https://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2007/tayori1911/naranomukashi1911.htm 【奈良のむかしばなし】より
境内にある樹齢推定1200年、高さ約24mの大銀杏(いちょう)。幹の樹皮に垂れた乳を思わせる膨らみがあり乳垂れ銀杏とも。葉が落ちる晩秋、あたりは黄金色に埋め尽くされる。 昔、神武天皇が、土グモを退治し、頭と胴と脚を切って埋め、その上に大きな石を置いた。その「蜘蛛塚」が一言主神社の境内にある。
奈良盆地の西に聳(そび)える葛城(かつらぎ)、金剛の山並み。その東側の山麓(さんろく)、御所市森脇に一言主(ひとことぬし)神社がある。
杉並木の長い参道をぬけると、広い境内に神さびた風格の社殿が鎮(しず)まる。あたりは苔生(こけむ)した老木、大木に包まれ、時おり鳥の声だけが聞こえる静けさだ。神社の一言主神(ひとことぬしのかみ)は、願い事を一言だけ聞いてくれる神として、地元では「一言(いちごん)さん」と親しまれている。
昔、この付近で、毎夜一匹の大きなクモが出て荒らしまわり、人々を困らせていた。そこへ一言主神が通りかかり、「私が捕まえてやろう」といい、首尾よく退治した。村人はその死骸(しがい)を田の中に埋めたという。この時、クモの大きな牙(きば)が取り置かれ、今も神社の宝物(ほうもつ)となっている。
この話とは別に、『日本書紀』にも土グモの話が見える。
昔、神武天皇が日向(ひゅうが)(宮崎)から東の国々を征服する旅に出た。
熊野から上陸して大和の宇陀などを経て葛城の高尾張邑(たかおわりむら)に来た。ここで天皇は土グモと戦い、これを退治した。土グモは土地の民のこと。この時、葛(かずら)のつるで作った網でクモを覆い殺した。よってこの地を「葛城(かずらき)」と名づけたという。やがて天皇は橿原宮で即位した。
神社の境内に、その土グモを埋めたという「蜘蛛塚(くもづか)」がある。神武天皇の神話が、一言主神の話に形を変えて長く今日まで伝えられたのか。
ところで、一言主神は、お顔が醜かったともいう。昔、修験道(しゅげんどう)の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が葛城山(かつらぎさん)と吉野の金峯山(きんぷせん)に橋を架けようとした。それを手伝った一言主神は容貌(ようぼう)を恥じて夜だけ働き、夜明け前に姿を隠したという。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は『笈(おい)の小文(こぶみ)』の旅で葛城山にふれ、「猶(なほ)みたし花に明行(あけゆく)神の顔」の句を残した。
花々に包まれた葛城の夜明け。そこにおわす神のお顔が、まさか、醜いなんて。いや、麗しいに違いない、といった気持ちか。一言主神社の境内にその句碑がたつ。春の花、秋の紅葉、いつの季節も葛城の山里は美しい。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2968478/【フェルトセンス】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7076489/ 【蘇我氏はエジプトからの渡来人?】
Facebook金澤 秀光さん投稿記事
先日訪れました、葛城一言主神社の鳥居をくぐってすぐのところです。 蜘蛛塚。
塚って、お墓なのですが、怨霊を鎮めるためのものが、塚なのですねぇ。塚 と付く地名は、大方そうなのだと、何かの本で読んだ記憶があります。この蜘蛛塚は、祟りを恐れて、手足をバラバラにして埋葬し、塚を築いたそうです。土蜘蛛族って、朝廷に従わない全国の部族を指しているようなのですが。葛城・蜘蛛族は神武天皇によって打ち取られたとされています。
金剛山・葛城神社には、葛の蔓で編んだ網で土蜘蛛族を捕えたことから、葛城山と命名されたと。(当時は、今の金剛山は、葛城山と称されていたそうです。)このようなことが繰り返されて、現代があるのでしょうねぇ。
Wikipedia 土蜘蛛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%9C%98%E8%9B%9B
【『古事記』神武天皇一行、忍坂で土蜘蛛の男たちを征伐をする】より
天下を治めようとしていた「イハレビコ(神武天皇)」一行はいよいよ大和国(奈良県)に入って来ました。道もないような山道なので「アマテラス(天照大御神)」らが高天原から八咫烏を遣わせて先導してくれました。
宇陀に来た時、豪族の「エウカシ(兄宇迦斯)」が「イワレビコ」一行を撃とうと企みますが
その弟の「オトウカシ(弟宇迦斯)」の密告により「イワレビコ」一行は難を逃れました。
「古事記」における土蜘蛛征伐の場面
「オトウカシ(弟宇迦斯)」は大宴会を開き、イワレビコ」一行の兵士全員に料理を与え、全てを献上しました。こうして「オトウカシ」は宇陀の水取(ミズトリ)の祖となりました。
水取(ミズトリ)とは宮廷の飲料水を掌る役目です。「イワレビコ」一行はさらに進軍して、忍坂(オサカ)の大室に来ました。
神武東征の移動地図
すると、尾がある土蜘蛛(ツチグモ)の八十建(ヤソタケル)がその洞穴に集結して待ち構えていました。・土蜘蛛とは穴に住んでいる尾が生えた凶悪な原住民・八十建とはたくさんの強い兵士のことです
そこで「イワレビコ」一行は策を練り、ご馳走を八十建たちに持って行くことにしました。
相手がたくさんの兵士なので、こちらもたくさんの料理人を連れて行き、どの料理人にも太刀を隠し持たせました。
そしてイワレビコ祝いの歌声を耳にしたら一挙に斬れ!と命じました。
土蜘蛛を撃とうとすることを示すために詠んだ歌は忍坂の 大きな室屋の中に 人が大勢 集まり入っている (雄々しい)我が久米の兵士が 頭椎(クブツチ)の太刀 石椎(イシツチ)の太刀を手に 撃ち殺してしまうぞ (雄々しい)我が久米の兵士が頭椎(クブツチ)の太刀 石椎(イシツチ)の太刀を手に 今だ撃つべき時は頭椎の太刀こうして、土蜘蛛は一気に殺されました。
・頭椎の太刀は棒状の武器が先端が槌のように塊になっている太刀
・石椎の太刀は棒状の先端に石をつけて槌にしている太刀です
土蜘蛛とは
「古事記」や「日本書紀」における土蜘蛛
天皇側から書かれた「古事記」や「日本書紀」には「土蜘蛛は穴に住んでいて尾が生えている凶悪な原住民」と書かれていますが、もちろんそんな筈はありません。
この場合、天津神の御子に逆らう土着の先住民と考えるのが一般的でしょう。
天皇側から見て、どこからともなく現れる恐ろしく卑しい存在なので、土蜘蛛という名前や尾があることにされたのだと思います。
「風土記」における土蜘蛛
一方、その地域の歴史や文化を記した「風土記」によると、土蜘蛛は凶悪なだけの集団ではありません。例えば「日向国風土記」には「ニニギ(邇邇芸)」に2人の土蜘蛛が農耕的な呪術を教え、昼と夜を分離する方法を伝授したと書かれています。
また「肥前国風土記」にも2人の土蜘蛛が、豪族に祭祀の仕方を教えたことが記されています。
国宝「肥前国風土記」
土蜘蛛側の資料が無いようなのですが、このように見ていくと土蜘蛛は必ずしも悪い凶暴な存在ではなく、各地にいる元気でイキのいい集団であり、時には共存共栄していた存在だったことがわかります。
はるさん的補足 葛城一言主神社の「蜘蛛塚」
葛城一言主神社(奈良県)
奈良県御所市に「葛城一言主神社」という神社があります。(一言主大神は雄略天皇の時に活躍した神です。)その神社の境内の一角に「蜘蛛塚」があります。
言い伝えによると「イワレビコ(神武天皇)」一行が宇陀などを経て葛城に来ました。
ここで一行は土蜘蛛と戦い、葛(カズラ)のツルで作った網で蜘蛛を殺しました。なのでこの地は葛城と名付けられました。
そして土蜘蛛の頭と胴と脚を切って埋め、大きな石を置きました。それが「蜘蛛塚」です。
この地域の土蜘蛛が、よほど怖い存在であったことがわかります。
次はいよいよ「イワレビコ」が橿原に入ります。
http://www.enyatotto.com/youkai/tsuchigumo/tsuchigumo.htm 【大和の妖怪談義 | 和州探訪 |
名 前 ツチグモ【土蜘蛛】】より
出没地 御所市、郡山市
伝 説
○高天神社(御所市)の前の並木の東側に土蜘蛛のいる窟があり、千本の足をもっていた。時の天皇の勅使が矢を射て殺したが、その土蜘蛛は高天彦神社の傍らに埋め蜘蛛塚といった。(※1)
○外川(郡山市)の土蜘蛛は、毒をもつ大きな牙をガチガチならして、真っ赤な舌をペロペロ出し、銀色の太い糸をパッと吹きかける。(※2)
○昔、神武天皇がカツラで網をもって土蜘蛛を捕え、これを頭と胴と足と3つに切って別々に今の神社(一言主神社)の境内に埋め、その上に巨石を置かれたという。(※3,4)
○昔、大きなクモが毎夜付近を荒らしまわったので、一言主ノ命がこれを退治した。その牙があまりに大きいので取っておいて、死骸は田の中に埋めた。命がクモ退治に用いた剣やクモの牙は、今でも一言主神社の宝物として永久に保存することにしたという。(※3,4)
○法師に身をやつした土蜘蛛の精が源頼光を襲うが、失敗して姿を消す。頼光の部下たちは、傷を負った土蜘蛛の血の跡をたどり、化け物の巣とおぼしき古塚をつきとめる。土蜘蛛は「我こそは大昔から長い間、葛城山に潜んでいた土蜘蛛の精だ」と名乗る。蜘蛛の化け物は、たくさんの糸を繰り出し投げてくるので、蜘蛛の糸が手足にまとわりついてきた。しかし、土蜘蛛の逃げ場をふさいで取り囲み、大勢で襲いかかって、ついに土蜘蛛の首を切り落とした。(※5)
談 義
【考察】
古典に登場する土蜘蛛は、大きく二つに分かれる。
① 記紀や風土記などに登場する土蜘蛛は、神武天皇や大和王権に恭順しない土着民や国ツ神系の人々への蔑称として使われている。
② 時代が下ると、物語(『平家物語』剣の巻・『土蜘蛛草紙絵巻』)や能の演目(謡曲『土蜘蛛』』にも登場するようになり、その場合、源頼光によって退治される妖怪という 設定に変わっている。
『古事記』の神武東征伝によると、八咫烏に導かれ現在の奈良県に入ると、贄持之子(阿陀の鵜飼の祖)、井氷鹿(吉野首らの祖)、石押分之子(国栖の祖)といった国ツ神に出会う。また、忍阪(桜井市)でも、 「尾生ひたる土雲(八十建)」が待ち受けている。彼らは、生駒山の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)ほどの大きな抵抗勢力ではなかったようだが、力で従えていかなければならない「土蜘蛛」グループであった。奈良県内に伝わる土蜘蛛伝説は、大和王権下の抵抗勢力であ った土着民たちの系譜がもとになっていると考えられ、源頼光は登場してこない。
一方、『土蜘蛛草紙絵巻』などでは、ウルトラマン対怪獣の構図を当てはめることができる。また、謡曲『土蜘蛛』では、土蜘蛛の出所として「我こそは大昔から長い間、葛城山に潜んでいた土蜘蛛の精だ」と名乗って いる。奈良県民の私にとっては、とても親しみを感じることができる。
【フィールドワーク】
高天彦神社(御所市)の数百メートル南にこんもりとした塚山があり、「蜘蛛窟」碑が建っている。石碑の裏側には、「皇紀二千六百年神武天皇聖蹟顕彰」と刻印があり、1940年(昭和15年)の神武天皇即位紀元2600年を祝った一連の行事の中で建立されたものと考えられる。ただ、「蜘蛛のいた窟」というような洞窟らしきものは見当たらない。
一方、一言主神社(御所市)境内にも「蜘蛛塚」があり、神武天皇が捕えた土蜘蛛を埋めたところとしている。謡曲『土蜘蛛』を引用した説明看板が立っている が、土蜘蛛ゆかりの地としてPRするには、こちらの話の方がありがたかったのだろうか。
引用文献
※1)御所市史編纂委員会『御所市史』(S40.3.10.御所市役所)
※2)奈良のむかし話研究会編『読みがたり・奈良のむかし話』(S52.9.1.日本標準)
※3)奈良県史編纂委員会『奈良県史13民俗(下)』(S63.11.10.名著出版)
※4)編集:奈良県童話聯盟、編纂:高田十郎『大和の傳説』(S8.1.15.大和史跡研究会)
※5)謡曲「土蜘蛛」
※6)『鬼の研究』馬場あき子
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