天平の丘公園

https://www.histrip.jp/170103tochigi-1/ 【古墳に国分寺跡に紫式部のお墓まで 栃木下野で国指定史跡をめぐる旅】より

都心から電車に揺られて2時間と少しの場所にある栃木県下野(しもつけ)市には、住宅地や工場付近など、生活の中に古墳や寺の跡などの史跡が溶け込んで保存されています。今回は下野市の国指定史跡である下野国分寺跡などの歴史旅を紹介します。

東武宇都宮線の壬生(みぶ)駅から、車では10分程度、徒歩だと約30分で工場に隣接する林の一角にある国指定史跡の吾妻古墳(あづまこふん)に到着します。6世紀後半、つまり古墳時代後期に創られたと言われている栃木県最大古墳で綺麗な前方後円墳の形をしています。周囲と一線を引くかのように、林の入口がぽっかりと開いているさまはとても神秘的です。

吾妻古墳は、墳丘の全長が127メートル、周溝を含めると162メートルになります。石室の石は壬生城史跡公園内に移設されているそうで、残念ながらここでは見ることができませんが、二段になっていること、墳形がくっきりと確認できる、保存状態が極めてよい古墳になります。墳丘をのぼると、古墳を、林一帯を一望することができ、神聖な空気も相まって深呼吸せずにはいられません。機械のない時代に、人力で造り上げた美しい形の古墳がこの規模で今も残っていることは感慨深く、当時の人々の苦労や権力の誇示、生活に想いを馳せずにはいられませんでした。

所在地:栃木県壬生町藤井吾妻原 栃木市大光寺町吾妻付近

天平の風を感じる国指定史跡「下野国分寺跡」と「下野国分尼寺跡」

JR小金井駅からでも、吾妻古墳からでも、車で約10分ところに下野国分寺・国分尼寺跡などの史跡が集まっている「天平の丘公園」があります。下野国分寺・下野国分尼寺は、奈良時代、天平のころに聖武天皇によって全国に建てられた寺院の一つで、国分尼寺は全国の国分尼寺の中で最初に整備された寺院になります。

国分寺と国分尼寺、どちらも全容が明らかになっている例は全国でも珍しいのだそうです。現在は国指定史跡として整備され、説明書きの看板などが設置されています。当時建っていた搭の絵が描かれている看板もあり、読んだ上で跡地をのぞくと、その時代にタイムスリップしたように当時を体感できます。

国分寺跡と国分尼寺跡の近くに位置する「しもつけ風土記の丘資料館」は、国分寺跡や国分尼寺跡からの出土品、近くにある甲塚古墳から出土した埴輪などを見ることができます。しもつけ風土記の丘資料館は2015年にリニューアルした新しい施設で、解説や展示品が充実していますし、事前に予約すれば、学芸員の方が説明しながら案内してくれます。丁寧に対応していただき、ゆったりと歴史を感じる時間を持つことができました。展示物の説明のほかに、周辺の史跡の話なども伺えるかもしれません。訪れる際は是非事前に予約してみてください。歴史旅が何倍も楽しめると思います!

所在地:栃木県下野市国分寺993

民俗資料館「夜明け前」や紫式部のお墓 下野の天平の丘公園を歩く

下野国分寺跡、下野国分尼寺跡、しもつけ風土記の丘資料館のほかにも、「天平の丘公園」内にはさまざまなスポットがあります。そのうちの一つ、民俗資料館「夜明け前」にも訪れてみました。民俗資料館「夜明け前」は幕末から明治時代の建物で、この時代を舞台にした島崎藤村の小説「夜明け前」から命名されたと言われています。もともとは個人が所有する建物でしたが、結婚を機に取り壊そうとしたところを当時の町長が聞きつけ、引き取り命名したそうです。そんな話を資料館裏の道を掃除をしていた近所の方から伺いました。他にも公園内をランニングしていたり散歩していたりと、地元の方々の生活にも溶け込んでいる資料館であることが伝わってきました。「夜明け前」は土日のみ内部の囲炉裏や古い農具などの展示を見学できます。展示品の中には紫式部の絵も飾られていました。

天平の丘公園には、紫式部のお墓があると言われている場所があります。お墓は公園の奥のほうに位置しており、そこに至るまでには「万葉集」にちなんだスポットを通ります。「防人街道」は1300年前に九州へ送られた防人の万葉歌に風景が似ているからと名付けられた道です。「子宝橋」は山上憶良の万葉歌から名付けられ、渡ると子宝に恵まれると言われているそうです。どちらも万葉集の舞台そのものではありませんが、万葉集の時代の風情を感じさせるスポットです。それらの景色を楽しみつつ進むと、目的地である紫式部のお墓に到着します。

紫式部の墓だとの言い伝えは、昔この地域が「紫」と呼ばれていたことに起因するようです。

日本国内に何か所かあるお墓のうちのひとつ、とのことですが、公園の雰囲気だけでも一見の価値があると思います。

所在地:栃木県下野市国分寺993

栃木県下野は史跡の宝庫です。今回紹介できなかったものも含め、たくさんの史跡が存在しています。「蔵の街」栃木市から足を延ばしてみるもよし、下野の他の史跡を」巡ってみるもよし、な地域です。ぜひ一度訪れてみてください。


https://note.com/search?q=from%3A%40seki_hakuryou&context=note&sort=popular  【石造物】

https://note.com/seki_hakuryou/n/n49dca718889a 【北関東の石造物⑰:下野国分寺五輪塔群(伝・聖武天皇、光明皇后、行基供養塔)、附・箕輪城跡五輪塔】より

名称:下野国分寺五輪塔群

伝承など:聖武天皇、光明皇后、行基供養塔(小山氏の墓?)

所在地:栃木県下野市国分寺 下野国分寺

栃木県下野市にある国分寺は、元来の国分寺とは場所が異なっているが、奈良時代に建立された下野国分寺が衰退した後に造られた後身寺院である。

現在の寺院の規模は縮小されてしまったが、境内にはひときわ目を引く古様の大型五輪塔三基が建っている。

五輪塔は中央が聖武天皇(二枚目)、向かって左側が光明皇后(三枚目)、右側が行基の供養塔(四枚目)と伝承されているが、これは国分寺に伝わったことから生じた後付である。

鎌倉時代後期以降の五輪塔を見慣れていると、粗削りで不格好な印象を受けるが、初期五輪塔独特の異様な存在感のある石塔で、おそらく鎌倉時代初期の造立と考えられる。

その大きさや造立時期から、下野国の有力御家人・小山氏が始祖の供養塔として造立したと見る説もある。

いづれにせよ、関東地方の五輪塔としては最古の部類であり、極めて貴重な石塔である。

なお、三基の傍らには、ほぼ同時期と思われる凝灰岩製の五輪塔の残欠があるので(五枚目)、当初は五輪塔は四基あったのかも知れない。

・追記(2022年3月15日)

国分寺薬師堂にほど近い、下野市の箕輪城跡北方にも鎌倉時代の五輪塔が存在する。

箕輪城跡に比定されている磐裂根裂神社の北方の住宅街の一角に、石塔が集められた場所があり、その中には一見して中世のものとわかる五輪塔がある(下の写真)。

地輪の大半が地中に埋まっているため、その全容はわからないが、鎌倉時代の五輪塔と思われ、国分寺五輪塔群の中の伝・行基塔によく似ている。

ただ、こちらの五輪塔の方が火輪の軒が高いため、国分寺の五輪塔よりも下る時期、鎌倉時代中期から後期の造立と思われる。

箕輪城跡は不明な点も多い城郭であるが、小山氏の支城と言う説もあり、そうだとするならこの五輪塔の造立にも小山氏が関与しているかも知れない。

この五輪塔の存在はほとんど知られていないが、栃木県内でもかなり古い部類の五輪塔で、国分寺の五輪塔群同様に貴重な石塔である。

この他、小山氏の墓所としては、小山市本郷町の祇園城(小山氏の居城)の一角にある天翁院にも歴代墓所と称される五輪塔群(下の写真一番目、二番目、三番目)があるが、これは室町時代中期に小山持政が開いた小山氏の菩提寺であり、石塔はいづれも室町時代後期から戦国時代にかけての小型のもので、持政以降の当主の墓所と考えられる。

鎌倉期以前の小山氏当主の墓所は現在小山市内にはなく(小山政光の逆修塔と称される石塔が小山市の満願寺にあるが、石塔の年代と銘文が合致せず検討を要する 下の写真四番目)その点からするにやはり国分寺の五輪塔群は初期小山氏の墓所であろうか。


https://note.com/seki_hakuryou/n/nbf651c25df6e 【北関東の石造物⑱:紫五輪塔(伝・紫式部の墓)】より

名称:紫五輪塔

伝承など:紫式部の墓(小山氏の墓?)

所在地:栃木県下野市紫 天平の丘公園内

元来の下野国分寺と国分尼寺の跡地は現在天平の丘公園として整備されており、その敷地内に二基の古様の五輪塔と五輪塔の残欠がある。

地元では紫式部の墓と言う伝承があるが、これは地名の「紫」から連想された後付である。

五輪塔は元々は姿側沿いにあったが、明治時代になって現在の場所に移されたと言う。

現状では二基ともに空風輪が欠損しているが重量感のある五輪塔で、鎌倉時代初期の造立と推定される。

傍らに同時期の五輪塔の残欠があることから、元来は五輪塔は三基あったのであろう。

この五輪塔の来歴は不明であるが、前回紹介した下野国分寺の三基の五輪塔と形式が類似しており、ごく近い場所にあることからおそらく造立時期も造立者も同一と思われる。

あるいは、元来は六基とも同じ場所にまつられていたのかも知れず、国分寺の五輪塔を小山氏の墓所と見る説が正しければ、この五輪塔も小山氏の初期の当主の供養塔なのかも知れない。

いづれにせよ、関東地方における五輪塔の最初期の事例として貴重である。


https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/0506kamakura/kamakuraFrs/gorintou/index.html 【五輪塔(ごりんとう)と 宝篋印塔(ほうきょういんとう)】より

五輪塔は平安時代から鎌倉時代に多く作られた「供養塔」(くようとう)です。供養とは亡くなった人の「たましい」をなぐさめることです。五輪塔は平安時代の中頃から作られましたが、関東地方では鎌倉時代に多く作られました。供養されているのは庶民ではなく、ほとんどが武士です。五つの石は下から「地」「水」「火」「風」「空」の宇宙をあらわしています。供養のためですから、遺体を埋めたり火葬されたお骨が無い場合が多いのですが、ときどき骨や骨壺が(こつつぼ)埋められているものもあります。

宝篋印塔も五輪塔と同じように、先祖や亡くなった人の魂をなぐさめるために作られたものですが、卒塔婆(そとうば)をかたどっていると言われています。卒塔婆とはお釈迦様(おしゃかさま)の骨(仏舎利=ぶっしゃりと言います)をおさめた塔のことで、お寺によく見る三重や五重塔も同じです。ですから、石の中に穴をくりぬいてお経を入れたものもあります。よく見ると真ん中の石にもようが彫ってありますが、それは梵字(ぼんじ)と言って古代のインドの文字(サンスクリット)です。この絵の梵字は「アク」と読み「釈迦如来」(しゃかにょらい=おしゃかさま)をあらわしています。



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