下野

https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=31&r=142 【下野国庁跡】より

下野国庁跡(しもつけこくちょうあと)〔栃木市(とちぎし)〕

遺跡発掘現場の様子

奈良(なら)~平安時代(へいあんじだい)に使われた下野国(しもつけのくに)の役所の跡で、きれいに並んだ柱穴(ちゅうけつ)の跡や、当時の役人が書いた貴重な木の札がたくさん見つかった、全国でも珍しい遺跡です。


https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=31&r=143 【「国庁」とは何か】より

奈良時代(ならじだい)、政治は、「律令(りつりょう)」という法律にしたがって行われました。平城京(へいじょうきょう)を都と定め、全国は60数個の「国」に分けられました。

これは現在の「都道府県」のようなものです。

地方の国々は、天皇に任命された役人によって治められ、この役人たちを「国司(こくし)」と呼びました。国司の人数は国によって異なります。下野国(しもつけのくに)の場合は、国司は4人でした。国司が政治を行った建物を「国庁」と呼びました。現在の県庁のようなものです。どの国でも国庁の建物は、規則正しい形に並べられました。

上から見たときに、建物の並び方がカタカナの「コ」や「ロ」の形になっており、中央に広場があることが特徴となっています。

国庁の周りにも、政治を行うための重要な建物がたくさんあり、国司以外の下級役人が大勢働いていました。下野国の場合、およそ430人であったとされています。


https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=31&r=144 【下野国庁はどのようなものだったか】より

昭和(しょうわ)58年(1976年)の調査で、国庁のあった場所がはっきり分かりました。土地を一辺約95mの正方形の形に区切り、その中に「コ」の字をつくるように規則正しく建物が並んでいた跡が見つかりました。

中央には「前殿(ぜんでん)」という建物が、左右には「脇殿(わきでん)」という細長い建物があったことが分かりました。脇殿の長さは、約45mもありました。

国庁でいちばん大切な建物「正殿(せいでん)」は、前殿の後ろ側にあったと考えられていますが、現在神社が建っているため、まだ発掘調査ができていません。

下野国庁が建てられた正確な時期は分かっていません。

奈良時代(ならじだい)のはじめごろに造られ、何度か建て替えられながら、200年間くらいはあったようです。

このように、国の跡がはっきり見つかっている例は全国でもきわめて少ないです。

そのため下野国庁跡は、昭和57年(1982年)に国指定史跡になり、大切に管理されています。前殿は奈良時代のころと同じような形に、2つの脇殿は藤棚の形で復元され、自由に見学できるようになっています。前殿の後ろ側には、資料館が造られ、貴重な資料の数々が見られるようになっています。


https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=31&r=145 【下野国庁からはどのような物が発見されたか】より

(1)「硯(すずり)」

国庁での役人の仕事は、主に墨で文字を書くことがたいへん多かったです。そのため、多くの硯が発見されています。当時の硯は、現在のような形ではなく丸い形をしていました。

(2)「木簡(もっかん)」

当時、紙の文書とともに、木の堅いという特性を生かして木の札をつくり、そこに文字を書き記して記録しました。これは、表面を刃物で削って何度も使うことができました。

この札を「木簡」といいます。

普通は、何百年も前の木製品は土の中で腐ってしまうのですが、下野国庁の場合は空気に触れずに密閉された状態で土の中にありましたので、運良く腐らずに残っていました。

これまでに見つかった木簡の数はおよそ5000点で、当時の役人たちの仕事内容などを知る上で、全国的にも貴重な資料となっています。

(3)「漆紙文書(うるしがみもんじょ)」

当時の紙は、漆を使う作業の容器の一部として使われていました。漆が付着したために腐らずに、残っていた紙を漆紙文書と言います。木簡と同じように、役人たちの仕事内容が分かる、とても貴重な資料です。下野国庁からは約100点が見つかっています。

(4)「墨書土器(ぼくしょどき)」

器の表面に、墨で文字が書かれた物です。

それを使っていた人の役職や、保管されていた建物の名前などが分かる資料です。


https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=31&r=146 【国庁で国司(こくし)はどんな仕事をしていたのか】より

①住人や田畑の数を調べ、戸籍や計帳(税を集めるための帳簿)をつくる。

②税を集め、保管する。

③国内の見回りを行う。

④兵士や武器を集める。

⑤国分寺(こくぶんじ)や僧侶(そうりょ)、神社などを管理する。

⑥国内の施設を管理する。

⑦もめごとの裁判を行う。

⑧国内の様子を朝廷に報告する。

⑨決められた年中行事を行う。など


https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=31&r=147 【下野国庁に関わる歴史上の人物】より

下野国庁は、奈良時代(ならじだい)や平安時代(へいあんじだい)の歴史書に何度か登場します。

①伴善男(とものよしお)

「応天門の変(おうてんもんのへん)」で有名な人物です。849年に下野国司(しもつけこくし)に任じられています。

②菅原道真(すがわらみちざね)

遣唐使(けんとうし)の廃止や九州(きゅうしゅう)の大宰府(ださいふ)に流されました。

867年に下野国司に任じられています。

③坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

東北地方(とうほくちほう)の人々との戦いで活躍しました。戦いに向かう途中、下野国庁に立ち寄った可能性があります。

④平将門(たいらのまさかど)

朝廷に逆らい、関東地方(かんとうちほう)で暴れ回りました。下野国庁にも攻めてきており、国司を追い出しています。

⑤藤原秀郷(ふじわらのひでさと)

下野国(しもつけのくに)出身の豪族です。

平将門を倒した功績で、940年に下野国司になっています。

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