https://www.ritsumei-fubo.com/fudoki/k09/ 【日本の古代を築いた人びと 孝謙(称徳)天皇】より
歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。
孝謙(称徳)天皇
養老2年(718)、のちに聖武天皇となる首(おびと)親王とその妃である藤原光明子との間に、女児・阿倍内親王が誕生する。首親王即位ののち、光明子は待望の男児を出産し、生後二ヶ月で皇太子と定められるが、満一歳を俟たずして早世する。この後󠄀、長屋王の変が勃発し、皇后となった光明子とその四人の兄の藤原氏が聖武天皇の王権を支える体制が成立するが、飢饉や疫病等で社会は荒廃し、混乱した状況を招いた。
天平9年(737)に天然痘の災禍が平城京を襲い、その翌年に20歳の阿倍内親王が皇太子の地位に就く。女性の立太子というのは空前の出来事であった。同15年には、恭仁(くに)宮の内裏で、皇太子自ら五節舞を演じ、臨席した元正太上天皇から、これを言祝(ことほ)ぐ詔を受けた。しかし、同17年に聖武天皇が重篤な病に陥った際に、「皇嗣未だ定まらず」と発言する人物がいたことからすれば、女性皇太子の存在を容認しない向きもあり、その地位は安定したものでなかったと受け取られる。
天平21年(749)、聖武天皇は男性天皇として初の生前退位を敢行、出家し、皇太子が即位するが(孝謙天皇)、実質的に天皇権力はその母・光明皇太后の掌握するところとなり、彼女の信任を得た藤原仲麻呂が台頭し、やがて覇権を確立する。聖武太上天皇の崩御、橘奈良麻呂の乱を歴て、天平宝字2年(758)に孝謙天皇は、この仲麻呂の擁立した淳仁天皇に譲位する。同4年の光明皇太后の崩御後、近江・保良(ほら)宮行幸時に病となった孝謙太上天皇が、看病に当たった僧道鏡を寵遇し出家に至ると、淳仁天皇・藤原仲麻呂との間に亀裂が生じ、平城京への帰還ののち、武力衝突に発展する。
この動乱で皇位を逐われた淳仁天皇に代わり、孝謙太上天皇が再び即位する(称徳天皇)。還俗せず尼身分のまま重祚(ちようそ)した天皇は、西大寺造営など仏教興隆事業を推進すると共に、道鏡を大臣禅師から太政大臣禅師、さらに法皇へと地位を向上させ、弟・弓削浄人(ゆげのきよひと)らその一族を重用し、神護景雲3年(769)には、道鏡の皇位継承まで企図するに至った。
教科書や概説書等には、道鏡が女帝に取り入って分不相応な待遇を受けたと、当時より噂された内容を反映して論じているものが多いが、称徳天皇は史上唯一人の「出家天皇」であり、仏教思想を基盤とする国家統治を目指したことからすれば、道鏡の処遇を世俗的な男女関係で説明することには疑念が抱かれる。近親に後継のいない称徳天皇が、出家天皇の継承に拘ったとすれば、道鏡の皇嗣に関する一件も、また違った評価が可能となるように思うのである。
太上天皇や皇太后、皇后、皇太子といった、かつて天皇権力を分掌した存在がなかった称徳天皇の治世は、天皇に専制的な権限が集中した時期でもあった。その意向に沿って政策が打ち出され、一般行政については、藤原永手や吉備真備といった、経験を積んだ太政官の官人により担われていた。この点に鑑みれば、「道鏡政権」や「仏教政治」という表現で称徳朝を評することには、違和感を禁じ得ない。
称徳天皇崩御ののち、永らく彼女に仕えた股肱(ここう)の臣・吉備真備が推挙した皇嗣の候補は、文室浄三(ふんやのじようさん)・大市という、いずれも出家の経歴を有する、もと皇族の兄弟であった。
https://yoshidash-blog.com/blog-entry-1494.html?sp&photo=true 【こんな大河を視てみたい!(その2)】より
【仮称・蒼き眸の大将軍】
先日アップしたつれづれトークが好評でしたので、調子に乗って第2弾をお届けします。今回は時代を大きくさかのぼって、大河史上最も古い時代、坂上田村麻呂とその父親苅田麻呂が主人公です。仮タイトルは「平安の大将軍」あるいは「蒼き眸の大将軍」でいかがでしょうか?
主人公の坂上田村麻呂は実質的な初代征夷大将軍であり、清水寺の創建者としても有名です。また、身長は約180センチで、後ろから見ても前から見ても巌石のような偉丈夫であったと伝えられており、目は鷹の蒼い眸のように鋭く、鬢は黄金の糸を紡いだように光っていたといいます。エキゾチックですね。
しかし、坂上氏はかつて反逆者の汚名をつけられた家系であり、そこから盛り返して天皇の親任を得て活躍をするという、ある意味ドラマチックな歴史があるのです。
【父・坂上苅田麻呂】
2人の先祖・阿知使主(あちのおみ)は、応神天皇の時代に百済から帰化した渡来人であり、後漢の霊帝の末裔を名乗ります。東漢(やまとのあや)が奈良県の明日香村の地域、西漢(かわちのあや)が大阪府の古市に本拠を構えたようです。応神天皇陵のあたりです。
漢と書いて「あや」と読むのは、織物や工芸の技術が謂われとのこと。同時に、土木や建築の技術、そして軍事の面で貢献をしてきました。
その4代目がいくつかに分家し、そのうちの1つが坂上を名乗ります。これが坂上駒子と言いますが、日本書紀では東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)と書かれています。
歴史好きな人はピンと来るかもわかりません。この東漢直駒は、蘇我馬子の命令で、崇峻天皇を暗殺すると言う歴史上始まって以来のテロリストの役割を演じてしまい、その挙句に口封じのため殺されてしまうのです。いわば血塗られた汚名を着て、一族は没落してしまいます。
その後3代にわたって雌伏の時を堪えますけれども、坂上老(おゆ)と言う人物が壬申の乱で活躍して復権。そして奈良時代、孫の犬飼が武芸の才能を発揮して聖武天皇の信頼を得て昇進します。これが苅田麻呂の父親です。
主人公の1人である坂上苅田麻呂は大きく3つの功績を残しました。1つは橘奈良麻呂の乱で活躍し、クーデターを未然に防ぐ役割を果たしました。2つ目は藤原仲麻呂の乱です。最大の権力を握っていた仲麻呂が上皇と天皇の争いに乗じて、自分が天皇になると言う野望を持ち、玉璽を奪う暴挙に出た時に、苅田麻呂が放った矢が戦局を動かし、恵美押勝と名乗った仲麻呂は滅亡します。
有名な吉備真備が軍略を建てて鎮圧した功労者ですが、具体的に作戦を実行したのが、若手の兵(つわもの)たちであり、苅田麻呂がその中心にいたのではないかと思います。
なお、真備は当時70代の高齢でしたが、その直前に仲麻呂によって九州に左遷されていました。名目は唐王朝の混乱によってわが国が襲撃されるかもしれないということで、派遣されたわけです。当時の唐は、玄宗皇帝の時代で安禄山の乱で都落ちし、楊貴妃が殺害されるという大混乱になっていました。その隙に乗じて実は新羅への出兵が計画をされたのですが、それは取りやめになりました。私は、太宰府にいた真備と都の苅田麻呂たちが連携して無謀な軍事計画を断念させ、平和を勝ち取ったのではないかと推測しています。
3つめは、道鏡事件です。女帝・称徳天皇が僧侶である道鏡を寵愛して、政治が乱れていましたが、天皇自身はもう結婚しないということで、道鏡を次の天皇につけると言う驚天動地の決定を下そうとします。それに対して和気清麻呂が勇気を振り絞って宇佐神宮の神託を報告し弾圧を受ける事件がありましたが、その時に苅田麻呂が清麻呂を守る側に立ち、天皇が亡くなった後、道鏡の野望を打ち砕く活躍を見せたのです。これが父親である苅田麻呂の3つの大きな業績だと思います。
【子・坂上田村麻呂】
さて、その息子坂上田村麻呂も、同じく3つの偉大な業績があります。1つは、桓武天皇の蝦夷への平定作戦の戦い(征夷)に早くから従事し、本格的な征夷大将軍に任命されて活躍。蝦夷の大将であるアテルイを降伏させたことです。軍事力で追い詰めるだけでなく、人格を前面に出して感服させ、平和交渉の結果、都に連れて来たのです。
ここで講和条約が結ばれれば素晴らしかったのですが、朝廷の決断は田村麻呂の願いを裏切って、アテルイを処刑してしまうのです。悲劇としか言いようがありません。アテルイの慰霊碑は清水寺にあります。
2つ目の業績は「徳政争論」で桓武天皇に征夷を辞める決断の後押しをしたことです。具体的に言えば、天皇が死の直前に、このまま新しい都平安京の造営と征夷という軍事作戦を両立するということは、財政面においてもまた治安の面においてもトータルで見てこのままでいいのかと思い悩み、その結果、家臣に問答をさせて判断を下す、と言う手法をとり、平和の決断を下すわけです。これをプロデュースしたのが、誰よりも征夷に貢献した田村麻呂ではなかったかと、私は思っています。
そして3つ目は薬子の変です。桓武天皇の2人の息子、平城天皇と嵯峨天皇の確執で、位を譲った平成上皇がもう一度皇位につくとの野望を抱いて反乱を計画する大事件が勃発しました。これを田村麻呂が出撃して鎮圧に成功し、平和を勝ち取った功績です。
田村麻呂は、その死後は勅命により、都の東に向かって立ったまま柩に納めて埋葬され、「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称されました。我が国の歴史書「六国史」では、田村麻呂のエキゾチックな風貌が紹介されているだけでなく、「怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」と描かれています。
【さいごに】
田村麻呂の子孫は清水寺を守り、また現在の大阪市平野区などの地域を治めるのですが、その4代目に坂上是則と言う人物が登場します。彼は蹴鞠の名手で、リフティングを206回まで続けて一度も落とさなかったので醍醐天皇から称賛されたエピソードがありますし、百人一首の「朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪」を詠んだ歌人としても有名です。
また、平安後期の法学者である坂上明兼も田村麻呂の末裔であり、法学書「法曹至要抄」は鎌倉幕府の「御成敗式目」にも影響を与えました。このように、征夷大将軍の後裔から文化芸術や学術の超一流が誕生したことは、極めて興味深いと思います。
最後に、大河ドラマでは男だけが登場するのは失敗のもとだと言われますので、坂上父子のドラマも上記のままでは心配だと思われるかもしれません。しかし、ご安心ください。この時代の女性は誰もが逞しくドラマチックです。
光明皇后と孝謙(称徳)天皇の母娘、称徳女帝の異母妹で悲劇の象徴井上内親王、吉備由利(真備の娘)をはじめとする優秀な女官たち、桓武天皇の母で百済系の高野新笠、清水寺縁起や今昔物語集に登場する田村麻呂の妻・三善高子、薬子の変の主人公藤原薬子など、実に多彩なラインナップではないでしょうか。
田村麻呂の娘・春子は桓武天皇の妃で、葛井親王を産みました。親王が12歳の折に豊楽院の射礼で百発百中を成し遂げ、外祖父田村麻呂が喜びのあまり親王を抱いて立ち上がって舞い、「自分は10万の兵を率いて向かうところ敵なしであったが親王には及ばない」と語ったといいます。親王の孫・棟貞王女が清和天皇の更衣となり清和源氏の源流となります。源為朝や義経には、田村麻呂の血が受け継がれているのです。
激動の平城から平安にかけて、平和のために戦った2人の大将軍は、まさに「親子鷹」といって過言ではありません。骨太の大河ドラマをぜひ視てみたいと願うのは、私だけではないと思います。(おわり)
https://www.touken-world.jp/tips/44315/ 【道鏡-歴史上の実力者/ホームメイト
道鏡-歴史上の実力者】より
平成から令和へと時代が変わり、女性天皇のぜひを問う声も高まっている昨今ですが、過去を振り返れば8人の女性天皇が存在していました。奈良時代の終わりに第46代・第48代天皇を務めた孝謙天皇(こうけんてんのう)もそのひとり。孝謙天皇が寵愛した道鏡(どうきょう)は、僧でありながら皇位を狙った悪党として「日本三大悪人」のひとりに数えられています。
孝謙天皇と道鏡との出会い
孝謙天皇(こうけんてんのう)は、日本史上6人目の女性天皇です。
父は聖武天皇(しょうむてんのう)、母は光明皇后(こうみょうこうごう)。弟である第一皇子、基王(もといおう)が夭逝し、他に適任者がいなかったことから、749年(天平勝宝元年)に聖武天皇が譲位し、孝謙天皇が即位しました。
以降、光明皇后とその甥の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)のサポートを受けて政治を行なっていましたが、758年(天平宝字2年)に母である光明皇后の看病を理由に、藤原仲麻呂の推す大炊王(おおいおう)に皇位を譲り、孝謙天皇は上皇となりました。そして大炊王は、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)として即位したのです。
孝謙天皇と道鏡(どうきょう)が出会ったのは、その3年後の761年(天平宝字5年)のこと。
760年(天平宝字4年)に光明皇后が崩御すると、孝謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂と関係は不和になっていきました。
761年(天平宝字5年)平城宮を改修するために一時的に都を近江国保良宮(おうみのくにほらのみや)に移した際、孝謙上皇は実母が亡くなり気落ちしていたのか、病に臥せってしまいます。このとき加持祈祷を行ない、献身的に看病したのが弓削氏(ゆげし)の僧である道鏡だったのです。
道鏡は700年(文武天皇4年)、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれました。若い頃に法相宗(ほっそうしゅう:中国の唐時代創始で大乗仏教宗派のひとつ。インドから帰国した玄奘[げんじょう:西遊記・三蔵法師のモデル]の弟子・慈恩大師基[じおんだいしき]が開いた宗派)の高僧・義淵(ぎえん)の弟子になりました。
奈良の東大寺を開山(創始)した良弁(りょうべん)からサンスクリット語(梵語)を学び、禅に通じていたことから、内道場(宮中の仏殿)に入ることを許されていました。
孝謙上皇は女性天皇であるが故に生涯独身である必要があり、子がなかったため、常に後継問題のストレスにさらされていました。道鏡はそんな孝謙上皇の心のすき間に入り込み、信任を得ていったのです。
天皇と元号一覧(令和と元号の決め方)
大化から令和までの元号についてご紹介します。
女帝、孝謙上皇の寵愛を受けて出世した道鏡
孝謙上皇・道鏡と藤原仲麻呂・淳仁天皇の対立
藤原仲麻呂や淳仁天皇は、道鏡への寵愛を深める孝謙上皇を諌めますが、孝謙上皇はこれに激怒。孝謙上皇と淳仁天皇は一触即発状態になってしまいます。
762年(天平宝字6年)、孝謙上皇は淳仁天皇が「不孝である」として仏門に入り別居します。そして政務を自身が執ると宣言しました。
764年(天平宝字8年)9月に藤原仲麻呂が軍備を始めたことを察知した孝謙上皇は、淳仁天皇から軍の指揮権を奪ってしまいました。
藤原仲麻呂は「藤原仲麻呂の乱」を起こしてこれに対抗しますが、敗れて殺害されてしまいます。
そして淳仁天皇を廃して流罪にすると、孝謙上皇は同年10月に再び皇位に返り咲き、称徳天皇(しょうとくてんのう)となったのです。これは日本史上唯一の出家したままの即位でした。
称徳天皇は道鏡を朝廷の最高位である、太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に任命。弓削浄人(ゆげのきよひと)ら道鏡の実弟をはじめ、道鏡に縁のある者も朝廷において高い地位を得ていきました。
さらに称徳天皇は道鏡に「法王」という地位を与えました。法王とは宗教上、天皇よりも身分が高くなるということ。異例の出世を遂げた道鏡は、称徳天皇とともに仏教中心の政治を展開していきます。
藤原仲麻呂の乱 古戦場
皇室を揺るがす大スキャンダルへ
769年(神護景雲3年)、称徳天皇と道鏡にまつわる、皇室の歴史を揺るがす大事件「宇佐八幡宮神託事件」(うさはちまんぐうしんたくじけん)が勃発します。
道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)と大宰府の主神(かんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」という宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に奏上したのです。実は、中臣習宜阿曽麻呂も道鏡の息がかかった者でした。
称徳天皇は喜び、神託の真偽を確かめるために和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐八幡宮に派遣しました。ところが和気清麻呂が受けた神託は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」。皇位は皇族が継ぐもので、無道の人である道鏡は早く追い払いなさいというものでした。
この神託により、道鏡は天皇になることができなくなってしまったのです。怒った称徳天皇は和気清麻呂に別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という屈辱的な名前を与えて流罪にしました。
道鏡も和気清麻呂を暗殺しようと試みますが、急に雷雨が巻き起こり実行は阻止されたと言います。
この事件により、道鏡は女帝をたぶらかして皇位を狙った不届き者として、平将門・足利尊氏とならぶ「日本三悪人」に数えられるようになりました。
語りつがれる道鏡の不名誉な噂
宇佐八幡宮神託事件は面白おかしく語り継がれ、道鏡は天皇と姦通していたとする説や、巨根説などのスキャンダラスな噂が生まれました。江戸時代には「道鏡は座ると膝が三つでき」といった破廉恥な川柳もささやかれていたとか。
もっとも、道鏡が皇位に就くことは称徳天皇の希望だったという説や、称徳天皇と道鏡が姦通することは不可能だという説、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になるという神託は、称徳天皇を喜ばせるために中臣習宜阿曽麻呂がねつ造したものだという説など、道鏡の無実を主張する説も多々あります。
真相は分かりませんが、もしも道鏡が天皇に即位していたとしたら、神武天皇から今上天皇まで126代続く天皇家の歴史、ひいては日本の歴史はまったく違ったものになっていたに違いありません。
ちなみに一時は天皇の椅子も視野にあった道鏡ですが、事件の翌年の770年(神護景雲4年)に称徳天皇が病気で崩御すると失脚し、道鏡の権力は一気に低下します。軍事指揮権は太政官である藤原永手(ふじわらのながて)や吉備真備(きびのまきび)に奪われました。
道鏡は長年の功労により、処刑まではされませんでしたが、弟の弓削浄人ら親族4名は土佐に流されました。道鏡は下野国(しもつけのくに)の下野薬師寺別当(しもつけやくしじべっとう)に左遷され、そこで没します。
道鏡は死後、一庶民として寂しく葬られたと言います。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1954 【恵美押勝の乱】より
世界大百科事典
恵美押勝の乱 えみのおしかつのらん
奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。そして太保(右大臣),ついで太師(太政大臣)に進み,位階もついには正一位に達し,その間中国の唐を模倣したさまざまな重要施策を実行に移した。しかし,紫微中台(しびちゆうだい)の長官としてとくに緊密な関係にあった叔母の光明皇太后が760年(天平宝字4)に没したことが契機となって,勢力が下降しはじめ,反対派との対立が激化してきた。すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇が寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝獦(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職や越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。この事件は良継が罪を一身に負って一応おさまったが,今毛人,宅嗣,家持も左遷された。しかし,仲麻呂派も僧綱では少僧都慈訓,慶俊が解任されて,道鏡がこれに代わり,またそれまで絶対的な支配下にあった造東大寺司にも反対派の勢力がしだいに浸透してきて,形勢は悪化し,さらに妻の袁比良(おひら)についで,石川年足や御楯など有力な支援者が死に,飢饉・疫病に加えて物価が高騰するなど社会不安も高まってきた。
かくして764年9月,仲麻呂は退勢を一気に挽回すべく反乱を企図し,みずから〈都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使〉という地位につき,それら配下の諸国から多くの手兵を都に集めようとした。しかし,反乱計画は高丘比良麻呂や大津大浦らの密告によって孝謙上皇の知るところとなり,上皇は先手を打って淳仁天皇のもとにあった鈴印を回収しようとした。中宮院にあって勅旨の伝宣に当たっていた久須麻呂はこれを邀撃(ようげき)し,いちどは鈴印を奪回したが,授刀衛の坂上苅田麻呂らに射殺された。かくて鈴印の争奪戦に端を発し,仲麻呂は公然と反旗を掲げることとなったため,官位・氏姓を剝奪され,封戸・雑物も没収されたうえ,不意をうたれて淳仁天皇と行動をともにできなくなったので,氷上塩焼(塩焼王)を天皇に擁立し,永年拠点としてきた近江国の国衙に拠って,みずからを正統と称し,孝謙上皇方に対抗しようとした。しかし,田原道を先回りした追討軍佐伯伊多智に妨げられて勢多(瀬田)橋を渡ることができず,やむなく湖西を越前国に逃入しようとしたが,この計画も伊多智らが先に越前に入って国守であった子息辛加知(しかち)を殺し,愛発関(あらちのせき)を閉じたため,果たさず,後退して高島郡三尾埼に至ったところを,藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らの追討軍主力に挟撃され,勝野鬼江から湖上に逃れようとしたが,石村石楯(いわれのいわたて)に捕らえられ,一族与党34人とともに湖浜で斬首された。乱後,淳仁天皇は廃位され,淡路に幽閉されたが,765年(天平神護1)脱走を企てて怪死し,新しく道鏡が大臣禅師に任ぜられて政権を掌握した。
[岸 俊男]
[索引語]
恵美押勝 藤原仲麻呂 淳仁天皇 道鏡 孝謙天皇 藤原久須麻呂 藤原良継 佐伯伊多智
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日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原仲麻呂の乱
ふじわらのなかまろのらん
奈良時代の反乱。恵美押勝の乱 (えみのおしかつのらん)ともいう。760年(天平宝字4)の光明皇太后 (こうみょうこうたいごう)死後、道鏡 (どうきょう)を寵愛する孝謙太上天皇 (こうけんだいじょうてんのう)と、藤原仲麻呂(恵美押勝)が擁立した淳仁天皇 (じゅんにんてんのう)の関係が険悪化し、762年には太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握を宣言するに至る。764年、仲麻呂は太上天皇に申請して都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使 (ととくしきないさんげんおうみたんばはりまとうこくひょうじし)となり、管内の兵士の召集・簡閲(観閲)を認められた。しかしその数の改竄 (かいざん)が発覚し、天皇の居所にあった天皇権力の象徴である鈴印 (れいいん)を太上天皇側に奪われ、近江へ逃走する。道中で塩焼王 (しおやきおう)を偽立して今帝 (きんてい)としたが、追撃を受け、近江国高島郡勝野鬼江 (かちののおにえ)で斬殺された。乱後、淳仁天皇は淡路 (あわじ)に幽閉され、孝謙太上天皇が称徳天皇 (しょうとくてんのう)として重祚 (ちょうそ)する。
[〓川敏子]
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国史大辞典
恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん
天平宝字八年(七六四)九月、恵美押勝(藤原仲麻呂)が道鏡を除くために起した反乱。仲麻呂は孝謙上皇の寵を得て同二年太保(右大臣)に任じ、恵美姓を賜わり、四年太師(太政大臣)に任ぜられ権勢を極めたが、同年六月七日、彼の支持者である叔母の光明皇太后が崩じたことが失権の端緒となった。上皇は五年十月近江の保良宮に行幸、翌年五月まで滞在したが、その間に病み、道鏡が看病して治癒したので、彼を寵するようになった。押勝が擁立した淳仁天皇が、上皇の道鏡寵愛を批判したので、上皇は怒り、国家の大事と賞罰を行う大権とを手中におさめ、天皇に小事のみを委ねた。したがって押勝の権勢は次第に衰退した。翌七年押勝の専権をかねてから憎んでいた藤原良継・佐伯今毛人・大伴家持らの貴族は反押勝のクーデターを計画したが、事前に洩れ、良継が罪を一身に負うた。押勝は権勢回復を企て、六年十二月息三人を参議とし、その一人真光には大宰帥を兼ねさせていたが、八年正月、一族を右虎賁率(右兵衛督)、美濃・越前などの守に任じ、九月二日にはみずから都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、各国の兵を集めて反乱態勢を固めたが、十一日逆謀が洩れ、上皇は先手をうち淳仁天皇の手もとの中宮院鈴印を収めた。押勝は息訓儒麻呂(くずまろ)に鈴印を奪わせたが、上皇は坂上苅田麻呂を遣わしてこれを射殺させた。押勝は宇治を経て近江国高島郡に逃げ、塩焼王を立てて天皇とした。愛発(あらち)関より越前へ脱出しようとして、官軍にはばまれて果たさず、高島郡三尾崎で官軍と戦ったが藤原蔵下麻呂(くらじまろ)の援軍に敗られ、勝野鬼江で石村石楯(いわれのいわたて)に斬られ、一族ら三十四人も滅んだ。時に九月十八日。淳仁天皇は十月九日に廃位させられ、淡路の一院に幽閉されたが、天平神護元年(七六五)十月脱走を企てて捕えられ、翌日怪死した。押勝に代わり道鏡が権勢を得た。→藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)
[参考文献]
岸俊男『藤原仲麻呂』(『人物叢書』一五三)、北山茂夫「藤原恵美押勝の乱」(『日本古代政治史の研究』所収)、角田文衛「恵美押勝の乱」(『律令国家の展開』所収)
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