落人のようになって、全国の山中などに隠れ住んだのですが、そのために物部(もののべ)がなまって、物の怪(もののけ)になったのだそうで、縄文以来の日本の伝統的食生活を維持したが故に、仏教に染まって生き物を食べることを穢れた行為と考える人たちによって、穢多と呼ばれるようになったという説もあります。(渡来人説その他多数あり)。

彼らは江戸時代には、主にいまでいったら保健所の仕事となっている野良犬狩りや、墓掘り人夫などをしていました。ところがこれが実は、特権階級になっていたのです。

たとえば墓堀りは、穢多にしか認められていない行為でした。

ところが、どんなお金持ちでも、高位高官でも、いつかは必ず死にます。

死ねば埋葬が必要で、そうなると、制度上、どうしても穢多のお世話にならなくちゃいけない。このとき料金は言い値です。

相場はありましたが、特に生前、穢多の人々をいじめたとか、いろいろ悶着があったりすると、これをなだめるため、相当高額な謝礼を包まなきゃいけない場合もあったようです。

要するにへそを曲げられたら、アウトというわけです。

人は、必ず死ぬわけで、ですから絶対に職にあぶれることもなく、しかもその仕事は幕府によって独占権を与えられていて、代金は言い値でつけることができたわけです。

ですから彼らは、豪商以上にお金持ちでした。

ただし、制度上、贅沢な家を建てたり、贅沢な衣装を着たりすることは禁じられていました。

ですから、家屋も着ているものもみすぼらしいし、いろいろなしきたりには縛られていたけれど、経済的には、たいへん豊かだったわけです。

穢多の人々が、同和問題などの社会問題になったのは、明治になってからのことです。

なぜなったのかといえば、明治新政府が士農工商の身分制度を取りやめにしたからです。

動物の処分業も、墓掘り人夫も、占有権をとっぱらって、身分の制限なく、誰でもできるようにしてしまったわけです。

このために、穢多の人々は、大事な稼ぎの手段を失ってしまいました。

だから行政によって別な方法で保護せよとずっと訴え続けて、現在に至っているわけです。

非人は、すこし違っていて、これは重大犯罪を犯して、おでこ(=)額に「悪」と入れ墨を施されたような人たちです。

伝馬町の牢屋の中でも、さらに悪質な重大犯たちで、この人たちは、「ひとでなし」の悪行をしてきた人たちなので、人でない人=非人と呼ばれました。

ただし、では実際に非人がどれだけいたかというと、たとえば江戸時代、享保年間の20年、伝馬町の牢屋に入った人自体がゼロです。誰もいない。

また、非人という身分に落ちるなら、まだ遠島か、死罪にしてもらいたいと考えるのが、普通で、奉行所も、非人処置をする(額に墨を入れる)ということは、江戸270年を通じて例がありません。

要は、そうするぞ、という脅しでしかなかったわけだし、そういう罰があるぞ、というだけで、江戸の庶民は、悪いことをしなかった・・・それだけ民度が高かったわけです。

話が脱線しましたが、士農工商は、身分制度ではあっても、カースト制のような熾烈なものではなく、きわめてゆるやかなものであったということ、また士農工商の身分は、そのまま貧乏順でもあったことなどをご理解いただければと思います。

そして日本でも、一部仏教などでは、欣求浄土など、天国を希求する宗派もありますが、基本的に日本人の思考は、多神教そのものです。

つまり「イワシの頭も信心から」です。

これが何を意味しているかと言うと、またこんど詳しく書きますが、要は、日本は多神教の国である、ということです。

実は、これはすごいことで、世界中、大昔の宗教は、全部、多神教です。

ギリシャのアポロンの神々、ヒンズーの神々、ケルトの神々、全部、神様はひとりじゃなくて、たくさんおいでになります。

ところが、一神教があらわれて、こうした多数の神々は邪神とされてしまいました。

その結果、いま、世界の先進国の中で、多神教となっている国は、なんと日本だけなのです。

多神教と一神教は、何が違うかといえば、多神教は、異なる神を認める。つまり多様な価値観を容認するということです。

これに対し一神教は、ひとつの価値観しか認めない。

この「認めない」というのは徹底していて、ですから西洋では、キリスト教の信者以外は、かつては人間とさえ認められませんでした。

これに対し日本は、仏教の仏様も、キリスト教のイエス様も、イスラムのアラーの神も、神道の神々も、みんなありです。

神様は、その神様毎に、さまざまな価値観をもっているわけで、ですから日本は、多様な価値観を、まるごと容認できる国になっています。

世界の宗教対立が、戦争の引き金にさえなる世界の中にあって、これから先、日本のもつこうした多様な価値観を包含できる多神教的姿勢というのは、世界を変えうる大きな力となるのではないかと思えます。

最近の日本は、こうした権力と経済力の切り離しや、多神教的な考え方がくずれてきたともいわれます。

けれど実際には、それは一部のマスコミに巣食う在日朝鮮人が、朝鮮人マインドを、メディアでゴリ押ししているだけにすぎません。

多くの日本人は、お金も大事だけれど、それ以上に、心を大切に思っています。

以前の記事の「征服の日本的意味」に書きましたが、世界中が都市国家どうしの戦乱に明け暮れた時代に、みんなが食えるようにと、村々で力を合わせて土木工事を行い、新田を切り拓いてきたのが日本人です。

下の写真は、近所の農地を撮った写真です。

近所の農地

周囲に雑木林があり、写真の中央には、見事な田んぼが、そして中央に水路が築かれています。

平野といっても、この写真の雑木林のところをみれば、すこし地面がこんもりと盛り上がっているのが見て取れようかと思います。

一方、水田は、水を引きますから、真っ平らでなければなりません。

かつて、雑木林だったこの土地に、これだけの田んぼを切り拓くためには、木を伐り、でこぼこの土地を平に慣らし、水路をひき、灌漑できるように、水門などの施設をつくらなきゃならなかったのです。

そしてそれだけの事業を、みんなで力を合わせてすることで、そこが青々とした広大な水田となり、みんなが(よそから奪ったり、殺し合ったりしなくても)腹一杯、飯が食えるようになったのです。

古代大和朝廷は、国内121カ国、朝鮮半島95カ国を征圧したと、Chinaの史書に記されていますが、要するにChinaマインドでは、それは「征服」にしかみえない。

実際には、みんなで力を合わせて公共工事をしてきたというのが、日本の歴史です。

もっといえば、武士も、もともとは古代律令体制の外に新田を切り拓いた開拓民たちです。

憲法九条のために日本があるわけではありません。

平和憲法のために日本があるわけでもない。

日本は、日本人のためにあります。

神々の存在を、私は信じたいと思います。

けれど、これだけはいえるけれど、まっとうな神々なら、人が人を殺しあったり、残酷なことをしたり、弱い者いじめをしたり、金にものをいわせて、人を嵌めたり、そういう世界は、絶対に希望していないと思うのです。

なぜ人が人を殺しあうのか。

すくなくとも、戦争や略奪ということを前提にしたとき、その理由は、飢えと思想と宗教の3つに集約されます。

であれば、飢えをなくし、ひとつの思想や宗教にこだわるのではなく、多様な価値観を吸収しながら、みんなで協力しあってみんなが食える社会を築いてきた日本の歴史こそ、これからの世界にもっとも必要かつ大切な構造といえるのではないかと思うのです。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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