Facebook斉藤 一治さん投稿記事
人類最古の物語「ギルガメシュ叙事詩」によりますと、約4600年前のこと、メソポタミアにあった都市国家のギルガメシュ王は、レバノンスギ欲しさに、森の神・フンババを殺しました。
これ以来「西洋」の「神」は滅亡して、悪魔に支配されています。
「汝らに従わぬ国と民は滅び、それらの国土は荒涼として廃れる。
光は、シオンより来るだろう」
現在は悪魔によって「騙しの世界」になっています。
物質主義
合理主義
快楽主義
に溺れ奴隷となり、搾取されています。
本来、自然界には自由・平等・博愛はありません。
マスコミが伝えることを信じてはいけません。
金利を認めますと自らを破滅させます。
精神的に豊かになり、明るく笑って陽氣暮らしをしましょう。
https://shinjuku-shalom.com/archives/7025 【主の園のように(イザヤ51章、ピリピ2章)】より
■S:今日の聖書の言葉イザヤ51章3節(イザヤ23章)
★まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、
その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
■O:今日のコラム
今、自分の人生や人間関係には、楽しみ、喜び、感謝、歌声があふれていますか?命にあふれ、潤った、エデンの園のようでしょうか?
それとも、砂漠や荒野のように、乾いて、石ばかりで、生き物が育つことができない寂しいところとなっているでしょうか。
もし、私たちの人生や、人間関係が今まだ砂漠のようだったとしても、聖書には素晴らしい希望の約束があります。
私たちは永遠の滅びから救い出されただけでも十分過ぎる恵みを受けましたが、その上に、イエス様の十字架の贖いによって、罪の結果であるすべての呪いが打ち砕かれ、命のあふれる祝福が約束されるようになりました。
砂漠のように荒れ果てていた(いる)私たちの人生、人間関係、教会の中に、いのちを与える水があふれ流れ始め、そこは、エデンの園のように、主の園のように、命で潤い始めるという約束です。
シオンとは、もともとエブス人の要害でしたが、ダビデがそこを攻め取った後、ダビデの町と呼ばれるようになりました。(2サムエル5:7)
聖書をさらに読むと、エルサレム、シオンを並べて、同じように使っている箇所もあります。
シオンは、ダビデの幕屋が建てられた場所。エルサレムは神殿が建てられた場所。
どちらも、主を愛する者たちが主を礼拝し、主が住まわれる場所、です。
今の時代、主は、どこに住まわれるのでしょう?
聖書が「シオンが慰められる」(イザヤ51:3)、という時、実際のイスラエルに回復がある/あった、ということもその通りだと信じますが、信仰によって主の住まいとなった人々、その人々の集まり、その人々が主を礼拝するところ、その礼拝をも表していると信じます。
ダビデの心を持った真の礼拝者たちが、ダビデの方法に従って主を礼拝するところ、そこを主は、どこよりも愛して、そこに住むと言ってくださっています。
今、霊とまことによって主を礼拝する者達の上、主を愛して主の戒めを守る者達の中、全力で主を愛し、主の愛を受け、その愛で隣人を愛する人たちの中に、主が聖霊により御臨在を表してくださっていますが、そここそ、主のシオンだと信じます。
主はそこに、慰めを与え、そこを園のように潤してくださるのです。
■A:考えてみよう
イエス様の十字架を信じて、今日も自分が天のお父さんの愛する子どもであることを感謝しよう。神様の愛にいっぱいに満たされるよう、主の御顔を慕い求め、待ち望もう。
神様を愛し、神様の愛で隣人を愛し、光の内を歩み、主のシオンとなれるよう求めよう。
私たちが主を愛する時、ダビデの心で主を礼拝する時、私たちが主の園のように慰められ、潤った園のように、楽しみ、喜び、感謝と歌声が私と私の兄弟姉妹の中にあふれることを期待しよう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン
https://ameblo.jp/neko-sonotoki/entry-12833730345.html 【天照大御神とセツ 「高天原とエデンの園」】より
https://www.youtube.com/watch?v=vzEYbbLDw58&t=1s
【 アダムとイブの子供 】
エデンの園を追われたアダムとイブの間に生まれたのがカインとアベル。カインは農耕を行い、アベルは羊を放牧することに従事していました。神に愛されるアベルへの嫉妬心から、カインはアベルを殺害してしまい、二人は人類最初の殺人の加害者・被害者となります。神Godは、アベルの代わりとして、アダムとイブにセツを授けます。
【 イエスの磔刑とカイン、アベル、セツ 】
このカイン、アベルそしてセツの話しは、イエス磔刑の場面の、十字架上のイエス、右盗、そして左盗の原型のように思えます。アベルを死に追いやったカインとは、人間の愚かさの象徴(左盗)であり、カインに殺されたアベルとは、人間の愚かさ故に十字架に架けられたイエスであり、そしてセツはイエスの犠牲の上に救われた魂の象徴(右盗)のように思えます。
これに関連して、中世のキリスト教伝承(伝説)に、「セツはエデンの園に渡った(wikipediaエデンの園)」というものがあります。セツが渡ったエデンの園とは、仏教的には東の浄土であり、唯識的には阿摩羅識縁起の世界の意味だと思います。
【 天照大神とセツ 】
以上を踏まえて、アマテラス(Amaterasu)のアナグラムの中にセツ(Setu)を含むものがあることに注目してみます。
Amaterasu ⇒ Setu + Amara
このアナグラムは、天照大御神がエデンの園を渡ったセツの、そして天照大御神が統べる高天原がエデンの園の意味である事を示しているように思えます。それは高天原とエデンの園が、阿摩羅識が造り出す浄土である事をも意味します。
前回の記事で見たように、アマテラスのモデルをシュメール神話の神・mulu-edin(女神イナンナの夫・ドゥムジドの別名)だと考えたとき、アマテラス(Amaterasu)の中に含まれる”T + AAA”の4文字は、イエス磔刑の原型、すなわちカイン(左盗)とアベル(イエス)とセツ(右盗)の象徴だと考えられます。
Mulu-edin 508 594 99
Amaterasu 508 594 99
Amaterasu ⇒ Sumer + T + AAA
【 結論 】
全て推測ですが結論としては次のようになります。
天照大御神とはエデンの園へ渡ったセツであり、天照大御神(セツ)のモデルはシュメール神話の神・mulu-edinである。
イエス磔刑の場面の左盗・イエス・右盗の3人は、アダムとイブの3人の子供カイン・アベル・セツを原型とするものである。
ベストアンサー poo********さん
{{otheruses|エデンの園}}
http://rimaroom.img.jugem.jp/20080708_345734.jpg
[[Image:Cranach.jpg|thumb|right|400px|クラナッハによるエデンの園]]
'''エデンの園'''(エデンのその、[[ヘブライ語]]Gan Eden, גן עדן、{{lang-en-short|Garden of Eden}})は、[[旧約聖書]]の『[[創世記]]』(2:8-3:24)に登場する[[理想郷]]の名。楽園の代名詞になっている。[[パラダイス]]とも言う([[ラテン語]]ではパラディースス、[[ギリシャ語]]では、パラデイソス)。'''地上の楽園'''とも言う。
==創世記の記述==
『創世記』の記述によればエデンの園は「東の方」 (2:8) にあり、[[アダムとイヴ]]はそれを管理するためにそこにおかれ、そして、食用果実の木が、園の中央には[[生命の樹]]と[[知恵の樹]]が植えられた。
また、エデンから流れ出た1つの川は、4つの川(良質の金とブドラフと縞メノウがあったハビラ全土を流れるピション川、クシュの全土を流れるギホン川、アシュルの東を流れるヒデケル川、[[ユーフラテス川]])に分かれていた。
[[ヤハウェ]]・エロヒム(=[[エール]]の複数形 主なる神と訳される)はアダムとイヴが禁じられていた知恵の木の実を食べたことから「人はわれわれのひとりのようになり」、その後、生命の樹の実をも食べ永遠に生きることをおそれ、エデンの園を追放する([[失楽園]])。生命の樹を守るため、ヤハウェ・エロヒムはエデンの東に[[智天使|ケルビム]]ときらめく[[炎の剣]]をおいた。
== 文学と伝承 ==
[[ダンテ・アリギエーリ]]の叙事詩『[[神曲]]』では、煉獄山の山頂にエデンの楽園があり、天国に最も近い場所となっている。
なお、エデンとは[[ヘブライ語]]で快楽、[[アッカド語]]で園という意味である。この過程でキリスト教徒たちはエデンの園を、パラダイス、神が存在する地上の楽園と考えたのである。しかし同じ系統である[[ユダヤ人|ユダヤ教徒]]や[[ムスリム]]にはその様な概念はない。
[[中世]]のキリスト教伝承では、アダムの三男[[セツ]]がエデンの園に渡ったと言う[[伝説]]が生まれた。
==エデンの場所==
エデンがどこであったのかについては、古来、様々な場所が主張され、議論されてきた。
その中には、創世記に典拠がみとめられないものも少なからずある。
なお、多くの説では、エデンが[[アルメニア]]の近くにあったと主張している。
またユダヤ教の伝承によれば、エデンはアルメニアの現在の首都[[エレバン]]にあったという。エレバンの近くには[[ノアの箱舟]]が流れ着いた場所との説がある[[アララト山]]がある。
他に、紀元前6000年頃は海面はもっと低かったため、現在は海となっている[[ペルシャ湾]]やメソポタミア南部に比定する説も有る。
<!--英語版より-->
https://www.nohkai.ne.jp/tyorei/?p=3224 【フンババ】より
中学1年生の歴史の授業で最初に出会う「世界四大文明」の中の1つに、現在のイラク、シリア、トルコにまたがって発展した「メソポタミア文明」があります。
私たちは普段「1時間=60分」のように60を1単位とする「60進法」を用いていますが、これはメソポタミア文明で発明されたものです。
このメソポタミア文明に伝わる神話の中に、『ギルガメシュ神話』というものがあります(ギルガメシュというのは古代メソポタミアの王の名前です。)。
今回は皆さんに『ギルガメシュ神話』の中の一部を紹介します。
ギルガメシュが王に即位して最初に行ったことは、“森の怪物”フンババとの対決です。
ただ、「怪物」というのはあくまでギルガメシュ側の見方であり、本来のフンババは樹齢数千年を誇る杉が繁い茂る森林を長年守り続けてきた“森の王”でした。
ギルガメシュとフンババの闘いの最後の様子が次のように記されています。
ギルガメシュは手に斧を取り一本の杉を切り倒すと、…(中略)…森の王フンババが叫ぶ。
「いったいだれがやって来たのだ!いったいだれが私の山にはえた杉の木を切り倒したのだ!」
フンババの眼から滝のような涙がこぼれ落ちた。
ギルガメシュは天の神シャマシュに祈った。シャマシュはギルガメシュの祈りを聞きとどけ、大いなる風をフンババに送った。
フンババは前にも後ろにも進むことはできなかった。
フンババはついにギルガメシュにこう言った。
「私はここを去ろう。ギルガメシュよ、わが主となれ。私はそなたの家来になろう。私が育てた杉を切り倒し家を建ててはどうか。」
ギルガメシュは迷った。
どこからか声がした。
「フンババを殺せ。生かしてはならぬ。」
その声は友のエンキドゥだった。
ギルガメシュはフンババの首筋に斧を振り下ろした。
次にエンキドゥが、二度斧を向けた。
杉の大樹の悲鳴が二度聞こえた。
こうして森の王フンババは打ち倒された。
辺りを静寂が支配した。
※出典 矢島文夫訳「ギルガメシュ叙事詩」(ちくま文庫 1998年刊)
歴史のプロセスの中で人間は大自然に立ち向かい、未開の山野を切り拓き、都市を建設してきました。
そのおかげで、今、私たちは豊かな暮らしを送ることができます。
しかし、地球の視点から見れば、文明の始まりは破壊の始まりでしかなかったのでは?
フンババを殺す必要はあったのか??
人間ってそもそも何者???
そんなことを考え出すと、少し寂しい気持ちにもなってきます。
世界中で戦争、自然災害、感染症の拡大が絶えません。
私は最近、このまま行くと地球はなくなるのではないかと、本気で考えるようになりました。
きっと、私たちの身の回りにはフンババのようなかけがえのない存在がまだまだたくさんあるはずです。
そうしたものに一つでも多く気づき、大切にしていかなければなりません。
そのためにも、地球上で世界が抱えている課題を皆さんと一緒に学び、自分にでもできる具体的なアクションを起こしていきたいと思います。
https://plaza.rakuten.co.jp/labkeiko/diary/200309170000/ 【「もののけ姫」とギルガメシュ】より
「ギルガメシュ叙事詩」が「もののけ姫」と関連があるって?
「もののけ姫」は屋久島、「千と千尋の神隠し」は信州の遠山郷(霜月祭のあるところです)の自然をとったということは聞いていたし、実際行ってみて、神がかったところという印象をもった。でも「ギルガメシュ」からとったなんて知らなかった。実は宮崎駿の作品はよくわからない。何回も何回も見ている人からはあきれられそうだ。こどもたちが夢中になるのも、よくわからない。
以下はJAのHPからのもの:
『レバノンからシリア、トルコの山々はかつて、豊かなレバノン杉の森でした。「ギルガメシュ叙事詩」によると、レバノン杉の森はどう猛な森の神フンババが守っていて、人間は一歩も近づけませんでした。
ギルガメシュは森に遠征し、フンババを殺しました。以来、人間が自由に木を伐り出すことができるようになったといいます。乱伐が繰り返され、森は消え、文明は滅びました。今はハゲ山が連なるのみです。
まさに「山高(やまたか)きが故(ゆえ)に貴(たっと)からず 樹有(きあ)るを以(もっ)て貴(たっと)しとす」の感です。樹木は雨水を一旦貯え、少しずつ流してくれます。洪水防止や水源涵養など、私たちに計り知れない恵みと安全な暮らしをもたらしてくれます。水田にも同じような働きがあります。こういった働きを維持するためには、人が住み、手入れをしていかなければなりません。』
エンキムドゥが「たたら場」のエボシ様、フンババがシシ神、首を落として桶に詰めるところまで同じ。ギルガメシュ叙事詩では、フンババが殺されたあと「ただ充満するものが山に満ちた」と書かれている。「もののけ姫」では、シシ神の体から流れ出たどろどろのものが山を焼き尽くす。 エンキムドゥは祟りで死にますが、エボシ様は、狼の神モロに片腕を食いちぎられる。
どうしてJAのHPから引用したかというと、ラボの評議員である東京大学名誉教授の高橋裕先生は 国際連合大学 上席学術顧問(環境と持続可能な開発プログラム)・世界水会議(World Water Council)理事でもあられる。以前会議で隣席になった時は、この話を知らず、先生は講演で日本をまわっていられると聞いただけだった。水・森林・人というテーマで、チグリス・ユーフラテスやレバノン杉のことをお聞きしたいものだと思ったから。ラボの国際交流は幅広く奥深いものだと実感しています
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