Facebook國體護持(こくたいごじ)投稿記事
第百二十三回 本能と理性 その十
あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)
日本書紀は、支那に我が国を理解させるために漢文で書かれ、我が国の歴史を説いて国家の矜持を示すための外交用文書でした。
魏志倭人伝、漢書、後漢書の存在を踏まへて編纂されたもので、これらとの違ひを意識して、我が国の独自性を強調したものです。ですから、これらと明らかに異なることや、あへて虚偽のことを記載してまで外交用の文書にすることは到底あり得ないことです。
それゆゑに、書かれてゐない部分はあつても内容虚偽のものと断定する現在の研究傾向には到底賛同できません。
といふよりも、祭祀の視点が完全に欠落した現在の研究といふのは、画竜点睛を欠くもので、歴史研究の名に値しないと思はれるのです。
これまで、魏志倭人伝を巡つて、様々な議論がなされてきました。卑弥呼の王宮のあつた場所が邪馬台国であり、この邪馬台国が倭国の連合国家の中心であつたといふことです。その所在地を巡つて、主に畿内説と九州説とが対立して、そのことばかりに関心が向けられるだけで、これら各地における祭祀の態様や変遷の視点からの考察は皆無でした。
この卑弥呼が記紀などによる我が国の歴史において、誰に同定され比定されるのかについては諸説あります。①神功皇后説(新井白石)、②熊襲女酋説(本居宣長)、③天照大神説(白鳥庫吉)、④倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)説などです。
このうち、②の本居宣長の熊襲女酋説といふのは、熊襲の女酋が神功皇后に成り済まして魏に使者を送つたいふもので、①の変形とも言へます。
しかし、どの説においても否定できないのは、卑弥呼(あるいは卑弥呼と名乗る者)が「鬼道」を行ふといふ魏志倭人伝の記述です。
鬼道といふのは、前に述べたとほり、うけひのことですので、これによつて倭国は統一され、決して武力統一されたのではないといふことなのです。
我が国は、「祭祀統一」された「しろしめす国家」であり、「うしはく」によつて「武力統一」された国家ではないことを魏志倭人伝は述べて居るのです。だからこそ「倭国」なのです。このことは、記紀の記述と完全に一致します。記紀にも、我が国が武力統一されたとする記述はありません。
つまり、我が国は、祭祀を統一することによつて政治統一を実現したのです。祭祀(まつりごと)と政治(まつりごと)との祭政一致です。このことは、「王覇の辨へ」(わうはのわきまへ)といふ皇室の伝統的な統治理念です。
この原型は、『古事記』、『日本書紀』にある寶鏡奉齋の御神勅に見られます。 天照大神の御霊代(みたましろ)、依代(よりしろ)である三種の神器の一つである「寶鏡」の「奉齋」と、これに基づく思金神(おもひかねのかみ)の「為政」、つまり、「齋」(王道)と「政」(覇道)との辨別です。つまり、天皇(総命、スメラミコト、オホキミ)の「王者」としての「権威」(大御稜威)に基づく「覇者」への委任により、覇者がその「権力」によつて統治する王覇辨立の原則なので
つまり、邪馬台国が畿内(纏向遺跡)にあらうが、九州(吉野ヶ里遺跡)にあらうが、例外なく倭国内にあるすべての国家が祭祀統一されたのであり、どの説に立たうと、全国各地に祭祀統一を示す史跡が多くあることに注目すべきなのです。
我が国は、石器時代から青銅器時代を経ずにいきなり鉄器時代に進みました。弥生時代の青銅器の銅鐸は、祭祀の中心となる祭器として用ゐられ、様々な形状や大きさのものがありました。そして、青銅は銅鐸、鏡などの聖なる道具に用ゐられ、鉄は武器、武具、農具などの俗なる道具に使はれるといふ棲み分けされてきたのが我が国の国柄なのです。
そして、この銅鐸は、各地方で様々な形状と大きさに分かれてゐましたが、最終的には、近畿地方と東海地方との二大潮流に集約された後に、大岩山遺跡(滋賀県野洲)の巨大銅鐸として統一されました。そして、これは、祭祀儀礼の統一でもあり、祭祀の統一でもあります。
その祭祀統一の遺跡が、伊勢遺跡(滋賀県守山)の巨大な祭祀施設跡です。そしてその後は銅鐸は忽然と我が国から消えました。そして、これに代はる祭祀の中心が鏡となりました。祭祀の祭具の中心が、銅鐸から鏡へと劇的に変遷したのです。
また、後漢書には「桓霊間倭国大乱」とあり、桓帝(在位は西暦147年から167年)と霊帝(在位は西暦167年から184年)の間に倭国に大乱があつたことになり、魏志倭人伝には、それを鎮めるために倭国では卑弥呼を「共立」して統一したとあります。これは先ほど述べたとほり、祭祀による統一なのです。
そして、正始8年(西暦247年)に卑弥呼は亡くなります。卑弥呼を埋葬したのが、箸墓古墳(奈良県桜井市)か、祇園山古墳(福岡県久留米市)か、はたまた平原(ひらばる)遺跡一号墓(福岡県糸島市)なのかは解りませんが、祭祀統一の視点からは、倭(大和)国の中心である邪馬台国は、統合されて行つた祭祀の系譜からして、大和朝廷のことであり、畿内にあつたことが解ります。
前に述べましたが、支那において、匈奴の侵入などの対外的危機が迫ると自衛のために家族制が鞏固となるのは、世界的に共通した現象です。
ですから、我が国においても、対外的危機が訪れた卑弥呼の時代(西暦3世紀中期)、そして、「宋書」などに登場する「倭の五王」の時代(西暦5世紀)、白村江の戦ひに敗戦した後の時代(西暦7世紀)と、立て続けに襲つたきた対外的脅威は、我が国にも、鞏固な家族制を基盤とした臨戦態勢とともに、武力による国内統一を極力避けて統一するための祭祀統一の道を歩んできた希有な歴史を再確認する必要があります。
特に、地震、津波、火山噴火、火災、洪水、台風などの自然災害が繰り返し襲つてくる我が国では、生活防衛の基本となる家族の絆は欠かせません。
平成の時代は、我が国を巻き込む戦争こそありませんでしたが、その脅威に常に晒されてきたとともに、災害が多発した時代でしたし、令和の時代もこれを繰り返すことになります。
対外戦争の脅威と自然災害の脅威は、家族の絆を鞏固にし続けることを常に忘れてはならないといふ啓示なのです。我が国は、歴史的にも地政学的にも、支那と韓半島に海峡を挟んで存在することによる対外的脅威があるために、さらに家族の絆を鞏固にした社会構造の構築が必要になつてゐるのです。
ところで、古代において、鉄資源がないとされてきた我が国では、朝鮮半島南部の弁辰からの鉄に依存して鉄器と鉄製武具などで武装し、危機に備へなければなりませんでした。
しかし、後になつて、たたら製法で砂鉄を使つて国産化することができることとなつたために、各地で鉄製武具によつて各地で強大な武装をすることになつたことからすると、神武肇国の時代から時代が下がれば下がるほど、武力による統一は著しく困難になつてゐたのです。
ですから、その後の我が国内での大規模な武力統一は、源平時代、鎌倉時代末期、戦国時代など、外からの脅威がない状況でも存在し、全国的に大きな災厄をもたらしましたが、その場合でも常にその統治原理としての王覇の辨へは維持されてきました。
白村江の戦ひで敗れた後の我が国は、その後、唐と新羅の連合国から攻めてこられるとの現実の脅威が高まり、天智天皇の時代には、瀬戸内から九州までに多くの山城などを築いて防禦したものの、唐と新羅との対立によつてその危機が回避されたことから、その後に起こつた壬申の乱については謎が多いのですが、大海人皇子(天武天皇)の進軍の軌跡は、どうも銅鐸の統一の経緯と重なるものがあります。壬申の乱は地方豪族を従へた祭祀統一の再現のやうでありました。
そして、天武天皇が編纂を命じた記紀は、単なる歴史書の編纂といふのではなく、長い長い時間をかけて、全国各地に担当者を派遣し、諸部族の祖先の系統とスメラミコトとのゆかりを再確認して、各地の伝承をも取り入れて、諸部族の納得を得て祭祀の統合による「しろしめす」治世を実現することに主眼が置かれました。歴史書編纂の協力を求める形で、諸部族の祖先の系譜を皇統に組み入れることにより統一を行つたのです。
これは武力統一ではない祭祀統一の姿なのです。「しろしめす」の意味は、皇統と諸部族の祖先の系譜との関係をしらしめし、祭祀を統一することなのです。
ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち
かくして、祭祀の国は、これまで間断なく受け継がれてきたのです。そして、このことは、これからの世界における祭祀統一による大偉業と絶対平和実現の道標として、令和の時代を迎へることになつたといふことです。
南出喜久治(令和元年5月15日記す)
http://www.nipponwomamorukai.jp/syutyou/minamide_kikuji/kunikaranomiti.html 【くにからのみち】より
(平成22年)弁護士南出喜久治
ちちははと とほつおらから すめみおや やほよろづへの くにからのみち
この歌は、我が國のくにからを言祝ぐ手向け歌として、平成20年7月24日に、インターネットで掲載した拙著『國體護持』の助言を書きあげました日に詠んだものです。
この歌を古事記の表記に倣ふとすれば
「自父母及先祖以至皇祖皇宗及八百萬之神而國體之道也」といふことになります。
あまり歌の解説をするのは望ましいものではありませんが、この歌意は、先祖祭祀は宮中祭祀の雛型でありまして、先祖祭祀の彼方に宮中祭祀、惟神の道が連綿として続き、それが我がくにからの根と幹になつてゐるといふものです。これが『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)にいふ「國體ノ精華」の基軸となつてゐます。
そして、この歌にはいみじくもこの連綿としたくにからを寓意するが如く、文字の連結と循環が見られます。
つまり、發句の「ちちははと」の最後の「と」が次の「とほつおやから」の最初の「と」に、「すめみおや」の最後の「や」が次の「やほよろづへの」の最初の「や」にそれぞれ連なります。そして、この二つの五七句が「から」と「へ」の格助詞で対句として繋がり、さらに「の」の格助詞で「くにからのみち」に連なり、そしてこの「くにからのみち」の最後の「ち」は再び發句の「ちちははと」の最初の「ち」に連なつて連結循環した姿を示し、万世一系、循環無端を意味するものとなつてゐます。
この歌は、聖戦大碑を護持することが國體を護持することの「雛型」であることの意気込みを強く示したものと御理解いただければ幸甚です。
http://www.nipponwomamorukai.jp/daitouaseisentaihi.html 【大東亜聖戦大碑】より
大東亜聖戦大碑は、北陸金沢の名勝・兼六園に隣接する石川護国神社に建てられた、高さ12mに及ぶ石碑です。
終戦後わが国を占領したアメリカは、日本が二度とアメリカに刃向うことのないよう日本国民を骨抜きにするため、さきの大戦をわが国によるアジア侵略戦争であると位置づけ、マスコミや教育を通じて国民に贖罪意識を植え付けて、日本人の心を支配していきました。
さらに「青年に対し、祖国の前途に対する希望の灯を奪い、祖国呪詛の精神を腐食することが革命への近道である」(マルクス)との思惑から、日教組をはじめとする社会主義勢力・共産主義勢力がこれを引き継ぎ、国民の洗脳活動をいっそう推し進めました。
その結果、平成5年の河野談話、平成7年の村山談話に代表される、英霊冒涜、歴史無知の安直にして偽善的な謝罪反省機運が高まり、以後歴代首相が就任するたびに「村山談話を継承する」などと謝罪・反省するに至りました。
そうした機運に怒り心頭に発した当日本をまもる会会長中田清康が、反撃の拠点として建立を決意し、奇しくもこの時期に出会った草地貞吾・元関東軍主席参謀はじめ全国有志の協力を得て、平成12年8月4日、国内外から2000余名が集う盛大な大東亜聖戦大碑完成式典が執り行われるに至りました。
その後、大東亜聖戦大碑護持会が結成され、毎年原則として8月4日に大東亜聖戦祭が斉行されています。
正義のため、国のため、東洋平和のため、貴い命を捧げられた御英霊はじめ身命を賭して戦った全国民に感謝の念を捧げ、子々孫々万世にわたりわが国の正義と真実の歴史を伝える貴重な大碑です。
金沢城、兼六園へ観光にお越しの折、ちょっと足を延ばしてお気軽にお立ち寄りください。
大碑の裏には「八紘爲宇」の文字が刻まれています。
八紘爲宇は
「八紘〔はっこう〕を(掩〔おお〕いて)宇〔いえ〕と為〔な〕す」 と読み下されます。
初代天皇・神武天皇が橿原に宮を建てられた際に下された「橿原宮造営の詔」の一節にある言葉です。
八紘とは天下の四方四隅、すなわち全世界を表し、宇は屋根を表します。つまり、一つ屋根の下に仲良く暮らす家族のように世界が平和であってほしい、という切なる願いが、この言葉には込められています。
副碑文
日本にはかつて軍国主義も植民地支配もない それを解放した歴史がある 輝く天命戦の真実を知れ 日本壊滅の諸謀略によりやむなく矛をとらされたが この戦ひは幾世代もの長きに亘り 有色の民を苦しめた白禍支配を終らしめ 虐げられし民はそれぞれの祖国を取戻した
我が民族が総力をあげ戦った大東亜戦争 これこそ天命により 人種差別を撤廃せしめた聖なる戦ひであった 肇国三千年の国是・八紘為宇が果されたのである
重ねて申し上げる
かつての日本はアジアに輝く太陽の如き存在であった この戦ひで歴史を貫く日本民族の世界史的使命が達成され万邦共栄・八紘為宇への道が拓かれたのである
日本人よ!祖国の聖なる使命と偉業を讃へ 民族の誇りを持て!
「身を滅ぼして仁をなす その栄光の勲しは 千代に八千代に薫るべし」
https://www.1242.com/kokudogaku/kokudogaku_blog/20210104-246137/ 【第55回のテーマは「統一国家“日本”と天皇の存在」】より
番組アシスタントの新保友映です!
明けましておめでとうございます。2021年最初の国土学の講義になりますが、きょうのテーマは、「統一国家“日本”と天皇の存在」です。
新保 日本には、いくつかの国に分裂していたという歴史はあるのでしょうか?
「中国の歴史書『魏志倭人伝』には、日本が小国に分裂していたが、女王(卑弥呼)が現れると統一できた。女王が亡くなるとまた国が乱れて、今度は男の王がついたが紛争が起こり、ふたたび女王にしたら国が治った、というようなことが書かれています。このように、日本はかつて小さな国に分裂していたけれども、ヤマト王権が覇を確立した以降の時代からは、小国に分裂して戦い合ったという歴史がないのです。このことは、日本よりかなり狭い国土のイギリスの正式名称が「グレートブリテン・北アイルランド連合王国」であり、ウェールズも、スコットランドも、アイルランドも、イングランドからの独立志向が強く、サッチャーさんが活躍していた時代ですら、アイルランドの IRAが活発なテロ活動を続けていたという事実と比べると、とても奇妙な感じがします」(大石)
新保 日本はいつ頃から統一国家なのでしょうか?
「西暦700年頃から、日本は地域分裂の争いは起きていません。これに比べて、たとえば朝鮮半島は、1400年頃に李氏朝鮮という統一国家になりますが、それまでは新羅、高句麗、百済に別れて戦争も繰り返していました。日本は細長くて統治的に一つにまとめるには難しい国土の形をしているのに、何故1000年を超える昔から統一を保ってくることができたのか、それはやはり天皇の存在が大きいのではないかと思うんです。一時期、天皇親政の時代がありましたが、すぐに藤原氏が政治をする時代に変わっていきました。そのきっかけとなっているのが藤原鎌足(中臣鎌足)の息子・藤原不比等(ふひと。「比べようがない」という名を持つ謎の多い人物)ではないかと思うのです」(大石)
新保 なぜ、藤原氏が力を持つようになったのでしょうか?
「この藤原氏が天下を取る時代になっていくわけですが、これは天皇の外戚(母方の親戚)になったからです。このパターンは平清盛も同じで、征夷大将軍の制度ができるまでは、そういう時代がずっと続いてきました。
不比等は、天皇は国家統一の象徴的存在であり、そのためには天皇は五穀豊穣や国家安全の祈りなどの祭祀に特化して、世俗の政治から超越した存在でなければならず、それこそが諸々の権威の根源となるものだと考えたのではないかと思うんです。そして、その天皇の権威の由来が「万世一系」という思想ではないかと。これは、私のかなり大胆な仮説なのですが…」(大石)
新保 天皇の存在によって、統一国家を保つことができたということですね。
「西暦700年頃、わが国が“日本”だということを意識し始めた、その遥か前から一系の天皇がおられたということです。これに対して、今のイギリスの王家は1700年頃のジョージ1世(ドイツのハノーヴァー家出身)から始まっているのであり、これとは大きく異なっているのです。この天皇の存在を、若い人はあまり意識しないかもしれませんが、天皇がおられることで、この国にとって、いかに安定的なものにしてきたかということを、ぜひ理解していただきたいのです。」(大石)
この後も、大石さんが歴史を振り返りながら、「統一国家“日本”と天皇の存在」について、分かりやすくお話ししています。詳しくは、上記の「聴き逃しサービス」をクリックして、ぜひ、番組をお聞きください!(略)
https://www.youtube.com/watch?v=RvfHWrhTSdU
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