http://futaarayamajinja.jp/yuisyo/ 【二荒山神社】より
宇都宮と二荒山神社
二荒山は県都宇都宮市のほぼ中央にあります。昔は小寺峰(現在社殿のある臼ヶ峰の南方・馬場町交番付近)と臼ヶ峰の二峰を持った小高い荒山でした。山姿からして瓢型の墳墓であったと言う学者もいます。江戸時代に街の割替えが行われ、山は二分され真中に道路が設けられて、小寺峰は次第次第に削られ今日その原形を全く失い、標高約130mの臼ヶ峰のみが残っています。
二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代に遡ります。当社は何度も火災にあい、近世に入ってからも天正13 年、安永2 年、天保3 年、更に明治維新の戊辰の役と4度もあって古い記録のほとんどが焼失しています。現在残っている社記には、第16 代仁徳天皇の御代に毛野国が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられます。この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後承和5 年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられています。
延長5 年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には「下野國河内郡一座大 二荒山神社 名神大」と記載があります。栃木県内唯一の名神大社として「お明神さま」「ふたあらさん」の名で広く親しまれ、篤く崇められてきました。平安から鎌倉時代には各々の国で最も格式が高いとされる神社を一之宮としました。二荒山神社もまた「下野国一之宮」とよばれ、宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説があります。
宇都宮はこの二荒山神社を中心に、平安・鎌倉時代には神社の門前町として発展し、江戸時代には城下町として繁栄しました。 北関東の経済・文化の中心都市として発展した現在でも、 お正月や七五三など暮らしの節目にたくさんの市民が参拝に訪れます。
また、 宇都宮市の多くの祭りが二荒山神社に由来しており、 神輿が担がれる盛大なお祭りに地域は賑わい活気に満ちています。
近年は、 鳥居のある広場を中心にして、 ジャパンカップクリテリウム(サイクルロードレース)やFIBA 3×3 World Tour (3人制バスケットボールの世界大会)などが開催され、 世界各国のチーム・トップクラスの選手が集まるなど国際色豊かな催事も行われています。
御祭神と御神徳
御祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
相 殿 大物主命(おおものぬしのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
当社にお祀りされている神様は三柱の神さまです。
御祭神、豊城入彦命は毛野国(現在の栃木県・群馬県)をご開拓になられ、衣食住など人々の生活の産業を奨励され、宇都宮の始祖として古くから敬仰されてきました。
日本書紀によると、豊城入彦命は第十代崇神天皇の第一皇子で、命と弟活目尊(いくめのみこと)のどちらを皇嗣とするか夢占いがなされ、活目尊(垂仁天皇)が皇太子となり、命は大和朝廷の東国守護に下向されたと記されています。
のちに四世の孫、奈良別君(ならわけのきみ)が祖神である命の偉業を偲び御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀られ、東国御治定のよりどころとして、国土開拓の大物主命(大国さま)と事代主命(恵比須さま)を合わせて祀られました。
御祭神は武徳にも優れ、古くから武将の信仰が篤く、戦勝祈願の神様としても崇敬されてきました。藤原秀郷公(平将門の乱)、源頼義・義家公(前九年・後三年の役)、源頼朝公(源平の役)、徳川家康公(関ヶ原の合戦)など各々が御神徳を賜り、当社へ神領・宝物の寄進や社殿改築をされました。
また火防(ひぶせ)信仰も古くから起り、冬・春渡祭(おたりや)には今でも県内・近県からの参詣で賑わっています。
宇都宮二荒山神社は、郷土の祖神・総氏神さまとして崇敬され、そのご神徳は福徳開運を招き、生活に限りない御加護、恩恵をもたらすといわれております。
神社境内には本社以外にも十二の末社が祀ってあり、安産の神様や学問の神様など、様々な神様の信仰も篤く崇められております。
http://kofunnomori.web.fc2.com/other/kingsofeast.htm 【遥かなる東国へ……流され王の伝説 毛野氏】より
(略)
豊城入彦命
東国を平定し、上毛野氏や下毛野氏の祖となったいう豊城入彦命は第10代崇神天皇の第1皇子である。
第1皇子でありながら、異母弟の活目尊(いくめのみこと・後の垂仁天皇)に皇位を譲り、大和から遠く離れた東国へやってきた理由を日本書紀は以下のように語る。
父である崇神天皇は豊城入彦命と活目尊の二人の息子のうちどちらを皇嗣とするか夢占いをさせた。その結果、弟を後継者とし、兄を東国統治の任に当らせることとした。
だが、天皇の長子である皇子に皇位継承の代わりに、東国の統治者としての権威と名誉を与えたというようなわけではない。
この時代、天皇は大和全域を支配下に置いたものの、まだ日本全域を掌握しておらず、東国も当然まだ「まつろわぬ人々」が住む地であったのだ。
豊城入彦命の崇神天皇は大和全域の支配権を確立し、余勢を駆って日本全域を支配下に収めるべく、四道将軍を任命し、平定行動を開始したとされている。
崇神天皇が10代天皇とされながらも、「御肇国天皇〈はつくにしらすすめらみこと〉」……すなわち、「初めて国を治めた天皇」と呼ばれるのは、この所以である。ちなみにこの時代に「斎宮」も始まり、豊城入彦命の同母妹である豊鍬入姫命が初代斎宮となっている。国家としての体勢が整いつつあった時代のようである。
四道将軍による全国平定というのは、大彦命を北陸に、武淳川別命を東海に、吉備津彦命を西海に、丹波道主命を丹波に遣わし、従わない者を討伐するように命じたというものである。
この中でもっとも有名なのが、吉備津彦命であろう。吉備津彦命が現在の岡山に向かい、土着の勢力を討ったのが、知らぬ者がない「桃太郎の鬼退治」として語り継がれている。討たれた土着の勢力は渡来系だったと言われ、その容貌などから「鬼」に例えられたようである。彼らが築いた山城は「鬼の城(きのじょう)」と呼ばれ、その跡が現在も岡山県に残っている。
そんな国家平定の一環として、豊城入彦命は東国行きを命じられたのである。
国家平定といえば響きはよいが、独自の勢力がはびこる地域への侵略戦争の最前線に送られたようなものである。
戦の最中に命を落とすかもしれず、その地を獲らなければ帰還することもかなわず、「流され王」といわれるほどの辛い役目を帯びての道行きであったのである。
もっとも有名な「流され王」は日本武尊(やまとたけるのみこと)であるが、父の景行天皇に疎まれ、従わない他勢力を討つために各地に赴き、ついには都へ帰ることなく没したという人生は豊城入彦命の人生にオーバーラップする。
日本武尊は系図を紐解くと豊城入彦命の弟の孫に当たるが、その実在は疑われており、豊城入彦命を筆頭に各地に派遣され、戦った皇子将軍達の記憶が日本武尊という一人の英雄を作り上げた、というのが正解 に近いのかもしれない。
豊城入彦命は日本武尊と同様、ついに都に帰ることなく、東国の地に没したと言う。
豊城入彦命の記憶は今も毛野の地に残っており、赤城神社を初めとして様々な神社で祭神として奉られている。
【墳墓説】
・総社二子山古墳(総社町11号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】
・前二子古墳(荒砥51号古墳)/大室古墳群【群馬県前橋市】
・権現山古墳群【群馬県伊勢崎市】
・御門塚/森下古墳群【群馬県利根郡昭和村】
・丸山古墳【新治郡八郷町】
やつなた(やまとひむかたけひむかひこやつなた)
八綱田(倭日向武日向彦八綱田)
豊城入彦命の息子で、上毛野君遠祖といわれている。
叔父にあたる垂仁天皇の命令により、皇后の狭穂姫とその兄の狭穂彦の反乱に際し、二人を春日にあった稲城もろとも焼き殺した将軍として有名である。
八綱田の前につく長い名前は、その戦功にたいして天皇から賜ったという。
この王が実際に東国に赴任してきたかどうかは不明であるが、その名が現在も毛野の地に語り継がれている。
朝廷直属の領地があった栃木県足利市付近に、八綱田が居住していたので、梁田「ヤナダ」の地名が生まれたという。
【墳墓説】
・愛宕山古墳(総社町10号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】
ひこさしまおう 彦狭島王(彦狭島命 )
豊城入彦命の孫で、上毛野君祖とされている。
崇神天皇によりが上毛野国造に任じられ、東国に赴任しようとして、旅の途中で没した。そこは奇しくも父の八綱田王が狭穂兄妹を焼き殺した春日の地の辺り「春日の穴咋 邑(村)」であったという。
その死を悼んだ東国の人々が屍を担いで上毛国へ運んだという。
【墳墓説】
・宝塔山古墳(総社町9号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】
・笹森古墳【群馬県甘楽郡甘楽町】
・三島塚古墳【群馬県高崎市石原】
・穴咋塚/樋遣川古墳群(御陵墓伝説地)【埼玉県加須市】
・御廟塚古墳/村君古墳群【埼玉県羽生市】
みもろわけのおう 御諸別王
彦狭島王の子であり、その任に就かずして亡くなった父の代わりに、東国に下った。
まだまだ蝦夷(えみし)の勢力が強く、その騒動を鎮圧し、東国を平和に治めたという。
【墳墓説】
・蛇穴山古墳(総社町8号古墳)/総社古墳群【群馬県前橋市】
・後二子古墳(荒砥第55号墳)/大室古墳群【群馬県前橋市】
・御室塚古墳(諸塚)/樋遣川古墳群(御陵墓伝説地)【埼玉県加須市】
あらたわけ かんなぎわけ 荒田別 巫別
上毛野君の祖。「日本書記」には百済に遣わされたという記述があるが、東国に来たのかどうかは不明。
たみちのみこと 田道命
天皇の命により、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)征伐したという人物である。
見事勝利を得て凱旋したが、帰国後2年目、今度は、東北地方平定のため蝦夷の征伐に向かわされた。
が、東北各地の反乱を平定し、更に北に兵を進める途中、『伊寺(いじ)の水門(みなと)』で戦死したという。
『伊寺の水門』の場所ははっきりしていないが、おそらく現在の秋田県北部一帯のいずれかであろうと云われている。鹿角郡の猿賀神社には『田道将軍戦没の地』と書かれた墓があるそうである。
前橋の伝説では、田道命の遺体は上野国分寺の近く、王宮のあった総社に塚を築いて葬られ、それが総社古墳群の蛇穴山古墳であるという。
その後勢いを取り戻した蝦夷が田道命の墳墓を暴くと、中から大蛇が表れて毒気を吹きかけて蝦夷を殺してしまったということである。
田道命は毛野はもちろん東北や北海道の神社などで祭神として奉られている。
https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht020210 【1 豊城入彦命】より
『豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)』の出生については、『日本書紀・巻第五』(御間城入彦五十瓊殖天皇崇神(みまきいりびこいにゑのすめらみことすじん)天皇)の条に
「御間城入彦命五十瓊天皇は、稚日本根子彦大日日(わかやまとねこひこおおひひ)天皇の第二子なり。母をば伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と曰(まう)す。物部氏の遠祖大綜麻杵(おほへそき)の女なり。天皇、年十九歳にして、立ちて皇太子と為り給う。識性聰敏(さか)し、幼くして雄略を好みたまふ。(中略)又妃紀伊国(きのみやきのくに)の荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙姫(あゆめまくはしひめ)、一に云わく大海宿禰(おおしあまのしゆくね)の女、八坂天某辺といふ。豊城入彦命・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生む。是年、太歳甲申。」とある。(岩波『古典全集』)
『豊城入彦命』は『古事記』に『豊木入日子命』とある。また『豊鍬入姫命』は『豊鉏入日売命』とあり、『天照大神』を大和の笠縫邑に祭ったと伝えている。
豊城入彦命の御父は、崇神天皇であり、御母は紀伊国の遠津年魚眼眼妙姫である。
豊城入彦命を奉斎する神社は『二荒山神社考』によると栃木(三十社)・群馬(五十三社)・茨城(七社)・埼玉(十三社)・福島(十七社)の五県にわたり、概略百二十社を数えることができるという。
さらに『二荒神社考』は、その分布に触れ、群馬県の式内社、勢多郡赤城神社名神大、豊城入彦命が国内五百四十九神を勧請したと伝える。西群馬郡元惣社村の惣社神社、豊城入彦命の陵墓と伝える惣社町植野の二子山古墳、奈良別王を祭神とする埼玉県秩父郡奈良村の奈良神社、豊城入彦命が建御雷経津両神の勲業を偲んだと伝える茨城県稲敷郡の阿弥神社を注目すべきであると研究の示唆を与え、次項に『彦狭島王』のことに触れるが、その御子は下毛野君奈良別と赤城神社の祭神となる赤麻邑の二人であるといわれている。
国造は奉斎祭祀をその主要な任務としたが、御諸別系統の二荒神社と赤麻里系統の赤城神社とは、どれもその源を豊城入彦命に発し、その掌に当ったといわれている。
(参考)豊城入彦命の東国の六腹(むつのはら)の子孫は居住地を氏の名とすることについて、『続日本紀』桓武天皇の条に、「延暦十年(七九一)夏四月乙未(五日)、近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言、池原・上毛野二氏之先、出レ自二豊城入彦命一、其入彦命子孫、東国六腹朝臣、各因二居地一賜レ姓命レ氏、斯乃古今所レ同、百王不易也、伏望、因二居地名一、蒙二賜住吉朝臣一、勅綱主兄弟二人、依レ請賜レ之、」とある。
『二荒山神社』(宇都宮市)は、豊城入彦命・大物主命・事代主命を祭神とする社である。
祭神の豊城入彦命は上毛野君、下毛野君の祖神である。降って仁徳天皇の時代、豊城命の四世の孫奈良別王が初めて下毛野国の国造に任ぜられたとき、御先祖の豊城命を、現在下の宮のある南丘の荒尾崎に鎮祭したのがそのはじめであり、その後現在の臼ヶ嶺の高台に遷座されたと伝えている。
『延喜式神明帳』に「下野国河内郡一座大二荒山神社大名神」とある。昔から『明神さま』として崇敬が厚い。なお日光にも『二荒神社』がある。どちらも『二荒』(「フタアラ」・「フタラ」)の名称を冠しているが、明治初年までは、『宇都宮大明神』・『日光新宮大権現』と称してきたものである。
https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht020200 【一 東国派遣】より
139 ~ 139
毛野国を支配した豪族の共通の祖先は『豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)』といわれている。父崇神天皇の命をうけて東国平定のため下ってきた。
神武天皇の東征後、大和朝廷の国家権力が東国に伸長をみた時期に、この地に下られ、天地の神々を国家祭祀のうちに摂取し統一を加えていった。
豊城入彦命の事業を受けて日本武尊が東国経営に当りますが、豊城入彦命の御子孫たちも、その掌に当ったという。
命の孫『彦狭島王』の東国派遣、その子『御諸別王』の征夷の記事があり、『国造本紀』には、その子『奈良別王』が下毛野の国造となったとある。
https://mrs.living.jp/tochigi/a_column/article/4714682 【第6話 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)】より
宇都宮は美しい街である。四十年住んでそう思う。住み易く、人間も温かい。
そして何より私が言いたいのは、崇神天皇(すじんてんのう)の長子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が宇都宮二荒山神社のご祭神だということだ。
わが街のこの神社を地元の人は親しみを込めて“二荒(ふたあら)さん”と呼ぶ。一の宮(いちのみや)がなまって宇都宮になったという説があるほど、昔から大事な土地で大事な神様が祀られている。
崇神天皇について少し説明しておきたい。一二六代続いている王朝としては、世界一古いわが国の天皇家であるが、神のつく天皇は三代しかいらっしゃらない。
初代 神武(じんむ)天皇
十代 崇神天皇
十五代 応神(おうじん)天皇 である。
崇神天皇は大和朝廷の礎(いしずえ)を作り、東国開発を優秀な長男の豊城入彦命にたくした。命には弟がいて、名を活目入彦命(かつめいりひこのみこと)といった。また、この弟も優秀であったため、崇神天皇は次期天皇をどちらにしようかと迷い、神に祈り…夢占いで決めることにした。天皇は夢の中で、兄の豊城入彦命は御諸山(みむろやま)で東を向いて槍を八回つき、剣を八度振った。弟の活目入彦命は御諸山の頂上で四方に縄で囲いをして粟(あわ)を食(は)う雀を追い払っていた。この夢占いで兄は東国を治めるよう、弟は四方を良く見て実りを考えているので次の天皇にと、崇神天皇の詔(みことのり)が下された。
その後、豊城入彦命の子孫、奈良別王(ならわけのきみ)が仁徳天皇の御代に下毛野国造(しもつけぬのこくぞう)に任命され、この地で活躍された。そして、ご先祖の豊城入彦命のご遺徳を偲び、社(やしろ)をお祀りした――ことが、宇都宮二荒山神社の起源だそうである。
ご祭神 豊城入彦命
相殿(あいどの) 大国主命・言代主命
ご神徳 福徳開運を招き、生活に限りない御加護をもたらす
神社内には十二の末社もあり、重鎮の神々が祀られている。宇都宮に住んでいることが誇らしくもあり、有難いとも思う私なのだ。神社の存在が古代と私たちを繋いでくれている。
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