崇峻天皇:暗殺された唯一の天皇、その謎に迫る

https://ameblo.jp/toys1976/entry-12851583557.html 【崇峻天皇:暗殺された唯一の天皇、その謎に迫る】より

ブログを読んで頂き、ありがとうございます。

今回は崇峻天皇について、解説記事を作成してみたいと思います。よかったら、読んでみてください。

序章:暗殺の陰に隠された真実

崇峻天皇は、日本の歴史上、唯一暗殺された天皇として知られています。彼の時代は、政治的な対立や宗教の変革期であり、教科書でも取り上げられることが多いですが、詳細なエピソードはあまり語られていません。この記事では、崇峻天皇の基本情報から、知られざるエピソード、さらに彼にゆかりのある場所を掘り下げていきます。歴史の裏側に隠された彼の物語に興味津々で迫りましょう!

基本情報と教科書📖での紹介

名前:崇峻天皇(すしゅんてんのう、? - 592年

在位:587年 - 592年

出身:欽明天皇の皇子

即位の経緯:蘇我馬子によって擁立されるも、後に暗殺

教科書では、崇峻天皇は蘇我馬子の支援で即位し、政治的緊張の中で暗殺されたことが紹介されています。

知られざるエピソードと背景

暗殺の背景:崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されたが、後に彼の影響力を嫌い、政治的な緊張が高まった結果、暗殺されたとされています。特に、猪の目を刺しながら「憎い者もこのようにしたい」と発言したことが、暗殺の直接的な引き金になったと言われています。

仏教の推進者:崇峻天皇の時代には、仏教が大きく発展しました。蘇我氏の支援を受け、法隆寺や四天王寺などの重要な寺院が建立され、仏教が国家宗教として確立される過程に貢献しました。

崇峻天皇ゆかりの地

倉梯岡上陵(くらはしのおかのえのみささぎ):奈良県桜井市倉橋にある崇峻天皇の陵墓です。天皇が葬られた場所とされ、歴史的な遺産として保存されています。

法隆寺(ほうりゅうじ):崇峻天皇の時代に建立された寺院で、仏教の重要な拠点として知られています。彼の仏教推進の象徴的な場所です。

四天王寺(してんのうじ):大阪にある寺院で、崇峻天皇の時代に蘇我馬子によって建てられたとされ、仏教の庇護者としての側面を示しています。

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まとめ:歴史のミステリーに包まれた崇峻天皇

崇峻天皇の生涯は、単なる暗殺劇に留まらず、当時の日本の政治的、宗教的背景を浮き彫りにします。彼の物語を通じて、当時の日本の権力闘争や仏教の発展を深く理解することができます。崇峻天皇の謎を解き明かし、歴史の裏側に隠された真実に迫りましょう!🔍


https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428957310434 【『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(13) 蘇我馬子① 崇峻天皇殺害~推古朝初期】より

 古墳時代には大臣・大連の二頭政治で権力が分散していましたが、飛鳥時代に入り、物部守屋が討伐されると共に大連が消滅して大臣の蘇我氏が単独で政権を握りました。

 更に崇峻天皇が馬子の命により殺害され、馬子の権勢は天皇を凌ぐものになると思われましたが、推古朝に入ると初期から中期にかけて馬子独自の動きがあまり見られなくなります。

 一般的に横暴なイメージを抱かれやすい蘇我馬子ですが、果たしてそれだけなのでしょうか? 崇峻天皇暗殺の記事、そして推古朝初期の馬子の動きを見てみましょう。

 なお、推古朝における馬子の記事は多い為、三稿に別け、更に考古学的な知見は別稿でご紹介する予定です。

 なお、「丁未の乱」以前の馬子の記事は「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(12) 最後の大連 物部守屋」の①と②をご覧ください。

⑴『日本書紀』巻二一崇峻天皇五年(五九二)十月 丙子四日

五年冬十月癸酉朔丙子、有獻山猪。天皇指猪詔曰、何時、如斷此猪之頚、斷朕所嫌之人。多設兵仗、有異於常。

(五年の冬十月ふゆかむなづきの癸酉みづのとのとりの朔丙子ついたちひのえのねのひ、山猪ゐのししを獻たてまつるもの有り。天皇すめらみこと猪を指して詔して曰く、「何いづれの時にか、此の猪の頚を斷きるが如く、朕が嫌ねたしとおもふ所の人を斷きらむ」。多さはに兵仗つはものを設けたまひ、常のときに異なること有り。)

・概略

 崇峻天皇五年冬十月四日、猪を献上するものが有り。天皇は猪を指しておっしゃった、「何時の日か、この猪の頚を斬る様に、自分がにくいと思う所の人を斬りたいものだ」と。多くの武器を集める事が、いつもと異なることが有った。

⑵『日本書紀』巻二一崇峻天皇五年(五九二)十月 壬午十日

壬午、蘇我馬子宿禰、聞天皇所詔、恐嫌於己、招聚儻者謀弑天皇。

(壬午、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくね、天皇の詔りたまひし所を聞きて、己れを嫌ひたまはんことを恐れ、儻者やからびとを招き聚あつめて、天皇を弑ししまつらむことを謀はかる。)

・概略

 崇峻天皇五年十月十日、蘇我馬子宿禰は天皇が仰せられた言葉を聞き、自分を嫌っておられる事を恐れ、一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。

⑶『日本書紀』巻二一崇峻天皇五年(五九二)十一月 乙巳三日

十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於羣臣曰、今日、進東國之調。乃使東漢直駒弑于天皇。〈或本云、東漢直駒東漢直磐井子也。〉是日、葬天皇于倉梯岡陵。〈或本云、大伴嬪小手子、恨寵之衰、使人於蘇我馬子宿禰曰、頃者、有獻山猪。天皇指猪而詔曰、如斷猪頚、何時斷朕思人。且於内裏大作兵仗。於是馬子宿禰聽而驚之。〉

(十一月しもつきの癸卯みづのとのうの朔乙巳ついたちきのとのみのひに、馬子宿禰、群臣まへつきみを詐いつはりて曰く、「今日、東國あづまのくにの調みつぎを進たてまつる」。乃ち東漢直駒やまとのあやのあたひこまをして天皇を殺したてまつらしむ。〈或本あるふみに云く、東漢直駒は東漢直磐井やまとのあやのあたひいはひの子なり。〉是の日、天皇を倉梯岡陵くらはしのをかのみささぎに葬をさめまつる。〈或本に云く、大伴嬪小手子おほとものみめのをてこ、寵めぐみの衰へたるを恨み、人を蘇我馬子宿禰のもとに使やりて曰く、「頃者このごろ、山猪ゐのししを獻たてまつるもの有り。天皇猪を指して詔して曰く、『猪の頚を斷きるが如く、何れの時か朕が思ふ人を斷らむ』と。且また内裏おほうちに大に兵仗つはものを作る」。是に於いて馬子宿禰聽きて驚く。〉)

・概略

 十一月三日、馬子宿禰、群臣まへつきみを偽って言った、「今日、東國あづまのくにから調物をたてまつってくる」。そして東漢直駒やまとのあやのあたひこまに天皇を殺させた。〈或本あるふみに云く、東漢直駒は東漢直磐井やまとのあやのあたひいはひの子である。〉是の日、天皇を倉梯岡陵くらはしのをかのみささぎに葬った。

〈或本に云く、大伴嬪小手子おほとものみめのをてこは寵愛が衰えたことを恨み、人を蘇我馬子宿禰のもとに遣わして言った、「この頃、山猪を献上するものが在り、天皇は猪を指しておっしゃった、「何時の日か、この猪の頚を斬る様に、自分が思う人を斬りたいものだ」と。また内裏に多くの武器を集めています」と。是を聞いて馬子宿禰は驚いた。〉

・解説

 過去に安康天皇が眉輪王により暗殺されたと言う出来事がありましたが、眉輪王はまがりなりにも大王家の血筋で、皇位継承争いが絡んでいた場合が想定されますが、天皇が一家臣に暗殺されるという日本史史上でも極めて異例の事態が発生しました。

 物部守屋が穴穂部皇子を擁立しようとしても、他の敵対する皇族を弑逆する様な事は決して無かったのに対し、馬子があっさりと崇峻天皇を暗殺したのは、物部氏が大王に奉仕する役目にあった伴造から台頭した連の姓であり、大王に対する忠誠心が深い氏族であったのに対し、蘇我氏は武内宿禰の子孫を称し、地名を冠した臣姓の豪族であり、大王と外戚になる事で成り上がったという性質の違いがあり、忠誠心が比較的低かったのかも知れません。

 大伴嬪小手子おほとものみめのをてこは大伴糠手連おおとものぬかてこの娘です。或本の記事が事実であれば、小手子が崇峻天皇暗殺を馬子に唆したのが彼女であるという事でしょうか。だとすれば大伴氏の関与も想像できますが、物部氏と同じく大王に忠誠深い伴造から台頭し、これまで天皇家に最も寄り添い続けていた大伴氏が天皇暗殺に係わるとは考えづらいので、彼女の個人的な恨みだったという事か、時勢の影響で天皇よりも蘇我氏との関係を大伴氏が優先したという可能性もあります。

 但し、次の記事では大伴囓連おおとものくいむらじが崇峻天皇暗殺の為に邪魔で遠ざけられたとも解釈出来るので、やはり大伴氏の関与はなく、小手子の私怨によるものだったという事か、それとも小手子が唆したというのは創作だったという事でしょうか?

⑷『日本書紀』巻二一崇峻天皇五年(五九二)十一月 丁未五日

丁未、遣騨使於筑紫將軍所曰、依於内亂、莫怠外事。

(丁未ひのとのひつじのひ、騨使はゆまを筑紫の將軍いくさのきみの所みもとに遣して曰く、「内亂うちのみだりに依りて、外事ほかのことを莫怠なをこたりそ」。)

・概略

 五日、早馬を筑紫の将軍のもとへ遣わして「内乱によって、外事を怠ってはならぬ」と言った。

・解説

 「筑紫將軍」は崇峻天皇紀四年十一月条に見える紀男麻呂宿禰きのおまろのすくね、巨勢猿臣こせのさるおみ(一本に巨勢臣比良夫とあるのは誤り)、大伴囓連おおとものくいむらじ、葛城烏奈良臣かずらきのおならおみ等四人の将軍の事で、彼らを任那の問題にことよせて筑紫に遠ざけ、しかる後天皇を暗殺したという説⑸があるそうです。

 この説が事実であれば、これら四将軍が反蘇我派筆頭であり、馬子の地位も盤石とまでは言えなかったのかも知れませんが、蘇我氏の配下となっていたと思われる葛城臣まで含まれている為、判断し難いです。

 葛城烏奈良臣は蟻臣以来、5世紀末には衰退して名が見られなくなった葛城臣(稀に名がみえる葛城直は『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば剣根命を祖とする葛城国国造の為、武内宿禰を祖とする葛城臣とは別氏族です。ネット上ではたまに混同している方も居るので注意)の後裔である為、一世紀ほど隔てて丁未の乱以降になり葛城臣が唐突に再登場したのは不自然に感じますが、恐らく葛城氏の勢力を引き継いだ蘇我氏による引き立てもあったと思われます。別稿でご紹介予定ですが、後の推古三二年に馬子が推古から葛城県を賜ろうとしたように、馬子が葛城に対して並々ならぬ関心を抱いていた事と関連ありそうです。

 烏奈良は『釈日本紀』所引または『万葉集註釈』所引の「伊予国風土記逸文」の「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」⑹という記事に見える道後温泉碑の葛城臣のことと言われており、法王大王、つまり厩戸皇子聖徳太子と共にいた烏奈良が皇子の側近であったと思われますが、これが葛城氏を従えていた馬子の意向によるものなのか、あるいはよく言われている様に厩戸皇子と馬子が反目しあっていた場合、反馬子勢力として厩戸皇子に味方をしたのか(蘇我氏に奪われた葛城氏の勢力を取り戻す為?)、見方によって解釈が分かれそうですが文献が限られている為にどんな解釈も想像の域を出る事はなさそうです。

 私見ですが、烏奈良臣以降の葛城臣にそれと言った人物が見られない(「葛城」の名を冠する人物で、以降の記事で見られる葛城稚犬養連網田は天火明命の末裔で葛城国造の嫁を迎えたと思われる尾張氏系の豪族、葛城福草も葛城直系といずれも葛城臣とは別族)理由は、上宮王家の衰退に伴い、厩戸皇子以来、恐らく彼らに従っていた葛城臣も運命を供にし、再び無力化していったのではないかと思います。

⑺『日本書紀』巻二一崇峻天皇五年(五九二)十一月是月

是月、東漢直駒、偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻。〈河上娘蘇我馬子宿禰女也。〉馬子宿禰、忽不知河上娘爲駒所偸、而謂死去。駒姧嬪事顯、爲大臣所殺。

(是の月、東漢直駒やまとのあやのあたひこま、蘇我娘嬪河上娘そがのひめかはかみのいらつめを偸ぬすみ隱かくして妻と爲なす。〈河上娘かはかみのいらつめは蘇我馬子宿禰の女むすめなり。〉馬子宿禰、忽たまたまに河上娘が駒の爲ために偸ぬすまれたるを知らずして、死去しにきと謂おもへり。駒 嬪みめを姧をかせる事 顯あらはれて、大臣の爲めに殺されぬ。)

・概略

 是の月、東漢直駒やまとのあやのあたひこまが蘇我娘嬪河上娘そがのひめかはかみのいらつめを奪い隠して妻とした。〈河上娘かはかみのいらつめは蘇我馬子宿禰の娘である。〉馬子宿禰はたまたま河上娘が駒の為に盗まれたことを知らず、死んだと思っていた。駒は嬪みめを犯したことが露見し、大臣のために殺された。

・解説

 これはかなり嘘くさい記事で、馬子が東漢直駒に天皇暗殺の指示をしておきながら、事の真相が発覚するのを恐れ、あらぬ罪を着せて彼を殺した可能性が高いかと思われます。

 ⑴~⑸⑺の一連の記事を『日本書紀』に載せているのは書紀の編纂者が蘇我氏を横暴に描き、貶める意図があったのかも知れませんが、一方で推古天皇紀二十年の記事(次稿で掲載予定)では推古天皇が蘇我氏を高く称揚しているので、一概にそうとばかりは言い切れない面があります。

 馬子関連の記事はここまで物部守屋との対立から始まり、天皇まで巻き込んだ権力闘争を描いたものが多かったですが、以降の推古朝になると邪魔者を全て叩き潰した影響もあるのかも知れませんが、権力闘争に関する記事は影を潜め、代わりに仏教や祭祀に係わる記事が増えていきます。以下に推古朝初期の記事を取り上げてみます。

⑻『日本書紀』巻二二推古天皇二年(五九四)二月丙寅 朔一日

二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣、令興隆三寶。是時、諸臣連等、各爲君親之恩、競造佛舎。即是謂寺焉。

(二年 春二月はるきさらぎの丙寅朔ついたちきのえうまのひ、皇太子ひつぎのみこ及び大臣に詔して、三寶さむぽうを興隆おこさしむ。是の時、諸もろもろの臣連等おみむらじら、各をのをの君親きみおやの恩めぐみの爲ために、競きそひて佛舎ほとけのおほとのを造る。即ち是を寺と謂ふ。)

・概略

 推古天皇二年二月一日、厩戸皇子及び蘇我馬子に詔して、仏教を興隆させようとした。この時、多くの臣連等が君や親の恩に報いる為、競って仏舎を造った。これを寺と言う。

・解説

 三宝は仏・法・僧の事を言い、仏教を指し、例えば『上宮聖徳法王定説』では「少治田天皇御世、乙丑年推古十三年五月、聖徳王與嶋大臣共謀建立佛法更興三寶(少治田天皇御世、乙丑年五月、聖徳王、嶋大臣と共に謀て佛法を建立し更に三寶を興す)」とあります。⑼

 寺は元は役所の意味でしたが、漢の明帝の時、白馬寺を創立してから寺院をも寺と呼ぶようになったと言われています。⑽

⑾『日本書紀』巻二二推古天皇四年(五九六)十一月

四年冬十一月、法興寺造竟。則以大臣男善徳臣拜寺司。是日、惠慈、慧聰二僧始住於法興寺。

(四年冬十一月、法興寺ほふこうじ造り竟をばる。則ち大臣の男善徳臣こぜとこのおみを以て寺司てらのつかさに拜めす。是日、惠慈ゑじ、慧聰ゑそうの二ふたりの僧ほふし始めて法興寺ほふこうじに住はべり。)

・概略

 四年冬十一月、法興寺の建立が終わった。馬子大臣の長子善徳臣こぜとこのおみを寺司てらのつかさに任じ。是の日、惠慈ゑじ、慧聰ゑそうの二人の僧が始めて法興寺に住した。

 

・解説

 惠慈は推古天皇三年五月に帰化した高句麗の僧侶で皇太子(厩戸皇子)が師とした人物であり、慧聰は百済の僧侶で、この二人が仏教を広め、併せて三宝の棟梁となっていました。

 ライバルの物部守屋はおろか、主である崇峻天皇まで暗殺した馬子でしたが、熱心に寺院の建立に励むなど、日本における初期の仏教においては馬子は大きな存在であり、馬子が居なければ現代にまで至る仏教は残らなかった可能性もあるので仏教史においては評価に値する人物かと思います。

 次稿では推古朝中期以降の馬子の動きを見ていきたいと思います。

◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/193

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/45

⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/193

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/45

⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/193

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/45

⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/193

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/45

⑸『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 81ページ注10

⑹『風土記』武田祐吉 編 岩波文庫https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173165/165

⑺『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/193

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/45

⑻『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/194

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/47

⑼『上宮聖徳法王帝説新註』金子長吉 注 出版者 吉川半七

https://dl.ndl.go.jp/pid/780769/1/81

⑽『日本書紀(四)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 87ページ 注五 

⑾『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/194

『日本書紀 : 訓読. 下巻』黒板勝美 編 岩波書https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107125/47

*『国史大系. 第1巻 日本書紀』及び『日本書紀 : 訓読. 下巻』の引用は一部修正して掲載しています。

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