http://www3.point.ne.jp/~ama/w45.html 【第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)】より
日本書紀第8段第4の一書の内容
さて私は,スサノヲは本来,縄文の神であると述べてきた。その根拠を示そう。
日本書紀第8段第4の一書と第5の一書がそれだ。ここには,スサノヲとその子供たちが,大八洲国を作った話が残っている。
第8段第4の一書も第5の一書も,これまた衝撃的な内容になっている。
第8段第4の一書では,天上界を追放されたスサノヲは,その子「五十猛神(いたけるのかみ)」と共に「新羅国」の「曾尸茂梨(そしもり)」に天降る。
神は,その神を信仰する人々がいるところに天降る。だから,スサノヲは,朝鮮の新羅の神だったということになる。
ところがスサノヲは,この国には居たくないと述べて,「埴土(はに)」で舟を作って「出雲国の簸(ひ)の川上に所在る(ある),鳥上の峯(とりかみのたけ)」に来てしまう。
そこで大蛇(おろち)を退治して草薙剣を得るが,五世の孫「天之葺根神(あまのふきねのかみ)」が,これを天に献上する。
朝鮮から来た神が樹種を大八洲国に広めて青山を成すという伝承
一方,息子のイタケル(五十猛神)は,スサノヲと一緒に天降るときに天から樹種(こだね)を持ってきた。
それを「韓国(からくに)」には植えないで出雲に持ち帰り,「遂に筑紫より始めて,凡て(すべて)大八洲国の内に,播殖して(まきおおして)青山を成さずといふこと莫し」。
こうして五十猛神は,「有功(いさおし)の神」となり,「紀伊国に所座す(まします)大神」となった。
要するに,朝鮮から来た神が,樹種を大八洲国に広めて,青山を成したというのだ。
スサノヲやその子供たちは,青山を枯らすのではなく,青山を作る神なのだった。
紀伊国の大神となったのだから,紀伊国をも支配していた(正確に言えば,イタケルをいつき祭る人々が,紀伊国を支配してイタケルを大神として祭った。)ということなのだろう。
五十猛神は大屋毘古神であり紀伊国にいる
このイタケルは,じつは,古事記にも出てくる。
イタケルの妹は,オオヤツヒメ(大屋津姫命)だ(第8段第5の一書)。
そして古事記では,八十神による迫害を避けるため,オオクニヌシは,「木國(きのくに)の大屋毘古(おほやびこの)神」のもとに行く。
大屋毘古神=オオヤビコに,もし妹がいれば,その呼び名はオオヤツヒメになるだろう。それが,「大屋津姫命」だ。
五十猛神は,やはり紀伊国へ行ったのである。
日本書紀第8段第5の一書の内容
第8段第5の一書は,スサノヲの台詞から始まる。
「韓郷の嶋(からくにのしま)」には金銀があるので,もし「吾が児の所御す(しらす)国」に「浮宝(うくたから,木製の舟)」がないとすれば不都合だ。
こうしてスサノヲは,髭から杉,胸毛から檜,尻の毛から槙(まき),眉毛から楠(くすのき)を生成した。
そして,杉と楠は「浮宝(うくたから,木製の舟)」とし,檜は「瑞宮(みつのみや)」すなわち立派な宮殿の材木とし,槙は現世の人間の棺にするよう,それらの用途を定めた。
さらに,「夫の(その)くらうべき八十木種(やそこだね),皆能く(よく)播し(ほどこし)生う」。
すなわち,食料とする幾多の木の種を皆十分に播いて育てたと述べた。
スサノヲの子に,イタケル(五十猛命=いたけるのみこと),妹オオヤツヒメ(大屋津姫命=おおやつひめのみこと),さらにツマツヒメ(柧津姫命=つまつひめのみこと)がいたが,これら3神も,木の種を十分に播き施した。
そして紀伊国に渡った。
その後スサノヲは,「熊成峯(くまなりのたけ)」に居たが,遂に根国へ行った。
第4の一書と第5の一書は同系統の物語の異伝だ
ちょっと読んだだけでは,この2つの異伝の関係がわからない。
第8段第4の一書は,基本的に,スサノヲが「埴土(赤土)を以て舟に作りて」,「新羅国」から出雲に渡ってきた話だ。
それに,イタケルの話がくっついている。
第8段第5の一書は,たぶん出雲国にいるスサノヲが,これからこの土地を支配することになる我が子イタケルにとって,「浮宝(木製の舟)」がないのは不都合であるとして,材木として有用な杉,檜,槙,楠などを播いたという話なのだろう。
すなわち,第8段第4の一書と第5の一書は,同系統の伝承だ。
ただ,樹木の種が広まったのを,新羅で種を播かずに持ち帰ったイタケル1人の功績にしているのが,第8段第4の一書。
スサノヲとイタケルら3人の子が広めたとするのが,第8段第5の一書だ。
だからこの2つの異伝は,一緒に扱うことができる。
スサノヲの性格を考える上で重要な異伝だ。
スサノヲは新羅の神である
「曾尸茂梨(そしもり)」(第8段第4の一書)とは,新羅国(後代の新羅国が成立した土地というくらいの意味。当時,新羅という国があったわけではない。)の王都という程度の意味だ。
だからスサノヲは,後代,新羅と言われるようになった地に降って,その王都にいたということになる。
前述したとおり,神は,その神を信仰する人々がいるところに天降る。人間と関わりなく神が存在することはない。
その神を信仰する人間がいることが,その神の存在根拠なのだ。
だから,スサノヲは,朝鮮の新羅の神だったということになる。
日本海文化圏における日本と新羅
近年,日本海文化圏という言葉が使われるようになった。
日本という国も新羅という国も,後代できた国にすぎない。神話伝説の時代には,そんな国はない。国民という概念もない。
国民国家となると,ごく最近の概念になる。
当時の彼らには,海を境界にして,別個の国に住んでいるという認識はない。
そして,日本海を自由に渡って,交易していたわけだ。
だから,「朝鮮」という概念も,海の向こうの隣の地域という程度の概念であり,人々は,1つの文化圏に生きていた。
新羅の人々が海を渡ってやって来たことを意味する
そのスサノヲは,新羅の「曾尸茂梨」を捨てて舟に乗り,東に航路をとって出雲にやってきた。
もちろん,スサノヲを信仰する人々が移動してきたのだ。
これは,いわゆる「神武東征」と比肩すべき,大冒険の物語だったはずだ。しかしそれは残っていない。後世,日本を支配した人たちが,それを必要としなかったからだ。
神が天から降臨した地は,降臨した神をいつき祭る人たちがいる場所だ。
そうした人々がいるからこそ,神が神として成立する。
だから,スサノヲが新羅に降ったということは,スサノヲが新羅の神だったことを述べている。そして,神が移動するということは,その神をいつき祭る人々が移動するということだ。
いつき祭る人々と無関係に,あたかも幽霊のように,神が1人で勝手に移動することはありえない。
神だけが,輸入品のように取引されることもありえない。
神と共に人々がやってきた実例
神籬(ひもろぎ,神の依代)等を持って新羅からやって来た天日槍(あめのひほこ)の話(垂仁天皇3年3月)があった。
これがよい例だ。
だから,スサノヲが新羅から出雲にやってきたという伝承は,スサノヲをいつき祭る新羅の人々が,スサノヲと共に出雲にやってきたと解するしかないのだ。
ここに,朝鮮の人々が海を渡ってやってきたという,雄大な叙事詩があったはずだ。しかし,日本書紀や古事記は,それを語ろうとはしない。
単に新羅に寄り道しただけという学者さんの説
こんな,あまりにも当然のことを,しつこく,口を酸っぱくして言うのは,結局出雲に来ているのだから,新羅に寄り道しただけであると考える学者さんがいるからだ。
寄り道って,あなた。神が先か人間が先か。
私は人間が先だと考える。だから,人のいないところに神が降ってくるのではなく,そこにいる人間が,神が降ってきたという神話を作り出すのだと考える。
誰もいないところに降ってくる神は嘘だ(後述するとおり,天孫降臨がまさにそれであり,嘆かわしいほど,おかしいのだが)。
人間のいるところに神が降ってくるのだから,神が降ってきた地点は,その神をいつき祭る人がいるところである。私はそう考える。
学者さんの説を笑う
この学者さんは,スサノヲが新羅に降臨した時,神だったことを認めるのだろうか。
その時,神だったと言うんだろうね。
では,そのスサノヲが神であると認めたのは誰か。
新羅の人だと答えると,スサノヲが新羅の神になってしまうから,出雲の人たちだと答えるんだろうね。
じゃあ,出雲にいる人たちが,我らがスサノヲが新羅に降ったのを,寄り道したと言ったのだろうか。降臨の時点で,我らが出雲の神だと認めたのだろうか。
ちょっと変だな。出雲にいて,スサノヲが新羅に降ってくるところを見ていたのかしらん。よく考えると,とっても変だ。
スサノヲが新羅に渡った諸伝であるとする学者さんの説
スサノヲが新羅に渡った諸伝であると紹介する人もいる。
ここまでくると,「あいうえお」をきちんと読み取れるかどうかという問題になる。
論外だ。こんな人たちが,日本の神話を混乱させているのだ。
青山を枯山になすというスサノヲの性格と対比して,第3の一書までよりもずっと新しい,「調子はずれの一例」と言い放つ学者さんもいた。
結構,有名な学者さんだ。
こうなると,きちんと日本神話を考えようとしているのか,その態度を疑いたくなる。「調子はずれ」で,笑って終わらせられるのは,音楽の世界だけだ。
戦争に負けて,皇国史観から自由になったのに,朝鮮から来た神であることだけは認めたくないという,強固な「意地」が垣間見える。
学問というものは,なかなか難しい。
古事記が残した大年神の神裔もスサノヲの出自を証明する
じつは,アマテラス信仰に凝り固まった古事記にも,朝鮮から来たという痕跡が残されている。
オオトシ(大年神=おおとしのかみ)の神裔だ。
オオトシは,スサノヲがオオヤマツミ(大山祇神)の娘を娶って作った子で,オオクニヌシとは別系統の子孫になる。
そのオオトシの子孫には,「韓神(からのかみ)」,「曾富理神(そほりのかみ)」,「白日神(しらひのかみ)」がいる。
「韓神」は文字どおり朝鮮の神であり,延喜式神名帳には,「宮内省坐神三座」として,「園神社」と「韓神社二座」をあげている。
「曾富理神」の「そほり」は,朝鮮語で王都の意味だ。現在の韓国の首都ソウルの原義は,ここにある。
「白日神」ひとつとっても偏見の根は深い
問題は「白日神」だ。
学者さんは,明るい太陽の意味だとしている(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,96頁)。
これもまた,強固な「意地」を感じさせる,エキセントリックな解釈だね。
なぜここで突然,「白」い「日」として,漢字の意味をとらなければならないのだろうか。
「曾富理」は,漢字の音をもって当時の日本語の発音にあてたのだ。日本独自の文字がなかったから,「そほり」という発音に,漢字の音を,無理矢理あてたのだ。
それとまったく同様に「白日」も,当時の日本語の発音にあてただけのことだろう。
だから,ここで突然,漢字の意味をとるのはおかしい。
それとも,朝鮮との関係を認めたくないのだろうか。
私は,「新羅」の「しらき」ないし「しらひ」だと考える。
いずれにせよスサノヲは,朝鮮の神を生んでいる。スサノヲ自身が朝鮮の神だったからである。
日本神話成立の歴史的背景
こうしてみてくると,スサノヲは,偉大ではあったけれど,日本書紀の神話の構想からはずれた神なのだ。貶められる理由があった。それは理解できる。
660年に百済が滅亡し,663年にヤマトの政権は,白村江で唐と新羅の連合軍に歴史的敗北を喫する。
日本は,朝鮮半島へのとっかかりを失った。朝鮮半島は,風雲急を告げていた。
大八洲国を死守しようとする天智天皇は,瀬戸内海の各所に山城を築き,都を近江の大津に移して,国家としての体制を整えようとする。
しかしその途上で死亡し,672年に壬申の乱が起きる。
勝者天武天皇は,律令国家体制作りに舵を切る。それは,簡単に言えば,国としての支配命令体系を整えることだった。官僚制を整備することだった。
日本は,ここで孤立して生きていくしかなくなったのだ。
世界観の欠落した律令国家の歴史書
そうした,国の体制作りの一環として成立したのが,712年の古事記であり,720年の日本書紀である。
国家には,歴史がいる。国の神聖なる出自がいる。
「日本国」という国号も,「天皇」という称号も,持統,天武の時代に成立したとされている。
だからこそ,「国生み」のお話には,朝鮮も中国も出てこないのだ。あくまでも,「大八洲国生み」にとどまる。
世界生成神話を語っているように見えて,じつは,大八洲国しか生まれてこないという偏狭さ,偏屈さの原因は,ここにある。
日本神話は,聖書の物語のような汎人類的な神話にならなかった。クニノトコタチ(国常立尊)に次いで生まれるのは,クニノサツチ(国狭槌尊)だった。
ともに「国」の神であり,世界の土台とか世界の泥とかいう発想はない。
スサノヲの素性が隠されたわけ
だから,天,天上,ないし「高天原」というのも,朝鮮や中国を含めた世界支配の神々がいる場所ではなく,大八洲国,葦原中国を支配する神々がいる場所にすぎない。
スサノヲは新羅の神だった。
もはや,新羅国は敵対国であり,スサノヲは敵対国の神だった。だからその素性が無視されたのだ。
しかし,皇国史観から自由になった今でも,文献をよく読もうとしない学者さんがいるのは,理解できない。
新羅の神スサノヲは木の文化を大八洲国に広める
このように,スサノヲは新羅の神だった。
ところで縄文文化は,日本独自の文化ではない。「日本海文化圏」を考えると,日本だけでものを考えること自体がおかしい。
網野善彦は,朝鮮半島をも含めた縄文文化を考えている(ちくま学芸文庫「日本の歴史をよみなおす(全)」271頁以下)。
さて,第8段第4の一書によれば,イタケルは,天から持ってきた樹種(こだね)を「遂に筑紫より始めて,凡て(すべて)大八洲国の内に,播殖して(まきおおして)青山を成さずといふこと莫(な)し」というのだった。
第8段第5の一書では,スサノヲは大八洲国を,「吾が児の所御す(しらす)国」と呼んでいる。
そして木々を生成し,「夫の(その)くらうべき八十木種(やそこだね),皆能く(よく)播し(ほどこし)生う」,すなわち,食料とする幾多の木の種を皆十分に播いて育てたと述べた。
3人の子は,木の種を十分に播き施した。
新羅の神スサノヲは大八洲国の基礎を作った
「吾が児の所御す(しらす)国」という「叙述」を見逃してはならない。
「遂に筑紫より始めて」という「叙述」も,見逃してはならない。
なぜ,筑紫すなわち北九州から始めるのだろうか。
それは明らかだ。朝鮮半島から渡来する時の玄関口は,筑紫だったからだ。
第8段第4の一書は,「埴土(はに)」で舟を作って「出雲国の簸(ひ)の川上に所在る(ある),鳥上の峯(とりかみのたけ)」に来たと述べているが,実際にはまず筑紫に上陸し,その後日本海沿岸を伝って,出雲に入ったのかもしれない。
それはともかく,筑紫から始めて大八洲国に播いて青山を作ったというのだ。それが,人々が「くらうべき八十木種(やそこだね)」だったというのだ。
これは,木の文化をもって,大八洲国の基礎を作ったということだ。
木の文化とスサノヲ
スサノヲは,イタケルが支配する大八洲国に,国を作る木々や食料とする木の種を播き施したことになる。
朝鮮には木が少なかったのだろう。温暖湿潤な日本に比べれば少なかったのだろう。それは,第8段第4の一書が,「埴土(はに)」すなわち土で舟を作って出雲にやってきたと叙述している点からも明らかだ。
要するに,樹木が朝鮮には少なく,大八洲国では豊かなのは,朝鮮からやってきたスサノヲとその3人の子のおかげだと言いたいのだ。
だからこそイタケルは,「有功(いさおし)の神」となり,「紀伊国に所座す(まします)大神」となった。
これは,木の文化だ。
スサノヲは縄文の神である
まとめよう。
スサノヲは,木々を生成して,杉と楠は「浮宝(うくたから,木製の舟)」とし,檜は「瑞宮(みつのみや)」すなわち立派な宮殿の材木とし,槙は現世の人間の棺にするよう,それらの用途を定めた。
古代の主要な交通手段は木造の舟だ。陸路を行くよりも,むしろ1日で行ける近海を航海していた。
そして,首長の宮殿は檜で作られる。檜は,木の中でも香りがよいから,白檀等の薫り高い香木の代用香木として,檀像にならった仏像が後世作られた。
またスサノヲは,「夫の(その)くらうべき八十木種(やそこだね),皆能く(よく)播し(ほどこし)生う」とある。
すなわち,食料とする幾多の木の種を皆十分に播いて育てたと述べた。主要な食料は,五穀ではなく木の実だったのだ。
木の文化といえば縄文文化だ。
縄文の神スサノヲとアマテラス
太い丸太がそびえる青森県の三内丸山遺跡が思い起こされる。
現代では,縄文時代の人たちがドングリやトチの実を採取して食べたというだけでなく,積極的にこれらを栽培し,保存していたことがわかっている。
スサノヲは,縄文文化を象徴する神なのだ。
スサノヲは,五穀と養蚕を理解せず,アマテラスに反逆する神だった。文化的な反逆者だった。スサノヲは,祓えによって祓われる神だった。
むべなるかな。縄文文化と弥生文化の対立が描かれていたのだ。そしてスサノヲは,律令国家形成時にはすでに,異国,新羅の神であった。
ただ,出雲に降ってからは,弥生の神に変貌する。それが,八岐大蛇退治だ。これについては前述した。
スサノヲの子は紀伊国へ行く
何度も述べたとおり,第8段第4の一書によれば,木々の種を広めたイタケルは「有功(いさおし)の神」となり,「紀伊国に所座す(まします)大神」となった。
また,第8段第5の一書も,スサノヲの子3神が紀伊国へ渡ったと述べている。
この3神は,紀伊国で1社内に合祀されていたが,続日本紀によれば,その後分祀されたという。
和歌山市伊太耶曾にある伊太耶曾神社(イタケル),同市宇田森にある大屋津比売神社(オオヤツヒメ),同市平尾にある柧津比売神社(ツマツヒメ)がこれであろうと言われている。
問題は,紀伊国へ行った点だ。
神武「東征」以前に紀伊国にいたスサノヲとその子供たち
紀伊国は,ヤマトに隣接する木材供給地だ。だからこそ,スサノヲの3人の子が紀伊国に祭られたのだ。
出雲の神にすぎないならば,近隣の山地に祭られればよいはずだ。ヤマトで,木材の神として信仰されていたからこそ,木材供給地たる紀伊国に祭られたのだろう。
しかもイタケルにいたっては,「大神」として。
やはり,スサノヲの子供たちは,出雲という国の地方神ではない。
私は,神武天皇が,イザナキ・イザナミ神話,日向神話,日の神神話,タカミムスヒ神話という,日本神話の原伝承を背負って,「東征」したと論じた。
これは,弥生文化の伝播の一環だった。
スサノヲとその子供たちは,縄文の神として,神武の「東征」以前に,すでに紀伊国に入り,いつき祭られていたのだ。
第8段の一書の構成
だからこそ,第8段第4の一書,第5の一書に続いて,第8段第6の一書が置かれている。
第8段第6の一書には,出雲だけでなく,ヤマトをも含む天の下を平定したオオナムチ(おおあなむちのかみ,オオクニヌシのこと。)が,ヤマトの「三諸山」,すなわち三輪山に祭られる経緯が叙述されている。
これについては後述するが,出雲神話を語るうえで,大変重要な伝承である。
このように,第8段の一書は,緊密な構成をもっている。
日本書紀編纂者は,確かに,客観的な眼をもった,よくできた編者だった。
紀伊国に所座す大神イタケルはアマテラスより格上である
何度も言うとおり,イタケルは,「紀伊国に所座す(まします)大神」であった。
ところで前述したとおり,第7段第1の一書では,アマテラスの「象(みかた)」が作られて,「是即ち紀伊国(きのくに)に所坐す(まします)日前神(ひのくまのかみ)なり」となっている。
いずれも一書という異伝であり,本文ではない。だからこそこだわりたい。
日本書紀編纂者も古事記ライターも,出雲神話を冷遇しようとしている。しかし日本書紀編纂者は,公平な目をもっていた。矛盾する伝承もきちんと残そうとした。
イタケルは紀伊国の「大神」だ。アマテラスは紀伊国の「日前」という一地方の単なる「神」だ。
どっちが偉い神だったのだろうか。
私は,イタケルだと思う。
ま,神の性格は,弥生と縄文と,違いますがね。
スサノヲは青山を成す神であり暴虐の神ではない(スサノヲの本来の性格)
このように,スサノヲは,縄文文化を体現して,国土建設に尽くした有徳の神だ。
アマテラスやタカミムスヒ以前に,紀伊国に進出していた。
それが,アマテラスを称揚する人々からは,乱暴な神として蔑まれ,祓われる神とされたのである。
それは,弥生と縄文の対立,ととらえることができる。
土地の占有,用益,収益等を理解せず,これに関する権利を妨害し,灌漑施設を破壊し,神聖であるべき新嘗祭や機織りに不敬の行為を行う邪霊ないし邪神。
ここには,五穀と養蚕の定住生活を理解せず,収穫時になると略奪にやってきた,蝦夷の姿が重なっているのだろう。
スサノヲは,弥生文化圏の者に厭われて,祓われる神であり,弥生文化を理解しない神だったのだ。
古事記がいう「根の堅州国(かたすくに)」は,片づけられた者が行く世界だった。片付けることを「かた・す【片す】」というように(広辞苑第4版),根国は,祓われた者が行く世界だった。
暴虐の神というのが一般的なようだが,それだけで片づけては,スサノヲの本質をはずすことになる。
スサノヲの本来の性格(縄文を体現した神としての側面)
ここで,スサノヲという神の,縄文を体現した神としての側面,すなわち,日本神話に取り込まれる前の,本来の性格をまとめておこう。
① 縄文文化を体現する,
② 新羅から渡ってきた神であり,
③ 暴虐無道ではなく感情豊かな,
④ 青山を成す神。
日本神話によってゆがめられたスサノヲ
ところが,日本神話に取り込まれたことにより,以下のごとく変質した。
⑤ 日本神話では,五穀と養蚕の弥生文化を理解しない神,青山を枯山に成す暴虐のとして,祓われ,
⑥ 出雲に降って建国の基礎を作り,
⑦ 徐々に弥生の神に変貌していく。
⑧ 最終的には,根国へ行ったようだ。
一方スサノヲは,朝鮮半島の「新羅」からやってきた,荒ぶる神でもあった。その子孫であるオオクニヌシは,葦原醜男(あしはらのしこお),八千戈神(やちほこのかみ)などという別名をもっている。
葦原中国を支配する,屈強で武力に秀でた神という意味だ。
スサノヲは,「高天原」の神々が整理され,伝承化される過程で,「高天原」の神々の一員としてアマテラスの弟に位置づけられ,とりこまれ,それだけでなく,アメノオシホミミをアマテラスと一緒に生んだという伝承も付け加わって,国譲りという名の武力による侵略を正当化するのに利用されるようになったのである。
縄文と弥生は共存していた
最後にひとこと。
縄文時代はとうの昔に終わっているではないか,と言う人がいるかもしれない。
日本列島には,古来から縄文人が先住民として生活していた。そして縄文文化が花開いていた。
それは,決して木の実を拾い獲物を捕るだけの,かつかつの生活ではなかった。青森の三内丸山遺跡を想起するまでもなく,大木を利用し,場合によっては樹木を栽培して食料を蓄えて集住していた。
交易も盛んだった。
稲作は,九州から始まり,ほんの数10年で尾張あたりまで広まったという。しかしここで,いったんストップする。
それは,それ以東の縄文文化が強固だったからだ。
とにかく,弥生時代が始まったからといって,一気に縄文人がいなくなったわけではなく,縄文文化が消え去ったのでもない。
縄文と弥生の共存(景行天皇40年7月)
神代からはるかに降った景行天皇の時代に,面白い記事がある。有名な日本武尊が,景行天皇の要請に応じて蝦夷征伐を決意する場面だ。
景行天皇は,東国が動乱しており,「暴(あら)ぶる神多(さわ)に起る」と述べる。
そして,蝦夷征伐を決意した日本武尊に,斧とまさかりを授けて言う。
東国の田舎に蝦夷がいる。これは非常に手強い敵だ。
男女混じって生活しているから,父子関係を定めがたい。
冬は穴に寝て,夏は巣に住む。
毛皮を着て獣の血を飲む。
山には飛ぶ鳥のように登り,草原は獣のように走る。
「党類(ともがら)を聚(あつ)めて,辺堺(ほとり)を犯す」。
あるいは,「農桑(なりわいのとき)を伺ひて人民を略む(かすむ)」。
撃とうとすると草に隠れるし,追うと山に逃げる。
昔から今に至るまで,天皇のもとに帰順してこない(景行天皇40年7月)。
ここには,大自然を縦横無尽に駆け回っていた,縄文人が活写されている。
そしてここが大切なのだが,蝦夷は,土地の境界というものを考えていないのだ。「辺堺を犯す」のだ。土地は,むしろ略奪の対象だ。
農民にとって土地の境界は大切だが,縄文人にとっては狩猟採集の対象でしかない。
農耕生活を理解できなかったが,作物がなるのはよくわかっていたので,収穫の時を狙って略奪に来たのだ。
やはりスサノヲは縄文の神
ここで,スサノヲを思い出してほしい。
スサノヲもまた,田を破壊する神だった。
ちなみに,「暴ぶる神多に起る」という表現は,葦原中国に「道速振る(ちはやぶる)荒振る国つ神等の多なり」(古事記,国譲りという名の侵略の場面)などと同様,葦原中国とその神を表現する時の常套句だ。
だから,日本書紀編纂者は,葦原中国を,縄文文化の世界だととらえているのだろう。
国つ神は,縄文文化の神なのだろう。これに対する「高天原」は,弥生文化の世界なのだろう。
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