双系相続と柿本人麻呂の死

https://iwatomura.exblog.jp/31137508/ 【双系相続と柿本人麻呂の死】より

柿本人麻呂は、双系相続のルールから外れた、文武天皇の即位に反対し弓削皇子とともに粛清された。その経緯を追ってみたい。

 持統天皇がたのみとする草壁皇子も689年に亡くなってしまう。そして高市皇子が亡くなった696年持統天皇は、強引に文武天皇を即位させる。このとき皇族を代表して、弓削皇子(ゆげのみこ)が意見を述べようとしたところ、大友皇子の息子葛野王(かどのおう)に遮られたと『懐風藻』は伝えている。しかし、弓削皇子は意見を述べたに違いない。概ね以下の論旨であったであろう。

 文武天皇が天皇位につくのは昔からの皇室の相続に反する。第1に文武天皇の妻は、藤原不比等の娘宮子であり、皇室財産の相続資格がない。第2にまだ15才であり、皇室のリーダーにふさわしい年齢でない。皇位を継承するのにふさわしいカップルは、高市皇子と御名部皇女の息子長屋王と草壁皇子と元明天皇の娘、吉備内親王夫妻である。吉備内親王は祖父が天武天皇、祖母は持統天皇である。もし今2人が若いということであればその母親の御名部皇女を中皇命として即位させるべきである。

 なぜ発言したと推定しているかというと、弓削皇子は、699年27才で亡くなっている。また、柿本人麻呂歌集に、弓削皇子に献上された歌5首があり柿本人麻呂と交流がある。また柿本人麻呂は、皇位継承順位を高市皇子→草壁皇子と考えていたふしがある。それは『万葉集』における、高市皇子と草壁皇子の挽歌【皇族が亡くなった後皇族を偲ぶ歌、いずれも柿本人麻呂作】を比較すれば容易に推定できる。高市皇子の挽歌の評価として、壬申の乱の天武天皇軍の指揮官であった、あるいはまるで天皇のようである、など明らかに皇位継承者としての扱いが見られる。その結果文武天皇より長屋王の方を、皇位継承者と考えていた。

 高市皇子には宗像君の血統が入っているが、宗像君の血統を天皇に準じる蘇我氏と同格の血統とみれば、長屋王と吉備内親王は、100パーセント天皇家と蘇我家の家系であり、文句のつけようのない後継者といえる。宗像君の血統を天皇に準じる血統とみなければ、柿本人麻呂の高市皇子の挽歌が説明できない。誰が見ても柿本人麻呂は、高市皇子を天皇であるかのように詠んでいる。

 梅原猛氏の『水底の歌』では、700年前後に柿本人麻呂は刑死したことになっている。弓削皇子と柿本人麻呂は、文武天皇即位に反対して、粛清された可能性が高い。梅原氏は、「『懐風藻』によれば、弓削皇子は文武帝の皇太子就任に反対するが、文武帝の即位後三年にして彼は死ぬ。万葉集にとられている弓削皇子の歌を読むと、彼は、すでに死を覚悟しているが、いろいろな事情を総合すると、私は弓削皇子の死はきわめてあやしいと思う。そしてこの弓削皇子の死後まもなく人麻呂の姿は都から消えている」(『水底の歌』梅原猛著 「新潮文庫」)と述べ2人が同じ理由で粛清されたことを示唆している。


http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-3e6f.html  【紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ)】より

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、『万葉集』は、大宝元(701)年前後の風潮を、累々たる屍のイメージで表現しようとした、とする(p227~)。

その累々たる屍のイメージは、律令と共にあった、と梅原氏は言う。

律令の思想とは、人間は所詮悪であるから、法を厳しくすることが国家を治める道であるとする法家の思想である。

梅原氏は、律令によって葬られた死の中心部に、弓削皇子と紀皇女がいた、とする。

弓削皇子と紀皇女を一挙に葬ることは、藤原不比等にとって有利なプランである。

紀皇女が文武帝の后であり、弓削皇子と通じていたとしたら?

不比等は、持統上皇に提案したのではないか?

弓削皇子は、軽皇子の立太子に反対したのみならず、帝の后を寝取ったとんでもない男だ。

紀皇女も、関係のあるのは弓削皇子だけではない、ともいう。

このところ、後宮は乱れている。

柿本人麿は、多くの采女を泣かせているとも聞く。

人麿を追放すべきである。彼と関係した采女たちにも死を命じるべきだ。

弓削皇子、紀皇女も、張本人だから、死を免れません。

持統上皇は、不比等の提案に反対できなかっただろう。

持統は、弓削皇子を許していなかっただろう。

不比等は、むしろ紀皇女を排除することが主眼だったのではないか?

文武帝の后の紀皇女を排除すれば、夫人である娘の宮子の位置が上昇する。

石川、紀の2人の妃は、不比等の恋人になっていた橘三千代が何とかしてくれるだろう。

不比等と三千代の間に、光明子が生まれたのは大宝元(701)年のことだから、不比等と三千代が結びついたのは、ちょうど弓削皇子の死の頃(文武3(699)年)と推測される。

梅原氏は、この弓削皇子、紀皇女排除の陰謀を通じて、不比等と三千代は強く一体化したのではないか、とする。人は、善を共有するよりも、悪を共有する方が、結びつきは強まる。

もちろん、弓削皇子の死は、不比等にとっても好ましいことだった。

不比等の権力は、草壁の系統との関係において増大する。

草壁の系統とは、持統-元明-文武という女性と子供からなる系統である。

他の男性の皇子に皇位が移ったら、不比等の地位は、たちまち危うくなるだろう。

皇位を狙う可能性のある皇子を排除することは、不比等の願うことでもあった。

そして、弓削皇子が処刑されたことが、非公然にでも知られることになれば、持統-不比等ラインに反抗する者の末路を示すデモンストレーション効果もあるだろう。

見せしめのためにも、弓削皇子の死は好都合であった。

梅原氏は、弓削皇子は、天武の皇子として、大津皇子と並ぶ優れた人物だったのではないか、とする。

詩才においても、風貌においても、大津皇子に匹敵する人物だった。

そして、大津皇子と同じように、大胆ではあるが、用心深さに欠けるという欠点を持っていた。その欠点のために、不比等のワナにかかってしまったのではないか。

  志貴皇子の御歌一首

むささびは木末(コヌレ)求むとあしひきの山の猟夫(サツヲ)にあひにけるかも  (3-267)

猟師を逃れて木の末に逃げようとしたむささびであったが、そこで猟師につかまってしまった。

弓削皇子のこととは書いてないが、梅原氏は、この「むささび」は、弓削皇子のことをいっているのではないか、としている(p147)。

弓削皇子がむささびならば、猟師は不比等ということになるのだろう。


https://cultural-experience.blogspot.com/2015/12/blog-post_29.html 【柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)】より

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

万葉歌人として有名な柿本人麻呂ですが、国史には登場しないため、その生涯は多くの謎に包まれています。

そんな人麻呂の謎に迫るべく、今まで集めた文献や伝承などの資料をまとめて その人物像を見出してみたいと思います。

※現在 手に入れた情報に基づいてまとめているため、到らない部分が多数あると思われます。

柿本人麻呂の概要

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

人麻呂の名前・生没年・系譜

名前

・名前:柿本人麻呂(柿本人麿、かきのもとひとまろ)

・別名:柿本人丸(かきのもとひとまる)、柿本人麿朝臣(朝臣は八色の姓における第二位の姓)

・神号:柿本人麿命、柿本大神、人丸大神、柿本大明神、人麿大明神、人丸大明神

生没年

・生年:斉明天皇6年(660年)頃→ 高津柿本神社では旧暦8月1日を生誕日として八朔祭を行っている

・没年:養老4年(720年)頃 → 没年を神亀元年(724年)3月18日とする伝承が多数ある

 → 生年不詳のため、死亡年齢には諸説ある

参考サイト:柿本人麻呂(Wikipedia)

系譜

・出自:孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の柿本氏出身とされる(諸説を下記に記載)

・妻:引手の山の妻、石見の妻、依羅娘子、軽の里の妻(和歌からの推定)

 → 柿本神社(葛城市)の伝承によれば、当地 柿本村の依佐良姫を娶ったとも

・子:柿本蓑麿(依羅娘子の子)、その他にも上記の妻に子が居たと推測されている

・後裔:益田氏の庶流(「石州益田家系図」「石見周布系図」による)

 → 人麻呂以降の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降に益田氏を称して石見国人となったとされる ⇒ ただし、益田氏の嫡流は藤原国兼を祖とする藤原北家道兼流とされるのが通説となっている

参考サイト:柿本人麻呂(Wikipedia)、竹取翁と万葉集のお勉強

人麻呂の出自の諸説

・一般的な説

 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、春日氏の庶流に当たる柿本氏出身とする

  ⇒ 父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とし、依羅娘子との子・柿本蓑麿が居るとする(石州益田家系図)

  ⇒ 父を柿本猨とする(石見周布系図)

・高津柿本神社の社伝

 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、小野氏族の一派である柿本族出身とする

・戸田柿本神社の社伝

 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、春日族、小野族、櫛代族と同族の柿本氏出身とする ⇒ 父を柿本氏某、母を綾部家の女とする

・葛城市の柿本神社の伝承

 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、柿本邑出身の石見守・柿本宗人の子とする

  ⇒ 柿本邑に母が居り、妻を依佐良姫とし、真済上人を又従兄弟の関係にあるとする

・和爾下神社・極楽寺の伝承

 → 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、和爾氏の末裔に当たる柿本氏出身とする

・益田市の民話

 → 石見国の戸田村の柿の木の元に、突如として現れた神童とする ⇒ 語家(綾部家)の養子とする

人麻呂の生没地の諸説

生誕地の諸説

・小野説(島根県益田市):高津柿本神社、戸田柿本神社の社伝および 益田市の民話として残る説

・柿本邑説(奈良県葛城市):柿本神社(葛城市)周辺にあったとされる柿本邑の伝承として残る説

・櫟本説(奈良県天理市):天理市櫟本町の和爾下神社付近にあったとされる柿本寺に残る説

死没地の諸説

・鴨島説(益田市):高津・中須沖にかつて存在した鴨島を鴨山とする説(梅原猛に支持された説)

 → 当島にあったとされる「人丸社」を継承する高津柿本神社がある

・鴨山説(浜田市):亀村の津目山(亀山)を鴨山とする説

・神山説(江津市):浅利町の室神山(屋上山)を鴨山とする説

・湯抱説(邑智郡):湯抱の鴨山とする説(斎藤茂吉の説)

・その他:死没地を石見国としない意見もある(ただし、改葬伝承は多くあるが、石見以外の有力な説は見つからない)

参考記事:鴨島趾展望地(柿本人麻呂終焉の地)

柿本人麻呂の経歴

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

経歴の諸説

柿本人麻呂の経歴には諸説あります。そのため、出典別にそれらをまとめてみたいと思います。

後世の国学者・研究者による諸説

・出仕以前の具体的な定説は無い(出自に関しては上記を参照)

・天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられる(『万葉集』巻十 2033による)

・天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられている

 → 宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではないため、立場については不明とされる

 → 近江朝にも出仕していたとする見解もある

・草壁皇子に舎人として仕えたとみられている(国学者・賀茂真淵の説)

 → 製作年が明らかとなっている歌は、持統3年(689年)の草壁皇子挽歌である(『万葉集』巻二 167~170)

 → 複数の皇子・皇女に歌を奉っているため、特定の皇子に仕えていたともいえないという

・石見国で亡くなったとみられる(『万葉集』巻二 223~227による)

 → 石見国の妻・依羅娘子(よさみのおとめ)らによって詠まれた歌がある(下記「人麻呂を追悼する挽歌」参照)

参考サイト:柿本人麻呂(Wikipedia)

高津柿本神社の社伝による説

・人麻呂は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の小野氏の庶流の柿本氏の出身である

 → 柿本氏は石見小野郷の地に小野氏の縁戚を頼って移住し、人麻呂は小野の地に誕生したとされる

・青年時代に都に上り、持統天皇・文武天皇の両朝に宮廷歌人として仕えた

・後に石見国の役人として赴任し、製紙業を広めて地元の産業の礎を築いた

 → 石見地方で製造される「石見半紙」は その流れを汲むものとされる

・鴨島の地で、神亀元年(724年)3月18日に逝去した

 → 「鴨山の 岩根し枕ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」の歌を残したとも

・死後、文武天皇の勅命によって終焉地である鴨島に「人丸社」が創建された

 → 万寿3年(1026年)に起こった大地震の影響によって水没したとされている

 → 鴨島の人丸社の御神体は漂着したため、それを継承する神社として高津柿本神社となったという

参考資料:高津柿本神社縁起

戸田柿本神社の社伝による説

・人麻呂は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の柿本氏の出身である

 → 柿本氏の同族には、春日族、小野族、櫛代族の一部がいるとも

・人麻呂は柿本氏某と語家(綾部家)の女の間に生まれた

 → 幼くして父を失ったため、母方の語家に養育されたとも

・語家に通った70代の老翁が、幼少期の人麻呂に書を授けたという

・人麻呂は若くして 歌を詠み、詩を作り、弓馬の術を身に着けていたという

 → 生誕~出仕以前までの人麻呂の様子が文献に記録されているとも

  ⇒ ただし、これ以降は明らかではなく、死後までの具体的な仕様は無い様子

・人麻呂は30歳前後の時に出仕したとされる(これについては推定)

・晩年は鴨島で逝去したという説を採る

・死後、語家によって人麻呂の御廟所が設けられた

 → 遺髪を埋めたため「遺髪塚」とも

参考サイト:戸田柿本神社(公式)、戸田柿本神社(当ブログ記事)

和爾下神社・極楽寺の伝承による説

・人麻呂は第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤で、和爾氏の末裔に当たる柿本氏の出身である

・人麻呂は柿本氏の氏寺である柿本寺周辺で生まれた

・宮廷歌人として高市皇子や草壁皇子の挽歌を作るなど宮廷歌人として活躍した

・晩年、終焉地については不詳

参考サイト:極楽寺

柿本神社(葛城市)の伝承による説

・人麻呂は柿本邑出身の石見守・柿本宗人と当村の女の間に生まれた

・依佐良姫を娶って当地で没した

 → 依佐良姫の墓は根成柿村の天満神社の境内にあるという

参考記事:柿本神社(柿本山影現寺)

石見国風土記によるもの

・天武3年8月(676年)、人麻呂は石見国守に任命された

・同年9月3日、左京大夫四位上行に任命された

 → 左京大夫四位上は文武朝で成立した官位であるため、時代が合わないと云われる

・翌年(677年)3月9日、正三位兼・播磨国守に任命された

 → 明石の柿本神社は、この内容に基づくとしている

・以来、持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙の期間に至り、七代に渡って朝廷に仕えた者である

 → 孝謙天皇の即位は天平21年(749年)である

・持統天皇の時代に四国の地に配流にされ、文武天皇の時代に東海のほとりに左遷される

・子息の躬都良(みつら)は隠岐の島に流され、ここで死去する

その他の伝承によるもの

・人麻呂は戸田の柿の木の元に現れた神童であり、家も両親も無かったため、語家に引き取られた(益田の民話)

・人麻呂は播磨に流されたが、異国より鬼人が来たため、和歌で追い払うよう勅命が下った(八幡人丸神社の社伝)

参考記事:柿本人麻呂の伝説(まとめ)、柿本人麿伝承岩(足型岩・聖なる岩)

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人麻呂を追悼する挽歌

・223:鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ

 → 柿本朝臣人麿の石見国に在りて臨死らむとせし時に、自ら傷みて作れる歌

・224:今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に[一云、谷に]交りて ありとはいはずやも

 → 柿本朝臣人麿の死りし時に、妻の依羅娘子の作れる歌

・225:直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ

 → 柿本朝臣人麿の死りし時に、妻の依羅娘子の作れる歌

・226:荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げけむ

 → 丹比真人が柿本朝臣人麻呂の心を推し量り、代わって応えた歌一首

・227:天離る 夷の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けりともなし

 → 作者いまだ詳らかならず(妻の立場に立った歌で、人麿物語の伝誦管理者の歌と推定される)

歌人としての柿本人麻呂

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

歌人としての特徴と評価

柿本人麻呂の歌人としての特徴と評価は以下の通りです。

・『柿本人麻呂歌集』『万葉集』などに多数の和歌を残している(370首以上とも云われる)

・『万葉集』第一の歌人といわれ、後に「歌聖(かせい)」と仰がれた

・和歌に枕詞、序詞、押韻などを駆使しており、格調高い歌風であると評価される

・讃歌・挽歌・恋歌に特徴があるとされる

・「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる

人麻呂の代表歌

歌人・柿本人麻呂の代表歌には以下ものが挙げられています。

・48:東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

・47:ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

・255:天離る 夷の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ

・266:近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ

参考記事:柿本人麻呂の詠歌(『万葉集』まとめ)

人麻呂の諸国放浪

歌人・柿本人麻呂のゆかりの地とされる地域は以下の通りです。

・群馬県:『万葉集』巻十四 3417

・栃木県:人丸神社(佐野市)の社伝には、当地に人麻呂が訪れたと伝えられる

・三重県:『万葉集』巻一 40~42、巻二 199~201

・滋賀県:『万葉集』巻一 29~31、巻二 217~219

・京都府:『万葉集』巻三 264、華台寺にある伝承によれば「巨椋池」についての歌を詠んだとも

・大阪府:『万葉集』巻三 249

・奈良県:『万葉集』巻一 、巻二、巻三、巻四、巻七、巻九、巻十から多数(宮廷歌人としての本拠)、社寺伝承ほか

・和歌山県:『万葉集』巻二 146、巻四 496~499、巻九 1796~1799

・兵庫県:『万葉集』巻三 249~256、巻四 303~304、巻十五 3609、石見国風土記ほか

・岡山県:『万葉集』巻二 217~219

・島根県:『万葉集』巻二 131~137 223~225、巻七 1248~1250、神社伝承・鴨島伝承・民話ほか

・香川県:『万葉集』巻二 220~222

・大分県:『万葉集』巻九 1710~1711

参考記事:柿本人麻呂の詠歌(「地域別」まとめ)、柿本人麻呂にまつわる全国の神社仏閣(まとめ)

祭神としての柿本人麻呂

人文研究見聞録:柿本人麻呂とは?(柿本人麿の概要・経歴まとめ)

人丸信仰

柿本人麻呂は、死後「人丸神」として多くの社寺で祀られるようになったとされています。

その信仰は、生前の実績に因んで「和歌の神」「文学の神」とされるものや、名前の「人丸」に因んで「火止まる」として「防火の神」、「人生まる」として「安産の神」など多数存在します。

また、信仰される地域についても多岐に渡っており、特に群馬県・栃木県の一部、奈良県の一部、島根県西部、山口県全域などで盛んに信仰されているようです。

なお、調べてみると意外に人麻呂のイメージの無い地域で祀られているケースが数多く見られます。

参考記事:柿本人麻呂にまつわる全国の神社仏閣(まとめ)

人丸神について

人丸神として崇敬された柿本人麻呂は、以下の様な神として祀られています。

・和歌の神:特に優れた歌人であったことから(和歌三神の一柱でもある)

・学問の神:和歌の名手ということにちなんで「文学の神」とされることから

・芸能の神:和歌の名手であったことから

・防火の神:「人丸」と「火止まる」をひっかけたことから

・安産の神:「人丸」と「人生まる」をひっかけたことから

・商業の神:人麻呂を「龍神」とし、商業の神とされることもある

・漁業の神:人麻呂を「龍神」とし、漁業の神とされることもある

・産業の神:石見国守として製紙業を広めたと云われることから

・疫病除け神:詳しい理由は不明だが、高津柿本神社の人丸神は疫病除けの神として霊験あらたかとされている

・眼病平癒の神:明石の柿本神社の人丸神が盲人の目を治したとされることから

・水難除けの神:鴨島伝承や水刑死説にまつわるものとされる

・夫婦和合の神:和歌に妻を思って詠んだものが多いことから

・縁結びの神:同上

・生活の守護神:石見国守として製紙業を広め、石見の民の生活を安定させたと云われることから

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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