王直

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/46773337【長崎・ポルトガル・マカオ】

https://www.asahi.com/articles/ASR7V5CV9R77UCVL01V.html 【鉄砲伝来に関わった男、王直 平戸を拠点に躍動した日本史のキーマン】より

東アジアの海を席巻した倭寇の頭目

 室町時代の末期、東アジアの海を席巻した王直(おうちょく)という男がいた。中国・明(みん)の出身で、倭寇(わこう)の仲間に加わり、やがてみなを統率する頭目となった。彼が拠点としたのが、いまの長崎県にある平戸港である。その面影を探して、港町を訪ねた。

 室町末期のころの倭寇は、日本人中心のかつての海賊集団とは違う。中国人たちが率いる「密貿易商人」「武装した海商」という性格が強くなっていた。「後期倭寇」と呼ばれる。

 宋や元の時代と異なり、明は民間の貿易を許さなかった。貢ぎ物を受け、返礼をするという朝貢のかたちにこだわった。その隙間をぬって活動したのが倭寇である。日本の銀を中国へ、中国の生糸を日本へ。王直らは貿易の拠点として、平戸に関わりを持つようになる。1542年のころだといわれる。

 しかし活発化する密貿易は、明朝の強い弾圧にあう。根拠地としていた中国沿岸の島が明の官憲に襲撃され、壊滅状態になる。王直らは活動の拠点を平戸へ移し、この地を治めていた松浦(まつら)家の第25代、松浦隆信の庇護(ひご)を受けた。

 「富をもたらしてくれるネットワークが海の向こうにあり、それを握る人物が王直だと、隆信は分かっていたのだろう」。そう語るのは、松浦史料博物館の学芸員、久家(くが)孝史さんだ。室町末期はすなわち戦国時代で、武将たちは富をたくわえ、軍事力を強化するのに躍起だった。両者の利害が一致し、明から追われた密貿易商はひとまず安住の地を得た。

 このころの王直は、日本史を動かすキーパーソンになっていたようだ。1543年の種子島への鉄砲伝来。ポルトガル人が乗っていた船は中国船で、そこには王直もいた。通訳だったとも、船の所有者だったとも言われる。1550年にポルトガル船が平戸に来航したのも、王直の仲介があったと考えられている。西洋との交易、キリスト教伝来の出発点となった。

繁栄する平戸は「西のみやこ」

 同時代に平戸で書かれた「大曲記(おおまがりき)」という史料がある。この地に住まいを移した王直を頼りに中国船が増え、やがて南蛮船も入港したと記される。彼らがもたらす品物を求め、京都や堺などから商人が集まり、平戸は「西のみやことそ人は申(もうし)ける」。わがまちの繁栄が誇らしそうだ。

 スマホの地図を頼りに、王直が住んでいたとされる居宅跡に向かった。平戸市の中心部の通りから少し脇に入る。家屋の名残などはなく、号である五峰(ごほう)を冠した「五峰王直居宅跡」の石碑がひっそりと立っていた。やや高台に位置する場所で、当時は遮るものもなく、港が一望できたのではないだろうか。

 王直の屋敷の周辺には多くの中国人が暮らしていたらしい。医者や靴職人、仕立屋など様々な職業の人がいたことをうかがわせる史料もある。一種の中国人街だったか。いまもそのあたりは商店街で、病院や薬局、履物屋や本屋などが軒を連ねている。往年のまちも、もしやこんな感じだったか。そんな思いにとらわれた。


https://shinkamigoto.nagasaki-tabinet.com/spot/10024 【倭寇ゆかりの地 (小手ノ浦)】より

『倭寇』とは、鎌倉末期(13世紀)から室町・戦国時代にかけて、朝鮮半島や中国沿岸を荒らしまわった海賊の呼称である。

倭寇には「前期倭寇」と「後期倭寇」があり、14~15世紀半ばの前期倭寇は、平戸・五島・壱岐・対馬の土豪・土民が主であったとされ、侵攻の対象は高麗(朝鮮半島)だった。

それ以降の16世紀の倭寇を後期倭寇とし、王直のように中国人(明国)が行っていた。

『王直』とは明の海賊王で、「ポルトガル」商人の貿易を手助けしたり、数千の部下と数百の船を率いて海上を暴れまわっていました。

天文9年(1540)、王直は二千人の部下を引き連れて福江島へやってきて通商を求めました。

その木造船の大きさはまるで木の城のようで、櫓(やぐら)が四門もあり、二千人は乗れたといわれており、この船で広東を中心に日本、シャム、西洋諸国を往来し、貿易をしたり盗品をさばいていました。

王直は五島の第十七代宇久盛定に謁見。 盛定は通商を許し、現在の五島市唐人町一帯を居館として与えました。 今も倭寇の遺跡として、海の守護神を祀る「明人堂」や「六角井戸」が残されています。

2年後の天文11年(1542)、平戸領主の松浦鎮信の要請により、王直は平戸に移り、勝尾岳の中腹に居宅を与えられ、これを印寺屋敷と称しました。

その後、明の海禁をきっかけに王直は五島を起点に倭寇活動に転じ、天文19年から23年(1550~1554)までの5年間、王直は当時平戸領であった浜ノ浦、飯ノ瀬戸を領主の許しを得て、基地としました。

※種子島にポルトガル船が入港し鉄砲が伝来したのが天文12年(1543)。

 そのとき王直は「我明国之儒生而名五峰」と名乗っています。(五峰とは五島のことです。)

 王直はポルトガル商人の貿易を手助けしていたため、種子島より先に鉄砲が伝来していたのかもしれないとも言われています。

 明と激しく対立した王直は、明に捕えられ、永禄元年(1558)杭州城外で処刑される。

現在、小手ノ浦沿岸には石塁・空堀跡があり、これは山城が築かれていた跡である。周辺には寺屋敷跡や墳墓跡等もあり、船隠・念崎・呼出などの地名も残されている。

小手ノ浦湾は、串島によって外洋から遮蔽(しゃへい)され、船団基地として諸条件が備わった天然の良港で、東シナ海に面し、平戸との通行に便利であった。


Facebook斉藤 一治さん投稿記事

1587年、豊臣秀吉は、キリスト教の布教を禁止し、外国人の宣教師を国外追放とする「伴天連追放令」を発した。

歴史学者の渡邊大門さんは「秀吉が発令を決意したのは、ポルトガル商人たちが日本人を奴隷として海外に連れ去るからだった」という――。

※本稿は、渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

中国・日本で数多くの淫行を行ったポルトガル商人

一五八三年のこと、ポルトガル船がマカオを出発しインドへ向かったが、マラッカに近いジョホール沖で座礁した。

この報告を耳にした宣教師のコウトは、ポルトガル商人が日本や中国で行った放逸な行為に原因があると考え、それゆえに神罰が下ったと手厳しく評価した。

ポルトガル商人が行った「放逸な行為」は、次のように記述されている(岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料より)。

神はポルトガル商人らが神を恐れることなく、色白く美しき捕らわれの少女らを伴い、多年その妻のように船室で妾(めかけ)として同棲した破廉恥な行為を罰したのである。

この明らかな大罪は、神からも明白に大罰を加えられたのであった。

それゆえ、彼らに神の厳しい力を恐れさせるため、中国・日本の航海中に多数の物資を積載した船を失わせ、もってこれを知らしめようとしたのだ。

また、中国・日本方面では、ほかの国々よりもポルトガル人の淫靡(いんび)な行為がはるかに多いので、神はそこに数度の台風によりそれらの者を威嚇・懲罰し、その恐ろしい悪天候により怒りを十分に示そうとしたことは疑いない。

ポルトガル商人は少女を捕らえて妾とし、船室で「破廉恥な行為」に及んだ。「破廉恥な行為」については、もはや言うまでもないだろう。

ポルトガル商人は神をも恐れぬ行為に及んだので、神から天罰を下されたのである。

天罰とは、船を座礁させることにより、船舶に積んだ貴重な品々を無駄にするというものだった。しかもポルトガル商人は、ほかの国々の人々よりも、中国・日本で数多くの淫行に及んだという。ポルトガル商人が破廉恥な行為に及んだ原因の一つには、その大半が独身者であったという指摘がある。ただ、仮に妻帯者であっても、妻を同伴して航海することは不可能に違いない。彼らは寄港地で女性奴隷を買い、己の性的な欲求を満たしていたのである。

彼らの破廉恥行為は、後年に至っても問題視された。しかし、ポルトガル商人が購入した奴隷の少女と破廉恥な行為に及んだり、渡航中に彼女らを船室に連れ込んだりしたことは、決して止むことがなかったのである。要するに、女性の奴隷の場合は、労働力の問題ではなく、ポルトガル商人の性的欲求を満たす目的という側面があったのだ。

☆秀吉が見た阿鼻(あび)叫喚の地獄絵図

秀吉の時代になると、日本人奴隷が船に積まれ、ヨーロッパに連行されるという悲劇的な事態が生じていた。そのことを記すのが、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)だった大村由己の手になる『九州御動座記』である。同書は、秀吉による九州征伐の際の行軍記録である。

そこには、日本人奴隷の惨状を目の当たりにした秀吉の見解が述べられている。少し長いが、以下に関係する部分を挙げておきたい。

今度、伴天連ら能時分と思い候て、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗(キリスト教)繁昌の計賂をめぐらし、すでに河戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮船付くごとに充満して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本仁(人)を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責(かしゃく)にもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生ながら皮を剝ぎ、坊主も弟子も手つから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道のありさま、目前のように相聞え候。

見るを見まねに、その近所の日本仁(人)いずれもその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女を売り候由、つくづく聞こしめされるるに及び、右の一宗(キリスト教)御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと、案の中に候。

然れば仏法も王法も捨て去るべきことを歎(なげ)きおぼしめされ、添なくも大慈大悲の御思慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払の由、仰せ出され候。

冒頭部分では、ポルトガル商人が日本で得た宝物(金・銀など)を船に積み込み、母国へ送った様子がうかがえる。

ただし、これは決して良い文脈で語られたものではない。

最初の圏点を施した部分では、数百人の日本人が男女に拠らず、ポルトガル商人に買い取られ、逃げられないように手足を鉄の鎖につながれ、彼らが船の底に押し込まれた様子がうかがえる。まさしく地獄絵図だった。

そして、彼らポルトガル人は牛馬を買い取ると、生きたまま皮を剝いで、そのまま手でつかんで食べたという。

ポルトガル人は親子兄弟の間にも礼儀がなく、さながら畜生道の光景だった。

問題だったのは、近くの日本人が彼らの姿(人道に外れた行為)を真似て、子、親、妻女を売り飛ばしたことである。

このような阿鼻叫喚の地獄絵図を面前にすれば、誰もが眼を背けたくなるに違いない。秀吉は、特にその思いが強かったようである。

☆ポルトガル商人の非道に激怒した天下人

もう一つ例を挙げておこう。女性の奴隷がポルトガル商人の性的な欲求を満たすために買われたことは先述したが、同じことは秀吉の時代にも起こっていた。

そのことに対して、秀吉は激怒していたのである。コエリョは右の点について、次のように報告している(前掲『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料より)。

秀吉の家臣が用務を帯びて長崎に来ると、ポルトガル商人の放縦な生活を目の当たりにした。

秀吉が言うには、宣教師が聖教を布教するとはいえ、その教えをあからさまに実行するのは彼ら商人ではないか、と。商人は若い人妻を奪って妾とし、……(以下略)。

宣教師はキリスト教の崇高な教えを説いていたが、教えを守るべきポルトガル商人の所行は酷いものだった。

ポルトガル商人が奪ったという若い人妻とは、奴隷身分ではなかったかもしれない。

普通の人々の若妻を略奪したのだから(あるいは金で買ったのか)、女性奴隷は当然同じような目に遭っていたと推測される。秀吉はポルトガル商人の非道に対して怒りを禁じえず、コエリョに抗議をしたのである。

このように女性の日本人奴隷は、通常の諸役(農作業、家事労働など)にも駆り出されたが、ときに性的な対象として悲惨な処遇を受けることがあった。

多くの女性奴隷は、性的な関係を望まなかったのかもしれない。ただし、中には生活のために止むを得ず、そうした道を選ばざるを得なかった女性がいた可能性もあろう。

秀吉はこの状況に驚愕(きょうがく)し、キリスト教の布教を許したならば、日本は外道の法(人道に外れた世界)に陥ると憂慮した。

このままだと仏法も王法も捨てざるを得なくなることを懸念し、秀吉は宣教師を日本から追い払うことを決意したのである。これが有名な天正十五年(一五八七)に発布された伴天連追放令である。

当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。安価(あるいは無料)な労働力を国外に求めたのは、先にアフリカの例で見たとおりである。

まさしく、それは大航海時代の賜物(たまもの)だった。

秀吉は今でこそ貿易で利益を得ているが、このまま日本人奴隷の問題を放置しておくと、取り返しがつかないことになると考えたのだろう。 

しかし、日本人奴隷が問題視されたのは、これが初めてではなかった。

☆強い決意を持って、人身売買の問題に取り組む

天正十四年(一五八六)から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉は島津氏に圧勝した。

戦場となった豊後では百姓らが捕縛され、九州各地の大名の領国へ連れ去られた。この点も取り上げたとおりである。

そして、捕縛された人々は労働に使役させられるか、奴隷として売買された。秀吉は人の移動によって耕作地が荒れ果て、戦後復興が困難になることを危惧し、諸大名に対して人の連れ去りや売買を禁止した。

そこでは、奴隷商人が関与していたのは疑いなく、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人の姿もあった

天正十五年(一五八七)四月、島津氏を降参に追い込んだ秀吉は、意気揚々と博多に凱旋(がいせん)した。

そこで、ついに問題が発生する。

秀吉が目の当たりにしたのは、日本人奴隷が次々とポルトガルの商船に乗せられ、運搬される風景だった。

そのような事態を受けて、秀吉は強い決意を持って、人身売買の問題に取り組んだ。

☆イエズス会と秀吉の口論

天正十五年(一五八七)六月、秀吉は日本人奴隷の扱いをめぐって、コエリョ(イエズス会日本支部副管区長)と口論になった(『イエズス会日本報告集』)。

次に、お互いの主張を挙げておこう。

まず、秀吉がコエリョに問うたのは、「なぜポルトガル人が多数の日本人を買い、本国に連行するのか」ということだった。

秀吉の問いに対してコエリョは、最大の理由として「日本人が売るから、ポルトガル人が買うのだ」と答えた。そして、「パードレ(司祭職にある者)たちは日本人が売買されることを大いに悲しみ、これを防止するために尽力したが、力が及ばなかった」と述べた。

さらに、「もし秀吉が日本人の売買の禁止を望むならば、諸大名らに命じるべきだ」とし、「秀吉の命に背く者を重刑に処すならば、容易に人身売買を停止することができる」と助言めいた発言をしたのである。

コエリョは日本人奴隷の売買については、日本人が売るから悪いとし、どうしても止めたいのならば、秀吉が禁止すればよいと突き放した。

つまり、宣教師たちでは人身売買が解決できない問題であること、そして無関係であることを主張したのである。

コエリョが実際にどう思ったのかはわからないが、答えは苦し紛れのものであった。

とはいえ、イエズス会の事情がどうであれ、秀吉は日本人が奴隷として海外に連れ去られることを決して許さなかった。

逆に、イエズス会にとって奴隷売買を黙認することは、キリスト教を伝道するうえで大きなマイナスとなった。秀吉の詰問によって、イエズス会は苦境に立たされたのである。

(渡邊 大門)



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