https://kanekotohta3.livedoor.blog/archives/14362953.html 【№1「わが俳句を語る」金子兜太×村上護】より
『金子兜太』から掲載しました。春陽堂 1993年刊
古き良きものに現代を生かす
村上 先だって「海程」三十周年記念のパーティに出席させていただいたとき、舞台の横看板に「古き良きものに現代を生かす」と書いてありましたが、あれが「海程」のキャッチフレーズであり、同時に兜太先生の俳句に対する理念と考えてよろしいんでしょうか。
金子 私が「海程」の主宰になったのは今から六年ちょっと前なんですが、そのとき自分の俳句観が固まってきたものですから、それを集約してああいうかたちにして、私の主宰に踏み切ったんです。それまでは同人誌できましたから、主宰誌という以上、何か一つの考え方を示さなければいかんと思って、そういうつもりで主張したんです。
村上 普通は「古き良きものを現代に生かす」といいますね。「良きものを」と「良きものに」では、文脈上だいぶ意味が違ってきます。
金子 そう、ずいぶん違います。私が前衛といわれた昭和三十年代、古き良きものとして、五七五の定型だけを考えていた。これが貴重な伝承、つまり伝統である。私は伝統と伝承という言葉を分けて使ってきてますが、伝承のうちでも現代に生かせるものだけが伝統というわけで、五七五定型だけを伝統として、これを頼りに俳句を作り、これを愛してきました。
村上 改めてお尋ねしますが、古き良きものとは、五七五を中心とした最短詩定型を基礎としたものですね。
金子 その後に古典返りの時代が来て、私も古典を勉強しました。前衛の対極として。俳句というのは万葉集以来千四百年の歴史を持っている。その間に築いてきた文化資産というものがある。中世の俳諧の連歌というのは貴重な資産であって、そこから芭蕉も一茶も出てきたと。その意味で古き良きものを大事にしなければいかんということにはっきり気づきました。
そうすると五七五だけじゃなくて、さっきの俳諧というものも非常に大事だと、それを五七五に加えて古き良きものと総称したんです。で、それを土台にして。「古き良きもの」は大事にするけれども、私達の俳句というものをあくまでも今の日常に立って書こうとした。そうでなければ魅力がないということで、ああいうスローガンが出てきたんです。だから、あの「に」が非常に大事なんです。
村上 俳諧の特色も加味した定型の枠内に、現代の自己表現を盛りこんでいこうということでしょうか。形式としては、あくまで定型を守るという。
金子 五七五は芯です。私は本質と言っていますが。五七五が基本なんです。そして、俳諧は、ほとんど基本といえる程の属性だと思っています。大きく言えば、この二つを古き良きもの、と考えています。
村上 五音と七音を基本とした俳句の形式は、基本的には永遠に変わらないということでしょうか。
金子 それは非常に難しいですね。五七五の基本といっても、御承知のように短歌形式から連歌形式が出てきて、その発句が俳句になったわけでしょう。五七五は変わらないといっても、五七五をかこむ形式の環境はずいぶん変わっています。最初は七七がくっついていた。次に離された。その離されたうちの一番しょっぱなが俳句になった。ただ短歌と俳句というものは形式上はっきり違います。
ですから、五七五が変わらないというふうにはいえても、その環境がさまざまに変わってきているんです。したがって、五七五の受け取り方もずいぶん変わってきています。明治・大正の碧梧桐、一碧楼、それから井泉水といった自由律を考えて実行した人達、それからさらに遡れば子規が唱えた明治新派、中でも初期の高浜虚子などはかなり字余り、まあ破調といってもいいぐらいなのがある。だから、明治の頃から、すでに五七五をきちんといつまでも守っていくというよりも、五七五を基本として大事にするけれども、字を余らせるとかいうのは日常言語が変わってきているからしようがない。俳句は日常詩なんだから、という無意識の自覚があったんじゃないでしょうか。
村上 子規は『俳諧大要』の中で、「十七字にならねば十五字・十六字・十八字・十九字ないし二十二、三字一向に差し支えなし」と書いていますね。
金子 あの頃から字余り、字足らずというのが普通のことになってきたんだと思います。それを極端にしたのが自由律なんでしょう。それから、昭和になってから、口語俳句。口語でどんどん書いていかなきゃならない時代になったんだから、五七五は当然崩れるぞと。ただその場合でも、五七五はあくまでも基本としてあると私は思います。私達日本人の肉体にしみているリズムだから。だけどそれを基本にして変化していく、というふうに考えてます。
非常に平たくいえば、字余り、字足らずというのはこれから避け難いことで、今までもあったけれど、もっと増えていくだろうと。とくに囗語調が入ってきていますね。若い人や女性がよく使っていて、私なんかも使います。五七五を基本にしながら、どういう新しい定型の形になっていくかというのが、二十一世紀の課題でしょう。もっとも地球が駄目になっちゃうかもしれませんし、そうなれば俳句も何もないですが(笑)。
村上 地球絶滅の不安といえば環境破壊が話題になりますが、古き良きものの中に、季語の問題というのがあります。
金子 ことに大事な問題ですね。
村上 季語そのものが、五七五の中で占める位置というのは非常に重いですね。
金子 大きいですね。ただ、技術的な問題もさりながら、やはり俳句における季語の位置というのが、現在はっきりしてないんじやないですか。つまり。俳句は季語が必要だと、短いから含蓄の深い季語を使うという、ただそれだけの技術的な理解が多いですね。
村上 歳時記もってりゃ安心で、季語にひっぱられて作るというような。
金子 初心者指導としてはそれでいいと思うんです。でも、初心者でない人であれば、そういう認識では浅いと私は思います。私の今考えている季語観というのは、俳諧の連歌の中の発句、あれには挨拶を込めなきやいけない。そのときに季語を使えば伝わりやすい。伝わりやすいということは挨拶の心にかなうことですよね。そういう点で季語を約束にしたと思っています。
ところが、約束として季語をずっ使ってきたけれども、芭蕉はそれを手掛かりに季語というものの認識を変えていったんじゃないんでしょうか。季語を人間と自然との交流のためのキーワードにしようと考えていた、というのが私の理解です。彼は自分の内面を肥やす道として、自然との深き交流ということをとらえ、そのときに季語がキーワードになると考えたんです。だから弟子に、季題の一つも探せないような者はろくな俳諧師じゃない、って言ってるでしょう。そうやって心を豊かにするように考えていたんです。
季語の位置付けが違ってきちゃった。俳句に季語が必要だっていう形式的な考え方じゃなくて、こと俳諧をやる人間心を肥やさなければならない、心を肥やすためのキーワードとしての季語を大事にしろと、そういう認識になってきたんですね。ですから、歌枕を通じて地名を自分の体で確認しながら、地名があれば季語がなくても足りる、無季の句もあるべしという言い方をしてますね。
要するに、心を肥やすことに役立てば、それが俳句の中に詠いこまれるか詠いこまれないかは、二の次と考えていたのです。木槿の花があって、その花を通じて自然との交流ができて、それで心が豊かになれば、その木槿の花を使わなくても同じ内容の句、自分の心を映した句ができてくるわけです。無季の言葉だって大丈夫なんです。木槿の代りに、木槿がきれいに咲く場所の、地名を使ってもいいし。だから私は、芭蕉の時代から、連句の約束は別として、発句を独立させたときの俳句に、季語が入らなければいけないという考え方はなくなっていると思うんです。もっと内面的なこと、だけど実際には季語がキーワードになってるから、当然俳句にはたくさん季語を使うわけです。
村上 子規も、季語がなければいけないということは言っていないわけですよ。四季の題目がないものは雑と言っております。近代俳句の出発のときも、季語がないといけないということではなかったわけですね。
金子 ええ。それはやはり、芭蕉の考え方が分っていたんしゃないでしょうか。くどい言い方だけど、季題で自然との交流を深めながら、表現の場面では季題も使うし、季題でないものも使う、豊かな心で作る、ということを考えていたんじやないでしょうか。だから結局、俳句に季語が必要だなんて言ったのは虚子で、私はこれは虚子の一種の方便じやないかと思うんですよ。初心者指導上の必要からですね。
上五の中にひとつ季語が入ってれば、もう俳句はできちゃうっていう、そういう簡単な指導ができるから。作る人も安心して作れるというもんですよ。だから、有季型も彼が作り出した初心者指導の方便としてのスローガンですね。ただし、定型は別ですよ。だって五七五の定型でなくなったら、ジャンルの特徴がなくなっちゃうから。
https://kanekotohta3.livedoor.blog/archives/14385278.html 【№2「わが俳句を語る」金子兜太×村上護】より
人間くさい俳句
村上 古き良きものというのは分りましたが、現代を生かすということになると、また問題は複雑ですね。今現在の兜太先生の俳句の立場というのはよく理解できるんですが、前衛俳句の頃はずいぶん分りにくいところもありましたので、ちょっと遡ってお話を聞けたらと思います。俳句はお父様がやっておられましたね。
金子 ええ、父親のところで「馬酔木」の会があって、若い男たちが集まって、元気がいいから句会が終わるとお酒を飲む。そうすると喧嘩をするわけですね。お前の句はろくでもないとか、俺の悪口を言ったとか。中学に入る頃、そういう風景を眺めて楽しんでたんですが、今から思うと非常に人間くさい風景というべきなんでしょうけど、その当時は俳句っていうのは喧嘩だと思ってましたね。母親なんか、俳句なんて作るんじゃないよ、あれは喧嘩だからって。だから私は、俳句は自然を詠うものだっていう出発をしてないですね。人間くさいものだっていう出発をしているわけです。それが今でもこびりついてるんですね。
村上 先生の俳句にある人間くささというのはよく分ります。
金子 戦争が終ってから、俳句の領域を、今までのように自分に籠ってるだけじゃなく、外に広げなきやいけない、要するに社会性ってことが言われましたね。それを私なんかはいち早く受け入れました。そこから前衛ということになるんですが、そのときに私か一番普通に考えてやったことは二つある。一つはとにかく五七五という形式でやる。それに自分の思ったことをなんでも書こうと、季語はもちろん考えないし、俳諧のことも考えない、そういうことが一つ。それを非常に意欲的にやったから、あなたのおっしゃるようにわけの分らんことになったわけです。
村上 社会性俳句というのは現代を扱うものですが、新しい方法だったんでしょうね。それまでは、現代ということがあまりテーマにならなかったということでしょうか。
金子 いや、そんなことはありません。第二の点でそれを言いたかったんですが、とにかく意欲的に書くというのが一つ。それから、子供の頃から人間くさいところを見てるから、俳句っていうのは天然自然を書くものだっていう考え方が殆どなくて、人間を書くものだと。人間にかかわっていろんな天然自然があるわけですね。これは本当に自然でしたね。かくあるべきもの、って思ってなかったですから。平たく言えば、自然も社会も同列に、俳句に書き込んでいくものだ
と、こう考えていたんです。だから、俳句に社会性という考え方が必要だといわれたときも、まったく自然にそれを受けとめて、当然のことだと思ってたんです。そのときの社会性っていうのは当然、戦後の現実ですよ。ところが、今、村上さんの言うように、社会性つまり現代の現実というものを、それまでの俳句が書いてなかったかというと、そんなことはない。非常に典型的な例は山口誓子の
俳句。社会の中に素材を求めて、社会の中の素材に対する飽くなき探究。それがそもそもの始まりで、それに続く新興俳句の人達、例えば西東三鬼とか秋元不死男とか、ああいう人達はその系統を受けて、素材だけじゃなくて社会的な現実、例えば貧困の問題や、機械文明に対する危機感、そんなことまで書き込んでますよね。それで機械文明に対する批判として自然を書く、そんなふうな書き方をしてます。そういうことは昭和前期にもはっきりあった。新興俳句運動はそういうことをやってくれたんです。
村上 昭和三十年代に、社会性俳句というものが非常に問題になりますが、それは新興俳句とどういう違いなんでしょうか。新興俳句の場合は、戦争を素材に扱ってそれが刑事事件になるぐらいですから、たいへんな問題だったわけですが。
金子 一言でいうと、昭和前期の新興俳句でやっていたことは、ごく特殊な個人的な要求であったと思うんですね。ところが、戦後社会性ということが言われたときは、もっと全俳壇というか、俳句界全体に対する一つの問題提起として言われていたんだと思います。それはなぜかというと、新興俳句の中でも石田波郷のような人もいれば、わが師楸邨のような人もいる。そういう人達は非常に内面的でしょう。
ですから、社会に向かって書くというような秋元不死男さんとか、そういうタイプと違いますね。むしろ内面的で、社会的な問題を自分の中に受け止めて、内部の問題として書いてます。そういう、いろんな書き方の違いがありました。それから草田男にしても波郷にしても楸邨にしても、季語を捨ててませんよね。むしろ季諧は大事にしている。そうやって季語を大事にして、俳句に季語はなくては
ならんとすると、どうしても自然を根に置いて書くことが中心になりますね。その中に社会の影がずいぶん入ってきたということになりますね。そうなると昭和前期の動き全体は、社会性といってもごく特殊な人たちの特殊な意欲の中の問題であって、全体としては、やはり季語を通じて自然に向かって自然を書き取るという傾向の句と、それから非常に内面的な句と、そういうふうな色彩があったんしやないでしょうか。特に花鳥諷詠を唱える「ホトトギス」の力がまだ強いです
からね。その風潮に対して、戦後はむしろ俳壇全体に向かう形で、社会性の問題が提起された。そこが違うんです。で、前衛と呼ばれる人達は、社会性というものを素材として誓子のように受け取ることもしない。それから、ただ空気のようなものだという漠然たる受け取り方もしない。もっと、生活姿勢として、日常の態度として、積極的に受け止めようとした。私のように社会性ってものは社会に向かって開いた心の問題で、つまり態度の問題と受け取る。しかし、別には、もっと思想の問題とする人達もいた。思想的書こうとした人たちと、態皮の問題として日常の巾に社会性を据えて書こうとした人達が、前衛に向かっていったわけです。
村上 俳句は態度の文学というのは、実に至言だと思います。主体性の在り方を問うことで、それが俳句の新しい造形を模索していったということでしょうか。
金子 そうです。社会、つまり外なる現実と、心、つまり内なる現実と、その双方を同時に抱懐する主体が、俳句にどう書き込まれてゆくか、その手法を考えます。そのときに一番適切な手法は映像として書くことで、ただ見たものを書くというだけじゃ納得ができない。私は見たものを書くというのを描写と言い、映像と比較対照させています。ところが、映像で書くっていうことになると、難しいんですね。
村上 繰り返しちゃいけないというのが、前衛の一番の良さだと思うんですが、繰り返さない一回限りのところをいつも狙っていくと、一般大衆には分りにくくなりますね。
金子 短歌にしても俳句にしても、きちんと形式の決まった定型詩ですね。この場合、常に独創的であるっていうのは、私はナンセンスだと思うんです。お笑いごとだと。なぜなら、短歌、俳句の歴史を見ると、むしろ真似事の歴史なんです。これ これを私はもじりというし短歌では本歌取りというでしょう。本歌取りの歴史なんですよ。そこに独創のひらめきが出てくるわけだから、膨大な類型があるんです。そういう定型詩の特徴を、私達は無視してたんですね。常に独創であろうとしていた。
村上 新しいものを生み出そうというときに、兜太先生のように優れた方でも紆余曲折があって、無駄もあるんですね。いや無用の用ということはありますが、僕は先生の若い頃の作品を読み、ただならぬ情熱を感じて非常に興味があるんです。としても、結果論としては難解なところに行きますね。また、一度は行く必要があるかとも思うし、ただ無難に行ったんじや凄さとか深みが出てきません。ですが、前衛ということだけを問題にすると、短詩型で前衛というのは矛盾した、たいへん難しい営為だと思うんです。
金子 それはそうなんですよ。ただ、短詩型の持つ歴史的な性格というのを押さえていかなきやいけなかったんですね。類型の集積の上に独創があるという、ゆるやかな二段がまえの考えを持だなきやいけなかったんですが、私はそのとき持ってなかった。今は持ってましが。だから、初心の人にはむしろもじりを勧めてるんです。大方の宗匠は、類型はいかんって言ってるでしょう。私は類型を活用しろって言ってます。それは私のそういう認識から来てるんです。その上に独創
がひらめく、それが一番すばらしい独創であり、伝達力を持っていると。それは今あなたが言われたような、私の前衛期の反省から来ています。私は自慢じやないけど田舎っぺだから、郷里の秩父音頭でも五七調で、五七調が都会の人以上に体にしみこんでるんですよ。あのリズムが。だから、私がけっこう勝手に、独創的にふるまっても、体にしみこんでいる五七調によって、押さえられてしまうんだね。あるいは、それによって包まれてしまう。だから、私のはリズムの上で分りがいいんじゃないかな。
村上 今、秩父と言われましたが、先生の白然詠もすうっと体に入ってきますね。リズムのある俳句は肉体で感じられますから。
金子 この間も中学か高校の教科書に、私の〈富士を去る日焼けし腕の時計澄み〉つていう句が載っている。それは学生の頃、富士山で演習してたんですよ。いよいよ終わって帰るとき、日焼けした腕の時計が澄んでいたのがことのほか印象的で作つたんですが、やっぱり私の場合、五七調のリズムに乗ってしまうんで
すね。それがまず伝達力があるっていうことと、自分の気持ちを直に書くっていうよりも物に託す、富士山とか、時計とか、そういう傾向がありますね。だから、私の作っている映像っていうのは、今は映像ばかりじゃなくて即物でもやりますけどかなり具体的なんじゃないでしょうか。
村上
現実性のない、奇抜なフィクションが前衛だと誤解する人もいますが、あくまでも事実に基づいたもの、動かないものがあって、はじめて虚の部分が生きるんですね。虚の部分がないと、小説が自然主義で失敗しましたけれど、文学というのはどうしてもフィクションも必要で、虚の部分が頭を出さなければならないけれど実の部分、土台となる動かないものがあるというのが前提だと思うんです。
金子
そのとおりです。今の、虚の部分を、僕は抽象と考えています。事実と自分
の内面が溶け合って、内面がしたたかに事実の中に入り込んだときに、その事実が抽象性を帯びてくる。それが大事だと。私はそこで、いわゆる糞リアリズム、自然主義というものを克服してるんです。今でもその方向に確信を持ってるし、
それが一番表現として正しいんだと思っています。だけど、私は基本がどうも即物的です。これは昔から先輩なんかにも言われてましてね、「金子くんは即物的だ」と。肉体とか事実とかいうことに引かれますね。社会のことを詠っても、酒を呑んで体と体がぶつかり合うようなこととか、欠伸をしている人間とかが関心の対象になるんです。貧乏そのことを書くよりは、貧しい人間そのものの生きた姿を書く。小説家でいえば、坂口安吾なんか大好きですね。坂口安吾の作品は肉体なんですよ。綺麗事を書いている小説家の作品はちっとも面白くない。俳句の五七五っていうのは、肉体のリズムでしょう。私かこれまで俳句をやってこれたのは、それが大きいのではないでしょうか。
村上 「海程」の創刊号の言葉で、ともかく愛人を愛するように、何か何でも俳句を愛していきたい、とお書きになってますが、出発点からそうだったわけですね。
金子 そうですね。おかみさんを抱く気持ちで、気持ちよく俳句を作っているわけです。社会性俳句全盛期の私の句を難しいという人はあまりいなかったですね。三十年代に入って前衛といわれる人達の句は難解だと言われていましたが。その辺の違いは、分って欲しいですね。理由は、さっき申し上げたようなことです。単純に言えば、私か田舎っぺだということです。秩父という山国で育ちましたからね。
村上 やはり、肉体に根ざしていない言語というものは、軽いですからね。
金子 そうです。
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