https://adeac.jp/joso-city/text-list/d600010/ht300530 【小山氏と田村氏】より
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小山氏は朝郷の時は南北両朝に対し曖昧(あいまい)な態度をとったが、弟氏政を経て、その子義政に至って、管領足利氏満が小山氏領の下河辺荘を執事上杉氏に譲ったので義政は[天授六年/康暦二年](一三八〇)五月、小山の祇園城に拠って宮方(南朝)に応じて攻め寄せた武家方勢を撃退した。この時『常陽古戦録』によれば上幸嶋荘司幸嶋氏や志筑氏(下河辺政義の裔)らが戦死している。
義政は翌[弘和元年/永徳元年](一三八一)と同二年二月、挙兵したが二度とも上杉方に降り、同三年(一三八三)八月、また、子の若犬丸と共に旗あげをしたが敗死し、若犬丸は陸奥三春城の田村庄司則義の許に遁れた。しかし、則義の子清包の援けを得て祇園城に帰っている。一説には三春城にて挙兵したという。これを管領氏満は古河城に至り討っている。その後[元中四年/嘉慶元年](一三八七)、宮方に立ちかえった小田孝朝が難台山(西茨城郡岩間町)に若犬丸をかくまったことは前記したとおりである。
この三春城主田村清包の一族の子孫田村弾正が水海道城主になったことを説いてみたい。
征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫は陸奥に残ったが、そのうち関東に近いのは三春城の田村氏である。前記のように若犬丸を助けて破れ領地の三分の一を白河結城氏の有に帰し、一族には流浪する者ができた。そのうちには小山氏の親類結城氏、あるいは結城氏に親しい豊田郡大方郷尾崎の秋庭氏などをたよって、後に水海道に近づいて来た者があったことが察せられる。
すなわち、日野王子(ひのみこ)神社(三坂神社)に田村麻呂駐屯の伝説がある。これは三春の田村氏一族が水海道へ南下の途、同神社に立ち寄ったことを住民の尚古思想からその後坂上田村麻呂伝説に結びついたものと考えられる。天文年間に至り尾崎城主秋葉大膳は下妻勢に降ることになるが、一族の子らを田村氏をたよって水海道に移らせている。そして天正五年六月、弾正が戦死すると、水海道実城(本城)城主に据えられている。この時高原氏・松信氏のような田村氏縁故と称する先輩や肩を並べる同僚がいたのであるが、田村氏との関係から城主になったのである。
なお、田村氏系図にみるように、弾正や大膳という同じ官途のあることも同族である証拠である。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=30&r=136 【小山氏城趾(おやましじょうし)〔小山市(おやまし)〕】より
平安時代(へいあんじだい)の末から鎌倉(かまくら)・室町時代(むろまちじだい)にかけて、下野国(しもつけのくに)に強大な勢力を誇って(ほこって)いた名門、小山氏の城趾が小山市に残されています。
鷲城(わしじょう)や祇園城(ぎおんじょう)(小山城)長福寺城(ちょうふくじじょう)の3つの城が、思川沿い(おもいがわぞい)の丘陵(きゅうりょう)にあり、小山三城と呼ばれています。
かつての小山は、この三城と中久喜城(なかくきじょう)とをあわせもつ、一大城郭都市であったと言われています。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=30&r=137 【小山氏と初期の館】より
関東(かんとう)の名族小山氏は、平安時代(へいあんじだい)中ごろにおこった平将門の乱(たいらのまさかどのらん)を鎮めた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫で、源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵から平家追討・滅亡まで、頼朝に従って活躍した下野(しもつけ)最大の武士団でした。
とくに小山氏は、鎌倉時代(かまくらじだい)を通じ下野の守護として大きな勢力を誇りました。
初期の館跡(曲輪跡)
平安時代の末から鎌倉時代にかけて、小山政光(おやままさみつ)を頂点とし、朝政(ともまさ)・宗政(むねまさ)・朝光(ともみつ)のいわゆる小山三兄弟を中心に強固な小山武士団をつくっていた時代には、神鳥谷字曲輪(JR宇都宮線小山駅の南、1.3km付近)に館を構えていたと考えられています。
初期小山氏は、この館を本拠として下野国の役人の頂点に立ち、強力な武士団をつくっていました。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=30&r=138 【小山城(おやまじょう)〔祇園城(ぎおんじょう)〕】より
小山城のシンボル祇園橋
小山城趾(おやまじょうし)(国史跡)は、現在は城山公園(しろやまこうえん)として市民に親しまれており、空堀や土塁のあとが残されています。
小山城の築城については、その年代や築城者は明らかではありませんが、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫、大田政光(おおたまさみつ)が、1148年に小山氏を名のり、この城を築いたのが始まりであると言われています。
小山氏は、源平合戦(げんぺいかっせん)、南北朝の戦乱で武将として名をあげ、領地を拡大しました。
南北朝時代(なんぼくちょうじだい)末期には21代の義政(よしまさ)が、鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)の制止を無視して、宇都宮城主基綱(もとつな)を討ち取ったのが原因で小山義政の乱(1380~1382年)が起きました。
敗れた義政は自害し、小山氏直系は滅びましたが、のちに同族の結城基光(ゆうきもとみつ)の次男泰朝(やすとも)が入城して小山氏を再興し、以後、小山氏代々の本城となりました。
堀の跡
戦国時代(せんごくじだい)には、堀を深くし土塁を高くするなどして小山城の形が整いました。
さらに天正(てんしょう)4~5年(1576~1577年)ころ、小山秀綱(おやまひでつな)は小田原(おだわら)の北条氏に屈服し、北条氏照(ほうじょううじてる)が城主になると、城の大改修が行われました。
その後、小山城は小山氏に返されましたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めの時、小山氏は北条氏に加勢したため、天正18年(1590年)、小田原城落城とともに小山氏は領地を没収され、小山政光(おやままさみつ)以来、4世紀半の長い間栄えてきた小山氏は滅亡しました。
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)ののち、元和(げんな)2年(1616年)、徳川家康(とくがわいえやす)の命により本田正純(ほんだまさずみ)が小山3万3千石の城主となり、近世城郭(きんせいじょうかく)に改修しましたが、元和5年(1619年)、宇都宮城主として国替えとなり、小山城は廃城になりました。
小山城は、高い土塁と深い空堀、および泥田堀(どろたほり)によって三重に囲み、東西約790メートル×南北約1336メートルという広大な平山城でした。
現在、城の東側は宅地化されていますが、丘陵上には中世城郭の面影が残っています。
伝説によると、小山城が落城した時、姫が井戸に身を投げ、家臣が供養のために銀杏の小枝をさし、根づいたが実をつけないという「実なし銀杏」が、一番奥の曲輪に残っています。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=30&r=139 【鷲城(わしじょう)】より
鷲城も小山城(おやまじょう)と同じように築城時期や築城者は明らかではありませんが、応安(おうあん)5年(1372年)年に小山義政(おやまよしまさ)は武蔵国(むさしのくに)太田荘の鷲宮を修築しており、この神を本城に勧進(かんじん)して鷲城と名づけたということですから、この頃鷲城が成立したものと考えられています。
内城の堀跡
鷲神社
鷲城跡(国史跡)は、小山市街地(おやましがいち)の南西に位置し、長い参道を歩いていくと鷲神社があります。
神社を中心とした緑地帯などが鷲城跡の見どころとなっています。
城の北と西側は自然の断崖をうまく利用していて、広さは東西約280メートル×南北約450メートルの規模で中城と西城からなっています。
この二つを分けている空堀(からぼり)と土塁(どるい)が現在もよく残されています。
中城のやや西寄りにある鷲神社の西の高まりが、本丸跡と推定されています。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=30&r=140 【長福寺城(ちょうふくじじょう)〔新城(しんじょう)〕】より
城趾碑
長福寺城の築城時期は明らかではありませんが、小山氏が思川(おもいがわ)周辺に保有しているお城の中でも、長福寺城はその立地条件から、その使用目的や築城意図などがよく推測できる城です。
まずは、小山氏のふたつの重要拠点である祇園城(ぎおんじょう)、鷲城(わしじょう)のほぼ真ん中に位置し、どちらの城からも700メートルほどしか離れていない上、「第2次小山義政の乱(おやまよしまさのらん)」において陥落した「新城」と見られることから、より堅固な城郭(じょうかく)の連携を形成するために急いで取り立てた城であろうということがうかがえます。
長福寺城の現在の保存状況は必ずしも良くはなく、遺構(いこう)の大半はグラウンド建設や宅地化によって失われています。
遺構としてはグラウンドの西側に藪(やぶ)に埋もれて、わずかに土塁と堀の一部が確認されています。
「長福城跡」の石碑(せきひ)はこの南側の小さな公園に建っています。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=30&r=141 【中久喜城(なかくきじょう)〔岩壺城(いわつぼじょう)〕】より
城趾碑
久寿(きゅうじゅ)2年(1155年)、小山政光(おやままさみつ)によって、先祖藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が天慶の乱(てんぎょうのらん)平定時に平将門(たいらのまさかど)調伏のために牛頭天王(ごずてんのう)を祀った地に築城されたといわれています。
中久喜城は、小山氏の持つ他の城館からはやや離れた地に置かれています。
近くには結城(ゆうき)と小山を結ぶ街道があり、もともとはこの街道を監視し、小山領と結城領を結ぶ「つなぎの城」だったと考えられています。
現在の中久喜城は、JR水戸線により南北に二つに分断されていて、北側には長い土塁(どるい)が残されています。
直線で200mぐらいですが、土塁の上は完全に住宅街で、土塁以外の遺構(いこう)は見当たりません。南側の遺構はよく残っていますが、私有地でもあるため整備の手がついておらず、本丸跡は畑になっています。
土塁がL字型に走っている様子や、櫓(やぐら)台のような土塁もあり、虎口の様子も確認できます。
南側は水田に囲まれているため、外からはただの林のように見えます。
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