https://www.haiku-hia.com/uploads/etc/hi-lights_136.pdf 【 【特別寄稿】世界はなぜ俳句を求めるのか ヘルマン・ファン=ロンパイ】より
入り組んで複雑化した今日の世界にあって、俳句は単純な特質を持っています。十七音で経験や感情を表現するので俳人は簡潔かつ明晰であることが要求されます。俳句は根源的な感覚を詠んでいるため自然や季節や人間同士の関係性などは万人に共通のもので、この点で俳句は人生そのものの詩であると言えます。近年のコンピュータ・グラフィックスやアクション映画、氾濫するホラー映画などからは遠く離れた存在で、俳句はそういったもの対するいわば解毒剤です。
この簡潔さは単に生き方というだけでなく、誠実で信頼できるものでもあります。俳句は「真実を語れなくなった」時代とは切り離されていて、「時代の流れ」に翻弄されることもありません。俳人は、喜びや愛情、悲しさ、懐かしさ、つらさなどを自ら表現したいという抑えがたい欲求を常に持っています。俳句がうまい人もそうでない人もいるでしょうが、誠実さに欠ける俳人は滅多にいません。俳句という詩もそうです。誠実さは俳句において不可欠なもので、当然ですらあります。信頼性の上にこそ、人間関係や社会の基盤が成立し得ると言ってもいいかもしれません。不誠実な場合、言い争いや仲たがい更には戦争をも引き起こしかねません。信頼こそ対話の基本であり、対話こそ平和の源泉です。信頼は歩いてやってきて馬に乗って去って行きます。これは我々の日常においても国全体においてもはっきりした事です。
俳句は、文明化という我々の病への薬でもあります。芭蕉は、人々や「移りかわる世」に対して慈しみを抱いていました。彼はまた、禅にも心を傾けていて、あらゆるものがこの世界の究極の表現であると感じていました。
俳句は自然や季節の永遠の循環性に根付いたものです。この世界に暴力や不安や不和などの不協和音が存在するとしても、自然は調和を喚起してくれます。自然を理解することで、我々はときとして自然との一体感という永劫の宇宙的感覚を体験することもあります。そんな不思議な一瞬があれば、それこそ至上の愛情のひとつの形かもしれません。我々はたいてい、観察したり共鳴したりして自然と共存しているのですが、いずれにしても、IT などの仮想世界やその住人からは遠く隔たっています。俳句はインターネットなどの媒介を通じてではなく、直接に顔から顔、目から目へ訴えかけてくれます。この点でも俳句は現代社会の性質とは異なるものですが、それにもかかわらず、ますます人気が高まりつつあるのです。
この不安と不確定の時代に世界がもっとも必要とするものは心の平安です。われわれ人間は、実はこれまで平和な環境で暮らしたことがありませんでした。暴力がいつも隅から覗いていました。それでも私たちはできるかぎり平和であろうと努力してきたのです。平安を求めるには、自然やこの世界の中で自分自身と社会との間に距離を置くことが一番でしょう。俳人は観察者なので、集中しているときでさえ客観的視点を持っています。俳人は俳句に情熱を注ぎますが、その結果としての俳句そのものはどこか超然としたところがあります。あまりに情熱的になると、平衡感覚を失い、善と悪、真実と嘘を見分ける力すら失ってしまって、世界を見失うこともあります。
デジタル世界の技術革新においては合理性を求めるあまり、不安感、無気力、不幸、怒りさらに憎しみが増大し、平穏さは忘れられるばかりです。とはいえ平穏さは感情の裏返しではありません――その逆で、デジタル世界の激昂に振り回されることがないのです。今日の世界は均衡のとれた考え方を求めています。我々自身は新たな世界の一部になろうとも、完全にはそこに組み込まれないようにすることが重要です。仏教や禁欲主義、正統的キリスト教はそうした生き方を推奨します。そして、俳句にはその精神が流れています。俳句はこのように、今日の世界とは一線を画すもので、そこから守ってくれさえします。俳句はよく「素朴」だと言われますが、我々は誠実さが信じられない世界において一層純粋になる必要があるのではないでしょうか。純粋であるとは自分の気持ちに逆らうのではなく、より高い世界への志向を表したものです。この純粋さは今日の世界を知らないという意味ではなく、もうひとつの世界への憧れの表現なのです。
日本の外での俳句の人気の高まりは偶然ではありません。俳句はこの混迷の時代へ答のひとつです。その影響力を大袈裟に言っているわけではなく、そこに目を向けることが大切です。ギリシャ・ローマの伝統では、徳の高い人は真実や善や美の追求に駆り立てられるのです。
俳句や詩一般において、詩形として揺るぎないことは重要です。俳句は事実と経験、つまり現実に基づいて作られます。その意味で俳句は単に夢想から発したものではありません。俳句における夢は日常から切り離されているのではなく、その向こう側にあるものを見つめているのです。
今日ではグローバリゼーションのおかげで、さまざまな文化の最善のものを自分の生き方や精神の規範とする事ができます。芭蕉は日本という閉じられた世界に生きましたが、この島国で展開された感情や思想は普遍的でした。
技術革新は人々が大事にしているものを世界中に伝えてくれます。私の俳句への愛情を世界に示すことができるのも早くて手軽な伝達手段のおかげです。極東とも呼ばれるアジアは、経済発展のみならず文化的刺激に満ちています。もう五年前のことですが、私が大統領(EU理事会議長)在職中にEUがノーベル平和賞を受賞したとき、ある人から受賞記念の俳句を書いてほしいと頼まれました。
戦争から平和へ/古くからの望み―/ノーベルの夢
さらに平和への私の思いも付け加えました。
陽を海を/星を見るもの/和を愛す
そして日本とEUの友好についての句です。
友情という奇跡/同じ空に/日は昇り星光る
(和訳 木村聡雄)
「現代俳句」2017年11月号(現代俳句協会創立70周年記念特大号)より転載
https://www.tokyo-np.co.jp/article/190268 【EU初代大統領が「平和の俳句」 ウクライナに寄り添い「調和」の思い込め】より
欧州連合(EU)初代大統領で、俳句愛好者として知られるヘルマン・ファンロンパイ元ベルギー首相(74)が来日し、ロシアの侵攻を受けるウクライナに寄り添った英語の俳句を本紙に寄せた。政治家や俳人としての信念である「調和」を破った侵略者への憤りと、平和への願いが込められている。(林啓太)
太陽の光がきらめく麦畑。辺りには、戦争による「非業の死」がちりばめられている。ファンロンパイ氏は俳句で、生命力あふれる情景に戦争のむごさを重ねた。青空と麦畑は、国旗の基になったともされるウクライナの原風景だ。
英語の原文にある「Hungry(飢え)」に、ファンロンパイ氏は「2つの意味を込めた」と説く。平和への飢えと、地球規模の食の飢えだ。ウクライナは世界有数の小麦輸出国だが、戦争により輸出量が激減。「アフリカでは小麦の供給が足りず飢饉ききんが広がる恐れもある」と危ぶむ。
本紙の取材に「句作の根底には、調和を求める思いがある」と語るファンロンパイ氏=11日、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮で
2009~14年にEU大統領として努めてきたのは、国同士の「調和」だ。ギリシャを発端に09年から数年にわたった欧州債務危機では、加盟国の利害調整に奔走。EUが12年にノーベル平和賞を授与された時は受賞演説をした。
調和の精神は、04年ごろから英語やオランダ語などで始めた俳句でも表現。本紙企画「平和の俳句」に賛同し、15年に<陽ひを海を星を見る者和を愛す>を寄せた。「平和の俳句」について「報道機関には責任がある。戦争に向かうことの影響を人々に伝えなければならない」と激励する。
ロシア軍がウクライナ市民を虐殺したという現地からの報道は、人類の進歩に疑いを突き付けた。ファンロンパイ氏は「たいていの人間の本性は善良だ。虐殺を繰り返させないことが歴史から学ぶべき教訓」と強調。「俳人は静かに注意深く対象を見つめる。平和はそんな態度を通じてこそ実現される」と力を込める。
ファンロンパイ氏は11日、神奈川県鎌倉市で俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の総会に出席。12日に東京大でロシアのウクライナ侵攻をテーマに講演した。
ヘルマン・ファンロンパイ氏 1947年、ベルギー生まれ。同国下院議長、首相を歴任。2013年に正岡子規が生まれた松山市の特別名誉市民。15年に「日EU俳句交流大使」を委嘱され、旭日大綬章を受章。
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