https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%98%9F%E9%99%A2_(%E4%BA%94%E5%B3%B6%E5%B8%82) 【明星院 (五島市)】より
明星院 所在地 五島市吉田町1905番地
位置 北緯32度40分57.8秒 東経128度49分19.5秒座標: 北緯32度40分57.8秒 東経128度49分19.5秒
山号 寶珠山 宗旨 古義真言宗 宗派 高野山真言宗 本尊 虚空蔵菩薩 開基 (伝)空海
正式名 寶珠山吉祥寺明星院 札所等 五島八十八カ所霊場第一番札所
文化財 銅造如来立像 本堂 木造阿弥陀如来立像
明星院(みょうじょういん)は、長崎県五島市にある高野山真言宗の仏教寺院。五島の真言宗本山。
本尊は虚空蔵菩薩。五島八十八カ所霊場第一番札所。本尊は秘仏とされており容易に見る事はできない。
歴史
明星院の名は弘法大師空海により命名されたと伝えられている。 中国から帰った空海が明星院に虚空蔵菩薩が安置してあると聞き赴き、虚空蔵求聞持法にて真言「ナウ ボゥ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」を100万回唱え終えた日の未明、明けの明星(金星)から凄まじい光が差すのをのを見て「中国で収めた密教が今後の日本の済世利民に役立つ事の仏の証明を頂いた」として大変お喜びになり、この寺を「明星院」と名づけたという。
五島では最も古くからある寺院で空海により真言宗へ改宗し、五島列島の大半を治めた福江藩五島氏代々の祈願寺とされ栄えた。
寺院
注目すべきは、本堂の入り口上部の飾り彫りが龍や雲などではなく「象」である事。空海、最澄が帰国する前から存在している寺のためインド仏教の影響を窺える。
本堂の天井には様々な仏教画が格天井に描かれており、四隅には「迦陵頻伽(かりょうびんが)」が描かれている。
住職曰く「迦陵頻伽(かりょうびんが)」の美声を聞くと一瞬にして悟りを開いてしまうと言われている。
さらに、本尊側から本堂入り口に向かって格天井を見ると(通常は入れません)格天井の仏教画の色が光の加減で鮮やかになり、さらに美しく映える。
また、かつては拝観料がかかっていたが、現住職になられてから(2010年10月現在)拝観料は無料になっている。
https://www.taraku.or.jp/about/daishi.html 【弘法大師「空海」さまってどんな人?】より
弘法大師さまは、平安時代初期に活躍した高僧です。
遣唐使として中国に渡り密教を持ち帰り真言宗を開きました。新たな日本文化を形成した偉人であり、四国の八十八か所のお遍路の開祖となるなど、日本中にさまざまな伝説を残しています。
四国に生まれ、18歳で大学に入学
空海
宝亀5年(774)、讃岐(さぬき)の国(現在の四国香川県)で誕生され、幼いころには“真魚(まお)”と呼ばれました。 15歳で都に出て勉強に励み18歳で最高学府の「大学」に入学し勉強に専念しました。
しかし、大学で勉強することは世の中のためにならないと悟り、大学を辞め修行を始めました。
厳しい自然の中で修業をするため四国の山や洞窟に訪れました。のちの「お遍路」の原型となります。その後、大自然の中で修行をはじめることになりますが、そのきっかけは、一人の沙門(しゃもん:仏教の修行僧)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を伝授されたことでした。
虚空蔵求聞持法という修行を行い「空海」と名乗る
「虚空蔵求聞持法」は、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えると、あらゆる経典を記憶できる力が得られるとされる修行です。虚空蔵菩薩が知恵や記憶を司る仏であり、村松虚空蔵尊が十三詣りの聖地と呼ばれる所以でもあります。
この行は百日間ないし五十日間で終わらなければならず、行者の厳しい負担は想像を絶するものです。
その修行のおり、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されています。この瞬間、空海さまは悟りを開いたといわれ、修行で籠っていた洞窟からの視界の中から見えるのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝えられています。
空海
真言密教を確立し日本中に広めました。
延暦23年(804)朝廷から命を受け、遣唐使として唐(当時の中国)に渡りました。
空海さまが乗船したのは遣唐大使の乗る第1船。4隻の船団のうち、第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであり、とても大変な航海だったことがうかがえます。
空海さまの乗った船は、途中で大きく航路を逸れ、福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。海賊の嫌疑をかけられ、このとき遣唐大使に代わり、空海さまが福州の長官へ嘆願書を代筆し、その書を見た長官がただものではないと考え、長安入りを許されたという逸話が残っています。
本来の留学期間は20年間を予定されていましたが、それをたった3年間で終えたことからもその凄まじさが伺えます。経本や新訳経典など多数のものを与えられましたが、そのほか、土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、収集したとされています。
遣唐使として長安に渡り、さまざまなものを持ち帰る
大同元年(806年)10月、空海さまは無事、博多津に帰着。呉服町に東長寺を開基し、大宰府に滞在しました。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していました。
日本に帰った空海さまは日本中にさまざまな伝説を残すこととなり、ここ茨城県東海村を訪れ、虚空蔵菩薩をお刻みになり、村松虚空蔵尊を建てられたと伝えられています。
https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/test/post-120.html 【014 虚空蔵求聞持法の練行と捨身】より
真魚は紀伊から四国へと行場を移した。山岳修行や辺路行の進化や充実感を引っさげて四国に渡った。すでに真魚の五体は鍛えられまるで獣のように山林を動き、五官は鋭敏になり風や水の音も鳥や獣の声もすべて真魚の一身に集まり、唱える真言・陀羅尼の声は山を越え谷を越えて虚空に響き渡ったに相違ない。『声字実相義』の「五大に皆響きあり」はそうした感覚から出たものであろう。
おそらく紀伊の加太(今の和歌山市加太)から小船を漕ぎ出し友ヶ島四島を伝い紀淡海峡を横切って淡路島に上陸したであろう。さらに福良の湊から蜑(あま、海人)の舟を頼り、鳴門の潮をしのいで阿波の撫養の湊に入り、そこから古道として有名な撫養街道を使って内陸に入るか、海浜を室戸に向って南下するかであったろう。ともあれ、真魚は阿波の太龍岳をめざした。
阿国大瀧岳ニ躋リ攀ヂ、土州室戸ノ崎ニ勤念ス、
谷響キヲ惜シマズ、明星来影ス。
『三教指帰』のこの一節が、少年期の空海が太龍岳によじ登り、命がけの修行を行ったことを伝えている。
太龍岳、すなわち山頂の近くに四国霊場第21番太龍寺のある太龍山には東西南北の舎心ヶ嶽(今は、南北の舎心岩)があった。
「舎心」は「捨身」のことで行場の岩場から谷に身を投げることである。空海の当時、ある熊野の辺路(へんろ)禅師のように、実際に「捨身」を敢行する行者がいた(『日本霊異記』)。それが後の修験に「業秤」「覗き」(大峯山の「西の覗き」「東の覗き」など)となって残ったが、それが那智や足摺岬では海中や「常世」への「捨身」(補陀洛渡海)となった。
空海捨身の伝説はここだけではないが、若き日の空海が山中(修験)と海辺(辺路)でいずれもこれと同類の木食草衣の行者であったことが読みとれる。
真魚は千仭の谷を見下ろす岩に坐し陀羅尼の読誦や虚空蔵求聞持法を修している時、谷底に向って落下しながらも空中浮遊する霊威を感得したにちがいない。谷に落ちてゆく空海の身体が虚空蔵菩薩と一体と化して空中に浮遊する感覚(一種の幽体離脱)を体験するのも不思議ではない。室戸では、明星(虚空蔵菩薩のシンボル)が虚空蔵菩薩の真言を唱えつづける空海の口に飛び込むのだ。山岳修行は、むしろそのような霊験をめざす神秘主義的な傾向にあった。
太龍寺は延暦17年(798)、桓武天皇の勅願により空海が虚空蔵菩薩を安置して開創したと伝えられている。この前年空海は『三教指帰』を著した後、消息がわからなくなる(空白の七年)。はたしてそのような時期に桓武の勅命が空海に下りるだろうか。寺伝とはえてしてそうしたものと割り切るほかはない。
二層の山門をくぐると参道の両側に樹齢1000年の老杉が立ち並び、その奥に六角堂、護摩堂、庫裏等、さらに30段の石段を上ると鐘楼門、そこから70段の石段を上ったところに弁天堂、 本堂、大師堂、多宝塔と堂塔が並んでいる。大師堂の周辺は高野山奥の院に似て、大師堂の前に御廟橋、裏手に御廟がある。求聞持堂では今も虚空蔵求聞持法が修せられているという。
四国八十八ヵ所霊場のなかで焼山寺・鶴林寺と並び阿波の難所であった太龍寺も、平成4年には西日本最大のロープウェーができ、今はふもとの道の駅「鷲の里」駅から山上の「太龍寺」駅までたったの10分で上れるようになった。
以前は太龍寺への道しるべでもあった民宿坂口屋にご厄介になり、急な坂道を上り下りしたものだが隔世の感である。私はかつてこの参道の途中で激しい雨のため立ち往生し、ずぶぬれになった難儀の経験がある。
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