http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/post_110-2/ 【鎌田教授のコラム「柳宗悦と岡本太郎」が徳島新聞に掲載されました】より
鎌田東二教授のコラム「柳宗悦と岡本太郎」が7月1日付の徳島新聞文化面に掲載されました。
「こころの未来」というコラムタイトルで毎月連載を続けている鎌田東二教授。7回目の今回は、「民藝運動の父」と呼ばれる思想家・柳宗悦と芸術家・岡本太郎の二人が持つ共通点に着目し、日本の伝統美を新たな視点で見出した彼らの生涯と活動を紹介しながら、今、ここで「日本発見」を捉え直す必要性について考察しています。
「柳宗悦と岡本太郎 日本の『伝統美』発見 民衆生活に根差す価値」鎌田東二 京大こころの未来研究センター教授
柳は無名の陶工たちが「無心」で作った焼き物などの工芸品の中に「用の美」を見いだした。それは自然の美をたたえた生活の美といえる民衆芸術の創造力と美の発見だった。彼は北海道から沖縄まで旅し、アイヌ文化や沖縄文化をはじめ、素朴ではあるが自然な美しさを深く宿した「手わざ・手仕事」を発掘していった。
それに対して岡本太郎は1930年、19歳で漫画家の父岡本一平と作家の母岡本かの子と共に渡仏し、その後、一人で10年間パリで暮らして当時最新の芸術運動であるシュールレアリスムや抽象画運動に参加し、「民族学」(エスノロジー)を学ぶ。帰国後、それまでほとんど顧みられることのなかった縄文土器に「美」を見いだし、やはり北海道から沖縄まで旅して「日本の伝統」「日本再発見」「神秘日本」「忘れられた日本ー沖縄文化論」などの著作を次々と著していった。
この2人の仕事は、日本の「伝統美」の「再発見」と「再評価」という点で共通している。いやむしろ、それまで見向きもされなかったものに新たに美を見いだしたのだから「再発見」というよりも「新発見」と言った方がよいかもしれない。伝統の表舞台には立っていなかったけれども、しっかりと民衆生活の中に根差して現われ出てきた「かたち」と「ちから」を彼らはしっかりと受け止め、評価して、世に送り出したのだ。(中略)
さて今、わたしたちの時代と文明はどこへ向かっているのか?「経済発展」とか「成長」とかが必然的に生み出してきた近代以降の負の遺産を経験したわれわれは、もう一度、柳宗悦や岡本太郎や山尾三省が見て取り問題提起した「日本発見」を捉え直し、練り直さなければならないのではないか。それは、自然ーいのちー生活に根を下ろした「美の霊性と呪力」の創造と解放である。
(記事より抜粋)
https://ikoma-san-jin.hatenablog.com/entry/20181216/1544928605 【:鶴岡善久『超現実主義と俳句』】より
鶴岡善久『超現実主義と俳句』(沖積舎 1998年)
12年前に一度読んだ本の再読。といってもほとんど覚えていないので、初めて読むのと同じ。俳人20人の一人一人について、シュルレアリスムとのかかわりあいの視点から鑑賞したもの。各人の俳句について代表作を知ることができて貴重ですが、雑誌連載のものをそのまま掲載しているようなので、シュルレアリスムと俳句との関連に関する記述については、重複することが多い。
勇気づけられたのは、俳句の解釈の自在さについてで、著者自ら、「俳句理解の究極は『誤解』であると僕は思う。作者の意図とは別のとんでもない意味を句から発見するのは、『読者の創造の喜び』なのである」(p231)と書いているように、自分勝手にいろんな想像を働かせて、複数の解釈を提示しつつ、自分なりの正解を説いているところです。行き過ぎたこじつけを感じるところも多々ありましたが、元の句が土台きわめて難解なので致し方ない。
気づいたことは、似たように難解な句が並ぶなかで、何度読んでも、鑑賞文を読んだ後でも、全然面白くないという句が歴然とあることです。その原因は何かと考えてみるに、言葉がばらばらな感じがすること、情景が浮かばないことにあるようです。どの構成部分を繋ぎ合わせて、何かで補おうとしても、惹かれる断片もなく、意味不明なままで取りつく島もありません。
情景が浮かぶのは重要な要素で、絵画的とも言い換えることができると思いますが、この本でも、たしかにシュルレアリスムの絵画と比較する文章がよく出てきました。ゾンネンシュターン、デルボー、ダリ、マグリット、デュシャンなど。「フュマージュ」(いぶし描法)の考案者と紹介されていたウォルガング・パーレンという人は初めて知りました。
シュルレアリスムとの関連を指摘する表現をいろいろ拾い集めてみると、次のようなものです。
①上記のように、シュルレアリスムの絵画を思わせるという言い方、
②アンドレ・ブルトンの「痙攣としての美」を獲得(p9)、
③シュルレアリストが通過した「夢の行為」を体現(p14)、
④「解剖台の上での、ミシンとコウモリ傘との出会い」を想起させる(p21)、
⑤驚異と通底する変身(メタモルフォーゼ)もまたシュルレアリスムの重要な要素のひとつ(p62)で、急激な存在のあり方の変化によって想像力は解放され、人間の潜在意識下にある欲望をも明らかにしてくれるのである(p166)、
⑥物としての用途をはぎ取った、まったき物質としての「物」は・・・シュルレアリスムが内面的に所有していなければならない根本的な要素(p68)、
⑦シュルレアリスムのエロティスムに通底している(p140)、
⑧見えるものを手がかりに見えないものまで見るというのはシュルレアリスムの一方法(p169)、
⑨謎が謎のまま物質として投げだされて、その謎の物質がまた新たな謎を生む方程式はシュルレアリスムではよくあること(p210)といった具合。他にも「狂気」や「非日常」をシュルレアリスムの一要素として関連づけるようなニュアンスの所がありました。
「シュルレアリスム」を錦の御旗のように掲げて、取り上げた俳句をシュルレアリスムの用語で説明して得意がっているようなところがあって、あまりいい印象がありません。そのシュルレアリスムの手法のどこがすばらしいのか、どこに魅力があるのかを深く掘り下げるような書き方をしてほしかったと思います。
それはともかく、あらためていいなと思った俳人は、高浜虚子、中村苑子、河原枇杷男、平井照敏、次に加藤楸邨、高柳重信、橋輭石か。気に入った句を下記に引用しておきます。
虹を吐いてひらかんとする牡丹哉(与謝蕪村)
蟻の国の事知らで掃く箒かな わが浴衣われの如くに乾きをり 落花のむ鯉はしやれもの髭長し 爆笑して夏草の堤を転げ落つ(以上高浜虚子)
熱を病む手足がへんに伸びてゆく けもの臭き手袋呉れて行方知れず(以上西東三鬼)
天蜘蛛夜々に肥えゆき月にまたがりぬ 天の川わたるお多福豆一列
百代の過客しんがりに猫の子も おぼろ夜の鈴か我かが鳴りにけり(以上加藤楸邨)
走るなりさうしなければ皆すすき 耳の木や/身ぐるみ/脱いで/耳のこる(以上高柳重信)
枯野ゆくうちに一本白髪伸び(平畑静塔)
夢の橋を九つ渡り蛇屋の前 この輪ぬけあの輪ぬけなば桃ひらかん
日輪を呑みたる蟇の動きけり(以上橋輭石)
翁かの桃の遊びをせむと言ふ 桃のなか別の昔が夕焼けて
花葛に隠れて葛に化(な)りすます
梁(うつばり)に紐垂れてをりさくらの夜(以上中村苑子)
蝉穴や鏡のうちよりわらふ声 蝶昏れて水鏡に棲む貌ひとつ
蓬の木嗅げば忽ち白髪かな 洪水や梁にはえゐるひそかな毛
曼殊沙華いづれは天も罅われむ 野菊まで行くに四五人斃れけり
麥の秋いづくか時間漏れゐるも(以上河原枇杷男)
一本は何処にかくす死者の箸(鈴木六林男)
前の世に見し朧夜の朧の背 狐火の退れば増ゆる行けば消ゆ
数かぎりなき霧の目のつけてくる 横顔にして真顔なるひらめかな
銀狐われを出でたるごとく去る 鼠ともならぬ寒暁の黒き石(以上平井照敏)
サランラップのふんどし姿で翁は怒る(夏石番矢)
https://weekly-haiku.blogspot.com/2009/05/4_17.html 【馬場龍吉 シュールレアリストが行く】より
青空でありながら近景は夜間であるような、シュールレアリスム(超現実主義)のルネ・マグリットやダリの歪んだ時計の絵を最初に見たときには驚いたものだが「取り合わせの俳句」(二物衝撃)とはシュールレアリストが描く超現実の世界そのものではないだろうか。
奇しくも週刊俳句107号「いつき組」まるごとプロデュース号の『俳句における一物仕立ての定義その2 問題提起編』で、葛飾北斎の浮世絵を例にあげて「一物仕立ての俳句」と「取り合わせの俳句」の違いをわかりやすく説明していた。
ちなみにシュールレアリズムの「超(シュレ)現実(レェル)」とは現実を離れたり、非現実にあるのではなく「ものすごい現実」「過剰な現実」「上位の現実」というような意味らしい。俳句の取り合わせによって起こる二物衝撃の世界とぴったり符合するように思える。
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くしけずればおたまじゃくしがぽろぽろと 江口ちかる
春風に乱れた髪を梳いていると、足元でおたまじゃくしが次々に孵化している。実際に起こり得ることだから不思議も何もないのだが、こうして俳句にされてみると、その梳る髪の毛からおたまじゃくしがぽたぽたと生まれてきているようにも読める。いままでに「おたまじゃくし」でこういう俳句を読んだ覚えがない。なんとも気色悪くて面白い作品である。
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花札の裏は真黒田螺和へ 山口昭男
花札の表面は中間色が省略された原色に近い色彩が施されている。だから「花札」と言われるとすぐにその図柄が思い出される。「真黒」の切れのあとちょっと余韻があって「田螺和」へ飛ぶ。田螺和は実際に食べたことはないのでどういう味がするのかはわからないのだが、ちょっと苦味があるものの一緒に和える山菜の味が口に広がるのではないだろうか。花札に子供も加わっているような夕餉の後の家庭的な春の一日であろう。
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空気より夕日つめたき落花かな 小川軽舟
花冷えの感じが良く出ているように思う。作者が体感温度なのだろうが、落花がそう感じながら散って行くようでもある。作品の上等さは、ひとえに「空気より」の斡旋と「夕日つめたき」の措辞の見事さにある。空中を漂いながらこの世を惜しむように散ってゆくはなびらが夕日にきらめいている。
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花喰鳥過ぎゆく春を食みこぼし 麻里伊
「花喰鳥」には花や樹枝を銜えて羽ばたく鳳凰や鸚鵡、鴛鴦など幸福を運ぶ鳥の図柄のことを言うらしいが、ここでは春の花を啄む鳥と解していいだろう。鳥は梢で花を啄んでいるのではなく春を飛び去ってゆくのだ。「春を食みこぼし」は「春惜しむ」姿でもあるかのようだ。
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ゆふづきの夜を待つ白さ春の風邪 川嶋一美
ふわーっとした「ゆふづき」の表記が微妙に「春の風邪」に働いて風邪であっても羨ましさをも感じさせてくれる。ぼんやりと熱の下がらないまま起きているような眠っているような。そういう時間を楽しんでいるような。夕月の白さは夜の白さとも違う。その明るさにまさしく春風邪の雰囲気が漂う。
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温みたる水に寄りがち自転車も 南 十二国
畦道は自動車の轍が目立ち遠景に佐渡や弥彦が見えるのかもしれない。言われて見れば越後だが、日本全国これと似た景色は田と山があればどこでも見られる。水の温みは水音をも春の水音に変え、小川を覗いたり、雲を仰ぎ見たりしたい気分にさせてくれる。自転車の道草というのがいい。〈雲をまだ映す田のなき菫かな〉〈越後はも泥のにほひの風薫る〉にも清廉な臨場感がある。
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地球儀の古き世界や百千鳥 寺澤一雄
地球儀は地球儀でも古地図の地球儀なのだろうか。「古き世界」と言われてみるとあの小さな地球儀に世界が圧縮されて犇めいているようでもあり、時間までも圧縮されているように思えるから不思議だ。それは「百千鳥」が地球のかたちに飛び回っているようでもある。ひとえに季語「百千鳥」の配合の効によるものだろう。〈三百年桜のままに過ごしけり〉〈海底に顔紛れたる虎魚かな〉は作為のない作為が見られると言ったら臍曲りかもしれないが、果たして唯事だけを言っているのだろうか。と、寺澤ワールドと言うか寺澤マジックにいつしか引き込まれている。
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俳句への欲求は、快感や快楽が際限なくどんどんエスカレートしていくように、止まることを知らない。読者の欲求に果たして俳句のシュールリアリズムはどこまで表現できて迫れるのであろうか。
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