② 維新の殿様・五島

https://tokotokotorikura.com/%e6%82%aa%e5%90%8d%e9%ab%98%e3%81%84%e4%b8%89%e5%b9%b4%e5%a5%89%e5%85%ac%e5%88%b6%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%80%90%e7%b6%ad%e6%96%b0%e3%81%ae%e6%ae%bf%e6%a7%98%e3%83%bb%e4%ba%94%e5%b3%b6%ef%bc%88%e7%a6%8f/ 【悪名高い三年奉公制導入【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㉛】】より

前回みたように、五島では、夫銀を徴収するために他藩で類をみない人別把握体制が確立しました。

藩収入確保のために農漁民を犠牲にした領国経済体制が出来上がったのです。

それでも、藩が負った莫大な借金が返せるあては全くありません。

今回は、五島の農漁村は疲弊して人がいなくなってしまいかねない危機の中、五島藩が導入した稀代の悪政「三年奉公制」についてみてみましょう。

五島盛道(もりみち・1711~1780)

享保13年(1728)に父盛佳の隠居により、18歳で襲封した盛道の時代には、さらに農漁民からの収奪が徹底的に強化されます。

延享4年(1747)には御用銀不足のために、またまた地元商人たちに献銀を求めました。

これに応じて、銀二貫匁を献銀した福江佐野屋には嵯峨島のムロアジ網代が与えられた結果、佐野屋は嵯峨島の一手浦主となって島の漁業権を掌握したのです。

おなじく有川村の江口家も献銀により夏のマグロ網代権を得るなど、漁民の網代、漁業権はほとんどが商業資本家のものとなっていきました。

こうして漁民が「日雇い化」して困窮が進んでいくことになったのはいうまでもありません。

またまた借金

さらにそこに宝暦6~7年(1756~57)の大凶作が追い打ちをかけます。

このときに藩は幕府から二千両を借りるのですが、その返済は藩ではなく農民が行うというとんでもない政策を行ったのでした。

こうして生活が行き詰った農漁民は、重すぎる年貢を納めるために、労働可能な家族を奉公に出して、その給金に頼らざる得なくなりました。

こうして、五島ではいっきに奉公人が増えて、「奉公人だらけ」となってしまいます。

稀代の悪政「三年奉公制」

この事態に、生活救済策を制度化する必要に迫られた藩が打ち出したのが宝暦11年(1761)に出された「三年奉公制」です。

当初は二度にわたって離婚した女性を藩士の家に奉公させるという制度でした。

しかも奉公の3年間に不調法があって暇を出されたものは生涯結婚できないとする、現在からみると明らかに人権問題になる内容を含む掟だったのです。

2年後にはこの制度を改めて、農民・町人・漁民の娘は、長女を除き15歳になると上級家臣や有力町民の家で3年間奉公を命じられる内容となります。

改正されても奉公期間中に万一不調法があったら一生結婚できないという掟は残されましたので、奉公に出された娘たちは抱主、つまり奉公先の主人に奴隷的ともいえる絶対的服従を強いられたのです。

繰り返される悲劇

こうして娘たちは、無給での過酷な労働を強いられるのはもちろん、抱主の愛妾とされるケースも多く、私生児を生む悲劇もあとを絶たなかったといいます。

「三年奉公制」導入のねらい

ではなぜ五島藩はこのような「人身売買政策」(『藩史大事典』)をとったのでしょうか?

それは、制度化することで、奉公に出された娘たちが得るわずかな給金を実家に送付させて農漁民の収入を増やすことが最大の目的だったといわれています。

藩の収入不足を、奉公に出された娘たちのわずかばかりの給金で埋め合わせしようという政策に、なんとも悲しい気分になるのは私だけでしょうか。

あるいは商人たちからの献銀を促したり、長年続く家臣たちからの上知分への補填として行われたのでは、との疑いもぬぐえません。

シワ寄せはすべて領民へ

まさに「三年奉公制」は他藩にも類をみない悪政で、農漁民たちをさらに犠牲にすることで藩財政を一時的にでも改善させようと目論んだ政策だったのです。

そして、この極悪制度は明治に至るまでおよそ100年にわたって残されて、領民を苦しめ続けることになりました。

今回は、五島藩が取った悪名高い「三年奉公制」についてみてきました。

五島藩の農漁村にたいする収奪も極まった感じですが、それでも領民たちは耐え忍んで暮らしていきます。

どうして領民たちは藩の激しい収奪に耐えることができたのでしょうか。

次回は、その理由の一つ、隠れキリシタンについてみていきましょう。


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前回は、五島藩が取った悪名高い「三年奉公制」についてみてきました。

五島藩の農漁村にたいする収奪も極まった感じですが、どうして領民たちは藩の激しい収奪に耐えることができたのでしょうか。

今回は、その理由の一つ、隠れキリシタンについてみていきましょう。

五島盛運(もりゆき・1753~1809)

明和6年(1769)12月20日に藩主盛道が隠居すると、弱冠17歳の盛運が襲封します。

さっそく盛運は藩政改革に着手し、緊縮財政令、上知令、さらに殖産政策を打ち出していきました。

藩政改革の柱はもちろん税の増収ですので、大村藩からの百姓移住策をすすめるとともに、人別改めによる荒廃地の回復をめざします。

こうして領民把握を行いつつ、不正役人の摘発などを行って、綱紀の粛正もおこないました。

しかし天明2年(1782)から天明の飢饉が発生すると、逆に藩の財政は領民救済により悪化してしまいました。

そこで宇久山田茂右衛門から借金する代わりに蔵元寄合席につけるなど、商人が藩政の重要ポストに就くまでになったのです。

義倉の設立

こうして五島の農漁民の生活はどん底の様相を呈するまでになって、ついに寛政9年(1797)に五島で初めての一揆が起こりました。

この一揆は藩に強烈なインパクトを与えて、さっそく青方繁治の献策によって、寛政12年(1800)には義倉の備蓄制度をつくって凶作に備えたのです。

隠れキリシタンの来島

江戸時代の初めから、手ひどい飢饉が上方を襲ったおりには、京・摂津の流民を京都所司代に請うて五島に移住させて、土地を与えて田畑を開かせるといった移住策を行ってきました。(『海の国の記憶』)

そして前述の大村藩からの移住政策をとったのですが、どうして生活環境が厳しい五島へと移り住んだのでしょうか。

もちろん、藩が税制での優遇策をとったこともありましたが、表に出せない別の理由もあったのです。

信仰を守る

じつは、このとき五島へ移ったのは大村領外海、現在の長崎県西彼杵郡地域の百姓で、その大半が隠れキリシタンでした。

もちろん、大村領でも五島領でもキリスト教は禁教でしたので、表に出すわけにはいきません。

そこで移住者たちは、周囲と隔絶した場所を選んで村をつくったり、周囲の村々とのかかわりを避けるなどして信仰が露見することを防いだのです。

つまり、彼らは自分たちの信仰を守るために移住という手段を選んだのでした。

この人たちが密かに明治時代まで進行を守り続けて、現在も残る教会群を建立した五島のキリシタンの先祖となったのです。(第39回「五島崩れ」参照)

今回は、五島に隠れキリシタンたちが移り住んできたところをみてきました。

次回は、五島藩に風雲急を告げることになるフェートン号事件についてみてみましょう。


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前回は、五島に隠れキリシタンたちが移り住んできたところをみてきました。

今回は、五島藩に風雲急を告げることになるフェートン号事件についてみてみましょう。

フェ―トン号事件勃発

フェートン号事件とは、文化5年(1808)8月15日イギリス軍艦フェートン号が長崎港に突如侵入した事件です。

オランダ商船を捕獲する目的で、東インド総督ミント―の政策を受けて、イギリスの船舶であるにもかかわらず、オランダ国旗を掲げてオランダ船を偽装して入港したうえ、艦長のペリュー大佐はオランダ商館員を逮捕、さらに長崎奉行に飲料水と薪、食料を要求しました。

【フェートン号(Wikipediaより)】

事件の背景

この事件、じつはヨーロッパがナポレオン戦争の真っただ中だったことが根底にあるのです。

当時、オランダ本国がイギリスと戦争状態にあったナポレオン率いるフランスの占領下にあったため、フランス傘下に入ったオランダとも戦争状態になっていました。

そこでイギリスは、オランダが東南アジアに持っていた植民地を占領し、東洋でオランダの残る拠点は長崎の出島だけという状況になっていたのです。

そのため、フェートン号はバタビアから長崎へと向かうオランダ船を攻撃することを目指していました。

ところが、長崎港内にオランダ船が不在であることを確認すると、出迎えたオランダ商館員を捕らえたうえ、なんと長崎奉行所に自分たちの要求を入れなければ長崎に停泊中の日本船や中国船を焼き払うと脅迫してきたのです。

事件の解決と影響

長崎奉行はこの要求をいれて、燃料と食料を供給することと引替えに、拘束されたオランダ人を釈放・返還させると、フェートン号は退去して長崎で戦闘が起こる事態は避けられました。

しかし、その責任を取って、長崎奉行松平康英は即座に自決します。

また、当時長崎の警備を担当であった佐賀藩も責任を問われて、家老深掘豊前などが自刃したうえ、藩主鍋島斉正(なりまさ)も閉門100日間の処分を受けました。

事件の余波

事件は、フェートン号の脅迫に屈さざるを得なかったという点で、日本の海岸防備が力不足であることをはっきりと示す結果となりました。

ですので、蘭学者で奉行所鉄砲方・高島秋帆らはこの事件をきっかけに戒告の必要性を上申しましたが、入れられることはありませんでした。

また、事件に先立つ文化元年(1804)ロシア船が開港を求めて長崎に来航したこともありましたので、フェートン号事件が起こると、幕府や西国諸藩で海防意識が一気に強まったのです。

これをうけて、幕府は文政8年(1825)に異国船打払令を出して鎖国と海防強化を出すことになりました。

五島における事件の影響

フェートン号事件から海防意識が高まったことで、幕府から長崎への航路上にある五島藩にも海岸防備の強化を命じられました。

この状況をうけて、五島藩も防備体制を整備するとともに、兵術訓練を強化します。

また、藩内でもフェートン号事件が起こると攘夷思想が強まって、ついには石田城築城の準備をはじめるとともに、幕府に築城許可を求めたのです。

しかし、その直後の文化6年(1809)5月に藩主盛運が亡くなってしまい、いったん石田城築城は諦めざるを得なくなったのでした。(以上『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』)

今回は、フェートン号事件を受けて、海防意識が高まり、五島藩にも海岸防備強化が命じらるまでをみてきました。

そもそも、海岸防備のためにはその基礎となる正確な地図が必要となりますが、日本にはそのような地図がなかったため、あらたに作成する必要がでてきたのです。

次回は、こうした状況で新たな日本地図を作るために来島した伊能忠敬についてみてみましょう。

《フェートン号事件については、『日英交通史之研究』『維新前史の研究』『ヅーフと日本』に基づいて記事を作成しています。》


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前回みたように、フェートン号事件を受けて、海防意識が高まり、五島藩にも海岸防備強化が命じられました。

その手はじめとして、海岸防備のもととなる正確な地図を新たに作成する必要がでてきたのです。

今回は、新たな日本地図を作るために来島した伊能忠敬についてみてみましょう。

伊能忠敬

伊能忠敬(1745~1818)は、初めて測量による日本地図を作製した測量家・地理学者です。

養家の家運を回復させたのち、50歳で隠居してから、自分の好きだった天文学・暦学と測量を高橋至時に学びました。

この忠敬が、幕府の許可を得て、寛政12年(1800)に江戸から東北や蝦夷地の測量を行って子午線を測定し、略地図を幕府に呈上しました。

これが幕府の期待に応える測量成績と地図作製でしたので、幕府内での評価が大いに高まって、幕府は日本地図作製を命じます。

このため、日本全国の測量を目指して18年間にわたって日本中をまわり、各種の日本地図を作製したのです。

そして、幕府の要請を受けて文化6年(1809)に作成した日本地図の補完を目指して測量を開始します。

五島の忠敬

忠敬が幕命により五島を訪れたのは文化10年(1810)、69歳の時でした。

じつは、ときの藩主五島盛繁は、海岸防備のためには、まずは正確に海岸線を把握する必要があると考えて、文化9年(1809)6月に目付藤原平吉を測量方用係に任命して海岸線の測量を行っていました。

ですので、幕府から伊能忠敬が派遣されると、藩船五社丸を提供して忠敬を全面的に支援したのです。(『日本地名大辞典』)

忠敬は、前年には九州各地を測量して肥前国賤津浦で越年し、残りの九州測量を行っている途中での来島でした。

壱岐と対馬を測量したのちに、対馬府中から宇久島に5月23日到着して測量を行ったあと、小値嘉島にわたって測量を実施します。

5月29日には測量隊を今泉、尾形、箱田などの隊員を副隊長坂部が率いる一隊と、忠敬率いる本隊の二手に分けて五島列島を南下、6月29日に福江島福江に到達しました。

伊能忠敬(『肖像 乙巻』野村文紹、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。

【伊能忠敬『肖像 乙巻』野村文紹、国立国会図書館デジタルコレクション】

坂部、病に倒れる

これに先立つ6月24日ころ、別動隊を率いる坂部貞兵衛が日之島で病気にかかり、福江で療養に入りました。

おそらくチフスに罹ったのではないかといわれています。

7月3日に忠敬は再びに隊を二手に分けて、自身が率いる本隊は福江島を右旋回で、別動隊は坂部の病が治るまでは今泉又兵衛が隊を率いて、福江島を左旋回で測量することにして、測量を開始しました。

ところが、7月13日に坂部の病状が急変したため、両隊とも測量を中断して福江に戻り、坂部のもとに急行しましたが、すでに坂部は危篤だったのです。

看病の甲斐なく、二日後の7月15日に坂部は福江の客舎で死去してしまいました。

坂部貞兵衛の死

坂部は、文化2年(1805)から忠敬の測量に従ってきた人物で、謹直温和な性格であるうえに、その確かな手腕と豊富な経験から忠敬の信頼もきわめて厚く、副隊長として忠敬を支えてきました。

坂部のあまりにも突然の死に忠敬の悲嘆は大きく、あまりの落胆に声が出なかったといいます。

忠敬はこの時の気持ちを、「鳥が羽翼をもがれたようだ」と記したのです。

その後、隊員を福江に集めて、7月16日に福江町芳春山宗念寺に坂部を葬りました。

そして、一週間喪に服して弔意を表すとともに、この緊急事態に対する善後策を講じます。

忠敬はまず、このまま福江島の測量を再開したのちに、坂部に代わって永井に一隊を率いさせることにしました。

じつは、この年は6月に長男景敬が年48歳で没しているうえ、江戸の暦局・高橋屋敷が火事で書籍や書類が消失と、忠敬には不幸が相次いでいたのです。

それでも彼は日本全国の測量を止めることはありませんでした。

測量再開

7月22日に福江島の測量を開始して、7月29日に終了します。

7月晦日に福江を出発して九州本地に向かう途中で忠敬・永井の二隊に分かれて平島、大島などの島嶼を測量し、8月8日に彼杵半島に至り、そのまま南進して8月17日に長崎に到着しました。

忠敬は、そのまま九州から中国地方の測量を続けて、この年は姫路で越年しています。

「日本図 西日本」(伊能忠敬 原図・高橋景保 編〔写本・部分〕文政10年(1807)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。

【「日本図 西日本」伊能忠敬 原図・高橋景保 編〔写本・部分〕文政10年(1807)国立国会図書館デジタルコレクション】

偉業達成

その後、忠敬は全国を測量中だった文政元年(1818)74歳で江戸にて死去。

忠敬は幕府の測量方になったとはいえ、測量にあたっては私財を投じておこなってきたのです。

そして忠敬の業は、門弟たちに引き継がれて、ついに文政4年(1821)『大日本沿海輿地全図』(通称「伊能図」)と『大日本沿海実測録』が完成しました。

忠敬の測量日数は3737日、測量距離はおよそ4万㎞、天体観測地点は1203に及んでいます。

忠敬の偉業にあって、その終盤で訪れた五島は、長男の死の知らせを受けただけでなく、最も信頼していた部下の坂部を失った場所として忘れることができなかったようです。

こうして海岸防備の基本となる地図が完成しました。

ところで、幕末の激動へと向かう中、五島藩は財政危機を乗り切るためにどのような手を打ったのでしょうか。

次回は、五島盛繁・盛成の二代にわたる藩政改革の行方をみてみましょう。

《今回は、『伊能忠敬』『伊能忠敬測量隊』に基づいて記事を作成しました。》


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前回は、伊能忠敬の五島訪問についてみてきました。

次回は、五島盛繁・盛成の二代にわたる藩政改革の行方をみてみましょう。

五島盛繁(もりしげ・1791~1865)

文化6年に父・盛運の急逝に伴い、15歳の盛繁が襲封し、五島家十代(宇久家二十九代)当主となりました。

このころ、中国・朝鮮・琉球船の漂着はますます増加し、新たな対策に迫られます。

そこで、まずは正確に海岸線を把握する必要があると考え、文化9年(1809)6月に目付藤原平吉を測量方用係に任命して海岸線の測量を行いました。

幕府も異国船漂着の増加という事態を重く見て、文化10年(1810)に伊能忠敬を五島に派遣したところ、藩も藩船五社丸を使って緻密に海岸線を測量させたのは前回に見たところです。

長崎の中国船(1840年ころ)メトロポリタン美術館

【長崎の中国船(1840年ころ)メトロポリタン美術館】

藩校育英館

さらに盛繁は、藩財政のひっ迫を打開するために藩政改革を断行して、能力主義の役席体制を導入します。

また、父の施策を受け継いで紙漉き、皮細工、鋳物、養蚕行を導入して殖産興業に努めました。

また、安永9年(1780)に先代藩主盛運が石田陣屋内に開設した藩校至善堂を、文政4年(1821)には規模を拡大して、名称を育英館に改称します。

さらには嘉永2年(1849)には城下小松原へと移転・拡充するとともに、学問の奨励を武士以外にまで広げたのです。

学業優秀のものについては、農工商のものでも一代に限り士族に取り立てるなどして人材発掘に努めました。

そのときの校生は、寄宿生約30人、通学生約80人を数えています。

五島盛成(Wikipediaより20210904ダウンロード)の画像。

【五島盛成(Wikipediaより) 歴代藩主の中でも屈指の教養人だったといわれています。】

五島盛成(もりあきら・1816~1890)

こうして藩政改革を行った盛繁は、その途上の文政13年(1830=天保元年)11月に隠居して盛成が襲封します。

盛成は先代藩主盛繁の藩政改革を継続して殖産興業に努めました。

しかしこのころ、五島藩の江戸・大坂での借金がおよそ銀六百貫にのぼり、そのために大坂の商業資本家たちから次第に見放されつつあったのです。

有川産物会所

そこで、天保4年(1833)藤原友衛の献策を入れて、有川産物会所の設置に踏み切ります。

それは、有川に鯨・綿・塩・酒・苧を販売する大問屋を設けて販売させて利益をあげようというもので、今風にいうと地域商社をつくろうというものでしょうか。

天保5年(1834)の開設当初はなかなかうまくいきませんでしたが、天保9年(1838)には銀55貫余りの利益を出すまでになり、成功するかにみえました。

「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎、シカゴ美術館の画像。

【「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎、シカゴ美術館】

山田蘇作事件

しかし、会計方として採用された山田蘇作が、かつて中国との密貿易を図って逃亡した指名手配中の罪人・長崎唐通事彭城清左衛門であることが発覚しました。

すると、長崎奉行から五島藩の責任が問われる事態となって、このために有川産物会所の経営が頓挫してしまいます。

藩政改革の失敗

ここに盛成の殖産興業政策は成功することなく潰えてしまったのです。

その結果、天保8年(1837)の借財は1万4,000両ちかくにまで達したのですが、藩は領内に徹底した倹約を強制するしか手がなくなってしまいました。

五島藩財政再建の最後に希望ともいえる有川物産が、山田蘇作事件で失敗に終わります。

こうして、藩財政がいよいよ崩壊の危機を迎える中で、藩主盛成は隠居し、家督を嫡男・盛德に譲ることになりました。

危機の中で藩主となった盛德は、幕末の動乱をどのように超えてゆくのでしょうか。

次回は異国船警護のために臨戦態勢に入る五島藩をみていきたいと思います。

《今回の内容は、『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』『日本地名大辞典』『藩校大事典』に依拠して執筆しました。》


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前回、危機の中で五島盛德(1840~1875)が藩主に就くまでをみてきました。

これから五島藩は、幕末の動乱をどのように超えてゆくのでしょうか。

今回は少し時代をさかのぼって、五島盛成治世下の石田城建設からみていきたいと思います。

尊王攘夷思想の高まり

話は盛徳の先代、盛成の治世にさかのぼります。

前に、フェートン号事件が起こると五島藩内でも攘夷思想が強まったことは覚えておられるでしょうか。(第33回「フェートン号事件の衝撃」)

事件の結果、異国船来航が続く中、尊王攘夷思想は藩士にとどまらず、領内全体にまで広がっていきました。

全領民総動員体制の導入

これをうけて、五島藩においても海岸防備の強化を急ぐことになるのですが、いかんせん小藩ではその対応にも限度があるのはやむを得ないところでしょう。

そこで、藩主盛成は郷士や農漁民にも防備体制に加わることを要請したのです。

弘化2年(1845)には、鎌と熊手を各自に用意させて農兵の武器としました。

さらに、嘉永元年(1848)には大浜において操練、つまり軍事訓練を行いっています。

いっぽうで、弘化3年(1846)には家臣の禄制改革を行って知行地を削減してそれを藩財政に繰り入れることで、藩財政の強化を図り、財政面からも新体制を支える仕組みを整えたのでした。

【グーグルストリートビューは、五島市の石田城跡】

石田城築造

また、嘉永2年(1849)異国船がしきりに近海を通行する状況を受けて、あらためて五島藩主盛成は石田城の築城を幕府に嘆願したのです。

前に見たとおり、五島藩は盛運が異国船防備を理由に、築城を願い出るも不許可。

さらに、盛繁が文化5年(1808)長崎でフェートン号事件が起きて海防の必要性が増したことを理由に文政3年(1820)12月に築城許可を嘆願してきましたが、この時も不許可認でした。

しかし、なんと今回は幕府から許可が下りたのです。

この時期の築城許可は極めて異例のことですが、異国船からの海岸防備は幕府も必要を痛感していましたのでしょう。

同年7月7日に幕府の許可を受けると、はやくもその一か月後の8月15日に造営を開始するというスピード対応でした。

というのも、海岸線防備の必要性を痛感したのはもちろんですが、慶長19年(1614)8月15日に居城の福江・江川城が原因不明の火災によって全焼して以来、五島藩は城を持たないままでしたから、城持ちになるのは「御家の悲願」でもあったのです。(第17回「五島盛利登場」参照)

築城工事

五島藩は、幕府から許可が出た直後の嘉永2年(1849)8月15日から築城にかかります。

そして、15年の歳月と工費2万両、人夫5万人を投入して文久3年(1863)6月に石田城が完成しました。

石田城は城の三方を海に囲まれた海城で、わが国で最も新しい、また最後となる海城でした。

この城は異国船に対する海岸防備の拠点となる城でしたので、費用の一部約1万両は幕府が貸し付けるとともに、富江領から100両と人夫のべ5,000人の援助を受けています。

石田城付近、昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M804-1-18〔部分〕)の画像。

【石田城付近、昭和23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M804-1-18〔部分〕) 堀の埋め立てがはじまっていますが、「最後の海城」にふさわしい海に囲まれた縄張りがよく残っています。】

「最後の海城」石田城

この城は、築いた場所・石田浜にちなんで石田城、あるいは町の名から福江城と呼ばれることとなります。

城は全体が三角形に近い形で、東西およそ194間、南北172間、面積およそ一万六千坪の規模を誇っていました。

城はかつて五島盛利が唐津藩主寺沢広高の設計指導で築いた石田陣屋を改築することとして、設計津山藩正木兵部、築城監督青木晋陽・藤原久与、大工は江戸の斉藤安五郎が担当しています。

城の内堀、外堀ともに全面に石垣を巡らせて、各郭の隅の要所には石火矢台が設けられるという、小藩には不釣り合いなほどの高い防御性を備えた海城です。

福江港の要塞化

築城に先立って、福江の河口では船の出入りが困難であることから、丸木を起点として防波堤を造り、その先端に常夜灯を設置するなどの港湾整備をおこなっています。

この工事は築城を円滑に進めるためとされていますが、ひょっとすると福江港の要塞化を目指していたのかもしれません。

石田城跡付近、平成26年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU20142X-C21-17〔部分〕) の画像。

【石田城跡付近、平成26年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU20142X-C21-17〔部分〕)中央の大きな建物は長崎県立五島高校で、その右隣が福江文化会館です。周囲が埋め立てられて市街地となっています。 】

今回、「最後の海城」福田城を築いて海岸防備を強化する五島藩をみてきました。

そして慶応2年(1866)に坂本龍馬が来島します。

龍馬はなぜ五島へ来たのでしょうか?

そして龍馬が見た五島はどんな姿だったのでしょうか?

次回は、龍馬来島の謎に迫っていきたいと思います。

《今回の文章は、『物語藩史』『日本地名大辞典』『海の国の記憶』に基づいて作成しています。》

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