https://oratio.jp/p_resource/tenpukuji 【天福寺 / てんぷくじ】より
天福寺は、1688年に江戸時代の寺請制度により設置された寺で、禁教時代に潜伏キリシタンと承知していながら檀家として受け入れ、擁護してきた。佐賀藩深堀領の飛び地であった構成資産「外海の出津集落」のほとんどの人々は、同じ佐賀藩深堀領に所在する天福寺の所属であった。250年の長きにわたり潜伏キリシタンが信仰を維持できたのは、寺との信頼関係が生まれ、共存関係を築いてきたからであり、外海地域におけるキリシタンの歴史の中で重要な役割を果たしてきた仏教寺院である。
天福寺のエントランスホールの一角には、潜伏キリシタンが隠し持っていたというロザリオやメダイのほか、浦上キリシタンが隠しきれなくなり滑石峠を抜けて東樫山に運んだと言い伝えのあるマリア観音像などが展示されている。
https://globe.asahi.com/article/11629276 【巡礼と観光編⑤ 「巡礼ツーリズム」とも形容される巡礼の新たな姿】より
T)聖地に近づくにつれて巡礼路は混雑していった=8月、スペイン北西部ポルトマリン郊外、村山祐介撮影
9世紀以来の歴史を誇るサンティアゴ巡礼の道と四国遍路は第2次大戦後、ともに巡礼者がほとんど姿を消す苦境に陥った。その後、復活を遂げた原動力の一つは、観光との出会いだ。「巡礼ツーリズム」とも形容される巡礼の新たな姿を報告する。(村山祐介)
四国遍路の地元はいま、サンティアゴ巡礼路がたどった道を進もうとしている。
8月上旬、四国4県の知事らが東京・有楽町駅前にそろいのはっぴ姿で集まった。世界遺産登録推進協議会会長で四国経済連合会会長の千葉昭(70)が「遍路文化を受け継ぐため、どうしても世界遺産登録が必要です」と気勢を上げた。
世界遺産登録を訴える四国経済連合会会長の千葉昭と4県知事ら=8月、東京・有楽町駅、村山祐介撮影
一行は文化庁を訪ね、国が世界遺産委員会に出す「国内暫定リスト」入りを求める、4県58市町村の提案書を宮田亮平長官に渡した。手を上げて10年。「何がネックなのか今日こそはっきりしてもらいたい。四国の総意をあまり軽々しく扱うと、責任を持てませんからね」。愛媛選出の衆院議員村上誠一郎(64)がいらだちをぶつける場面もあった。
世界遺産を目指す運動が始まったのは1998年。四国と本州を結ぶ瀬戸大橋や明石海峡大橋などによる観光効果を底上げしようと、地元経済界がまず動いた。2006年に文化庁が国内暫定リストの提案を募ったことで、自治体も腰を上げた。地元の経済界と行政、政界、宗教界、市民団体、大学がスクラムを組む協議会ができ、文化庁にはこの日、20万人を超す署名も持参した。
目指すのはサンティアゴがたどった「成功物語」だ。1993年の世界遺産登録を弾みに2015年には30年前の100倍、26万人超を引き寄せた。維持管理を担う州政府公営企業シャコベオ代表、ラファエル・サンチェス(55)は「素晴らしい道という品質証明になり、大きなブランド力がついた」と語る。
だが、遍路にとってのハードルは高い。
まずは国内暫定リスト入りが不可欠だが、見通しは立っていない。1400キロに及ぶ遍路道や88の札所を誰がどう保護するのかなど、難題が山積みだ。
委員会の審査対象になっても、「顕著な普遍的価値」を証明するのは簡単ではない。廃仏毀釈や空襲の被害で再建された建造物も多く、4県はハード面ではなく、お接待文化を含めた「生きた文化資産」としてソフト面を強調するシナリオを描くが、納得してもらえるかは未知数だ。さらに委員会は今月、年間の審査上限を2割減らし、推薦枠も1国1件に限ることを決定。一段と狭き門になった。
サンティアゴもバラ色なわけではない。
聖地までの距離を示すプレートの多くが盗まれていた=8月、スペイン北西部ペドロウソ、村山祐介撮影
聖地に近づくにつれて表示板の盗難や落書きで雰囲気はすさみ、団体客で混雑する道や巡礼宿からは、思索にふける静かな環境は失われつつある。草の根で支えてきた支援者からは「世界遺産の称号は返上すべきだ」との声すら上がるが、対策をめぐって政界や大聖堂、行政の立場や利害は交錯し、地元はきしんでいる。
聖地に近づくにつれて巡礼路は混雑していった=8月、スペイン北西部ポルトマリン郊外、村山祐介撮影
遍路を支える人たちの心配もそこにある。交流拠点「前山おへんろ交流サロン」(香川県さぬき市)の主任、秋友京子(67)は「静かにしておいて欲しい気持ちもある。田舎だからたくさんの人には対応できないし、がやがやし過ぎて遍路道が傷んでも困ります」と話す。
約20年前に世界遺産を目指す運動の先鞭(せんべん)を付けた58番札所、仙遊寺(愛媛県今治市)の小山田憲正住職(66)は、「世界遺産になることが目的ではない」と言う。「地元の人がお接待したり、草刈りしたりしながら四国遍路を守っている気持ちを、世界に発信する仕掛けになればそれでいいんです」
https://note.com/himemisakuma/n/n614860eae59f 【聖地巡礼 (宗教人類学)- 宗教と文化】より
聖地巡礼と言えば、熱心な信仰者が行うものというイメージが
それは娯楽としての観光旅行とは区別される
しかし、聖地とされる場所に足を運ぶと、熱心な信仰を持たないだろうと思われる観光客を多く見る。しかし、その一方で、日常生活で宗教が中心となる場所が減りつつある。これを世俗化という。これまでの聖地巡礼研究では、ほとんど観光は無視されてきた。好奇心から聖地を訪れる観光客は空間を乱すもの、不真面目な存在として批判的に見られてきた。
宗教と観光2
だが、宗教と観光の結びつきは「お蔭参り」(伊勢神宮参拝)と呼ばれる大規模な(100万人単位)巡礼現象が江戸時代にあったことからも分かるように、元々観光の要素が含まれていた。
近代以降、両者は区分され、聖地巡礼は宗教領域、観光は世俗領域に属すとされた。(場合によって両者は対立するものと考えられた)
それを現在はまた変わってきている。巡礼(宗教)と観光(世俗)を分ける状況から、様々な場所で両者が結びついている変化する様相へ
聖地巡礼とは?
- 宗教の創始者や聖人/しょうにん(徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物)の誕生地・埋葬地のような生前関わりのあった場所、あるいは神や精霊といった存在と関わる場所への旅」。その宗教において特別な地位を与えられた場所が聖地であり、その場所への旅が巡礼という宗教的実践だった。
-日本では、四国遍路(祈願のため、四国における弘法大師修行の遺跡八十八か所の霊場をめぐり歩くこと。)や各地の霊山への登拝がそれに当てはまる。
-しかし、これらだけでは現代の聖地巡礼を理解しきれない。
-特別な信仰心を持っていない人でもいわゆる聖地を訪れることが多い。
-これらから、聖性を既存の宗教に限定せず、私的な信仰の多様性(ヒーリング、スピリチュアル、占いなど)を視野に入れる。
聖地をどう捉えるか?
- 聖地と言うときに、その根拠となる聖性をどう捉えるか。2つの立場がある。
- 聖性holiness(イエス・キリストと似たものとなること)を人間や俗世界を超越した力の現れ(ヒエロファニー)とみなす立場と、聖性の根底に社会的なるものを置き、あくまでも社会構造の内部に位置付けられるものと見なす立場。
- 聖地は人間に先立って存在する「世界の中心」であり、動かし難い実存性を持つと考えるのが前者の研究。それに対して、人類学・社会学的立場は、聖地を人間が作り上げた世界の象徴的秩序化であるとみなし、あくまでも社会的に構築されたものとみなす(本講義は後者の立場)
サンティアゴ・デ・コンポステラ / Los Caminos de Santiago
画像
- 2000年代以降、スペイン北西部にあるカトリックの聖地サンティアゴ・デ・コンポステラまで、数百キロの巡礼路を歩く人々が増えている
-9世紀に12使徒の一人である聖ヤコブの遺骸が発見され(たとされ)、小さな教会が作られたことが始まり。
- その後、イベリア半島をイスラーム勢から取り戻すレコンキスタの過程で、苦戦を強いられていたキリスト教陣営に、白馬に乗った聖ヤコブが加勢して勝利に導いたと言う伝説が広まった。
- 13~14世紀には修道院や騎士団が巡礼路や沿道施設を整備。一時的に盛り上がりを見せるが、しばらくは衰退。
12使徒
福音を伝えるためにイエス=キリストによって最初に選ばれた12人の弟子。ペテロ(シモン)・アンデレ・ヤコブ・ヨハネ・ピリポ・バルトロマイ・トマス・マタイ・アルパヨの子ヤコブ・タダイ・熱心党のシモン・イスカリオテのユダ。ユダ脱落後はマッテヤが選ばれた。パウロは復活のキリストから委任されたと伝える。十二使徒。
巡礼者か、観光客か?
- 1986年の巡礼者数は、2,500人以下。しかし90年代以降、盛り上がりを見せ、2006年以降、10万人を越えるように。
- 大きな理由は小説家パウロコエーリョと女優シャーリーマクレーンの作品
-巡礼者の半数以上は、特に信仰を持っているわけではないし、一度も境界へ行ったことのない人も珍しくない
-しかし、信仰のない観光客として聖地を訪れたが、そこで何か特別な体験をして、新しい価値観や世界観を獲得することもある
-特に他者とのつながりや交流が重視される
宗教からの解放1
- 聖地巡礼と観光はどのように結びついているのか?
- 私たちが生きる現代社会は、近代化を経て、成立した。近代化の歩みとは、社会が宗教から解放される過程『世俗化』
-前近代のヨーロッパ社会では、多くの国がキリスト教を国教としていた。王の権力や権威も教会の承認を得ることで成立する。
教育や医療も、教会の運営する施設が担っていた。街の中心には、教会があり、1日のリズムは教会の鐘が管理した。
-日本でも江戸時代には寺請制度があり、寺が民衆の生活を管理していた。
宗教からの解放2
- 全近代社会では、教会は社会の中心に位置し、隅々まで影響を及ぼしていた。
- しかし世俗化によって、宗教的な制度や倫理観などが社会的意義を失っていった。
- 世俗化が進んだ社会は、生活の様々な局面で、合理的に考え、振る舞うことが求められる
- 結婚や葬式などの出来事も、宗教的儀式や手続きだけではなく、役所での所定の手続きが必要になる。
宗教の私事化
- 世俗化によって、キリスト教は倫理的な規範や価値観を提供することが難しくなり、宗教はあくまで個々人のプライベートな事柄になる。「宗教の私事化」
- これによって宗教が社会的に占める位置が社会から個人へ。
-また、元々の宗教の歴史とは無関係に、個々人が特定の要素だけを選び取ったり、他の宗教と組み合わせるための材料になる
例)健康維持やダイエットのためのヨガ
- これまでの宗教教団の教義が、個々人の受容に応じてばら売りされるようになった。
聖地の私事化
- 現代の聖地は私事化の影響を大きく受ける
-伝統的に聖地は宗教制度や教団に管理され、なぜ特別なのかと言う物語がある。それを宗教制度や教団はこんとろーしてきた
-私事化が進む社会では、伝統的な信仰を持たない個々人がさまざまな物語を聖地に持ち込む
パワースポット化
- 北海道神宮のパワースポット化
-北海道神宮は札幌にある神社
-元はロシアに対する北方防衛の象徴としての色彩の強い神社で北海道開拓の基礎を築いた人々を祀っている
-近年は、恋愛成就や金運向上のパワースポットと言われる。タイや台湾の観光客も増加。
-元の神社の意味とは、無関係に訪れるものたち(聖地巡礼から聖地観光へ)
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