https://ameblo.jp/kazanushi/entry-12365561402.html 【風主が見た蘇我氏!(10) 蘇我氏の正体!】より
オホド大王(おおきみ)が北陸蘇我本家の当主であった事が解って来ました‼️
第26代 継体天皇(男大迹尊:おおどのみこと)
北陸から近畿地方に出てきたオホド大王は楠葉に宮を構えて平群王家の手白香姫を皇后として御子後の広庭大王をもうけました‼️
第29代 欽明天皇(天国排開広庭天皇)
平群王朝と広庭大王は女系で繋がっています!オホド大王は淀川河口を玄関口に交易を行い楠葉には日本全国から人が集まり賑わいます❗️また、大和に玉類の大生産工場を造ることを考え蘇我里(現代の橿原市曽我町)辺りに北陸から人を呼び寄せて勾玉や管玉を作らせました❗️
橿原市曽我町に鎮座する宗我坐宗我都比古神社!蘇我本家一族の根拠地です!
北陸からは緑色凝灰岩 出雲玉造からは碧玉(青メノウ) 下総国からは琥珀を送らせました‼️
この琥珀は安房(あわ)の忌部に送らせたのですがこの安房忌部も蘇我里で勾玉作りをしたので、橿原市忌部町の地名が残っています!
ちなみに千葉県の安房(あわ)は四国の阿波忌部(あわ)が移住した事に由来する地名です!
阿波忌部は現代も大嘗祭ではアラタエという麻の織物を天皇に直接献上する重要な役割をしています!
奴奈川姫ゆかりの姫川!この川の流域は縄文時代から翡翠の産地です!
糸魚川河口のヒスイ海岸!天然記念物の翡翠を採る事は出来ませんが川から流れ出た翡翠の採取はOKみたいですが見つかるかな?
また、オホド大王は旧出雲王家の出身なので富家の事代主が奴奈川姫を御后に迎えて翡翠の勾玉を作った事を覚えていて糸魚川からは翡翠(ヒスイ)を送らせました❗️
ヒスイの勾玉と言えば蘇我氏なんです!
蘇我氏が滅ぼされた後、奈良時代の遺跡からはヒスイの玉がパッタリと出なくなるんですよ!
飛鳥寺の建物下から翡翠の勾玉が出ています!土地を清めるためだったのかな?
糸魚川市の奴奈川姫と幼少の建御名方像!奴奈川姫が持っているのはヒスイの勾玉です!
真実は八重波津身(事代主)の御后なんですよ!曽我町からは曽我玉作遺跡が発掘され数十万点
の玉作りに関係する遺物が発見されています‼️
橿原市忌部町に鎮座する天太玉命神社!天太玉命は忌部氏の始祖です!
曽我町のお隣の村で忌部族も玉類を製造していました!忌部山という山も残っていますよ!
さて、いよいよ飛鳥時代に権勢を振るった蘇我氏の真相に迫ります‼️
オホド大王の後、女系で平群王朝の血を引く広庭大王(ひろにわのおおきみ)が即位するのですが…オホド大王には宗我本家当主時代(先妻)の御子が存在していたんですね〜‼️
北陸蘇我本家には金橋ノ御子と高田ノ御子という2人の御子がいましたが、この御子達が大和に上京して来るんです‼️何となく揉めそうなの分かるでしょ!
曽我町に隣接する橿原市曲川町(まがりかわ)辺りには金橋と言う地名が残っていますが、ここに安閑天皇の勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)があったと言われます、出雲の伝承ではこれは三国国造家(蘇我本家)の金日大王の宮だと言われます‼️
第27代 安閑天皇(広国押建金日天皇) 第28代 宣化天皇(武小広国押建天皇)
「勾」や「曲川」は勾玉作りに由来するそうです!そうなんです‼️
この時点で広庭大王と金日大王〜押盾大王の2王朝が並立するんですね〜〜‼️
後者の子孫が蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿なんです‼️
蘇我家の宮があった甘樫丘!手白香姫(平群王家) − 欽明天皇
I
継体天皇
I
蘇我刀自(北陸蘇我本家) − 安閑天皇・宣化天皇(後裔:蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿)
ここで歴代天皇の治世を見てみましょう❗️
第27代 安閑天皇 (父:継体天皇 母:妃(尾張)目子媛命)
屯倉(直轄領)の拡大に一尽力し、41箇所の屯倉を設置しました❗️中には地方豪族の支配地も多くあり大和政権の経済的、また政治的地盤を整えられました‼️
だだ、在位僅か2年❓でこれを成し遂げているんです❗️ 母君が何故か海家!
第28代 宣化天皇 (父:継体天皇 母:妃(尾張)目子媛命)
蘇我稲目を大臣(おおおみ)に起用し、政権の中枢に据えました❗️初めて蘇我氏を大臣に起用したんですね❗️「食は天下の本! 黄金や真珠がいくらあっても飢えは凌げない!」と凶作に備えて食物を貯蔵して、軍事面でも新羅に備えるんです❗️
だだ、宣化天皇も在位が僅か4年ほどなんです❓これまた母君が海家!
第29代 欽明天皇(父:継体天皇 母:皇后(平群王家)手白香皇女)三大首脳の大連の物部氏、大伴氏に大臣の蘇我氏が脇を固めますが、欽明天皇の治世は外交で朝鮮半島経営に失敗❗️
百済への任那割譲事件で大伴金村は失脚❗️これにより物部、蘇我の対立が始まります❗️
その火種となった一つが仏教伝来❗️日本書紀には「欽明天皇13年(552年) 百済の聖明王
から天皇に金銅の釈迦仏像が献上された」とあります❗️
しかし、元興寺縁起や上宮聖徳法王帝説から近年では仏教伝来が538年であるという説が有力になっています❗️この538年というのは第28代 宣化天皇の治世なんですね〜〜❗️
だから学説でも欽明天皇と宣化天皇の二つの王朝あったのでは❓と言われています❗️
海石榴市の初瀬川の畔にある「仏教伝来の地」石碑!
第30代 敏達天皇
仏法に否定的な天皇であると記され❓ますが外交力があり朝鮮半島との外交を取り戻しました❗️敏達天皇の治世に蘇我氏は馬子に代替わりして 仏教興隆に精を出しましたが、疫病が流行して物部守屋から「外国の神を祀るからだ」と天皇に訴え仏法の停止を命ぜられました❗️物部守屋はお寺や仏像を焼き払うんです❗️
第31代 用明天皇
目立った業績は無く在位は僅か2年…物部氏と蘇我氏の対立が頂点に達します❗️
第32代 崇峻天皇
物部氏と蘇我氏が武力衝突‼️物部軍が優位に立ちましたが、蘇我氏に付いている聖徳太子が四天王寺建立の誓いを立てると蘇我氏が勝利し、名門の物部氏は滅びる事となりました‼️
崇峻天皇は蘇我氏の後ろ盾で皇位に就いたので実権の無い政権でした❗️
これが憎しみに変わった天皇は献上された猪🐗を見て「いつか猪🐗の首を切る様に憎いと思う奴を切りたいものだ」と言いましたが、これが馬子の耳に入り暗殺されます❗️
さて、欽明天皇以降の天皇は……❓欠史八代と言われる天皇の様に事績が記されないのは…❓これは、ホントに謎です‼️えー
https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20130809/ 【第38話 蘇我王朝と物部の血】より
古事記・日本書紀(記紀)は漢文で書かれています。それを日本語に読み下すに当たり、「物部」を天皇の形容には「もののふ」、豪族の名称には「もののべ」と読み分けた誤りを私は指摘しました。
「物部」を天皇の形容に使う以上、物部氏は応神天皇に始まる5世紀の天皇家そのものと言えます。越前から近江にかけて勢力を持っていた継体天皇がヤマト中心部に入り、507年に河内国樟葉宮(くずはのみや)で即位します。継体天皇はその約20年後、大和国に入ります。
ちょうどこの頃から蘇我氏が天皇家と姻戚関係を結ぶ最有力豪族として記紀に登場します。物部氏と対比して考えれば、継体天皇に始まる天皇家は蘇我氏そのものであったと考えざるを得ません。
継体天皇が大和国に入るまで20年も要したのは、その武力が圧倒的なものではなかったことを暗示しています。又、継体天皇は物部氏の娘を娶っており、その間にできた子が欽明天皇として即位します。前王朝・物部の力が残っており、蘇我王朝は妥協を強いられたのでしょう。
私は第36話「藤ノ木古墳」https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20130614/の中で被葬者を推定するにあたり蘇我と物部の血の比率を用いました。これにより殺された者と殺された理由が浮かび上がってきました。同じ手法で蘇我王朝を追ってみましょう。
1.継体天皇の次世代
継体は第26代天皇です。蘇我王朝の始祖ですから蘇我の血が100%です。次の世代は、継体天皇の三人の子が次々と天皇を継承します。その内、安閑天皇(27代)と宣化天皇(28代)の母は尾張連草香の娘。即ち地方豪族の娘なので物部の血は零。この二人の天皇は蘇我と物部の対比で考える場合、蘇我の血は100%と考えて良いでしょう。
欽明天皇(29代)は、母が物部王朝の仁賢天皇の娘ですから、蘇我と物部の比率は50%ずつです。
日本書紀は継体天皇の崩御を継体天皇25年(531年)にした根拠として『百済本記』(現存せず)に「日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳」(辛亥年(531年)に天皇、太子、皇子ともに亡くなった)と書かれていることを挙げています。
継体天皇は皇子と共に殺されたのでしょう。続く安閑、宣化二代の8年間は物部氏と血で血を争う抗争があったように思われます。和解の条件として蘇我と物部の血を半々に引く欽明天皇が選ばれ決着したと考えれば辻つまが合います。欽明天皇の即位は539年です。
2.三世代目
32代崇峻天皇陵(桜井市倉橋金福寺跡)
欽明天皇の四子が次々と天皇を担います。
敏達天皇(30代)は、母が石姫皇女。父・欽明天皇は、蘇我と物部のハーフ。母・石姫皇女は、継体天皇の皇子(蘇我)と仁賢天皇(物部)の娘の間に生まれており、やはりハーフ。従って、敏達天皇もハーフ。蘇我・物部の権力争いの中で、バランスを取ったと考えられます。欽明天皇即位から敏達天皇崩御まで46年間、均衡が保たれます。
用明天皇(31代)は585年に即位します。母は、蘇我堅塩媛で蘇我100%。従って、用明天皇の蘇我の血は3/4。ここで蘇我にバランスが傾きました。反撃の機会を狙っていたであろう物部側に対し、蘇我側から決定的な打撃が加えられます。
587年、天皇の死のあと、藤ノ木古墳に葬られた穴穂部皇子(あなほべのみこ)、物部守屋などが殺され、物部氏は没落します。因みに聖徳太子は用明天皇の子です。
赤坂天王山古墳(崇峻天皇陵の1.7km北東。実際の崇峻天皇陵とみられる)
崇峻天皇(32代)の母は、蘇我小姉君で蘇我100%。従って、蘇我の血はやはり3/4。崇峻天皇は穴穂部皇子の同母兄弟です。
穴穂部皇子は物部に近かった為、殺されたと推測されるところ、崇峻天皇も物部に近かったのか、592年に暗殺されます。崇峻は生年も記紀に記録されておらず、又暗殺当日に葬られるという異様さ。
『先代旧事本記』では夫人の布都(ふつ)姫は物部守屋の妹と書かれています(「布都」は物部氏ゆかりの石上神宮に祀る神と同名)。そうであれば、布都姫との間に子ができれば物部の血は5/8に高まります。それが皇位を狙えば蘇我家にとって脅威です。おそらく布都姫も同時に殺されたことでしょう。
推古天皇(33代)は用明天皇の同母兄妹。従って、蘇我の血は3/4。36年に及ぶ長期政権で蘇我王朝は安定します。ただこの間に次の世代の皇位継承者が死に絶えたらしく、一世代飛んで五世代目に継承されます。
3.五世代目
家系図
敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を父とする同母三兄弟が即位します。
先ずは四世代目、押坂彦人大兄の考察。父・敏達天皇は、蘇我と物部のハーフです。母は、息長真手王の娘・広姫。息長氏は継体天皇の本拠と考えられる滋賀県に縁があり、「王」が付くところから蘇我系皇族と推測します。従って、蘇我王家の血は3/4、物部は1/4です。
そして五世代目。舒明天皇(34代)の母は、糠手姫皇女。皇女の父は敏達天皇、母は伊勢大鹿首小熊という地方豪族の娘。敏達天皇はハーフですから皇女は蘇我1/4、物部1/4。従って、舒明天皇は蘇我1/2、物部1/4。皇極天皇(35代。重祚して37代斉明天皇)、孝徳天皇(36代)も同母姉弟なので同じです。
舒明天皇と皇極天皇は結婚しますが、同母兄妹間の結婚は先進国・中国では儒教的倫理観から忌避されていました。先進国の仲間入りをしようと初めて国の正史・日本書紀の編纂を進め、おまけに先進国の言語・漢文で書いているのに、天皇が同母兄妹で結婚したと書けば後進国であることを宣伝してるようなものです。
そこでその事実を隠す為に日本書紀では皇極天皇と孝徳天皇姉弟を一世代下げて六世代目にしています。こうすることにより舒明・皇極夫妻は叔父・姪の関係になります。なぜこのような事が解るかと言えば、日本書紀の8年前に完成した古事記には舒明天皇の同母妹弟として中津王(皇極天皇)と多良王(孝徳天皇とみられる)が記載されているからです。
五世代目の血は蘇我1/2、物部1/4。三世代目に比べ蘇我の比率が下がっていますが、物部没落の後ですから、物部の脅威は去っています。代わりに蘇我一族の内輪もめが始まります。
4.大化改新
29代欽明天皇陵(明日香村平田。前方後円墳)
本来、継体天皇から続く王家が蘇我本家のはずですが、物部との妥協の結果、王家には物部の血が入りました。蘇我は本宗家と王家が並び立つ関係になっていました。或いは本宗家が王家を支配する関係だったのかもしれません。
なぜなら蘇我王朝二世代目の欽明天皇陵が全長140メートルであるのに対し、すぐ北側に同時期に造られた全長318メートルの圧倒的な規模の前方後円墳があるからです。この古墳は見瀬丸山古墳と呼ばれ、奈良県最大。全国では6位の規模です。
この墓に葬られたのは蘇我稲目と考えざるを得ないのです。
見瀬丸山古墳(橿原市見瀬町。奈良県最大の前方後円墳。蘇我稲目墓と推定)
血で血を洗う抗争を続けた物部というライバルがなくなってしまえば、物部の血が入らない純血の蘇我本宗家の地位が更に高まるはずです。そういった場合、物部の血を引く王家の者にかえって物部の血を強く意識させることになりがちです。
皇極天皇2年(645年)6月、乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれる事件が起こり、蘇我蝦夷、蘇我入鹿など蘇我本宗家が滅ぼされます。舒明天皇と蘇我馬子の娘の間に生まれた古人大兄も事件後殺されます。
乙巳の変の切り込み隊長を務め、その後古人大兄を殺した天智天皇は、同母兄妹の舒明・皇極天皇の間の子で六世代目。血は変わらず蘇我1/2、物部1/4です。
5.濃厚な近親婚
蘇我入鹿を斬った中大兄皇子はもとより皇極天皇の脳裏には蘇我本宗家から独立した「王家」(天皇家)の概念が明確にあったはずです。王家を特徴付ける最大の要素は物部の血を引いていることでした。
舒明と皇極が同母兄妹間という異例な結婚をしたのは物部の血の濃さを維持する為だったに違いありません。それ以外に物部の血を濃く持つ王位継承者はいませんでした。
更に舒明と皇極の同母弟・孝徳天皇は、舒明と皇極の間に生まれた間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后にします。ここまで濃厚な近親婚が続くのは尋常ではありません。
おまけに天智天皇の同母弟・天武天皇は天智の4人の娘を妻にします。やはり王家の血、物部の血を明確に意識していたのです。
6.白村江の戦い
石舞台(明日香村。蘇我馬子墓と推定)
660年の百済滅亡後、百済復興を目指して朝鮮半島に出兵する決断をしたのは皇極天皇が重祚(ちょうそ。重ねて天皇に即位すること)した斉明天皇、実行した最高権力者は天智天皇でした。
物部王朝は百済から大量の秦氏(はたし)移民を受け入れました。初代応神天皇はホムタワケ、即ち秦王と名乗りました。朝鮮半島に度々出兵し、百済を征服したことは好太王碑に書かれています。
その後も百済とは友好関係にあり、日本の特色である前方後円墳が幾つも造られます。百済の王族は物部王家と姻戚関係にあったと私は考えています。
(第24話「物部氏と百済」https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20120404/)
天智天皇は物部の血を強く意識するが故に親百済であり、国運を賭けて出兵したのではないでしょうか。
物部は偉大でした。「鉄は国家なり」。秦氏の技術を導入して鉄製農具を普及させて生産性を上げ、ヤマトの国力を一気に高めました。「仁徳天皇陵」といった世界最大の墓も造りました。
天智は、偉大な物部の血を引くからこそ物部王朝の正統な後継者であり、先進国・中国に対抗できる立派なヤマトの国を造る指導者たり得ると考えていたに違いありません。
ともあれ天智天皇の系統が今日まで続き、天皇家には蘇我と物部の血が何れも受け継がれているのです。
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