https://www.asukanet.gr.jp/tobira/urashima/urashima.html 【浦島太郎伝説】より
むかしむかし,あるところに,浦島太郎という若い漁師が母と二人で暮らしていました。ある日,浦島太郎が浜を歩いていると,子供たちが亀をいじめているのを見ました。かわいそうに思い,逃がしてやるように子供たちに言いましたが,いっこうにやめてはくれません。そこで,持っていたわずかばかりのお金を渡して亀を助けてやりました。それから数日経って,浦島太郎が海で釣りをしていると,亀が声をかけてきました。その亀は,先日助けてくれたお礼に浦島太郎を乗せて竜宮城に連れて行くと言います。浦島太郎はそこに行ってみたくなり,亀の背中にまたがりました。亀はしばらく海を泳ぐと,すぐに海の底に向かって潜りました。そして,あっという間に立派な門がある竜宮城に着きました。奧に案内されると乙姫様が出迎えてくれました。浦島太郎は歓待され,鯛やヒラメの舞いや踊りを見ながらたくさんのご馳走を食べてしばらく楽しい時を過ごしました。何日か過ぎると,故郷が恋しくなり,帰りたいと乙姫様に言いました。乙姫様はたいそう残念がっていましたが,浦島太郎の思いを理解して見送ることにしました。別れる時,乙姫様は「決して開けてはなりません」と言いながら玉手箱を土産にくれました。そして,来た時のように亀の背中に乗ると,あっという間に故郷の浜に着きました。しかし,そこは以前の村とは違っているように思えました。付近を歩いてみたのですが,誰も知っている者がいないのです。それどころか,自分の家があった辺りには草が生えていて,家もなく,母の姿も見えません。出会った人に尋ねても誰も母のことを知らないのです。だんだん不安になって,海岸に出て座っていた浦島太郎ですが,玉手箱のことを思い出しました。この箱を開けるともとに戻るかもしれないと思って,ふたを開けてしまいました。すると,箱の中から白い煙が出てきて,たちまち白髪白髭のお爺さんになってしまいました。
これがよく聞く浦島太郎の話です。これは全国共通版とでもしておきます。
初めて浦島太郎の話を聞いた時,どのように感じたでしょうか。子供の頃,聞いた昔話としては,『桃太郎』や『かぐや姫』,『金太郎』や『一寸法師』,『笠地蔵』や『舌切り雀』などがあります。それらは,ある種のメッセージとして,「~したから幸せになれた。」と子供が規範意識を芽生えさせる元にもなったのではないでしょうか。ところが,浦島太郎は,「不思議なことがあるものだ。」と感じさせながら,さらによく考えると,「亀を助けたから,人生を犠牲にしてこんなことになってしまった。」と不幸話になってしまいます。あるいは,他の昔話と同列で考えると,「乙姫様との約束を忘れてふたを開けた浦島太郎がいけない。」と浦島太郎の過失を責めることになります。
この浦島太郎の話が広く世間に登場したのは明治43年から昭和24年までの小学校2年生の国定教科書『尋常小学読本』の中の「ウラシマノハナシ」です。この内容は私たちが知っている全国共通版の浦島太郎の話とほぼ同じです。つまり,全国でよく知られている浦島太郎は国定教科書のその人なのです。これより先,児童文学者で国定教科書の編纂にも関わっていた巌谷小波は『日本昔噺』を著し,その中に「浦島太郎」の話を収めました。また,明治44年から文部省唱歌として歌われるようになりました。巌谷小波は『日本昔噺』の中で,「むかしむかし,丹後の国,水の江という所に浦島太郎という一人の漁師がおりました。」と書き始めています。ここでは浦島太郎が丹後(現在の京都府北部の半島)の人と明言しています。全国共通版の浦島太郎の話は実は丹後半島に伝わる浦島太郎,つまり,浦嶋子の伝説がもとになっていると言えるのです。
浦島太郎の話は丹後半島に伝わる伝説がベースとなっているようですが,神奈川県横浜市や長野県上松市などの日本各地に浦島太郎の話が伝わっています。(全国40か所ぐらいに伝説があります)それらはどんな話として伝わっているのでしょうか。
まず最初に,京都府北部の丹後半島に伝わる物語を紹介しましょう。丹後半島にある伊根町と網野町には,丹後国風土記にもとづいた浦島太郎の伝説が残っています。そして,四国香川県の浦島太郎を紹介しましょう。その後で,愛知県,長野県などいくつかの地域に伝わる話を紹介します。
1 丹後半島の浦島太郎伝説 ・京都府与謝郡伊根町の浦嶋子 ・京丹後市網野町の浦嶋子
2 丹後国「風土記」逸文
3 四国香川県荘内半島の浦島太郎
4 お伽話(おとぎばなし)
5 日本各地の浦島太郎 ・愛知県武豊町の浦島太郎 ・鹿児島の浦島太郎・寝覚の床と浦島太郎・岐阜県中津川市坂下町の乙姫岩 ・各務原市の浦島太郎 ・横浜の浦島太郎 ・沖縄の浦島太郎
6 浦島太郎のモデル ・倭宿禰・海幸彦・山幸彦神話
7 日本書紀の浦島太郎
8 万葉集の浦島太郎
9 箱の中に神が宿る
海中を行く浦島太郎が見たのはこんな景色か。
一
昔々浦島は 助けた亀に連れられて 竜宮城に来てみれば 絵にも描けない美しさ
二
乙姫様のご馳走に 鯛や比目魚の舞い踊り ただ珍しく面白く 月日の経つのも夢のうち
三
遊びに飽きて気がついて お暇(いとま)ごいもそこそこに 帰る途中の楽しみは 土産にもらった玉手箱
三
かえってみればこは如何に 元居た家も村もなく 道に行きあう人々は 顔も知らない者ばかり
四
心細さにふたとれば あけて悔しき玉手箱 中からぱっと白烟 たちまち太郎はお爺さん
(明治44年 文部省唱歌)
1 丹後半島の浦島太郎伝説
丹後半島略図 京都府与謝郡伊根町の浦嶋子 伊根の舟屋(京都府与謝郡伊根町字亀島)
新井崎神社(伊根町字新井小字松川)
丹後半島の東側,日本海や若狭湾に面した,伊根,朝妻,本庄,筒川の4つの村が合併して昭和29年11月3日に伊根町となりました。伊根は舟屋といって全国でも珍しく下に船のガレージ,上に住居がある建物が並んでいます。満潮時はまるで海に浮かんで見え,観光名所ともなっているところです。この近くには新井崎神社があります。蓬莱国にあると言われる不老不死の薬草を求めて中国から日本にやってきた徐福を祭神とする神社で,真東の海上には常世(とこよ)島とも呼ばれる冠島が浮かんでいます。
冠島
原則立ち入りが禁止された無人島 浦島太郎像(伊根町 浦島公園) 乙姫像(伊根町 浦島公園)浦島太郎は,浦嶋子(うらしまこ)という名前でした。
浦島神社(宇良神社)(京都府伊根町本庄浜191) 浦嶋神社
淳和(じゅんな)天皇は浦嶋子の話を聞き,小野篁を勅使として天長2年(825年)に浦嶋神社を創建し「筒川大明神」として嶋子を祀っています。
別名 宇良神社 浦島大明神 筒川大明神
主祭神 浦嶋子 相殿神 月読命
現在この神社がある付近までが本庄浜の入り江が入り込んでいました。
浦島神社(宇良神社) 浦嶋子は筒川庄の豪族の浦嶋子という名の人の息子で,父の名を継いでいました。
浦島神社(宇良神社) 浦嶋子の祖先は月読命の子孫で,月読命の姉は天照大神,弟は素戔嗚尊(須佐之男命)。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国からもどり御祓をして目を洗っていたら右目から生まれたといいます。
京丹後市網野町の浦嶋子
網野町は丹後半島の西側,京都府内で2番目に大きな市である京丹後市にあります。八丁浜や鳴き砂で有名な琴引浜など日本海に面して美しい景色が広がっています。この町が広がる一体は砂洲を形成していました。
網野町
全長198m,後円部径115m,高さ16m,前方部幅80m,高さ10m の日本海側では最大の古墳。三段の墳丘が築かれ,斜面に葺石をふき,円筒埴輪が並べられていました。近くの小銚子古墳と寛平法皇陵古墳とともに4世紀末~5世紀初の古墳。国の史跡に指定されています。この地方一帯を治めていた豪族の墓でしょう。その祖先が浦嶋子だとも言われています。
網野銚子山古墳
京都府京丹後市網野町
現在は網野銚子山古墳前方部の近くに浦嶋子の家がありました。 写真で奧に見えるのが網野銚子山古墳です。墳丘への入り口に畑があって,その中に碑が立っています。
碑文
「皺榎(しわえのき)この樹には浦島太郎について次の民話が伝承されてゐる
ここは水の江の住人浦島太郎の終焉のの地で太郎の舘跡なりとの説がある 太郎が龍宮より帰へりて玉手箱を開くに忽ち老翁となる 驚愕(きょうがく)せる太郎はその顔の皺(しわ)を毟(むし)り取ってこの樹に投げつけたりと 依って今日猶(なお)この榎はその樹皮に醜き皺をなすなりと云ふ」
浦嶋子屋敷跡 京都府京丹後市網野町
嶋児神社は浅茂川の河口,八丁浜西端にあり,浦嶋子が祀られています。神社といっても小さな祠があるだけですが,近くにある鳥居は大変立派なものです。神社裏手の海岸には嶋子が生け簀に使ったといわれる釣溜(つんだめ)という岩場もあります。
嶋児(しまこ)神社 京丹後市網野町 八丁浜
乙姫とはじめて出会ったのが嶋子神社の対岸にある福島とよばれる小さな島です。 この中に西浦島神社という神社があるそうです。(地元の人からの伝聞)
福島 京丹後市網野町
浦島太郎としてのイメージは亀の背に乗っている姿でしょう。しかし,丹後半島に伝わる話では,亀は亀姫であり,竜宮城への乗り物ではありません。
この写真の浦島太郎像は地域住民の初老記念として1999年に造られたもののようだ。亀と石質が違うようなので,亀が最初に置かれ,その上に造られたように思います。
嶋児神社 浦嶋子像(網野町 八丁浜)
浦嶋子は釣った魚を自然の岩でできた潮だまりに入れていました。嶋児神社の後ろにある防波堤付近では干潮時に写真のような潮だまりがいくつかできます。
釣溜(つんだめ) 網野町 八丁浜灯台付近
海岸から南に入ったところに網野神社があります。ここには水江日子坐王(みずのえひこいますのみこ),住吉大神と水江浦嶋子が祀られています。それぞれ別の所にに鎮座していましたが,1452年9月に現在地に合祀されました。
網野神社(京丹後市網野町網野)
浦島太郎が竜宮城へ行ったのは日本書紀では西暦478年雄略22年の秋7月で,丹波国与謝郡の筒川村(日置の里筒川村は京都府宮津市)の水江浦嶋子が大亀を釣り上げたことで始まります。一般に知られるお伽話の浦島太郎の物語は丹後の国の風土記がもとになっています。しかし,その内容は風土記とは違っています。(以下,丹後の風土記逸文(逸文とは一部が別の書物に引用されて残ったもので,全文が正しく伝わっていない文章を示す),次にお伽草子を示した)*「とこよ」に対して,万葉集「常世」,日本書紀「蓬莱山」,丹後風土記「蓬山」と表記しています。
2 丹後国「風土記」逸文 筒川の嶋子(水江の浦の嶋子) 筒川(伊根町)
『丹後の国風土記』によると,与謝郡日置(伊根・筒川・本荘から経ヶ岬までの広い地域をさす)に筒川村(現在の伊根町筒川)があります。ここに日下部首(くさかべのおびと)等の先祖で名を筒川嶋子(つつかわしまこ)という者がいました。嶋子は容姿端麗で優雅な若者でありました。この人は水江の浦の嶋子という人のことです。
以下のことは以前の国守,伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)が書き表したことと同じです。
長谷朝倉宮(はせのあさくらのみや(雄略天皇))の時代,嶋子は一人大海に小船を浮かべて釣りをしていました。しかし,三日三晩経っても一匹も釣れませんでした。あきらめていたころ1匹の五色の亀が釣れました。不思議だなあと思いましたが船上に上げておきました。すると,眠くなっていつの間にか寝てしまいました。
伊根町本庄浜
浦島太郎が釣りをした
しばらくして目が覚めると,亀が美しい乙女に姿を変えていました。その美しさはほかにたとえようがありません。ここは陸から離れた海の上,「どこから来たのですか。」とたずねると,乙女は微笑みながら「あなたが一人で釣りをしていたのでお話ししたいと思い,風や雲に乗ってやってきました。」と言います。嶋子はさらに「その風や雲はどちらから」とたずねました。すると乙女は「私は天上の神仙の国から来ました。決して疑わないでください。あなたと親しくしたいのです。」と言います。嶋子は乙女が本当に神仙の国から来たと信じました。さらに乙女は「私は永遠にあなたのそばにいたいと願っています。あなたはどうですか。お気持ちをお聞かせください。」と言いました。嶋子は「そんなに慕われているのを聞けばうれしいことです。」と答えました。乙女は海の彼方にある蓬山(とこよ)の国へ行こうと言います。嶋子は乙女が指さす方へ船をこぎ始めるとすぐに眠ってしまいました。
「悠々時空」 浦嶋公園(伊根町)
すぐに大きな島に着きました。そこは玉石を散りばめたような地面で,綺麗な宮殿があり,楼閣は光輝いているように見えます。嶋子がこれまでに見たことがない景色で,二人は手を取り合ってゆっくりと歩んで行きました。すると,一軒の立派な屋敷の門の前に着きました。乙女は「ここで待っていてください。」と言って中に入って行きました。
首里城歓会門(かんかいもん)-門のイメージ
(沖縄県那覇市)
門の前で待っていると,7人の子供たちがやってきて「この人は亀姫様の夫になる人だ」と語っています。そして,次に8人の子供たちがやってきて,また「亀姫の夫はこの人だ」と話しています。嶋子は乙女が亀姫だと知りました。しばらくして,乙女が出てきたので子供たちのことを話すと,乙女は「7人の子供らは昴(すばる)で8人は畢(あめふり)だから怪しまなくてもいいですよ。」と言って門の中へ案内しました。(*昴(すばる)と畢(あめふり)は星座。畢は牡牛座を示します。)
首里城(沖縄県那覇市)-宮殿のイメージ
龍宮=琉球の宮か?
屋敷の中では乙女の両親が出迎えてくれました。嶋子はあいさつをすると座りました。両親は,「神の世と人の世が別々でもこうしてまた会うことができてうれしい」と大変喜んでいました。そして,たくさんのご馳走を味わうようにすすめられました。兄弟姉妹ともお酒を飲み,幼い娘らも取り囲みました。高く響きわたる美しい声,美しく舞い踊る人たち,見るもの聞くもの全てが初めてのことで驚くばかりでした。だんだん日が暮れて夜になり,みなが帰ると,嶋子と乙女の二人だけが残りました。そして,袖がふれあうほどに近づき,この夜,二人は夫婦となりました。
沖縄の海
二人は幸せな日々をすごしました。見るものは美しく,ご馳走がたくさんあり,心ゆくまで楽しむことができました。嶋子は神仙の世界で楽しい時を過ごし,現世を忘れてしまっていたのです。そして,いつしか3年の時が流れます。嶋子は父や母はどうしているのだろうかと故郷のことがだんだん気になってきました。悲しくも懐かしくもなり,そのことを考えると食事も進まないので,顔色も悪くなっていきました。妻となった乙女が,「近頃のあなたは以前とは違っています。どうしたのですか。そのわけを聞かせてください。」とたずねました。嶋子は「昔の人はこんなことを言いました。人は故郷を懐かしむものだ。狐は故郷の山に頭を向けて死ぬと言う。私はそんなことは嘘だと思っていたが,最近になって本当のことだと思えるようになった。」と言いました。乙女に「帰りたいのですか」とたずねられ,「私は神仙の世界で楽しい時を過ごしていますが,故郷のことが忘れられないし両親にも会いたくなりました。だから少しの間故郷に帰らせてほしい。」と申し出ました。
蓬山(とこよ)の庭
浦嶋神社(伊根町)
乙女は「あなたと私は金や石のように固い約束で結ばれ,永遠に一緒に暮らすと誓ったではありませんか。しかし,あなたは私一人を残して帰ってしまうのですね」と涙を流しました。二人は手を取り合って,歩きながら語らいました。いくら話をしても悲しみが増すばかりです。やがて,嶋子の思いが固いことを理解し,別れることを決心しました。
出発の日,乙女もその両親もみんなが見送りに来ました。乙女は嶋子に美しい玉櫛笥(*玉手箱:化粧道具などを入れるきれいな箱)を嶋子に渡して,「私のことを忘れないでください。この箱をあなたに差し上げましょう。でも,私にまた会いたいと思うのなら決してふたを開けてはなりません。」と固く言いました。嶋子は「決して開けません」と約束しました。
本庄浜(伊根町)
船に乗って目を閉じるとあっという間に故郷の筒川が見えました。水江の浜に戻った嶋子は,大変驚きます。そこにはかつての村の姿がなく,見たことのない景色だったからです。しばらく歩いて,村人に水江の浦の嶋子の家族のことを聞いてみました。すると不思議そうな顔をして「今から300年前に嶋子という者が海に釣りに出たまま帰ってこなかったという話を年寄りから聞いたことがありますが,どうしてそんなことを急に尋ねるのですか」と言います。嶋子は村を離れていたのは3年間だと思っていたのですが,実は300年も経っていたと知り,途方にくれてしまいました。
筒川の里(伊根町)
さまよい歩いて10日ほど経ったとき,嶋子は再び乙女に会いたくなっていました。傍らに持っていた玉手箱にふと目を向け,なでていましたが,いてもたってもいられなくなり,約束も忘れてふたを開けてしまいました。すると,開けきらないうちに中から芳(かぐわ)しいにおいが天に流れていってしまいました。ここで我に返って約束を思い出しましたがすでに遅かったのです。
*最後の部分は解釈が分かれます。玉手箱を開けて, 芳欄之体 率于風雲 翩飛蒼天
①芳しいにおいが風と共に空に立ち上っていった。
②嶋子が芳しい体となって-仙人となって空を飛びまわっていった。
続く文が 首を廻らしてたたずみ,涙にむせいて歩き回った となるので,①の解釈としました。
しわ榎(えのき)
浦嶋子はここで玉手箱を開けてしまいました。するとたちまち顔がしわだらけになり,悲しみのあまりしわをちぎって木に投げつけたら樹皮が凸凹になったと伝わります。ここでは松ではなく榎だと伝わっています。(京丹後市網野町)
今となっては再び乙女に会うことはできません。嶋子は涙を流してただ歩き回るだけでした
嶋子は涙をぬぐいながら次のような歌を歌いました。
常世べに 雲たちわたる 水の江の 浦嶋の子が 言(こと)持ちわたる
(浦嶋子の言葉を伝えてくれる雲は常世にまで流れている)
神の乙女が雲の間を飛びながら歌っていました
大和べに 風吹きあげて 雲放(ばな)れ 退(そ)き居(お)りともよ 吾(わ)を忘らすな
(大和の国の方に風が吹いて雲を吹き飛ばした。離ればなれになっていても私を忘れないでください)
嶋子は乙女への想いを断ちがたく,再び歌いました
子らに恋いひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の 波の音(と)聞こゆ
(乙女を思って戸を開けて外を眺めていると,常世の浜の波の音が聞こえてくる)
後の時代の人がこの歌に付け加えて歌いました
水の江の 浦嶋の子が 玉匣(たまくしげ) 開けずありせば またもあはましを
(玉手箱を開けなかったらまた会えたのに)
常世べに 雲立ちわたる 多由女 雲はつがめど 我ぞ悲しき
(常世に向かって雲が流れる。雲は次々に現れるが乙女には会えず悲しい)
3 四国 香川県の荘内半島の浦島太郎
香川県の形は右を向いている亀に似ていると言われます。亀の尾にあたるのが三豊市のある荘内半島です。香川県で高松市,丸亀市に次いで3番目に人口が多い三豊市は2006年に三豊郡仁尾町,詫間町など7町が合併してできた新しい都市です。荘内半島の付け根にあたる海岸の埋め立てが進み,港も整備されました。この荘内半島に,浦島太郎と関係のある地名がいくつもあります。
香川県 荘内半島 家の浦の港
家の浦 父与作は鴨之越の南にある家の浦の出身です。後に三崎(生里)に移り住みます。
荘内半島に「浦島」という地名はありません。昔,大浜浦,積浦,生里浦,箱浦,香田浦,粟島,志々島を「荘内組七浦」と呼び,総称で「浦島」と呼んでいたそうです。
荘内半島の「浦島」は,室町時代の歌にもその名が見られ,先端の三崎は航海上の重要な場所でもあったようです。
生里の集落
浦島太郎は父与作の長子としてここで生まれました。太郎が生まれた里ということから「生里(なまり)」という地名で呼んでいます。 浦島太郎の父は「与作」,家の浦というところで生まれ育ちました。母は小浜(仁老浜)の「しもの家」が生家です。この二人が結ばれ,三崎(生里)に住むことになりました。ここで太郎が生まれました。
どんがめ岩(箱崎) 太郎はこの辺りで釣りをしていました。また,ここから竜宮城へ出発しました。
17・8になった太郎は気立てもよく,立派な青年でした。生里は荘内半島の西海岸にあたり,波風が強く当たるところでしたので,太郎は釣りのしやすい明神の里(箱浦)に移り住むことにしました。ここで太郎は魚釣りをしながら生活していました。
糸之越 糸之越は太郎が家のある箱から釣り糸を持って母の古里の仁老浜に出かけた時通ったところです。ここに太郎の像が置かれていました。
亀を助ける浦島太郎(詫間駅前)
ある日,家の浦に釣りに出かけた太郎は,帰り道,鴨の越の浜で亀をいじめている子どもたちを見ました。かわいそうに思った太郎は,子どもたちにお金を払って買い取り,腰に下げていた竹筒を手に取ると,亀の口を開けて中に入れていたキビ酒を飲ませました。しばらくすると,亀は元気を取り戻し,海に戻っていきました。
鴨の越
父の古里から太郎の家に戻る途中にあります。子どもたちにいじめられていた亀を助けた場所です。集落と丸山とは干潮時につながります。丸山には浦島神社があり,その前に亀に乗った太郎の像があります。
浦島神社 何日か後の5月,太郎はいつものように箱崎のどん亀石に乗って釣りをしていました。いつもは何か釣れるのに,この日はなぜか一匹も釣れません。仕方なく,ぼーっとしていると,いつの間にか夕刻になってしまいました。そろそろ家に帰ろうと支度をしていると,大きな亀が海の向こうから近づいてきました。
高瀬川にかかる橋 太郎が驚いていると,亀の姿は消え,代わりに美しい娘が立っていました。そして,その娘は,「私は以前あなたに助けられた亀です。そのときのお礼に竜宮にご案内したいのです。」と言いました。
浦島太郎像(詫間町 メモリアルパーク) 太郎は,その言葉を受け入れ,亀の背に乗って竜宮に行くことにしました。亀は竜宮の乙姫だったのです。
竜宮では楽しい時を過ごしました。やがて,古里が恋しくなった太郎は家に戻る決心をしました。乙姫は数匹の亀の背に7つの宝物を乗せ,太郎とともに古里の三崎(箱)の海岸に向かいました。
積
太郎が乙姫に送られて亀の背中に宝物を積んで着いたところです。ここで乙姫と別れの握手をしました。その時,乙姫の腕輪が落ちたので,「金輪の鼻」と呼ばれるようになりました。 太郎は家のある三崎(箱)を目指しましたが,潮の流れに乗って積の金輪の鼻に着きました。ここで乙姫と固い握手をして別れました。この時,乙姫が腕に身につけていた金輪が落ちました。金輪の鼻はこの出来事がもとになった地名です。
粟島(紫雲出山山頂より) 乙姫は,粟島の姫路で潮の流れが変わるのを待って,竜宮に戻っていきました。
室浜 宝物をもらって帰った太郎は,浦々を歩き回るのですが,誰も見たことも会ったこともない人ばかりです。太郎を知っている人もいません。道で出会ったお年寄りに「三崎に住んでいた太郎を知っていますか。」尋ねると,「昔も昔,そのような名前の人がいましたが,行方不明のままですよ。」とこたえました。太郎が竜宮に行っている間に長い月日が流れていました。今はだれも太郎のことを知りません。
室浜(不老浜)
竜宮から帰った太郎が2・3年過ごしたところです。
太郎は昔釣りをしていた箱崎に戻ってきました。そこで,昔のことを思い出し,亀石でつりをしたり,船を出したり,不老浜(ぶろま:室浜)にでかけたりして,空しい時間を過ごしていました。時々,竜宮の姫を思い出しては懐かしい気持ちに浸っていました。
箱崎
釣り場となっている岩場に「どん亀石」がありますが,満潮時は海面下に沈みます。亀の霊は箱浦小学校の近くにある竜王社に祀られています。
太郎が戻って3年が経ったある日,粟島に亀の死骸が上がったと聞き,急いで船を出し,粟島に向かいました。浜に着いて亀の死骸を見ると,いつか自分が乗った亀であることがわかりました。太郎はここに死骸を葬りました。これが粟島の亀戎(かめえびす)社です。
箱
太郎が玉手箱を開けたところです。
「諸大龍王」の石碑は海上安全や商売繁盛
などを願って,1847年に建てられました。
石碑の後ろに太郎親子の墓(五輪塔3基)があります。
分骨を持ち帰った太郎は,大空(おぞら:八昭園)に祀りました。
亀が死んで乙姫とも会えないと悲観した太郎は乙姫からもらった玉手箱を抱えて箱の浜をさまよい歩きました。竹生島の父母の墓の前に来た太郎は,ここで玉手箱のふたを開けました。
「諸大龍王」石碑裏の碑文
「海上安全商売繁昌諸人快楽
弘化第4龍集丁未陽復吉旦」
「諸大龍王は海を支配する龍神である。龍宮には龍神が祀られ此処のの主は乙姫である。浦島太郎は龍宮の使者である亀に乗り龍宮城に招かれ乙姫の寵愛を受けながら数百年を過ごしたと言う。弘化4年(1847年)箱の裏人たちが龍神 乙姫と太郎を尊崇し,太郎と両親の墓前(竹生島)にこの墓碑を建立し。海上安全と商売繁盛諸人快楽を祈願したものである。
墓碑の証として前面が卒塔婆の形に彫られ,梵字がある。また台の石は亀の形をしており浦島太郎の行遊記を偲ばせている。墓碑の後方にある五輪の塔が太郎親子三人の墓であり,太郎が玉手箱を開けたこの地を卜して碑を建立したものであろう。平成九年三月」(左上の写真に書かれている説明)
太郎が玉手箱をあけた時,白煙が上り,その煙は紫の雲となってこの山にかかりました。山全体を桜の木が囲み,毎年4月に桜まつりが行われています。
紫雲出山
弥生時代の遺跡のある山頂から駐車場まで続く道を少し降りた所にある茂みに入ると竜王社があり,浦島太郎が祀られています。
箱のふたを開けると中から白煙が立ち上り,太郎はたちまち白髪の老人となってしまいました。そして,白煙は紫の雲となって紫雲出山にたなびきました。
仁老浜方向 晩年,太郎は母の古里の小浜(仁老浜にろはま)に住み,ここで永眠しました。
紫雲出山への登り口にあるトイレ 『浦島太郎のふるさと』 詫間町発行 を参考にしました。
また,紫雲出山遺跡館の方に山頂の案内をしていただきました。
4 お伽話(おとぎばなし)
御伽草子(一部簡約)
御伽草子は南北朝時代~江戸時代にかけて作られた草子(=物語・本)です。
筒川(伊根町)
浦島太郎は24・5歳の親孝行な若者で,漁師をして暮らしています。
大亀を釣った太郎は「鶴は千年亀は万年,ここで命を終えるのはかわいそう。」と思って逃がしてやりました。
伊根町本庄浜
浦島太郎が釣りをした
次の日また釣りに出かけると海に小船が浮かんでいるのを見ました。だんだん近づいてきた船には美しい乙女が一人で乗っていました。「あなたはだれですか。」と太郎が尋ねると,「私は都に住んでいます。帰る途中乗っていた船が嵐で沈んでしまい,この小船で漂流していました。」と言います。そして「どうか私を都に連れて行ってください。」と言って泣き始めてしまいました。太郎はかわいそうに思って小舟で送ってやることにしました。
首里城歓会門(かんかいもん)-門のイメージ
(沖縄県那覇市)
10日ほど航海して金の瓦や銀の堀がある御殿に着きました。天上の住居もここに勝るところはないほどにすばらしいところでした。
乙女が言うには,「一樹の陰に宿り,一河の流れを汲むことは,皆これ他生の縁。はるか遠くからここに送ってきてくださったことも何かの縁。遠慮はいりません。私と夫婦になって,ここで暮らしましょう。」と長々と語りました。浦島太郎は「とにかく言われたとおりにしましょう。」と承知して夫婦となりました。
首里城(沖縄県那覇市)-宮殿のイメージ
龍宮=琉球の宮か?
乙女はここは龍宮城だと言います。浦島太郎を城へ入れると,四方を戸口で囲まれた所に案内しました。東の戸を開けてみると,梅や桜が咲き乱れ,鶯も鳴いています。南の門を開けると,蓮の池で水鳥が遊んでいます。蝉やホトトギスの声も聞こえます。西の戸は秋で,紅葉がきれい。白菊や萩も咲いています。鹿の鳴き声が聞こえてきます。北の戸は冬の景色で,梢は枯れ,谷間は雪景色となっています。
沖縄の海
龍宮城での楽しい生活は気がつけば3年も経っていました。両親に何も告げずに家を出たので30日でいいから家に帰りたいと願い出ます。それを聞いた乙女は「3年間共に暮らしてきたのに,今帰って行ったら次にいつ会えるかわかりません。」と泣くばかり。そして,乙女は「私はあなたに助けられた亀です。」と打ち明けた。 そして,「助けてくれた恩を返したいと思い,夫婦になりました。」と言う。
蓬山(とこよ)の庭
浦嶋神社(伊根町)
太郎の思いが強いことを知った乙女は玉手箱を取り出して「もし再び逢いたいのなら,決してこの箱を開けてはなりませんよ。」と言って渡しました。
本庄浜(伊根町)
故郷に帰ってみると思いのほか荒れ果てています。人もいない。どうしたことかと見ると,古めかしい小屋を見つけました。そこには年老いた人が住んでいたので,「このあたりに住んでいた浦島という者を知りませんか。」と尋ねてみました。すると,老人は「これは不思議なことを言うものだ。その浦島という人がここに住んでいたのはもう700年も前のことだと聞いていますよ。」と答えました。それを聞いた太郎は大変驚いて,この老人に自分に起こったことを全て話しました。老人も驚き,太郎のことが気の毒になりました。そして,古い塚に案内しました。「あの塚が浦島という人の墓と聞いています。」と告げます。太郎はそれを見て悲しくなり涙を流しました。
筒川の里(伊根町)
太郎が龍宮城にいたのは3年間だと思っていたら,実は700年も経っていました。太郎はどうしていいのかわからず,松の木の下で開けてはならないと言われていた玉手箱を開けてしまいます。すると3筋の紫雲が立ち上り,太郎はすぐさま老翁になってしまいました。そして,鶴に姿を変えて天に舞い上がると蓬莱山の方へ飛んでいきました。亀を助けた太郎は蓬莱の国で乙女と幸せに暮らしました。めでたいことです。
この後,太郎は丹後の国の浦島明神となり,亀と一緒に祀られています。
5 日本各地の浦島太郎
愛知県武豊町の浦島太郎
富貴駅
愛知県知多郡武豊町に伝わる昔話には,この町が浦島太郎の故郷であると書かれています。武豊町にある富貴は「ふき」と読みますが,この読みは昔の「負亀(おぶかめ)」という地名から生まれたものです。負亀の音読みは「ふき」です。また,この地には現在も「浦之島」というような地名があります。
町内に残る浦島太郎の史跡を順に訪ねてみました。この作成に当たっては,武豊町図書館や歴史民俗資料館に大変お世話になりました。
『武豊のむかしばなし』第14話 浦島太郎の故郷
「・・・まず,わしが話を聞いてもらいたいもんじゃ。
おまえさまは,富貴村の東大高の,知里付神社という神さんの東南に,『負亀(おぶがめ)』という土地があることを知っとりなさるだろうか。この土地には,浦島屋敷と呼んでいる一画もありますのじゃ。浦島太郎が,助けた亀の背に負ぶさって,ここから出かけたから,負亀というているんで,りっぱな証拠ではござんせんか。富貴(ふき)のことを,いろんなふうに言っとるようだが,この負亀を音で読みなさってごろうじろ。それ,フキと読めますじゃろうが。これが富貴という村の本当の意味と言えますまいか。 そればかりではござんせんよ。浦島川だとか浦ノ島という土地もありますのじゃ。この浦ノ島へは,海亀がたくさんやってきて産卵したもんだと,うちのじいさんに聞いたこともある。この郷の氏神さんは知里付さんというて,近郷にも名高いお社じゃが,第11代垂仁天皇さまの26年菊月に建てられなさったという言い伝えじゃから,浦島太郎が故郷へ帰った天長2年よりも,ずうっと昔のお社じゃ。宮司さんに聞いた話じゃ,このお社には,浦島太郎の玉手箱がちゃんとしまってあるそうな。わしも覚えとるが,前のお社の棟瓦(むながわら)は亀の姿をしておったと思うがのう。おまえさん,富貴の南の海岸に,四海波(しかいなみ)というとこがあるのを知っとりなさるか。昔はこの辺は海のきれいなとこで,富貴では,終戦後も長い間,海水浴で大にぎわいしたもんだが,この四海波は,殊に景色がええところで,名古屋の金持ちの別荘が並んどったが,あすこの堤防で,じっと海を眺めてごらんなされ。波の形が変わっとるんで,昔の人は,竜宮城の入口だと言っとった。わしがじいさんの話だと,あの浜辺は「うめきの浜」というて,浦島太郎が,玉手箱を開けたため,白髪(しらが)になってしもうて,くやしくてうめいた所じゃということだった。 この浜から一丁くらい西には,翁塚(おきなづか)という古い塚もあるし,浦島観音さんもまつられておる。 東大高の真楽寺というお寺さんには,ちゃんと亀のお墓が残されていますのじゃ。 昔,弘法大師さんが,こちらへおいでんさったとき,ああ,ここは浦島太郎の出生地だと言われて,燕子花(かきつばた)と松と竹を植えなさったのだが,燕子花は四季咲きになり,大正天皇さまが皇太子さんのとき,ご覧になりましたのさ。枯れてしもうたが,松は斑入(ふいり)になり,竹は年中筍(たけのこ)が出たそうな。富貴の市場には『竜宮神社』という神さんがあって,富貴の浜が海水浴でにぎわったころ,ようお参りがあったものだったが・・・。とにかく,これだけ証拠がそろっとっても,浦島太郎の土地じゃないと言われますかの。 」
①真楽寺
元亀元年8月に創立された寺です。大高山と号するのは,尾張藩の鷹所との関係からとも言われています。
この寺の本堂左下に小さな石があります。これが浦島太郎が助けた亀の墓だと言われています。
真楽寺
亀の墓
②知里付神社
第11代垂仁天皇26年菊月に少彦名命(すくなひこのみこと)を祭神として祀られました。この神社の社宝が「あけずの箱」で,浦島太郎が竜宮城から帰るときに乙姫様から贈られたものです。
明治時代の干ばつのとき,宮司がこの箱を船に乗せて海上でお祓いをすると,雨雲が発生し,大雨が降ったと案内板に書かれていました。
知里付神社の境内に浦島神社があります。
知里付神社
浦島神社
③四季咲きカキツバタ
弘法大師がこの地に来たとき,ここが浦島太郎の生誕地であると認めたそうです。その記念にカキツバタ,松,竹を植えたそうです。カキツバタは年中きれいな花を咲かせていました。しかし,今はその痕跡もありません。現在,ここには小さな池が残り,弘法大師と書かれた石碑が立っています。
弘法大師石碑
④浦島橋
昔はこの辺りを太郎が住んでいたところと言うことで「浦島屋敷」と呼んでいたそうです。
浦島太郎は橋の下を流れる浦島川を下り,竜宮城に向かいました。現在,この橋のある字名は「浦之島」といいます。
国道247号・浦島橋
浦島川
⑤負亀(おぶがめ)の松
太郎は海岸で子どもたちにいじめられている亀を助けてやりました。その亀が住んでいたのがこの辺りで,以前は白砂の海岸で,松がたくさん生い茂っていたようです。
亀は再び太郎の前に現れ,背に乗せて竜宮城に行きました。「亀に負(お)ぶさって」と言う意味からこの辺りの地名を負亀「おぶがめ」といいました。後に,この字の音読みの「ふき」が「富貴」と書かれ,地名となりました。
かつて負亀とよばれていた所
現在は数本の松が残っています
⑥乙姫橋
浦島太郎を出迎えた橋と言われています。
乙姫橋
遠景の煙突は火力発電所のもの
⑦竜宮神社
竜宮保育園の南に隣接しています。
浦島太郎が竜宮城から帰った後の天長2年(825年)7月,竜宮城を偲び,海神である大綿津見神を祭神として建立されました。
常夜灯は1854年,江戸時代後期に千石船の船主たちが海上交通の安全を祈願して奉納したものです。以前は,この辺りまで海岸だったことが分かります。
竜宮神社
小さな祠です
知多半島の東海岸
参考文献等 『武豊のむかしばなし』武豊町企画課
『もっと知ろう武豊を シリーズNo5』武豊町商工会風おこし推進委員会
鹿児島の浦島太郎
長崎鼻 (鹿児島県揖宿郡山川町)
龍宮神社
薩摩半島の最南端にある長崎鼻,開聞岳が眼前に迫るこの地に浦島太郎の話が伝わっています。岬にある龍宮神社には豊玉姫(乙姫様)が祀られています。「竜宮城は琉球なり」とも伝えられているのです。
寝覚の床と浦島太郎
寝覚の床(長野県木曽郡上松町) 岩の名称はここ
浦島太郎は丹後の国水之江の人です。雄略天皇の時代,沖で釣りをしていたところ亀が釣れました。供の者が殺そうとしましたが,普通の亀ではないように思え,海に逃がしてやりました。しばらく経ってから太郎が海辺の松林を歩いていたところ,美しい乙女と出会いました。太郎は乙女が誘うままに歩いていくと,水晶が敷き詰められた広い庭に着きました。そして,そこには赤い珊瑚で造られた宮殿があったのです。「ここはどこですか。」と尋ねると,乙女は「ここは常世の国で,この建物は竜宮です。」と答えました。乙女と宮殿の奧へ入っていくと黄金の冠をかぶった竜王が現れました。竜王は「私はここの王だ。お前は私の娘の命を救ってくれたからその恩返しをしたい。」と言って御馳走を並べてもてなしました。楽しい宴会が何日も続きましたが,ある時,鶏の鳴き声を聞いて故郷のことを思い出しました。急に帰りたくなった太郎が竜王にそのことを伝えると,竜王は太郎に再会を約束し,弁財天像と「万宝神書」と名付けられた巻物,さらに,「絶対に開けてはいけませんよ。」と言って小さな玉筐(たまくしげ:玉手箱)を与えました。太郎はこうして故郷に戻ってきました。しかし,故郷はすっかり変わっていました。父母も親戚も誰もいません。不思議に思って,海辺の老人に尋ねると,太郎が故郷を離れてから300年も経っていたことがわかりました。太郎は大変驚きましたが,竜王から贈られた「万宝神書」を思いだし,中を開いてみました。するとそこには飛行自在の秘術と長寿延命の秘薬の製造方法が書かれていました。それを読んで飛行の術を学んだ太郎は各地を飛び回りました。その太郎が,たまたま木曽の寝覚めの里に来たのです。この地の奇岩の美しさに魅了され,ここに滞在することにしました。太郎は船や岩の上から釣りを楽しんで暮らしていました。ある時,釣り仲間と玉筐の話をしていた時,竜王との約束を忘れ,そのふたを開けてしまいました。すると,紫の煙が立ちのぼり,煙が太郎を包むと300歳の老人になってしまいました。この時同時に飛行の術も使えなくなってしまいました。嘆いてももとに戻らず,仕方なく,この地で長寿延命の薬を作って売っていました。後悔ばかりの毎日でしたが,938年の春のこと,太郎は行方知れずになってしまいました。そして,二度と再びその姿を見ることはありませんでした。しばらくして,村人が太郎が釣りをしていた岩の上に弁財天の像が置いてあるのを見つけました。村人たちはこの岩の上に祠を建てて像を納め,寝覚山臨川寺(しんかくさんりんせんじ)を建てました。(長野県上松町 臨川寺)『ふるさとの伝説』ぎょうせい発行より
寝覚山臨川寺 寝覚山臨川寺が参拝者に配布しているパンフレットには,
浦島太郎は竜宮からもどってからどこをどう歩いたかわからないけれど,この山にたどり着いたことになっています。
臨川寺の創建に関わる話として以下のように伝えられています。
浦島太郎は木曽路の風景を見てなぐさめられながら,釣りをしたり,村人に竜宮の話をしたりしていました。
ある日,土産にもらった玉手箱のことを思いだし,ふたを開けるとすぐに300歳のおじいさんになってしまいました。驚いて目が覚めたので,ここを「寝覚(ねざめ)」と言うようになりました。
これに驚いた村人は浦島太郎に近づかなくなってしまいました。そのため,これ以上ここに住むこともできず,行方知れずとなりました。
村人が浦島太郎が住んでいた跡を見てみると,そこには弁財天像や釣り竿・硯といった品物が残されていました。
村人はこれらを祠(ほこら)に納め,菩提(ぼだい)をとむらったと言われています。
この話は今から約1200年前のことです。
(パンフレットを要約しました)
寝覚山臨川寺 弁天堂
寝覚山臨川寺 姿見の池
寝覚の床 寝覚の床(ねざめのとこ)は長野県木曽郡上松町にあり,国の名勝史跡天然記念物となっています。
ポットホール 木曽川の激しい流れは,花崗岩を浸食し,このような珍しい形を形成しました。所々に見られるポットホールは,川底にあるくぼみに石が入り,激しい水の流れでその石が回転することで岩が削られて鍋状の穴があいたものです。
寝覚の床には竜宮城からもどってからの伝説があります。先に紹介した話とは異なり,太郎は陸を歩いてこの地にたどり着いたとされる話とその後の話が残っています。
寝覚の床 浦島太郎は竜宮城から故郷へ帰ってきたものの,家もなく,親兄弟もおらず,さまよい歩いていました。どこをどう歩いたかわからないまま,木曽川にたどり着き,その美しい風景を見て暮らすことにしました。
浦島堂 浦島太郎は木曽川で釣りをしながら寂しく暮らしていましたが,ある時,乙姫様からもらった玉手箱をあけました。すると,玉手箱からは白煙が出て,300歳の白髪の翁になってしまいました。浦島太郎は今まで「夢」でも見ていたかのように思い,ここで目が覚めたようになったことから,この地を「寝覚め」というようになりました。床のような岩があるところで,「寝覚の床」と呼ぶようになったといいます。
浦島堂(臨川寺) その後,浦島太郎は自分の姿を見て悲しみ,弁才天像や釣り竿などの遺品を残して消え去ってしまいました。村人たちはこれを小祠に納め寺を建ててその菩提をとむらったといいます。臨川寺にはそれらが祀られています。岩の上には浦島大明神を祀った浦島堂があります。
寝覚の床に隣接する寝覚の床美術公園には物語を表したオブジェがあります。
岐阜県中津川市坂下町の乙姫岩
岐阜県中津川市坂下町の木曽川に「龍宮乙姫岩」と呼ばれる岩があります。伝説によると,この岩には乙姫様が住んでいたそうです。
乙姫大橋から見る木曽川と龍宮岩・乙姫岩 他
木曽川の上流の寝覚の床で釣りをしていた浦島太郎は鉄砲水で亀岩といっしょに流されてしまいました。乙姫岩まで流され,乙姫様に助けられます。手厚く介抱され元気をとりもどしました。
乙姫大橋の浦島太郎像
やがて浦島太郎と乙姫様は恋し会うようになり,ご馳走を食べてしばらく一緒に暮らしました。そのうち浦島太郎はいつまでも甘えてばかりいてはいけないと思うようになります。そして,寝覚の床に帰ることにしました。
乙姫大橋の乙姫像
再会を約束して別れる時乙姫は袖振岩で見送りました。
龍宮岩と乙姫大橋
乙姫は龍宮で,浦島太郎は寝覚の床でいつか再会できるだろうと待っていましたが,太郎はがまんできなくなって土産にもらった玉手箱を開いてしまいました。すると,立ち上がる煙とともに白髪の老人になってしまったそうです。二人が再び会うことはできませんでした。
龍宮岩・殿岩・袖振岩・乙姫岩・獅子岩・波切岩
岐阜県各務原市の浦島太郎
不動山 岐阜県各務原市 岐阜県各務原市に前渡(まえど)というところがあります。木曽川中流部の右岸にあり,対する左岸には国宝犬山城が山の上に建っています。ここは,1221年の鎌倉時代,後鳥羽上皇が諸国の武士を集めてつくった朝廷軍が北条泰時を総大将とする鎌倉幕府と戦った「承久の乱」の戦跡地でもあります。矢熊山仙眼院(不動山・前渡不動)参道には木曽川をはさんで戦った両軍の武士のために供養塔が建てられています。
前渡猿尾堤 不動山登りり口前に,県道を挟んで赤い祠が岩の上に立っているのが見えます。これが市杵島(いちきしま)神社です。市杵嶋姫(いちきしまひめ) は日本神話では水の神として登場します。ここが木曽川の右岸にあることから祀られているものと考えましたが,この市杵島神社には弁財天が祀られています。
また,神社に隣接して前渡猿尾堤が残されています。これは,本堤防に当たる水の勢いを和らげる働きがある石積みの堤です。この辺りがかつて水害の多かったところで,市杵島神社があるのもわかります。
犬山城と木曽川 この神社の入り口に,弁財天の由来記があります。
<原文のまま 1>(読みやすくするため空白挿入)
創立は承元建暦年間の頃 濃洲鵜沼の里伊木山東北木曽川の辺に龍宮ヶ城(犬山城の北方にありて現在龍宮池と称す)あり 此の下流に龍宮ヶ淵あり 附近に太郎(生れは信州上松の在に「寝醒の床」あり 其の在所と伝へらる)と云える一猟師あり 魚釣りに専念し居眠りて夜更かしゐたるに 枕辺に世にも稀なる貴美人現れて曰く 「妾と夫婦の約束して給れ」と申されたるので 太郎は余りにも事の意外に打驚き 身分の相違が甚だしいので断りたるに 美人曰く 「縁結びに身分の上下はない 是非共妾の夫になって頂くようと申され 是なる箱を渡して置く
(簡約 : 美濃の龍宮ヶ淵に太郎という者が住んでいました。太郎が寝ていると美人が現れ「結婚してほしい」と言われるが,身分が違うからと断ります。しかし,その美人は身分は関係ないから夫になってほしいと懇願します。そして,太郎の前に箱を置きました。)
厳島神社(広島県) <原文のまま 2>
結婚式は安芸の宮島に於て挙げるから 此の箱を持参して待っていて下さるよう この箱の蓋を必ずあけないよう」との言葉に 太郎は遂に賛成承諾なし 其の箱を最も大切にかゝへ 喜び勇んで尋ね尋ねて西下し漸く安芸の国宮島にたどりつき 厳島神社辺りにて件の美人を待ち侘び 幾久しく魚釣りを渡世業として 長歳月を送りしが 先に約束をしたる美人は姿ついて真見えず
(簡約 : 「結婚式は安芸の宮島であげましょう。だからこの箱を持って待っていて下さい。」と言い残して消えました。太郎は喜んで宮島まで出かけて厳島神社付近で釣りをしながら美人が来るのを待っていました。しかし,いつまで待っても現れませんでした。)
市杵島(いちきしま)神社
岐阜県各務原市前渡東 <原文のまま 3>
落膽失望の体にて再び鵜沼の宿伊木山の東の龍宮ヶ淵と呼ぶ木曽川の本流左卷のある川岸まで舞い戻り 彼の箱の蓋をあけ曩に約束したこと如何なりしかと心乱れて 放心すること七日間も過ぎんとせし 真夜中に あら不思議なるかなや件の美人現れ「世は此の在所の下流摩免渡(今稲羽前渡東町)の 辨天岩に鎮座する辨財天であるが 先に其方に授けし奇き是なる玉手箱を所持致させ 汝の寿命の試し見んとて 今より七百三十四年前に汝に授けし是の玉手箱 今に至り 蓋を開けし故 詮方なし 若し蓋あけずして 所持致しなば 決して老衰することなく 寿命ながらうべし ゆめ疑ふこと勿れ」 と告命ありて 直ちに姿は消え給へり
(簡約 : 落胆失望した太郎は再び龍宮ヶ淵に戻ってきました。そして箱を開けてしまいました。すると,摩免渡-まめど の弁財天が現れて,「あなたに734年前に与えた玉手箱のふたを開けなければ年を取ることはなかったのに」と言い残して消えてしまいました。)
市杵島(いちきしま)神社 <原文のまま 4>
其の不思議に感じ入り 太郎は直ちに彼の辨財天岩上に鎮座坐します大神に対し 其の奇瑞極まる霊験に深く感じ入り 感謝報恩去らず 崇敬惜かざりき 其後延命と縁結びの守護神として普く知られ 信者には必ず霊験あり 参拝者の踵をたつことなかりしと伝えられる 世に浦島太郎とは(太郎が安芸の厳島の浦に住めること七百三十四年故に後世に至り浦島太郎と名付)玉手箱に因む伝説は是れが抑もの起源なりと伝へらる 当神社は福徳寿の守護神であらせられるが 特に延命と夫婦縁結びの神として参拝者多く 縁結びの古奇大木の実存するは崇敬者の賞揚の的となっている
浦島太郎伝説の残る岐阜県各務原市と桃太郎伝説の残る愛知県犬山市・岐阜県可児市は木曽川でつながっており,これらの地域は隣接しています。不思議な感じがしています。
横浜の浦島太郎
慶運寺(神奈川県横浜市神奈川区) 神奈川県横浜市に浦島太郎を見つけました。東神奈川駅を降りて,京急線の線路沿いの道を南西方向滝の川に向かって歩きます。やがて,右に寺が見えます。門には大きく慶運寺と書かれています。そして,「龍宮伝来 浦島観世音 浦島寺」と書かれた石碑があります。この石碑は亀の背に乗っているのです。
慶運寺に浦島太郎が祀られる前は,現在浦島丘という地名があるあたりにあった観福寿寺(かんぷくじゅじ)に祀られていました。1868年にこの寺が火災で焼失したため,浦島太郎に関するものがこの寺に移されたそうです。
後に慶運寺を「浦島寺」と呼ぶようになりました。
浦島寺石碑
横浜市境域委員会が設置した文化財案内板によると,浦島太郎伝説は観福寿寺の縁起書にあったとされています。
相州(そうしゅう-相模国 さがみのくに )の三浦に浦島太夫という人が住んでいた。この人が仕事で丹後の国(現在の京都府北部)に移住した。移住してから生まれたのが浦島太郎で,太郎が20歳頃,澄(すみ)の江(与謝の筒川)から龍宮に行った。3年経って村に戻ってみると,父母はおらず,知人すらいない。そこで相模国三浦に戻って尋ねてみると,実は300年余り経っていることがわかった。仕方なく,再び亀に乗り,相模の海から龍宮へと戻って行き二度と戻らなかった。
『浦島太郎はどこへ行ったのか』(高橋大輔著 新潮社)の中で,筆者はさらに詳しく補足しています。それによると,龍宮から丹後に戻る時,太郎は聖観世音菩薩と玉手箱をもらいました。丹後で玉手箱を開け,白髪の老人となった太郎は三浦の里を訪れ,父の墓所に菩薩像を安置しました。そこが観福寿寺でした。また,玉手箱を開けたのが横浜へ向かう途中の箱根という説もあり,箱根の地名の由来ともなっていると紹介しています。
慶運寺境内の「浦島観世音」堂には観福寿寺から移された聖観世音菩薩が保管されています。
慶運寺境内には浦島父子碑が立っています。
この寺は幕末の開港当時フランス領事館ともなっていました。門にはそれを示す石碑が立っています。
沖縄の浦島太郎
ウサン嶽 ウサン嶽(オサン御嶽:うたき)
沖縄県島尻郡南風原町与那覇390
沖縄の浦島太郎は「穏作根子」という名前です。「おさねし」と読みが書かれていますが,地元の人は「うさんし-」と呼んでいます。
穏作根子は与那原の海岸で釣りをしようと歩いていると,ひとにぎりの美しい入り髪(いりがん:付け髪)が落ちているのを見つけました。それを拾うと,誰のだろうかと辺りをさがしましたが,落とし主が見つかりませんでした。次の日,また,海岸を歩いていると,一人の美しい乙女と出会いました。「もしかして,この入り髪はあなたのですか」と尋ねると,「そうです,私のです。ありがとうございました。お礼に龍宮に行きましょう。」と言いました。穏作根子は大変驚きましたが,この乙女が龍宮の乙姫と知り,案内されるまま海の中へついて行きました。
龍宮では大変歓迎され,時間も忘れてしまうほど楽しい時を過ごしました。
沖縄の海(写真は知念の海岸)
穏作根子の墓 何日経ったでしょうか,そのうち,穏作根子は家に帰りたくなりました。乙姫は帰るのを引き留めましたが,穏作根子の思いが強いのを理解して,見送ることにしました。別れる時,乙姫は穏作根子に紙包みを渡し,「故郷に戻って,もしあなたが心細くなったらこれを持って戻って来てください。決して開けてはいけませんよ。」と言いました。
穏作根子が帰った故郷は見たこともない景色で,そこにいる人は知らない人ばかりです。穏作根子のことを知る人も誰もいません。家族のことを聞いても何か変な顔をするだけです。実は穏作根子が龍宮に行ってすでに33世代(約100年,別に1000年経っていたという話もある)が経っていました。
途方に暮れて,桑の枝で杖を作って歩いていましたが,疲れて村の丘に座り込んでしまいました。どうしたものかと思っていると,乙姫からもらった紙包みを思い出しました。「これを開けたら龍宮に帰れるかもしれない。」と,「開けてはならない。」という乙姫の言葉を忘れて紙包みを開けてしまいました。
紙包みの中には白髪が入っていました。すると,この白髪が飛んで穏作根子の体につき,急に年をとってそこで死んでしまいました。村人たちは穏作根子をこの丘に葬りました。
その場所は「穏作根獄」として村の拝所になっています。穏作根子の桑の杖はやがてその丘で根付きました。
「浦島太郎」あるいは「浦嶋子伝」の話が形作られる以前に,人が亀の背に乗って海を渡る話や海神の国へ行き3年経って戻ってきた話など,原点とも言える伝説があります。
6 浦島太郎のモデル ①
龍宮へ行った彦火明命(ひこほあかりのみこと)と亀に乗った倭宿禰(やまとのすくね)
元伊勢籠神社(京都府宮津市字大垣)
天橋立の北にある元伊勢籠(もといせこの)神社は主祭神を尾張氏の祖である彦火明命(ひこほあかりのみこと:天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命)としています。
祭神彦火明命が竹で編んだ籠船に乗って龍宮へ行かれたという伝説があり,籠神社とよばれています。これは浦島太郎のモデルとなった話ではという説があります。
倭宿禰命像 元伊勢籠神社
(やまとのすくね) 神武天皇が東遷に向かう途中,明石海峡で亀にのって現れ,神武天皇を河内や大和の国へ先導したことにより,大和建国の第一の功労者として倭宿禰の称号を賜りました。倭宿禰は尾張の国とつながりの深い海部氏の祖です。
天橋立 倭宿禰命像がある元伊勢籠神社は丹後半島の付け根ともいえる位置にあり,ここは古代において海人との関係が深い地域です。
尾張地域(愛知県西部)に海部郡(あまぐん)とよばれる地域があります。尾張は古代の豪族尾張氏が支配していた地域で,伊勢湾一帯を地盤とし,日本海からの海人(あま)一族と結びついて大豪族となりました。天武天皇の元の名は大海人皇子(おおあまのおうじ)で,乳母が尾張出身だったのでこの名が付けられたと言われます。海部は「あま」とも「かいふ」とも読むことがあります。
浦島太郎のモデル ②
海幸彦・山幸彦神話
より詳しくは 海幸彦・山幸彦神話 へ
日南海岸 青島は「海幸・山幸」神話の舞台です。この話を古事記も日本書紀もともに伝えています。
ある日のこと,弟のホオリノミコトは兄のホデリノミコトには互いに釣り竿と弓矢を取り替えてみようと提案しました。そして,兄は山へ,弟は海へ出かけました。しかし,二人とも獲物をとることはできませんでした。そこで兄は弟に「やはり本来持つべき物を持って,本来の場所へ出かけないと何も得られないから,道具を返すことにしよう。」と言いました。ところが,弟は魚がとれないばかりか,兄の大切な釣り針を海でなくしてしまっていたのです。それを聞いた兄は激怒してしまい,とにかく返せと責めてきました。そこで,自分の剣(十拳剣:とつかのつるぎと言われる剣)をこわして500本の釣り針を作り,それを持って行って償おうとしましたが,「なくした釣り針以外はいらない。」と言って許してはくれませんでした。次に1000本作って持って行っても「元の針でなければだめだ。」と言われて困ってしまいました。(写真 宮崎県青島)
どんなに探しても元の針を見つけることはできません。困り果てて泣きながら海岸にたたずんでいると,潮路の神で塩椎神(シオツチノカミ)という老人と出会いました。山幸彦がわけを話すと,老人は竹で編んだ籠(かご)を作って小舟としました。そして,「この船に乗って海の国へ行きなさい。」と言いました。「私が小舟を押し流したらそのまま進みなさい。そのうちよい潮にぶつかるので,その流れに乗れば魚の鱗(うろこ)のように並ぶ宮が見えてきます。そこは綿津見の神(ワタツミノカミ:海神)の宮殿ですから,門まで行ったら,傍(かたわ)らにある泉のほとりの桂(かつら)の木がありますから,その木の上で待っていなさい。ワタツミノカミの娘があなたを見つけて取りはからってくれるでしょう。」ホオリノミコトはその老人に言われるまま海に出ていきました。
海神の国に着くと,ホオリノミコトは海神の家の前にある大きな木の上に登りました。そこへ,海神の娘,豊玉比売(トヨタマヒメ)の侍女がやってきて,木の上のホオリノミコトを見つけました。ミコトが「水がほしい。」と言うと,侍女は持っていた器に水を入れて差し出したのですが,ミコトはそれを飲むことなく,首にかけていた玉をとり,口に含んでから器の中に吐き出しました。すると,この玉は器にくっついたままとれなくなり,侍女はこれをトヨタマヒメに差し出しました。その玉を見たトヨタマヒメは門の外に誰かいるのかと尋ねると,侍女はありのままを報告しました。トヨタマヒメは自分の目で確かめようと門の外へ出ると,素晴らしい容姿のホオリノミコトに一目惚(ひとめぼ)れしてしまいました。宮殿に戻ったトヨタマヒメはそのことを父のワタツミノカミに報告しました。ワタツミノカミはホオリノミコトが神の子とわかり,宮殿に招き入れました。そして,アシカの皮と絹で出来た敷物を何枚も重ねて座を作り,そこにホオリノミコトを座らせると,たくさんのごちそうやきれいな踊りで歓待しました。しばらくして,ホオリノミコトはトヨタマヒメと結婚し,海の神の家で暮らしました。
それから3年の月日が経ちました。ホオリノミコトは時々ため息をついて
いました。トヨタマヒメがそれを見て尋ねました。「もしかして,あなたは家に帰りたいのではありませんか。」ホオリノミコトは自分の気持ちを語りました。トヨタマヒメは父にホオリノミコトの思いを話しました。ヒメから話を聞いたワタツミノカミは「なくしたお兄さんの針を見つけてあげましょう。」と言って海の中の全部の魚を集めることにしました。すると,「鯛が『口が痛い』と言ってここに来ていません。」と魚たちが言いました。そこで鯛をよんでのどの奥を見てみると,釣り針が引っかかっていました。ワタツミノカミはこれを取り出し,清めてホオリノミコトに渡しました。また,2つの玉も渡しました。帰る時,ホオリノミコトは一番早いサメに乗って1日で元の海岸にたどり着きました。(写真 宮崎県青島神社)
7 日本書紀の浦島太郎
「西暦478年雄略天皇22年の秋七月,丹波国与謝郡(よさのこおり)の筒川(つつかわ)の水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)が舟に乗って釣りをしていら大亀が釣れた。するとたちまちに乙女に化身した。浦嶋子と海に入って,蓬莱山(とこよのくに)にたどり着いた。この後は別巻で。」・・・・とあるが,「別巻」とは何?風土記を指すとも言われています。
8 万葉集の浦島太郎
高橋虫麻呂の歌
「春,霞がかかる日に住吉の海で釣り船を見ていると,はるか昔のことが思い出される。水江の浦の嶋子が鰹や鯛を釣って7日,この世と常世の境を越えてしまいました。そこで,海の神の娘である亀姫と会いました。二人は常世で結婚し,暮らしました。3年ほど経って,嶋子が「しばらく故郷に帰って,父母に今の生活を話してきたい。」と妻に言ったところ,「またここで暮らしたいのなら,決してこれを開けてはいけません」と櫛笥(くしげ:玉手箱)を渡された。こうして水江にもどった浦嶋の子だったが,3年の間に故郷はなくなり見る影もなくなっていた。箱を開ければ元に戻るかもしれないと思って開けたところ,常世の国に向かって白い雲が立ちのぼり,浦島の子は白髪の老人になってしまいました。そして,息絶えて死んでしまいました。」
9 箱の中に神が宿る
『柳田国男全集第11巻』にある「妹の力」に,次のような伝説が載っています。これは『浦島太郎はどこへ行ったのか』(高橋大輔著 新潮社)に紹介されています。伝説が残るのは,沖縄県石垣市大浜にある崎原御嶽(さきはらうたき)です。実際にこの場所を訪ね,地元の人たちに話を聞いてみました。
沖縄県石垣市大浜 昔々のこと,大浜という所(現在の石垣市大浜)にヒルマクイ・幸地玉カネという兄弟がいました。このころ,兄弟が住む島には鋤鍬鎌(すき・くわ・かま)などの農具がなく,これらを手に入れるため大海に船出しました。
鹿児島県南さつま市坊津 兄弟が着いたのは現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊の港です。坊津は古代より海上交通の要地であったところで,安濃津(あのつ),博多津とならんで日本三津(さんしん)に数えられています。ここは遣唐使船の寄港地でもありました。奈良時代に中国の僧鑑真が上陸した秋目浦も近くにあります。
兄弟はここで鋤鍬鎌を買い求めることができました。その時,白髪の老人が近づいてきて,「あなたたちの国はどこですか」と尋ねました。
この白髪の老人こそが浦島太郎ではないかとする本もあります。『浦島太郎はどこへ行ったのか』では塩土老翁と重ねて書かれています。
坊浦(鹿児島県南さつま市) 兄弟は「私たちは八重山島に住んでいるヒルマクイ・幸地玉カネです。鋤鍬鎌を買うためにこの島にやってきました。」と答えました。
老人は「あなたたちの島に崇敬する神様はおられますか。もし,おられないようなら私が授けて差し上げたいのですが」と言うと,兄弟は大変喜びました。
坊浦沖の双剣石(鹿児島県南さつま市) 老人はふたを閉じた箱を一つ兄弟に渡して言いました。「この箱は,海に船をこぎ出すと鳴り始めます。必ず鳴る方向に向かって船を進めてください。そうすれば何事もなく無事に島に戻ることができるでしょう。島に着いたら伯母妹に言って,それから箱を開けなさい。」
兄弟は箱を手にして船に向かいました。
太平洋 よい風が吹いてきました。兄弟は,これは神の力と喜び,船をつないでいたロープをほどき,帆を掲げて海に船出しました。
しばらくすると,老人が言っていたように箱が鳴り始めました。それを奇妙に感じた兄弟は箱を開けてみました。しかし,中には何も入っておらず空でした。
これはおかしなことだと思っていると,急に船の向きが変わり,坊津の港に戻ってきてしまいました。
下浜から見る坊浦 港に着くと,兄弟の前に再び老人が現れ,「あなたたちは箱のふたを開けたのではないですか」と尋ねました。二人は箱のふたを開けたことを正直に老人に話しました。
老人は,また箱のふたを閉じると,「この箱を海上では絶対に開けてはいけませんよ」と今度は強く言いました。
大浜 海岸 兄弟は喜んでお礼を言って船出をしました。すると,また追い風が吹き始め,帆を上げて出航しました。また箱が鳴り始めましたが,今度は言われたとおり,箱が鳴る方へと進んでいきました。
すると,何事もなく,ふるさとの大浜村の崎原の港に着きました。
崎原御嶽(沖縄県石垣市大浜) 兄弟から話を聞いた伯母妹は箱のふたを開けてみました。
すると,体に神が乗り移りお告げがありました。そこで兄弟は,この地に御嶽(うたき)を建てて祀ることにしました。
島にはこの時初めて神が渡ってきたため,この神を「新神」としました。
崎原御嶽 現在,大浜地区には黒石御嶽,大石嶽など5つの御嶽が並んで建てられていますが,海岸に近いのが崎原御嶽です。
鳥居の前には,南国独特の木々に覆われた大岩のように大きな珊瑚層の固まりがあります。これは昔,津波などにより陸地にうち上げられたものではないかと地元の方が語っておられました。もともとこの辺りまで海だったのであろうとも思われます。またここは,石垣島のパワースポットの一つであるとも言われています。
兄弟の出港地 兄弟が船出をした場所には5つの石が並んで置かれています。ここから見る海は太平洋で,黒潮が流れています。その流れに乗れば沖縄本島の東海上を進み,九州南東部から四国・本州に着くことでしょう。実際に,1600km離れた伊良湖岬に流れ着くようにと石垣島から流した椰子の実が本州各地の海岸に流れ着いています。坊津は鹿児島県薩摩半島の南にあります。波風に乗り,兄弟がこの港に着いたのは実話だったとも考えられます。
この伝説のように,箱に神が宿っているという考えは浦島太郎の玉手箱にも通ずるものです。
石垣島にある日本最南端の鍾乳洞「石垣島鍾乳洞」の門は竜宮城の門を想像して建てられています。ここは以前「竜宮城鍾乳洞」とよばれていたそうです。改名して現在の名称となっています。
石垣島鍾乳洞
洞内は山口県の秋芳洞に匹敵する規模で,全長3200mもあります。(公開されているのは全体の1/5ほど)
竜宮=琉球とつないでみれば,このような鍾乳洞が海の中の宮殿であり,竜宮城だったかもしれません。 石垣島鍾乳洞
ウラシマソウ
浦島太郎が釣りをしている姿に似ていることから名付けられました。
(鎌倉長谷寺にて撮影)
参考文献
『日本伝説大系』みずうみ書房
『お伽草子謎解き紀行―伝説に秘められた古代史の真実 』 神一行 学研M文庫
『昔話にはウラがある』 ひろさちや 新潮社
『浦島太郎の文学史』 三浦佑之 五柳書院
『浦島太郎はどこへ行ったのか』 高橋大輔 新潮社
『風土記』日本古典文学全集 植垣節成 小学館
『日本書紀・風土記』日本古典文学 直木孝次郎他 角川書店
『浦島子伝』 重松明久 現代思潮社
『浦島太郎の謎』 長田ふみと 文芸社
元伊勢籠神社案内
*掲載写真は全てこのHPの作者が撮影。海中写真は沖縄県石垣島などの水深10~15mで撮影しまし
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