http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter2-12.html 【③倭漢氏の大罪 】より
倭漢(東漢)(やまとのあや)氏の祖は応神大王の時代(3〜4世紀初頭?)に百済(安羅国)から渡来した阿智使主(あちのおみ)の後裔で、檜隈(ひのくま)に住み着いた技術者集団の名称です。使主は後世の臣(おみ)で、檜隈は明日香村の西部になる丘陵地帯で、北を高松塚古墳・文武天皇陵、南をキトラ古墳にするあたりの地区です。
単一部族ではなく、血縁もばらばらで、移住者たちが祖先の伝承をもとにまとまっていった多部族の集合体でした。
阿智使主を祀るのが於美阿志(おみあし)神社で、東漢氏が氏寺として建てた檜隈寺の跡地にあります。於美阿志の名称の由来は不明ですが、「使主阿智」が訛化した音に文字を当てたものではないかと思われます。
東漢と倭漢もどちらも「やまとのあや」ですが、大まかには敏達紀くらいまでは東漢で、推古期以降は倭漢と記されることが多くなります。
河内を本拠地にしていた西漢(かわちのあや)氏は河内漢、川内漢とも記されて、東漢氏と区別するために西漢とされるようになりましたが、祖は別で倭漢氏よりあとに渡来したようです。また信憑性が疑われますが、応神期に百済から論語(儒教)と千字本(漢字)を伝えたとされる王仁(わに)を祖にする西文(かわちのふみ)氏が西漢氏に含まれるとする説がありますが、倭漢氏も西漢氏も直(あたい)姓で、西文氏は首(おびと)姓ですので、漢氏とまったく別の氏族と見た方がよさそうです。これは加藤謙吉氏の説です。
しかし別の漢人グループの中に、やはり地名を冠した高向漢人や忍海漢人もあり、区別が不明瞭で彼らが同族であったかどうかも不明ですが、後漢の霊帝の子孫とするのは漢の文字から彼らがのちに作った伝説です。
居住地域と趨勢からすると西漢氏は物部氏派で倭漢氏が蘇我氏側だったと考えられ、倭漢氏が渡来以来、蘇我宗家に直接に従って技術と軍事の両面で支えた大集団だったことはまちがいなく、宗家滅亡後も後世まで漢氏の大勢は倭漢氏が占めました。
なお、東漢直の姓は東漢掬(5世紀後半)が賜ったもので、下に記す東漢直駒のあとで宗家が一時的に衰退したあとは分家の坂上氏が宗家を受け継いだと考えられています。また、坂上氏の祖になる坂上直駒子が東漢駒だったとも思われます。
そして、「天武紀」六年(677年)六月、天皇が東漢直たちに対して、「汝等(なんじら)党族は今までに七つの悪逆を犯している。小墾田の御世(推古大王の時代)から近江朝まで常に汝等が謀(はか)り事を為してきた。朕の世に当たり罪に処そうと思ったが、漢直の血筋を絶やさないために、大恩を下す。以後罪を犯す者は赦(ゆる)さない」と勅したことを記しています。
「東漢直等」、「汝等」の「等」は枝族を指すと考えられますが、それよりもその発言で重要なのは、推古大王の時代を「御世」としながら、先帝のときを単に「近江朝」としたことです。これは天武天皇が蘇我氏だったことと、近江朝に対する認識が違っていたことを、はっきりと見せつけています。
また「近江朝」の文字は、中大兄皇子による近江遷都から、『紀』の「天智紀」までではなく、大友皇子の死を記す「天武紀」の即位前記(巻第二十八)までを含めた期間を示しているとみなせると同時に、「近江朝」が天智朝だけでなく大友朝もあったことを、ここでも暗示しているものと考えられるのです。
そして、天武十一年(682年)五月には、倭漢直(あたい)の人々に連(むらじ)の姓を授けたという記事があります。その2年前から功のあった17名が連姓を受けていますが、それらは個人であって、天皇が一族全員に姓を与えたのはこれが始めてです。川内漢直を含む38氏が連姓を与えられたのはそれから1年以上たってからです。
さらにその1年後(684年)に「八色の姓」が定められたのですが、その時に阿智使主の直系の子孫は他の倭漢氏と区別されて、書連氏、河内漢氏らと共に第4位の姓「忌寸」(いみき)が授けられました。
いずれにしても、天皇がすべての氏族の中で倭漢氏だけを取り上げて責め、許したことから、天武天皇は倭漢氏を特別扱いしていたことが理解できます。
このことから、即位前の天武天皇は、「漢皇子」が成人した「漢王」として倭漢氏を直接統(す)べる立場にあったとみなすことができます。
そして、倭漢氏が推古大王の時から悪逆を犯しているというその記事は、「乙巳の変」で蝦夷の館で焼けたとされる『大王記』(天皇記)、あるいは焼ける前に持ち出されたとされる『国記』が天武天皇の時代まで存在していた可能性を示す、興味深いものです。
倭漢氏が謀り事に加わって犯したと思われる罪を列記すると、以下の事件が記されています。この内に七つの大罪が含まれているものと思います。
(1) 崇峻五年(592年):東漢直駒が泊瀬部皇子の暗殺を実行したこと。
※馬子の指示が推定されますが、馬子の意向を汲んだ駒の単独犯罪だった可能性も考えられ ます。しかし理由を問わず、臣下が皇子を手に掛けたのは大逆です。
(2) 同年:東漢直駒が皇子の后だった河上娘(河上娘)を馬子に返さずに自分のものにしたこと。
(3) 推古三十八年(628年):舒明大王擁立のために泊瀬王(はつせのみこ。山背大兄皇子の異母弟)の急死させたこと。(推定)
(4) 同年:境部摩理勢の襲撃に加わって絞殺したこと。(推定)
(5) 皇極二年(643年):倭馬飼首が将軍になって山背大兄皇子を襲撃したこと。
※入鹿の命も受けずに中大兄皇子派の陰謀に加担させられたと推定されます。
6) 皇極四年(645年):中大兄皇子派に抱き込まれて入鹿殺害の手先になったこと。(推定)※古人大兄王が「韓人(からひと)が鞍作臣を殺した」ということばが解かれておらず、「韓の貢 のために入鹿が殺されたとの意味か」、という注記がありますが、韓と漢はどちらも同じ意味で使われることがありましたので、漢人が殺害に直接加わった可能性も否定できません。
(7) 同年:高向国押の甘言に乗って警護していた蝦夷の館の守りを解いて、蝦夷を死なせたこと。
(8) 大化元年(645年):古人大兄皇子襲撃に倭漢文直麻呂などが加わって討伐したこと。
(9) 大化三年(647年):倭漢直荒田井比羅夫が用水路の工事で難波に水を引いて、百姓を疲労させたこと。
※用水路の工事を進言しておいて水の引き先をまちがえることは考えられませんので、誰かの
指示を受けた難波に対する何らかの妨害だったものと考えられます。
(10) 斉明五年(659年):遣唐使になった西漢大麻呂が皇帝高宗(こうそう)の客人を讒言したために、客人らが流刑になったこと。
(11)斉明七年(661年):東漢草直足嶋が耽羅(たんら。済州島)が初めて送ってきた使人を讒言したために、使人が唐から厚遇を得られなかったこと。
(12)天武元年(672年)即位前:樟磐手(くすのいわて)が近江側の刺客になり、吉備国主だった当麻広嶋(たいまのひろしま)を殺したこと。
※樟磐手は使主(おみ)と記されているから、倭漢氏だったと推定されます。また当麻広嶋は用 明の孫で、大海人皇子派の重鎮だったと推定されます。
(13)同年:「壬申の乱」で倭漢氏の全員が天皇側にならず、一部が近江朝側にも分かれたこと。※天武天皇側で働いた倭漢氏に属する人々は、書智徳(ふみのちとこ)、書根麻呂(ふみのねまろ)荒田尾赤麻呂(あらたおのあかまろ)、民大火(たみのおおひ)、民小鮪(たみのおし び)、長尾真墨(ながおのますみ)、大蔵広隅(おおくらのひろすみ)、坂上老(さかのうえの おきな)、坂上国麻呂(さかのうえのくにまろ)、坂上熊毛(さかのうえのくまけ)、路益人(みち のますひと)、調淡海(つきのおうみ)、倉墻麻呂(くらかきのまろ)、谷根麻呂(たにのねまろ) など、多の人物が見受けられます。
※大友皇子側には蘇我の重臣の他、書薬(ふみのくすり)、斬られた武将の谷塩手(たにのし
おて)、忍坂大摩呂らが倭漢氏の枝族です。
(1)は『紀』では「推古紀」の直前ですが、既述の通り崇峻大王の即位が疑問視され、敏達大王崩御後から「小墾田の御世」だったと想定されることから、これを最初にしました。(2)の罪は(1)と別ですが一連の事件とみなせます。
(3)は証拠不十分ですが、皇子が毒殺された可能性は高いと考えられます。(4)は宗家蝦夷の命令に従った蘇我一族内の問題なので、大罪から除外します。(5)は厩戸皇子一族の皇統の滅亡になったので、大罪とみなします。(6)と(7)は一つの事件と捉えられ、(6)は証拠不十分ですが蘇我宗家を滅亡させた大罪とみなします。(6)から(8)は裏にいた中大兄皇子と鎌足に利用された事件ですが、(8)は宗家滅亡後の皇子に対する反逆罪になります。(9.)~(11)は皇室に直結するものではなく、大罪とするには不十分だと思われます。(12)は(13)に受け継がれる事件ですが、倭漢氏が近江朝側に従って、天武朝で重鎮になりえた皇族を刺殺しており、(13)の従軍しなかった人物とは別扱いの大罪とみなしました。
結果、(1+2)・(3)・(5)・(6+7)・(8)・(12)・(13)の、大罪として責められるに値するとみなされる、7つが残ることになりました。
それらの事件では倭漢氏の一部が主導的にあるいは利用されて謀略に加わことで大罪を犯したのですが、そのために天武天皇が実現したとも言え、また乱が終るまでに倭漢氏の全員を従わせられなかった天皇の自分に対する責めもあって、一族の過去が許されたのかもしれません。
天武天皇が血縁のない倭漢氏を特別扱いしたのは、当時最大の製鉄や建築・造営の技術者集団であり軍事氏族だったからという理由だけで説明しきれないのは、天武天皇を蘇我氏の出また倭漢氏が蘇我氏に従っていたことを避けた見方だと思います。
天武天皇は吉野に隠遁する前に天智大王に対して、倭姫王を次の大王に推すように進言しましたが、倭姫王はその名称から、倭王古人大兄皇子の娘として倭漢氏に養育されたと考えられますので、そうなるとこれも一族を罰から除いた理由に挙げられます。
この見方を変えると、生前の古人皇子は東漢氏の統率者だったと考えられますので、天皇即位前の漢王即ち大海人皇子がその職掌を受け継いでいたと理解されます。
つまり、天武天皇が大罪を犯した倭漢氏を絶やせなかった別の大きな心理的な理由として、
東漢氏の統率者として、天武天皇は尊崇していた古人皇子の後継者だったという、誇りと責任感があったことが見い出せることになりました。
古人皇子が生存中は倭漢氏を統べる「倭王」だったと考えられますから、大海人皇子が漢皇子を名乗ったのは、恐らく古人皇子が東宮を退いた日、つまり孝徳大王即位直前(645年)の6月14日だったと推定されます。
蛇足ですが同様に、中皇子が中大兄皇子を称することにになったのは、古人皇子が殺された同年11月だったと思われます。
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