Facebook能村 聡さん投稿記事 縄文ブームnow🎉
京都大学総合博物館『比叡山麓の縄文世界』展行ってきました😂
でも、遠い東北北海道の遺跡のイメージが、ありましたが、なんと…
自分が住んでる京都市東山一帯比叡山山麓にもたくさんの集落が、あったそうです。
このあたりは、照葉樹の森や山麓から湧き出る水も豊かだったのでしょう🌳🌳🌳👍💦
縄で文様が刻まれた縄文式土器に引き込まれ、今ここに生きる私たちに連綿と繋がっている縄文スピリットに想いをはせると、縄文時代にタイムスリップしたような不思議な感覚を覚えました🌳👍❤️
【縄文時代は平和に一万年も”持続”したその訳は?ー縄文文明の高い精神性とレムリアとのつながり】
今、縄文に世界が注目しています。それはなぜなのかをひもといていきましょう。
[1]縄文人はその日暮らしの狩猟採集サバイバル生活してた「原始人」?ー農耕をしないで定住していた??
縄文時代と聞けば、多くの人が未開の不安定な原始的な生活、日々の食べ物を狩猟採集に依存して移動生活をし、日々の生存だけに追われていて、農業技術や鉄器技術もなかった「原始時代」だったと、私たちは学校教育で洗脳されてきました。
しかし、近年の考古学的な調査では、そんなイメージや先入観を覆す発見が相次いでいます。縄文人は従来の文明論を覆したのです。
例えば、小さな集団で、食べ物を探して、動き回っていたわけではなく、「三内円山遺跡」のように、巨大な定住集落をつくっていたこと。
これまでの常識は、農耕や牧畜を始めてようやく定住が可能となったとうことでした。すなわち定住=農耕=文明ですが、縄文はそうではなかったのです。
[2]生物多様性が豊かな森との共生が縄文文明の叡智
縄文時代、農耕に依存せずとも、定住して安定的に生きていける術を縄文の民たちは知っていたのです。80種類にも及ぶ植物を食用としてきた食生活の実態も明らかになっています。これは森がそれだけ生物多様性に富んだ豊かな存在、食べものの宝庫だったことが社会の安定基盤にあったのでしょう
特に、栗は彼らの主食であったと思われるほど、たくさん出土しています。落葉広葉樹の森の豊かさを象徴しています。
集落の周縁が栗の森に覆われていたことがわかっていますが、もしかしたら栗の木園のように、現代的に言えば森林を持続可能に管理(マネジメント)していたのかもしれません。つまり「森をつくる」=「定住を可能とする」という社会になっていたと推測されます。森と「共生」する持続可能な暮らしを築いていたのです。
縄文人は、森を大規模に破壊せざるをえない「農耕牧畜」を受け入れなかったようです。定住型狩猟採集民、農耕に依存しない狩猟採集民と言えるでしょう。縄文時代が1万年も持続した理由はこの辺にもありそうです。
[3]森林と共生した「縄文文明」こそが持続可能な社会のお手本
現代文明が世界中、特に、熱帯林などの森林を大規模に破壊して、生態系の持続可能性を喪失しつつあるのとはまさに対称的です。どちらが文明として進歩していると言えるでしょうか?
近年、世界中で持続可能性が問われている今、世界最古で、しかも1万年以上も持続したわけですから、”真のSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)”のお手本は、古代日本にあった「縄文文明」だったといえるのではなかろうか?
一方で、同時期に大陸で栄えたいわゆる四大河文明(黄河、インダス、メソポタミア、エジプト)は、強烈な階級支配の文明で、自然から略奪する農耕牧畜を基本として、母なる森を食いつぶして、滅亡しました。現在、そのエリアはいずれも砂漠ですね。
縄文文明は、森や海との共生と循環を基盤として、富を独占する特別な権力を持つ支配者もいなかったようです。
ここで縄文文化ではなく「縄文文明」と呼ぶことにしているのは、彼らが森や川、海の資源を持続的に利用する知恵と技術を持っていたと思われるからです。
例えば、300人も入れる巨大な建物の遺構も発見されています。(写真)これは高度な建築技術も持っていた証拠です。建物や道なども計画的に作っていたようです。
[4]戦争がない平和な社会を1万年も持続した縄文文明とそれが可能だったわけ
そして驚くべきは、1万年以上にわたって持続し、”戦争のない平和な社会を維持”していたことです。貧富の格差もほとんどなかったのです。これはこれまでの文明論を揺るがす奇跡と言えます。
なぜなら現代に至るまで「文明」とは、支配階級を生み出して被支配者からの搾取による貧困格差を生み出すことが歴史の必然だったからです。
一方で、近代科学技術を導入して、この150年以上に渡り環境を破壊略奪し、特に、明治維新後の77年間は、戦争ばかり繰り返してきて、貧富の大きな格差を生み出した「近代日本」と全く真逆なのが縄文文明です。
縄文文明が長い期間にわたり、持続できたのは、温暖で湿潤な気候が続いた時期だったことにも関係しています。当時は、現代より海面が高く(縄文海進)、気候も温暖な時代だったようです。
日本列島では、海の水蒸気を含んだ風が高い山にぶつかって、多量の雨や雪を降らせます。その豊富な水量に恵まれて、深く豊かな森林が列島を覆い、木の実や山菜、きのこが豊富にとれたこと、周囲の海は寒流と暖流がぶつかり合う世界有数の豊かな漁場で、沿岸で魚介類が豊富に採取できたため、森を切り開いて農業をする必要がないほど、森と海の自然の恵みが豊かだったからでしょう。
実際に、古代から存在してる湖の古い地層をボーリングして、年代ごとに樹木の花粉分析をすると、食べられる木(クリやくるみ、シイ、トチなど)の「花粉」の化石が縄文時代の地層から豊かに見出せることを環境考古学者が発見しています。
また、縄文遺跡の貝塚からは魚類70種類以上、貝30種類以上の残滓が見つかっています。
食生活では、イギリス人の研究チームが縄文土器は、森の恵み(木の実)などを煮炊きして渋(アク)を抜いていたことが、破片に黒いもの(炭化物)の付着物の化学分析から証明されています。しかも、縄文土器は、世界中の遺跡の中でも飛び抜けて古いのです。
縄文土器は「お鍋」だったんですね。日本の鍋料理のルーツは縄文時代に遡るのかもしれませんね。
皆で住居の真ん中にあった囲炉裏を囲んで、食事を家族や隣人と共にしていたのかもしれませんね。
大陸の古代文明が、森林を破壊して農耕牧畜を限りなく拡大していくことで、雨が降らなくなり旱魃などの気候変動によって滅んでいった(現代文明もこのままでは同じ轍を踏むでしょう)のとは違い、豊かな森林と共生する智恵を持っていたからこそ1万年以上も持続したのです。
[4]高度な精神性を備えていた縄文文明
土器や、土偶、翡翠の祭祀道具(アクセサリー)など高度な文化性、広い意味で”アート”と呼べるものを持っていたことから、高い精神性も持ち合わせていた文化だとわかります。
縄文土器の文様は自然の精霊を形取ったもの、特に火焔型の縄文土器の素晴らしさは見事です。
あの文様からは縄文土器は単なる煮炊きの道具を超えて、煮炊きを通じて自然の精霊に感謝の想念を伝える意味もあったのでしょう。ここからも彼らの深い精神性を感じずにはいられません。
そして、土偶は強烈な存在感があります。「縄文のビーナス」と呼ばれている女神をかたどった土偶、祈りを捧げている姿の合掌土偶などなど、縄文文明の精神性の高さを体現しています。きっと土偶は人々の心の拠り所だったのでしょう。
自然を敬い、感謝し、自然との和を基調とした生命観を持っていた私たちのルーツである縄文人の心を、現代の日本人は思い出す必要があります。
日本画家で日本神話に関する著書も多い、出雲井晶さんは、次の様に指摘されています。
「縄文人は、ものをただの物体とは見なかった。そして、すべてを神のいのちの現われ、神の恵みとみた。すべての存在に神の命を視たからこそ、ありとあらゆるものに神の名をつけた。例えば、小さな砂つぶにさえ石巣比売神(いわすひめのかみ)、木は久久能智神(くくのちのかみ)、山の神は大山津見神(おおおおやまつみのかみ)というふうに、それぞれにふさわしい名がつけられている」(『今なぜ日本の神話なのか』)
唯物主義(物質至上主義)が精神性を凌駕して、持続不可能な破滅の危機に瀕している現代文明は、縄文文明から学ぶことはたくさんありそうです。
[5]縄文文明はなぜ衰退したのか?
しかし、2300年前に縄文文化は衰退していきます。大陸から稲作農耕を行う民が入ってきて支配階級になったことが原因と言われています。古事記に”国譲り”の神話にわずかな痕跡があります。
縄文時代の歴史は、古史古伝と言われ、偽書のレッテルを貼られている秀真伝などに継承されています。そこで記載されている神代文字は、縄文文字だったのではないかと思います。
しかし、古事記や日本書記などの正史からからは縄文の文化史は消去され、藤原氏によってそれ以前の歴史は全面的に改竄されました。
これから歴史の「真実」がきっと浮かびあがってくると思います。(詳細は[6]補稿をお読みください)
[6]縄文文明とレムリア文明のつながり(補稿)
そもそも、縄文は極東の果ての特殊な文明ではなく、すべての文明の根源は、この日本の縄文文明だったという説があります。アカデミズムが偽書のレッテルを貼っている竹内古文書などにそのような記述があります。
シュメール・エジプト・インダス・黄河文明の淵源は日本の縄文時代だったという突拍子もない話です。
竹内文書や秀真伝などの、古史古伝が伝える時代は縄文時代にあたります。
その日本の縄文時代の 巨石や遺跡群から ペトログラフ(古代岩文字)が 全国各地で 見つかっているのです。
これは『ホツマツタエ』(秀真伝)などの古史古伝に「神代文字」として継承されているものと酷似しています。ヲシテ - 『ホツマツタエ』(秀真伝)に使われた文字。
同じ時代と思われる数十万年前から、1万数千年前までは、地球規模の文明が存在し、世界共通の文明の痕跡として、日本を含めて世界各地に巨石遺稿がたくさん残されています。
クリスタルが埋められている場所もあります。
しかし、未だアカデミズム考古学はこの世界規模に広がっていた巨石超古代文明が誰がいつ何のために作ったのか、全く無知なままです。
当時の超古代文明の人々は、大地には我々の体の血流のように、神経網のようなエネルギーの流線=「レイ・ライン」(地(気))があって全地球を走っていると考えていました。これは現代科学文明が未だ知りえていない「科学」です。このレイラインのつぼ(経絡)に当たる渦巻く地点(ヴォルテックス)が「パワースポット」と呼ばれる気が強い場所です。
そのレイ・ライン網の要所要所を人類は霊地とか聖地と呼んで祭祀し、メンヒル(立石・立岩)という磐座(いわくら)を置き、このより重要なものに岩刻してペトログラフとし、そこで祈ることによって地流を司る大いなる存在に波動を伝え、その波動が地流を人類にとって望ましい状態に変えることを祈念したのです。
この縄文時代をさらに遡ると、いったい何に行きつくのでしょうか?それが、「レムリア文明」です。
レムリア大陸(ムー大陸とも呼ばれます)は蓮の花が咲き乱れ、美しい蝶々や蜂雀が乱舞し、陽光燦々 と照り輝くエデンの園そのものでした。
女性性のエネルギーが強い、いのちとのつながり、大地(地球)との調和、愛などを根底とした精神性も高度に進化した文明でした。
その当時はほとんどテレパシーによる意思疎通が図られていた時代で、動物や妖精、自然霊たちが、共に自然と共存して生きていたいた時代でした。
さらに遡るとレムリア大陸はもともとは、プレアデス人の入植地(コロニー)でした。日本人はプレアデスとはファミリーです。
竹内文書(たけのうちもんじょ)が伝えるように、レムリア時代の日本に、宇宙から降臨したスメラミコト(天皇)が宇宙船(天浮舟)で世界を駆けまわって各国を統治した時代でもありました。当時、紀伊半島はレムリアと陸続きでした。広島県の宮島も一大宇宙交流センターでした。
しかし、アトランティスによる侵略攻撃で1万数千年前に一夜にして太平洋の海の藻屑と消えました、その生き残りは、日本列島など環太平洋の各地に逃れました。日本人のDNAの中には、レムリアの記憶が残っているのです。
そして、レムリアの魂を持った方たちは、世界各国に散らばっています
縄文人はもとより、ネイティブアメリカンや、ハワイや、ケルト、マヤ、アボリジニ、イヌイット、琉球民族、アイヌなどなどです。
今、長い分離と争いの時代が終焉に向かいつつあり、女性原理優位の調和の時代に入りつつ今、縄文やレムリアのスピリットも蘇ってくるでしょう。
日本はその魁となる使命があるのです。
愛と調和に包まれたレムリアスピリットが復活した世界になるように祈りを込めて。
https://kyoto-dentoubunkanomori.jp/column/44/ 【比叡山と京都伝統文化の森推進協議会と東山修験道 】より
鎌田東二(京都伝統文化の森推進協議会 会長)
徒歩で比叡山に登りはじめて13年あまり。
回数は600回におよぶ。
このコラム記事は1月20日に書いているが,今年,令和2年(2020年)になって,1月2日,5日,14日,20日の4度比叡山に登った。
5日は雪が積もっていた。
2020年1月5日 比叡山つつじヶ丘への道
比叡山つつじヶ丘のお地蔵様
比叡山つつじヶ丘より見た水井山とその右奥の比良山
なぜ比叡山に600回以上も登るようになったのか? そのいきさつはこうである。
2006年10月のある日,当時勤めていた京都造形芸術大学の授業が始まる前,少し時間があったので,大学近くの山に入ってみた。
まず,石川丈山が造ったという詩仙堂から,宮本武蔵が滝に打たれて修行し「我,神仏を尊んで,神仏を恃まず」という悟りを得たと伝承される八大神社(祭神は素戔嗚尊)を経て,路地に入るような感覚で,東山に入り込んでしまったのだった。
が,途中で道が途切れてしまったので,しかたなく山の斜面を這うようにして登り,汗だくになって尾根道に出ることができた。
このとき,自分のなかに眠っていた野性の感覚が目覚めたのだ。
ゾクゾクするような,ワクワクするような,フルフルするような奇妙だが,純粋に,「たのしく,おもろい」という感覚。そんな感覚が目覚めた。
東山の森のなかで。
今は,そのときのことを私の中の「縄文ソフト」が目覚めて再起動したと思っている。
その自分のなかの叫び出しそうな古層の感覚。
それが再起動しはじめる快感に恍惚とした。
紅葉のはじまりかけている京都の山中を道にはぐれた一匹のちいさなけものが,落ち葉をサクサクと踏みしめながら歩いてゆく。
そのとても純朴でやさしい土と枯葉の触感に陶然となった。
それからすぐ,この付近(京都市左京区一乗寺)に住み着いて,機会あるごとに比叡山に登ったり,東山三十六峰を歩くようになった。
その記録は,「東山修験道」と称して,科研研究会の「モノ学・感覚価値研究会」や「身心変容技法研究会」のHPの「研究問答」欄に投稿している。
そして,それがもとになって,『聖地感覚』(角川学芸出版,2008年,2013年に角川ソフィア文庫)という本を書くことにもなった。
そのうちに,宗教学者の山折哲雄さんに誘われて,京都伝統文化の森推進協議会にかかわることになった。
この京都伝統文化の森推進協議会は,わたしが比叡山に登り始めて1年ほどした平成19年(2007年)12月,元国際日本文化研究センター所長の宗教学者山折哲雄さんが発起人代表(初代会長)となって,最初は京都東山地域や寺院,また企業,学識経験者,行政(林野庁,京都市)が集結して,「京都に根付く貴重な歴史的文化資産を継承し,自然力・文化力・人間力を再創造し,日本文化を再生する森づくりを進める」機関として結成された。
以来12年がすぎて,この12年ほどの活動を1冊の本にした。まもなく京都のナカニシヤ出版から『京都の森と文化』と題して刊行されるが,ぜひ多くの方々に読んでいただきたい。東山の一角を中心に林相改善事業や市民参加の森づくり活動を行う「森林整備・景観対策事業」と,公開セミナーや各種イベントなどを通して「京都三山」の文化的価値を発信する「文化的価値発信事業」を二本柱にした活動は,21世紀の森と人と社会との共生のありようを探る実験的実践的な試みとして意義あるものだと思っている。
「京都三山」とは,京都盆地を取り囲む東山と北山と西山の総称であるが,本協議会が始まるころ,京都三山はナラ枯れ被害やシカ害,またシイ林の繁茂により,植生や林相の変化が顕著になり,危機的な様相を示していた。その上に,一昨年9月の台風の影響により根返り倒木が京都三山全体で約50万本あまりにも上っている。これはたいへんな被害である。何とかしなければならい。
京都の森は悲鳴を上げている。そんな悲鳴の現状をきちんと聴き取り,どんな手当てをして未来世代にこの大切で貴重な森を伝えていくのか,関係者や市民のみなさん方とともに探り,実行を重ねていきたい。
この京都伝統文化の森推進協議会は,世界遺産の清水寺,青蓮院,高台寺,祇園商店街等の社寺や地元団体等のサポート,林野庁近畿中国森林管理局の協力のもと,伝統に即した京都三山の森づくりのモデル事業として,東山国有林の森林整備と景観対策事業から始まったが,ここ12年間の活動の全貌は,日本各地の森林整備や森の文化の再発見・再創造にいくつものヒントをもたらすものだと思っている。ぜひいろいろと参考にしていただき,また広く伝統文化の森サミットやネットワークを形成していきたいと思っている。
ところで,わたしは,1984年4月4日に初めて奈良県吉野郡天川村坪ノ内に鎮座する天河大弁財天社に詣でて以来,35年あまりで300回以上,天河を詣でてきた。そのなかで,「修験道」という日本独自の神仏習合文化のありように注目してきた。天河大辨財天社は古く「吉野熊野中宮」と呼ばれ,修験道の奥駈け道の中軸をなす弥山(みせん)に奥宮を持っている。
修験道とは,日本列島の風土の中で発達した,自然として現われ出る神仏への讃仰と身心対話によって,深い叡智(即身成仏智)と力(法力・験力・霊力)を獲得しようと修行する日本独自のユニークな習合宗教文化である。そこでは,自然(じねん)智(ち)と身体智の探究と霊力の獲得が山岳跋渉の修行を通して実践されてきた。その修験道の蓄積してきた自然智の文化をわたしは「生態学的身体知」としての「生態智」と呼んでいる。
そのような「生態智」のことを含め,天河大辨財天社の柿坂神酒之祐宮司さんと一緒に『天河大辨財天社の宇宙――神道の未来へ』(春秋社,2018年)を出版したことがある。
自然を畏怖し,讃仰する。「身一つ」になることで,おのれの「身の丈」を思い知り,この「身一つ」で何ができ,できないかをはっきりと掴むことで,自然界の中の人間の位置,自己の位置を知り,謙虚に生きてゆく。そんな自然智と身体知の自分なりの実践として,この13年あまり,「東山修験道」を「身一つ修験道」あるいは「身の丈修験道」と位置づけて比叡山登拝を中心につづけてきた。人工的な助けをできる限り排除して「身一つ」で歩行しようとしたら何ができるかという問いと実践。「身一つ」を実践するということは,自分の等身大の「身の丈」を思い知ることである。わたしたちは,森の動物とはちがって,裸や裸足で森を歩くこともできない。身体それ自体が「身一つ」そのままでは一歩も山に入ることができないひ弱な脆弱性を持っているからだ。裸足で歩くと,小石や木切れを踏みつけ,足の裏が痛くて傷だらけになる。こうして,無力の極みを知ることになる。
ソクラテスの「無知の知」ではないが,この無力の測定・自覚こそ「東山修験道」の原点となる。この身この時,この即身の現実をありのままにみつめると,当然のことながら,どんな人間も「身一つ」では生きられない事実に気づく。さまざまな身体武装をしている事実に気づかされる。鉱物も植物も動物もみな「身一つ」で生きている。だが人間だけが自然界のその流れに反して「身二つ」にも「身三つ」にも装って過剰な生き方をしている。それをできるだけ「身一つ」の「身の丈」に近づけるところから人間の位置と日常生活を考え,組み替えていきたいと日々悪戦苦闘している。
Facebook市川 よしおさん投稿記事
続々出てきますね〜❤️ 植物の会話。
【雨が降るとキノコはおしゃべりになる。電気シグナルを介して仲間や木々とコミュニケーション カラパイア】
https://karapaia.com/archives/52322260.html 抜粋
キノコは・・・そのうち「森の伝達者」とも呼ばれるようになるかもしれない。
なぜならキノコは、地下に張り巡らされた広大なネットワークを駆使して、仲間や木々と電気的なシグナルでコミュニケーションを交わしているらしいからだ。
最新の研究によれば、それも雨が降ると俄然おしゃべりになることが判明したそうだ。
このほど東北大学や京都大学などの研究チームは、森に生える「オオキツネタケ」を調べて、雨が降ると電気シグナルが増幅することを確認している。
気になるキノコはどんなおしゃべりをしているのか、ちょっと聞き耳を立ててみよう。
◇キノコは仲間や木々と会話をしている?◇
たとえば、「外菌根(がいきんこん)」と呼ばれるタイプの菌類は、木々の根の表面を鞘(菌鞘)のようなものでおおい、そこから菌糸体の広大な地下ネットワークを張り巡らせる。そして土から栄養を吸収すると、このネットワークを通じて木々にそれを与えるのだ。
さらに、この菌糸ネットワークを介して電気シグナルを送ることで、キノコ同士や木々とおしゃべりしている可能性もある。
それによって、成長などを調整したり、栄養を輸送したりしていると考えられるのだ。
だが、こうしたキノコの電気的おしゃべりについての研究は、ほとんどが実験室という人工的な環境でおこなわれたもので、森の中で本当は何が起きているのかわかっていない。
そこで東北大学や京都大学などの研究チームは、森の中でささやかれるキノコのおしゃべりに聞き耳を立ててみることにしたのだ。
報告された研究で調べられたのは、「オオキツネタケ(Laccaria bicolor)」というキツネ色のキノコだ。
研究チームは、森の中で見つけたこのキノコ6本に電極を取り付け、その電気シグナルを調べてみた。
すると、雨が降るとそれが増加することがわかったのだ。
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最初はキノコの電位が低かったのですが、雨が降ると電位が変動し、100mVを超えることもありました(東北大学農学部 深澤遊助教)
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こうした電気の変動と降水量・気温との関係を調べたところ、雨が降った後の電位になるとキノコ同士でシグナル伝達をしていることがわかったという。
それは近くにあるキノコ同士で特に強く、方向性がある(キノコへと向けられている)ことが確認されたそうだ。
気になるキノコのおしゃべりの内容だが今のところはわからない。だが、キノコは50の単語で会話し、意識や記憶があるとする研究まである。
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