蘇我氏の正体

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蘇我氏初代と思われる蘇我石川宿禰から、満智、韓子、高麗、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く当主たちの名前。これらはすべて本名ではなく、記紀によって作られた名前であるとしたら、皆様は非常に驚かれるのではないでしょうか?

私たちは一人の人物を、立場や状況に応じてさまざまな呼称で呼びます。会社であれば「課長」とか「社長」などと役職名で呼ぶことが多いですが、石川宿禰の場合はそれにあたり、石川という地名の土地に住んでいたためにこの名で呼ばれたもので、本名ではなく職掌で呼ばれています。

石川宿禰の次の満智については不明ながら、問題はその次の韓子です。

当時、日本の男と朝鮮半島の女性の間に出来た子供は「韓子」と呼ばれたようです。

この名前がそのまま個人名として使われていること自体に、私は記紀の悪意を感じます。

本人にはもっと立派な本名があったはずですが、あえてそれは使わず、韓子という名前だけ残していることに、蘇我氏を貶めんとする作為を感じるのです。

この韓子は新羅遠征軍の大将の一人だった人物で、軍功もあり、決して凡庸な人物ではありません。生きているうちには韓子などという言葉では絶対に呼ばれなかったはずです。

次の高麗もまた同様に、高句麗方面に母親の出自があることを示していると思われる名前ですが、こんな名前を親が子供につけるはずがない、と私には思えます。

二代飛んで蝦夷もそう。これも異民族が母親ですよ、と言わんばかりの名前で、すでに大臣としてヤマト王権の中枢に君臨していた人物が名乗る名前ではありません。

そして、馬子と入鹿に至っては、二人合わせて「馬鹿」となるところに御注目ください。

日本書紀の作者が意図的にこのような侮蔑に満ちた名前を捏造し、蘇我氏の本宗家の家系図を書き替えているとしたら、まことに陰険で悪意に満ちた改ざんと言わざるを得ません。

また、最近の蛯原春比古氏のFB投稿によりますと、馬子、蝦夷、入鹿という名前には呪術として、不慮の死を遂げた人の怨霊を封じる意味があるそうです。

蛯原氏によれば、馬子という名前は期日を示し、馬(午)の日から子(ね)の日までを大犯土という禁忌の期間を示します。

そして蝦夷の文字の中にある「蝦」は蛙を意味し、入鹿(動物のイルカ)とともに、怨霊を抑える神にささげる供物の意味があるようです。

ここまで読み解いている蛯原氏には驚愕と尊敬の思いしかありませんが、こういう名前を記紀の作者が意図的に創作して書いているとしたら、馬子、蝦夷、入鹿の三代はいずれも謀殺されており、その怨霊封じのための仕掛けが記紀編纂という作業の中で行われていたことになります。

そして現代にいたるまで、蘇我氏の当主たちはずっとこのような蔑称で呼ばれ続けているわけです。その霊の無念たるやいかばかりでしょうか?!・・・。

こうしてみると、本名である可能性があるのは満智と稲目だけということになります。

それでは、他の当主たちの本名はなんという名前だったのでしょうか?

斉木雲州氏著「上宮太子と法隆寺」(大元出版:2020年)によりますと、安閑天皇の御代の大臣は巨勢男人という人物で、この人には男児がいなかったので親戚の石川家から養子を迎えて巨勢臣稲目とした、とあります。

斉木氏の説を採るなら、記紀の系図は創作ということになり、蘇我稲目の本名は巨勢稲目だったということになります。この人物は蘇我氏ではなく、家系的には巨勢家を継いでいることにご注意ください。

稲目の子・蘇我馬子の本名は、斉木氏は「石川麻古」と書いています。そして、記紀が名前を捏造した理由について、「蘇我氏から継体天皇が出たことを隠し、応神天皇の子孫のように見せかけるため」、と説明されています。

そして、蘇我蝦夷の本名ですが、斉木氏は「石川雄正」と明記しています。同時に、「石川家は蘇我家とは関係がない」とも書いています。斉木氏の説を信じるなら、われわれが蘇我氏だと思っていた馬子、蝦夷、入鹿はいずれも蘇我氏ではなく、家系的には巨勢家、血統的には石川家の人であった、ということになります。

さらに斉木氏の説を続けますと、蘇我入鹿の本当の名前は石川林太郎。

斉木氏によると、乙巳の変という政変も実際には起こっておらず、記紀の作ったフィクションであるようです。

斉木説では、その後、孝徳天皇の代になってから、石川雄正(日本書紀では蘇我蝦夷)が誅殺され、続いて山背大兄王、古人大兄も誅殺されたようです。

さらに石川臣武蔵、石川山田麿という、石川雄正の後を継ぐ有力後継者たちも誅殺され、石川家は歴史の表舞台から姿を消すことになります。

・・・いかがでしょうか? 記紀によって大悪人に仕立て上げられた蘇我氏一族は実際には存在せず、石川氏という、代々の身命を仏教普及に捧げた尊い一族が歴史から抹殺されていることが御理解いただけると思います。

最後に、斉木雲州氏がどうしてそんなに裏の裏まで知っているのかということについてですが、氏は現在まで続く出雲王家の直系の子孫であり、代々の秘伝として口承によって伝えられた出雲国の存亡の歴史を把握しており、出雲王家と蘇我家は早い時代に婚姻して親族となっているため、蘇我家代々の歴史の真実がわかっているようです。

斉木氏の説明は具体的で詳細であり、細部に至るまで歴史的な齟齬がありません。そのうえ、いくつかの証拠まで提示してくれていますので、驚愕の内容ながら、ほとんど疑いようもありません。氏の著書と日本書紀を対比して読むと、書紀がいかに歴史を歪曲し、真実でない物語を捏造しているかということがよくわかります。特にこの蘇我氏についての記述はほとんどが捏造で、藤原氏の悪行を隠蔽するために意図的に蘇我氏は悪党にされたとしか考えられません。それなのにいまだに教科書を含むほとんどの歴史書が日本書紀の記述に沿ってのみ書かれていることが残念でなりません。

私たちは仏教国日本に住んでいるわけですが、日本に仏教を定着させた蘇我氏、いや、石川氏という知られざる一族がいたことを再認識する必要があります。

正しい歴史を知り、歴史の流れを正しく理解すること。それこそがこれからの歴史を正しいものにしてゆくための基本です。


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藤原鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を誅殺したとされる乙巳の変。この政変が実はまったくの虚構であり、日本書紀の作者が創作した架空の物語だったとしたら・・・。

以前、乙巳の変についての投稿をしたとき、大須賀あきら様から興味深いコメントをいただきました。それは、「乙巳の変は同時期に新羅で起こった“ピダムの乱”に酷似している。

乱の起こり方や顛末、細かな会話のやり取りまでがそっくり」という指摘でした。

つまり、乙巳の変は、新羅で起こった反乱を、日本で起こったことのように、場所と人物をすり替えて挿入された作り話だったという疑いが生じたのです。

古事記と日本書紀は、さまざまな古文書や伝承話をまとめてひとつの物語としたもので、一つの国の歴史が定点的に観測されて書かれたものではありません。そのため、「これは日本で起きたことではないのではないか?」と思われる物語も記述されています。

では、ピダムの乱とはどういうものだったのかと言いますと、

毗曇(ピダム)。新羅、善徳女王の治世時に貴族会議の首長・大上等となった人物。647年に反乱を起こし、将軍・金庾信らに鎮圧され処刑される。反乱の理由は「女帝では天下を治世できない」というものだったらしい(ウイキペディア等より)。

大須賀氏によりますと、このピダムを蘇我入鹿、金庾信を藤原鎌足、金春秋(のちの武烈王として善徳女王の二代後の新羅王となる)を中大兄皇子に置き換えると、乙巳の変のストーリーが出来上がります。日本書紀の記述と、ピダムの乱が描かれた「三国史記」金庾信伝では物語の進行や途中の会話の内容までがそっくりで、どちらかがどちらかをペーストして書かれたものであることは疑いないようです。

ちなみにこの時代のヤマトと新羅の政情は似ているところが多く、593年に日本初の女性天皇である推古天皇が即位すると、それに続くように632年、朝鮮半島では初となる女帝・善徳女王が王位に就いています。また、ほぼ同じ時期に新羅と日本に四天王寺が建立されており、さらにその頃の蘇我氏の系譜の中に「蘇我善徳」という人物がいるなど、この時代の蘇我氏は日本と新羅の両方の政局に関わっていたのではないか?という疑念も沸いてきます。

歴史を調べておりますと、ときおりこのような感じで「歴史は繰り返す」という言葉のように、同じパターンの事象が重なって見えることがあり、この場合には日本と新羅の歴史が同時期に重なって進行しているようなところが感じられます。

この大須賀氏の説に加えて、「乙巳の変は存在しなかった」と主張する人がいます。

それは斉木雲州氏です。

斉木雲州氏は、著書「上宮太子と法隆寺(大元出版)」の中で、こう書いています。

「日本書紀には“ソガ入鹿殺し”という架空の事件が書かれている。このような事件は、必要なかった。なぜなら、エミシのモデルとされた石川臣雄正はすでに641年に他界していた。乙巳年のいわゆる“イルカ斬り事件”は全くの虚説であった。(中略)イルカの死の話は、鎌足の手柄を示すために創作された話だ、と伝承されている。(中略)権力者に都合の悪いことを“エミシ”や「馬子」の仕業とすることに利用されたらしい。

斉木氏は同著で蘇我馬子や蝦夷、入鹿といった人物の実在も否定しており、そもそも時の朝廷を牛耳ってわがもののように専制を敷いた蘇我氏などいなかったと主張しています。

中学や高校の日本史の授業で必須の暗記項目として乙巳の変や大化の改新を勉強してきた私たちには、にわかには信じがたい内容ですが、どうやらこちらが真実のようなのです。

そして、仮に「乙巳の変はなかった」と仮定して、「ならば記紀はどういう理由でそれほどまでに架空の歴史を創作して書かなければならなかったのか?」ということを考えてみましょう。

繰り返しになりますが、記紀の編纂時の責任者は藤原不比等。

乙巳の変でヒーローとして描かれている藤原鎌足の息子です。

息子が親のことを悪く書くはずがありません。しかし、大須賀説・斉木説が真実なら、鎌足こそが謀反人であり、クーデターによって政権を奪取した極悪人ということになります。

この事実を隠すためには、蘇我氏という架空の大悪人を作り、鎌足の罪をすべて隠し、正義の行いとして偽装する必要がありました。

この時代、蘇我氏という氏族は実在していましたが、斉木氏によりますとそれは北陸に勢力を張った地方豪族であり、ヤマト王権内で代々大臣になった蘇我家とは別の家で、それは石川家という名前だったそうです。

記紀では、この石川家の大臣たちを蘇我姓に変え、名前も異民族を思わせる蔑称にして悪人のイメージを植え付けたり、同時に怨霊封じの秘儀として、神に供物として捧げる動物の名前を付けたりして、騙し打ちにあった石川家の大臣たちが祟ることを封じました。

まことに手の込んだ、入念な悪行と言わざるを得ません。

なお、斉木氏の説では蘇我氏の本当の姓は石川氏ですが、大須賀氏の説によりますと蘇我馬子は「阿毎字多利思北孤」というのが本名だということです。

どちらの名前が本当の名前なのかということを検証するのは困難ですが、それぞれ別な情報源から「蘇我氏歴代当主の名前は本名ではない」という指摘がなされているところが重要です。

そして、本名ではないどころか、蘇我馬子、蝦夷、入鹿はすべて架空の存在だった・・・。

このあたりの記述は古事記にはほとんどなく、日本書紀にのみ記述されているのですが、少し穿った考え方をしますと、古事記が書かれた後に、わざわざもうひとつの歴史書として日本書紀が編纂された最大の理由は、この蘇我氏に関する歴史の捏造工作を徹底的に行い、それによって藤原鎌足の悪行を隠蔽するためではなかったか、と思えてきます。

そして、この大掛かりな捏造工作はこれだけに留まりませんでした。乙巳の変、蘇我氏三代という虚構に加え、日本書紀はさらに「聖徳太子」という虚像をも作り出したのです。

次回はこの「聖徳太子という虚像」についてご説明いたします。

(写真は中大兄皇子と鎌足の出会いの場とされる蹴鞠の図。「ピダムの乱」と「乙巳の変」はこのような情景描写までそっくりに描かれています。)


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 前回まで、聖徳太子と蘇我氏(斉木雲州氏の説では上宮太子と石川氏)がどのように仏教興隆に取り組んで来たか、ということをお話しいたしました。今回は引き続き、斉木氏の「上宮太子と法隆寺」から、前回の続きをまとめて行きます。

 上宮太子は大王として即位したのち、「今後は大きい古墳を作らず、氏寺を建てるのが良い」と述べ、大蔵係であった秦河勝がそれに応えて山城国に蜂岡寺を建立します。このときから古墳の数は大きく減少し、代わりに寺が増えて行きます。

 一方この頃、推古帝は冠位十二階を制定し、それまで家柄に応じて支払われていた官給を位階に応じて払う、という改革を行います。(聖徳太子ではなく推古天皇の発布であることにご注意ください。また、この時の最高官位である大徳という地位には石川臣雄摩侶という人物が就いており、推古帝のブレーンもまた石川家の人物であったことがわかります)。

 604年、推古帝は息子の尾治(おわり)皇子に大王の位を譲り、尾治大王が誕生します。この大王もまた、日本書紀には即位したという記述がありません。幻の天皇です。

 冠位制定の効果か、群臣は尾治大王のほうに集まり、上宮大王は孤立します。

 一方、崇仏派も俳仏派も多く集まった尾治大王は、あらゆる宗派に共通する規則を作ろうと考え、「管理訓戒十七条」を策定します。これがのちに「十七条憲法」と呼ばれるものですが、斉木氏は「これは官吏に対する訓戒であって国民全体に関わるものは少ないから憲法ではない」と言っています。つまり、憲法が制定されたというのは誤りです。

 そして、この訓戒の中で重要だったのは、第九条の「国に二君なく、民に両主なし」という一文でした。明らかに上宮太子の反乱を治める意図が見えます。

 こうして政権に手出しできなくなった上宮太子は、以降、仏教研究に専念することになり、604年に橘寺を建て、609年には勝鬘経疏という仏教の解釈書を著します。

 尾治大王が仏教にも寛容な大王であるとの評判が海外にも伝わり、605年、高麗王から新任祝いとして黄金300両が贈られ、法興寺伽藍の拡大を望まれました。

 四天王寺のご祭神はもともとヒンドゥー教の神であったため、本来のご本尊であるお釈迦様に戻す狙いがあったようです。

 このとき作られたのが丈六の金銅釈迦座像で、製作者は仏師・鞍作止利とされていますが法興寺にこの仏像が安置されたことによって、日本において初めてお釈迦様をご本尊として仰ぐ、本来の仏教が成立したと言えます。

 また、鞍作止利は607年、薬師如来坐像を作って坂田尼寺に鎮座せしめますが、この薬師座像の光背銘には歴史上初めて「天皇」の文字が使われたということです。尾治大王を天皇とし、上宮大王を東宮大王と書いていることから、天皇という名称は尾治大王と上宮大王の地位を明確に区分することを目的に作られたもののようです。

 607年、尾治大王の命により、小野妹子が隋に派遣されます。遣隋使の始まりです。

 このときの日本の国王のことを「隋書」では「多利思比狐」と書かれています。多利思比狐とは尾治大王のこと。上宮大王ではありませんでした。

 613年、推古帝が死去、627年には石川臣麻古が他界します。斉木氏は日本書紀の記述する年代には誤りがあると指摘しています。そして、日本書紀には尾治大王の名前は登場しませんでした。斉木説を信じるなら、仏教はこのお方によって日本に定着し、興隆したと言えます。

 一方、上宮太子は609年に勝鬘経疏を完成させた後、612年に維摩経疏を、614年に法華経疏を著します。これは隋や高句麗などの外国に対して、仏教精神が日本でも正確に理解されたことを示すものとなり、大きな意味を持ちました。

 続いて太子は「天皇記」と「国記」という、日本最初の歴史書を書き著します。おそらくは記紀とは全く違う物語が語られていたであろうこの歴史書は後日、蘇我蝦夷の手で燃やされて灰燼に帰したと日本書紀に書かれていますが、ほんとうは誰が燃やしたのか、それは言うまでもないことだと私は考えています。蝦夷が燃やすはずがないのです。

 622年、上宮太子は没します。毒殺された、という説もあり、墓は叡福寺という寺の敷地内とも藤ノ木古墳とも言われますが、はっきりしません。生前、大きな古墳は作らないように指示をされたお方でしたので、その墓も小さなものだったのでしょう。

 太子の息子の山背王は父の遺志を継いで斑鳩寺を建立します。これが後に法隆寺という大伽藍を持つ寺になって行くわけですが、そこに安置された釈迦三尊像の本尊のお顔は上宮太子をモデルに作られているそうです。

 上宮太子の没後、尾治大王は山背王を後継に指名し、山背大兄王が誕生します。 

 山背王は斑鳩寺に五重塔や講堂を建て、現在の法隆寺の大伽藍をほぼ作り上げたほか、中宮寺をも建立して仏教の普及に務めます。

 625年8月、石川麻古が病床に伏します。このとき麻古の関係者1000人が出家したと「上宮法王帝説」に書かれており、麻古の影響力の大きさがわかります。

 627年6月、麻古死去。記紀に「蘇我馬子」という偽名で書かれた人物の死去です。

 なお、馬子の墓は石舞台古墳だと言われていますが、斉木氏によるとそれは用明天皇の御陵だということです。また、蘇我入鹿の首塚と呼ばれる飛鳥寺の塚は寺の住職の墓で、馬子・蝦夷・入鹿と呼ばれた蘇我家三代(本名石川麻古・雄正・林太郎)の墓は磯長谷の南の平石古墳群にあるそうです。

 ・・・斉木雲州氏がどうしてこのようなことまで細かく知っているのか、本当に不思議ですが、言われてみれば平石古墳群は磯長谷古墳群のすぐ近くにあり、その磯長谷古墳群こそ敏達・用明・推古・孝徳の四人の大王の御陵とされる墳墓のある場所ですから、その近くに重臣の墓があるのは自然なことです。

 なお、用明天皇の御陵は初めに石舞台古墳に作られたのち、磯長谷古墳群へと改葬されたようです。

 すべては斉木雲州氏の本に書かれてあることなので、あくまで一人の学者の提唱する仮説ととらえるべきものでしょうが、瞠目すべき驚愕の仮説と言わざるを得ません。斉木説のほうが日本書紀の不自然な記述より、はるかに歴史的整合性が高いのです。

 私は斉木氏のこの「上宮太子と法隆寺」という本を読んで、目からウロコが何枚も落ちた気がします。同時に、石川家三代と尾治大王という、史書に書かれなかったものの仏教の興隆に力を尽くした尊貴なる存在に手を合わさずにおれません。


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今回も引き続き斉木雲州氏の「上宮太子と法隆寺」から、蘇我氏と呼ばれた一族の実像を追って行きます。

尾治大王(推古帝の後に大王として即位した幻の天皇)が山背王を大兄(後継者)に指名した頃、それを快く思わない人物がいました。それが田村王(のちの舒明天皇)です。

田村王には中臣御食子(鎌足の義父)という友人がいました。中臣家は常陸国鹿島神宮の元神官・卜部家の分家でした。

中臣御食子は田村王に謀略を授けます。

「石川家(日本書紀では蘇我家と書かれている)の大物を一人ずつ誅殺して行けばよい。そのために、まず宝姫と結婚し、息長派をまとめなさい。」

息長家の血統であった宝姫はこのとき、石川武蔵という人物に嫁いでいました。田村王にとっては姪にあたる人物でしたが、強引に武蔵と離婚させ、息長家の血を濃くすることを狙いました。

628年、田村王は病床に伏していた尾治大王を見舞い、そこで大臣の石川雄正(記紀で蘇我蝦夷と書かれた人物)に、自分が次の大王になると告げました。

石川麻古の弟・境部摩理勢はこれに反対し、山背王こそ後継者であると主張しますが、魔理勢は直後に御食子から殺されます。

同年、尾治大王が没し、田村王が王位に就きます。これが舒明天皇です(記紀の系図では推古帝の次が舒明帝ですが、実際には尾治大王という幻の天皇がいたことにご注意ください)。

641年、石川雄正の豊浦の邸宅を葛城皇子と中臣鎌子が襲い誅殺します。このことは日本書紀に書かれていません。

中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は本名・占部鎌子。常陸国鹿島神宮の出身で、中臣御食子の養子となった人物でした。

葛城皇子は石川雄正攻撃の功により大兄(後継者)に指名され、中大兄を名乗ります。

しかし、このときにはすでに古人大兄という大兄がいました。

大兄が二人いたので後継ぎが決まらないまま大王が没し、二年後に皇后が即位して皇極女帝となります。

この頃、中臣鎌子は女帝の弟・軽王の宮で働いており、軽王に気に入られてその采女を与えられます。しかしそのとき采女は軽王の子を身ごもっており、やがて軽王にそっくりな男児が生まれます。鎌子はその子を中臣家の長男として育てることになります。

643年11月、山背大兄王の住む斑鳩の宮を中臣鎌子の軍勢と思われる部隊が取り囲みます。山背王は生駒山に逃れますが、数日後に「戦えば勝てるかもしれぬが、万人を軍役に使い、勝つことは望まぬ。わが身を捨て、国を安定させるこそ人の道ならずや」と言って斑鳩宮に戻り、自殺します(ここも日本書紀では蘇我入鹿が殺したことになっています)。

このとき、上宮太子と石川麻古が書いた「天皇記」と「国記」も斑鳩寺とともに焼失します(日本書紀では蘇我蝦夷が焼いたことになっていますが実際は鎌子の仕業です)。

このあたり、日本書紀に書かれた「乙巳の変」の記述と大きく異なっています。

斉木雲州氏によりますと、日本書紀で蘇我蝦夷という名前にされた石川雄正は641年に他界しており、乙巳の変が起きたとされる645年には存命しておりません。

また、同じく日本書紀で蘇我入鹿とされた石川林太郎は645年以降も生き続けています。

実際に「エミシ」とか「イルカ」という人は存在しなかったと、蘇我家本宗家である越前蘇我国造家でも伝承しているそうです。もともと、こんな名前が地位ある人の人名であるわけがないのです。

ところで、皇極女帝は自分の産んだ中大兄を大王にしたいと考えました。

しかし、彼はまだ若く、序列から行くと古人大兄皇子のほうが有力でした。

怪しい気配を察した古人皇子は出家して吉野に入ります。そして645年、軽王は即位して孝徳大王となります。

孝徳大王は中臣鎌子を内臣という側近の地位に据え、年号を大化と改めます。

孝徳大王と中大兄は協議して、古人皇子が謀反を企てたという噂を広めます。そして645年9月、中臣鎌子が吉野に兵を進め、古人皇子を斬ります(鎌子の悪行がいくつあるのか数えてみてください。日本書紀ではこれらがすべて隠蔽されています)。

これで石川臣麻古という重臣と、山背大兄、古人大兄という大王候補者二人が同時期に殺されたことになります。

孝徳大王は彼らの遺臣からの暗殺を怖れるかのように、難波の子代、蛙行宮と行宮を転々とします。日本書紀に記されているように大化の改新などを行う余裕はなかったようです。

649年、中臣鎌子の軍が石川山田麿を襲い、自害させます(つまり、藤原鎌足が蘇我氏の後継者を殺したということです)。山田麿は石川雄正に代わって実力となっていた人物でした。彼の住んだ場所は浄土寺と言い、後年山田寺と呼ばれるようになりました。

山田麿の弟・石川武蔵は筑後太宰府の帥に任じられ、中央から遠ざけられます。これで石川家のほぼすべての人物は処理されました(鎌足のクーデタの完成です)。

650年、年号が白雉と変えられ、白雉の改新が始まります。唐へ留学した高向玄理や南渕請安らが帰国し、唐の政治を見習う動きが現れ、徐々に中央集権が進められます。

これらの歴史的事実が「大化の改新」というフィクションに変えられて日本書紀に書かれたのですが、人物も架空の人に変えられ、時期もずれていますし、入鹿首切り話などという創作も多々挿入されており、なんとも酷い改ざんと言わざるを得ません。日本書紀に書かれた「大化の改新」は壮大な架空小説であり、真実の歴史を題材にしながらも、原型をほとんど留めないほどに作り変えられた創作物語なのです。

そして、斉木氏の説に従うならば、藤原鎌足こそは自己の欲望のために手段を択ばなかった悪党であり、その犠牲になったのが、身命を賭して生涯を仏教興隆のために捧げた石川氏一族という尊い一族であった、ということになります。

歴史は常に、勝者の手によって作り変えられる運命にあります。われわれはそういう物語を鵜吞みにせず、よく考えながら古文書の記述を吟味する必要があります。たとえそれがどんなに有名な書物であっても・・・。


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今回から蘇我氏のルーツについて、いよいよその正体を明らかにして行きます。

蘇我氏のルーツについては様々な説があり、渡来系であろうという考え方が一般的ですが、斉木雲州氏の説では、蘇我氏の祖先はなんと、「高倉下」であると書かれています。

高倉下(タカクラジ)と言えば、記紀において神武天皇を救ったとされている人物で、神武東征の戦いの際、敵の毒霧攻撃を受けて昏倒し、瀕死の状態になった神武天皇の前に忽然と現れ、神剣「布都御魂」の霊力を用いて神武天皇を蘇生させ、勝利に導いた立役者として書かれています。この人物がどうして蘇我氏の祖先なのでしょうか?・・・

高倉下という人物は、記紀においては高天原から派遣された武将であり、劣勢の神武軍を見かねて高木神が武御雷神を救援に向かわせようとしたところ、武御雷神は「私が行かずともこの剣があれば大丈夫でしょう」と言って布都御魂を高倉下に授け、高倉下が神武救援に駆けつける、というストーリーになっています。

高倉下については「高」の文字に高句麗との関係が感じられ、布都御魂という剣もまた、中国から高句麗経由で伝わったと思われる逸話がいくつか残っています。

また、出雲地方に多い、方墳という形態の古墳も高句麗方面から伝わっているようでもあり、高倉下が高句麗出身の人物であったなら、蘇我氏は高句麗にルーツを持つことになります。

斉木雲州氏は同時に、蘇我氏を日本の名門である紀伊国造家の子孫であるとし、その家の始まりがヤマト政権の初代大王の弟・高倉下であったと書いています。

斉木氏の言うヤマトの初代大王とは神武天皇ではなく、徐福の孫にあたる天村雲命という人物です。天村雲命は出雲国からヤマトに入り、磯城王朝を興した人物ですが、この人物の行跡が記紀では神武天皇という架空の人物の行跡と置き換えられている、と、斉木氏は主張しています。

斉木氏はまた、高倉下は西出雲王家・神門臣家の大屋姫の子息でもあったと書いています。

そして、ヤマト政権成立の時、国造を勤めた、とも。

そして、高倉下より何代か後、この紀伊国造家に武内宿禰が生まれます。

武内宿禰は、記紀においては一人の人物のように書かれていますが、宿禰という名称は家柄を示す一般名詞であり、個人名ではありませんでした。武内家には武内太田彦、武内名柄ソツ彦、武内ツクといった人物がいたようですが、彼らの行跡が一人の人物の行跡のように、記紀ではひとまとめにされているようです。

武内家はまた、蘇我氏をはじめ、巨勢氏、平群氏、石川氏、葛城氏等の本家筋でもあり、古代史上きわめて重要な家柄なのですが、なぜかいくつもの分家に分かれ、それぞれの家が別の歴史を刻んで行きます。この武内家から分かれた分家の出自についてはその正確性を疑う意見も多く、本当にそれぞれの分家が武内家と繋がっているのかどうかは微妙なところもありますが、斉木氏はこれを否定しておりません。

武内宿禰と比定される人物のひとり、武内太田根は出雲国に赴き、出雲国王の娘と結婚します。以降、蘇我家でも代々の妻を出雲王家から迎える、という習慣が長く続きました。

そして、武内太田根の子孫・若長の時代に越前国造家となり、越前国・三国に拠点を構えます。この若長の時に初めて蘇我氏を名乗ったようで、以降も出雲王国本宗家の富家との婚姻を繰り返し、蘇我家と富家はほとんど同族と言って良いような濃い血縁関係を築いていました。

ある時、蘇我家には後継ぎが振姫という女児ひとりしかいない、という事態が生じました。

蘇我家は富家から彦太殿という男性を振姫の婿としてもらい受け、三国で振姫と結婚式を挙げた彦太殿は以降、オホド君と呼ばれるようになります。この人物こそが後の継体天皇です。

九頭竜川の河口に三国港があり、近くには宮津港や敦賀港といった古くから開けていた貿易港がありました。蘇我氏は朝鮮半島につながる貿易の利権を独占し、特に、北陸地方で産出されるメノウや琥珀、翡翠といった宝石を加工販売することで、古代史族の中でもずば抜けた資産力を蓄えるようになって行きます。

継体帝を輩出した頃の蘇我王国の領土は現在の新潟、富山、石川、福井県、そして滋賀、岐阜県と京都府の一部をも加えた広大なものとなっており、もしかしたらその勢力は当時のヤマト政権を凌ぐほどのものだったかもしれません。

その頃、ヤマト王権では深刻な王位継承問題が起こっていました。仁賢大王、武烈大王が相次いで没し、後継ぎがいない状況が続き、支配力の弱まったヤマトを見限って北陸のオホド大王に守ってもらおうとする人々が増えて行きます。

困ったヤマト王権は、苦肉の策として、このオホド大王をヤマトの大王として迎え入れるという奇策に出ます。かくしてヤマト王権と北陸の蘇我王国は合体し、畿内から北陸、山陰(旧出雲国)まですべてを統括する、日本でも過去最大の版図を持つ巨大国家が成立します。時に西暦507年。蘇我王朝の誕生です。

このことが記紀においては、仁徳王朝が続いていたように見せかけるため、さまざまな粉飾が施されているようです。継体帝は応神天皇の五世孫であるとか、武烈天皇が悪行の限りを尽くしたとか、継体帝が正当な後継者であることを必死で説明するような文章が並んでいますが、斉木氏はこれらのすべてを否定しています。継体帝はそれまでの大王家とはほとんどつながりがなく、このときから大王家は別系統になったと考えて良いと思われます。

もっとも、(あくまで斉木氏の説を信用するなら、という仮定での話ですが)、継体帝はその先祖に高倉下を持っており、高倉下は神武天皇の出身である高木神家、アマテラスの家柄なのですから、王統の系譜はここで正規の神武皇統譜に戻ったとも言えます。

また、継体帝の出自は出雲王家にあり、蘇我家を継いだとはいえ、血脈としての継体帝は出雲王家・富家の血を引く人物です。この意味からも継体帝が大王となったことは、日本最古の先住日本人の家柄に王位が戻ったということであり、喜ばしいことと言えましょう。

そしてわれわれが注意しないといけないのは、教科書に書かれている蘇我氏の時代というのは、実は継体帝以降の「蘇我王朝」の歴史であり、大臣として存在したと記紀に書かれている蘇我馬子、蝦夷、入鹿はいずれも存在せず、そのかわりに蘇我家は大王家として存在していたということです(この部分については私の以前の投稿をご参照ください)。

継体帝は仁賢大王の娘・手白香皇女を后とし、この二人の間に生まれた広庭皇子は後の欽明大王となります。こうして仁徳王朝と蘇我王朝は合体して一つの血筋となりました。その意味では、日本の歴史はやはり「萬世一系」と言えるのかもしれません。

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