倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史

https://note.com/knt_knt/n/n25f1f724db20 【「倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史」渡邊大門】より

最近こういう本が出たらしく、レビューや関連記事が結構出てます。

「倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史」渡邊大門

著者の渡邊大門氏による記事から引用します。

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https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bc52b26b9fa6e0fde2415f5f0ef4cb822ae462

【【戦国こぼれ話】室町・戦国時代の日本でも横行した、人身売買の実態に迫る(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース】より

コロナ禍の影響はすさまじく、感染が拡大する一方のインドでは、経済的に困窮する人々の人身売買が横行しているという。実は、室町・戦国時代の日本でも人身売買があった。いくつかの事例を検証しよう。

■室町時代の人身売買

 室町時代の例としては、朝鮮官人・宋希璟(そうきけい)の日本紀行記『老松堂日本行録』という史料に記録がある。その内容とは、倭寇が日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていったという事実だ。

 倭寇とは、13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部で活動した海賊である。日本では農業従事者が慢性的に不足していたため、捕らえた人を売却し農作業に従事させていたのである。

 捕らえられた人の多くは、九州地方に奴隷として供給されたと考えられる。倭寇の構成員は日本人だけに限らず、中国人なども含まれていた。つまり、人身売買は東アジア的な規模で行われていたのである。

 朝鮮人の申叔舟(しんしゅくしゅう)が編集した『海東諸国記』という史料にも、日本における女性と子供の売買の実態が明らかにされている。同書によると、いわゆる傾城(けいせい)屋(遊女屋)と思しき富裕者が貧しい女子を買い入れ、買い取った女子には衣食を与え、わざわざ着飾らせたという。

 その目的とは、傾城すなわち遊女として客を取らせるためであった。外国人から見た実態というのは真実味を帯びており、傾聴に値すると思われる。捕らえられた人々は農業従事だけではなく、売色にも従事させられていたのである。

■さまざまな人身売買

 厳密な意味では人身売買ではないが、ある技術を手に入れるため、娘を引き渡した例がある。それは、鉄砲にまつわるものだ。一般的に鉄砲伝来は、天文12年(1543)のこととされ(諸説あり)、ポルトガル人が種子島時尭にもたらしたといわれている。

 慶長11年(1606)に成立した『鉄砲記』によると、時尭は自らの手で鉄砲を生産しようと苦心惨憺したが、どうしても技術的にクリアできない点があった。そこで時尭は、自分の娘と引き換えにして、その技術を手に入れたのである。これなども、広義の意味で人身売買とみなせるだろう。

 戦場での奴隷売買の事例は、『妙法寺記』という史料でも確認できる。そこには、武田方の兵たちが城を攻め落とした際、男女を生け捕り、甲州で売買したと書かれている。

 当時、兵たちは戦場でモノを略奪し、それを自分たちの取り分としていた。略奪したのは金銭やモノだけでなく、戦場の周辺にいた人間も対象だった。戦場では奴隷商人が活動しており、捕らえられた人々がすぐに売買された例は、ほかにも見られる。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原城に籠る北条氏を攻撃した際、上杉軍に対して女・子供を売却してはならないと命じている。女・子供の売却を禁止するということは、それまで行われていたことの裏返しである。捕らえた人々は、将兵の戦利品であり、そこにうごめく奴隷商人の姿を認めることができよう。

■「人市」の存在

 戦国期には、「人市」というものがあったと伝えられている。「人市」とは、いわゆる奴隷市場である。それは駿河国の富士の麓にあり、天文・永禄の頃だったと言われている。人市では妙齢の女子を売買し、遊女に仕立て上げたと言われている。

 古老の談といわれており、決して確証があるわけではない。しかし、戦国時代の最中でもあり、戦場で捕らえた人々を市で売買していた事実があっても不思議ではない。

織田信長と人身売買

 織田信長の時代にも人身売買があった。『信長公記』天正7年(1579)9月の条には、女性を売買したという記述がある。次に、その内容を掲出しよう。

去る頃、下京場之町で門役を務めている者の女房が、数多くの女性を騙して連れ去り、和泉国堺(大阪府堺市)で日常的に売買していた。この度、村井貞勝がこの話を聞きつけ、召し捕らえて尋問すると、これまで80人もの女性を売ったと白状した。

 この女性は、いわゆる門番の妻という普通の女性だったが、裏では女性の売買に関わり、少なからず収益を得ていたようである。こうした話は、やがて織田政権下で京都所司代を務める村井貞勝の耳にも入った。報告を受けた信長は、許さなかったのである。

 このあと女性は、厳しい処罰を受けたようである。織田政権下においても、人身売買は法度であった。戦場以外でも、借金等さまざまな理由が考えられるが、女性の売買は日常的に行われていたようだ。奴隷商人は、全国各地に散在していたらしく、豊後出身の女性が大坂で売買されていた例が知られている。

 人身売買と言えば、過去の産物と考えられがちだが、決してそうではない。コロナが一刻も早く終息し、人身売買という悲劇をなくしたいものである。

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倭寇が日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていったという事実だ。日本では農業従事者が慢性的に不足していたため、捕らえた人を売却し農作業に従事させていた。また売色にも従事させられた。捕らえられた人の多くは、九州地方に奴隷として供給され、売買には中国人も加わり、東アジア的な規模で行われていた。

戦場での奴隷売買の事例は、『妙法寺記』という史料でも確認できる。そこには、武田方の兵たちが城を攻め落とした際、男女を生け捕り、甲州で売買したと書かれている。

他のライターによる以下のような記事もあります。

https://president.jp/articles/-/47318

「中世の日本にはたくさんの奴隷がいた」約20万円で人買い商人に売られた14歳少女のその後 人身売買は本来「国禁」だが… (5ページ目)

もちろん、それは表向きの理由で、実質はこの機会に貧乏人の足元を見て下人を買いあさり、経営を拡大しようとする富豪たちの利益を

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日本にも「奴隷」は存在した!戦国期を中心とした人身売買の歴史について | 戦国ヒストリー

https://sengoku-his.com/938

美談だけでは語れない、戦国史の闇。陰惨なる「乱取り」とはなにか | 戦国ヒストリー

https://ddnavi.com/news/312424/a/

あの有名武将も奴隷を認めていた! 合戦の目的は「奴隷狩り」!? ドラマでは描かれない戦国時代の実態 | ダ・ヴィンチニュース

「奴隷」と言われイメージする国は、古代ギリシア、アメリカ、ヨーロッパ諸国を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。そこで「

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こんな感じで鎌倉時代から室町時代まで、奴隷売買、人身売買が行われていたようです。

なぜ、こんなことにこだわるかというと、豊臣秀吉による伴天連追放令(キリスト教禁止令)と関わってくるのです。秀吉の伴天連追放令はキリスト教宣教師による日本人奴隷売買を禁止するためだと言われてきました。

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https://toyokeizai.net/articles/-/411584

「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断

なぜ豊臣秀吉は「バテレン追放令」によって、キリスト教布教を禁じたのか?(写真:Universal History Archive/Getty)

当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。

日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。

このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。

この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。

秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。

最初は布教を許していたが…

秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。

この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。

九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。

その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。

それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。

一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。

一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。

一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。

一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。

この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。

西洋人が胸に秘めた「日本侵略」の意図

さて、秀吉がなぜこの追放令を出したかだが、その理由の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。

もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。

たとえば、キリシタン大名の大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。

日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは火を見るよりも明らかだったからだ。

最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。

秀吉はそれを防ぐためには、キリシタン大名や宣教師たちの勝手な振る舞いに一日でも早く歯止めをかける必要があると考えたのである。

さらに、秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの間でささやかれている理由がもう一つある。それこそが、先の四カ条の詰問にもあった、日本人の奴隷問題だった。

日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。

九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。

『九州御動座記』の記録

「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。──中略──その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を剝ぎ、坊主(宣教師を指す)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……」

同胞の若者たちが鎖につながれて次々と南蛮船に押し込まれていく光景は大村由己にとってはこれ以上ないカルチャーショックだったに違いない。

何とも酷たらしい場面だが、当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。これはそもそも、1452年にローマ教皇がポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしてもよい、という許可を与えたことが根底にあるという。

なお、牛馬の肉を手づかみで食べるというのは、西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかったからだ。ルイス・フロイスも日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。

大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったという。

この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形でかかわっていたことは間違いないだろう。

海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。

この5万人という数字に関してだが、天正10年にローマに派遣された有名な少年使節団の一行が、世界各地の行く先々で日本の若い女性が奴隷として使役されているのを目撃しており、実際にはこの何倍もいたのではないかと言われている。

こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。

「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。

『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』(青春出版社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。

もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。

日本史の新視点

慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。

ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。

ここまで見てくると、当時の秀吉は日本の為政者として領土や国民の安全を守るために最善の選択をしたように思えてくるのだが……。


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こんな感じで、「イエズス会の宣教師は、5万人もの日本人を奴隷として海外に売り渡す最低の連中だ。それに引き換え、秀吉はなんて人道的で愛国者なんだ!」と持ち上げられてきたのです。

しかし、最近の記事からすると、どうもそんな簡単なことではないようです。宣教師が来る前から日本人は奴隷売買をしており、また、スペイン人やポルトガル人は大西洋でも奴隷貿易を行い、東アジアでも一般的に行われていることに従事したに過ぎない、と考えられます。

秀吉は、宣教師コエリョを呼びつけなぜそんなひどいこと(日本人を奴隷として海外に売り渡す)をするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったといいます。

日本の奴隷売買の歴史を見ていくと、宣教師コエリョの回答も別に不思議な感じはしません。

日本の戦国大名がポルトガル商人などに売り渡しており、ポルトガル人宣教師はむしろポルトガル国王に日本人の人身売買禁止令を求めていたようです。

奴隷貿易 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えるようになっていた。ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。

実際に取引された奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルのプロパガンダの一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。

(実際に)ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人程度と考えられている。

豊臣秀吉は天正15年(1587)の伴天連追放令で奴隷貿易を禁じたとされるが、実際に発布された6月19日付けのバテレン追放令には人身売買を批判する文が(6月18日付けの覚書から)削除されていた。

なんか南京大虐殺のような様を呈してきましたが、東洋経済の記事では日本人5万人が奴隷として海外に売り渡された、とされていますが、ウィキペディアでは数百人とされています。

確かに秀吉は、ポルトガル人による奴隷売買も禁止しましたが、同時に奴隷売買が盛んにおこなわれていた東国(関東)でも禁止しました。つまり、上の記事にあるような戦場における「乱取り」(奴隷狩り)が、人々の戦争へのインセンティブ(誘因)になっていて、それを抑えようと思ったのではないでしょうか。

実際、秀吉は無茶ぶりの朝鮮出兵で間接的に戦国大名の力を失わせ、また刀狩や検地を実施したりして、それまでの「ガンガン行こうぜ」モードから「まったり行こうぜ」モードにペースダウンさせていきます。

しかも秀吉自身も朝鮮人を奴隷として日本に連れてきたり、耳や鼻を切って集めたりしているわけです。秀吉もイエズス会宣教師もどっちもどっちかな、という感じがします。

今の我々の行動も500年後くらいにはなんと言われているでしょうか。例えば「金で不本意な行動を強要する賃労働なんて、なんて野蛮で非人道的なのだろう」とかきっと言われているのでしょう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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